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瀬川菊之丞 (3代目)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
さんだいめ せがわ きくのじょう
三代目 瀬川 菊之丞

『花都廓縄張』の仲居おはま
屋号 濱村屋
定紋 丸に結綿 
生年月日 1751年
没年月日 1810年12月29日
襲名歴 1. 市山七之助
2. 市山富三郎
3. 瀬川富三郎
4. 三代目瀬川菊之丞
5. 瀬川路考
6. 瀬川仙女
俳名 玉川・路考
別名 仙女菊之丞(通称)
仙女路考(通称)
出身地 上方
初代市山七十郎
二代目瀬川菊之丞(養父)
兄弟 初代瀬川如皐
当たり役
娘道成寺』の白拍子、『関の扉』の小町姫と傾城墨染

三代目 瀬川 菊之丞(せがわ きくのじょう、宝暦元年〈1751年〉 - 文化7年12月4日1810年12月29日〉)とは、化政期に活躍した女形歌舞伎役者屋号は始め富士屋、のち濱村屋俳名は玉川、路考。通称は仙女菊之丞、仙女路考。

来歴

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上方出身。日本舞踊市山流の初代市山七十郎の次男として生まれる。はじめ父の元で修行し市山七之助を名乗り、明和2年(1765年)11月には市山富三郎と改名する。明和8年(1771年)、大坂の竹田芝居で『桂川連理柵』の信濃屋お半を演じて評判となり、これがきっかけで翌年5月に中の芝居に出る事になり、やはり信濃屋お半を演じた。

一方江戸では、安永2年(1773年)春に二代目瀬川菊之丞が死去する。その遺言によれば後継として、当時大坂にいた富三郎を指名したというが、これについては二代目菊之丞の弟子だった富三郎の兄、瀬川七蔵(のちの初代瀬川如皐)の口添えがあったともいう。富三郎は同年の暮江戸に下り瀬川富三郎と改名し、翌安永3年(1774年)春の市村座で二代目菊之丞一周忌追善として、『百千鳥娘道成寺』(ももちどりむすめどうじょうじ)を踊り、大評判となる[1]。同年11月市村座の顔見世で三代目瀬川菊之丞を襲名した。

人気・実力ともに江戸歌舞伎の最高峰として活躍し、文化5年(1808年)には女形ながら座頭となったほどだった。風姿と口跡に優れ、地芸と所作を兼ねたほか、世話物の娘役と傾城を得意とし、舞踊にも優れていた。四代目岩井半四郎とともに「女形の両横綱」と称された。

寛政年間に京橋南伝馬町三丁目稲荷新道(現・東京都中央区京橋三丁目)の坂本屋は、菊之丞の俳名「仙女」にちなんだ「仙女香」という名の白粉を販売した[2][3]。坂本屋が絵双紙の検査役でもあったことから、版元たちはご機嫌取りに絵双紙の中に仙女香の文字を入れ込み、それが宣伝となって仙女香は大ヒット商品となった[3]

脚注

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  1. ^ 『百千鳥娘道成寺』は初代瀬川菊之丞以来の瀬川家のお家芸で、この時は『花形見風折烏帽子』(はながたみかざおりえぼし)という外題だった。なお菊之丞は『百千鳥娘道成寺』を天明3年(1783年)に森田座で勤めたあと二度と踊ることはなく、もっぱら初代中村富十郎所演の『娘道成寺』を踊るようになる。その結果初代菊之丞が初演した瀬川家の『百千鳥娘道成寺』は廃絶するに至った。
  2. ^ 仙女香(読み)せんじょこうコトバンク
  3. ^ a b 『時代を変えた江戸起業家の 商売大事典』ISM Publishing Lab ゴマブックス株式会社, 2013「第3章見えないところにまで気を配る伊達男・伊達女を支えたアイデア 3.コスメ産業は今も昔も情報が命」

参考文献

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  • 渡辺保 『娘道成寺』(改訂版) 駸々堂、1992年
  • 野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年

関連項目

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