滝川利雅
表示
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 寛永16年(1639年) |
死没 | 延宝元年7月18日(1673年8月29日) |
改名 | 長五郎、利雄、利雅 |
別名 | 通称:主税 |
戒名 | 眞了院殿前信州刺史心厳紹了大居士 |
墓所 | 下谷広徳寺塔頭桂徳院 |
官位 | 従五位下信濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱 |
氏族 | 滝川氏 |
父母 | 父:滝川利貞、母:滝川正利の娘 |
兄弟 | 利雅、利錦、具章、土岐頼利、義利、女子1人 |
妻 | 酒井忠勝の娘・利与姫 |
滝川 利雅(たきがわ としまさ)は、江戸時代前期の旗本嫡子。初名は利雄(としお)。通称は長五郎、主税(ちから)、官位は従五位下、信濃守。
生涯
[編集]寛永16年(1639年)、旗本で常陸国新治郡片野領主の滝川利貞(2000石)の長男として生まれた。母は旧片野藩主滝川正利の娘[1]。承応元年(1652年)、初めて徳川家綱に御目見した[2]。
寛文元年(1661年)、従五位下、信濃守に叙せられた[3]。寛文3年(1663年)には4歳年少の同母弟利錦と5歳年少の同母弟具章が揃って召し出されて番入りしたが、利雅は無役の部屋住みのままだった[1]。
寛文9年(1669年)、出羽庄内藩の前藩主酒井忠勝の娘・利与姫と結婚した[4][5]。
延宝元年(1673年)、父に先立って死去した。享年35[1]。次弟の利錦が代わって父の継嗣となった。
系譜
[編集]参考文献
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 『寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書, 1923, p. 425.
- ^ 「厳有院伝御実紀」巻4. 承応元年8月25日条(『徳川実紀. 第參編』経済雑誌社, 1904, p. 60.)
- ^ 「厳有院伝御実紀」巻22. 寛文元年12月28日条(『徳川実紀. 第參編』p. 407.)
- ^ 鶴岡市史編纂会 編『大泉紀年 中巻』鶴岡市, 1979, p. 317.
- ^ a b 『諸家系譜』滝川・滝・滝野・滝村・立花.