焦瑩
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焦瑩 | |
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プロフィール | |
出生: | 1883年(清光緒9年) |
死去: |
1945年(民国34年)春 中華民国 北平特別市 |
出身地: | 清直隷省宣化府懐安県 |
職業: | 政治家・教育者・学者 |
各種表記 | |
繁体字: | 焦瑩 |
簡体字: | 焦莹 |
拼音: | Jiāo Yíng |
ラテン字: | Chiao Ying |
和名表記: | しょう えい |
発音転記: | ジャオ イン |
焦 瑩(しょう えい)は中華民国の教育者・政治家・博物学者・生物学者。中国同盟会以来の革命派人士で、後に中国国民党(国民政府)に属した。字は斐瞻。
事跡
[編集]1906年(光緒32年)、保定高等農業学校を卒業する。その後、日本に留学し、東京高等師範学校で学ぶ。その後、帝国大学[1]に進学した。留学中に中国同盟会に加入している。
1913年(民国2年)に帰国し、国立武昌高等師範学校で博物学を教えた。1916年(民国5年)、国立北京高等師範学校に転勤する。1920年(民国9年)、同校の校長に昇進した。1923年(民国12年)、京兆学務局局長となる。1926年(民国15年)、再び国立北京高等師範学校に戻り、また、私立燕京大学教授も兼ねた。
まもなく焦瑩は南に向かい、国民政府の北伐に参加した。広州や武漢で中国国民党の中央党政工作に従事している。1929年(民国18年)、私立中法大学教授となり、また北平市で私立成城中学の創設に携わった。1932年(民国21年)、国民政府鉄道部で職に就く。1936年(民国25年)、北平に赴いて、成城中学と燕京大学で学務・教務に従事した[2]。
日中戦争(抗日戦争)勃発後、焦瑩は北平に留まっている。1940年(民国29年)3月、南京国民政府(汪兆銘政権)が成立すると、焦は考選委員会委員長に任命されたが、実際には就任しなかった[3]。
1945年(民国34年)春、北平にて病没。享年63。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
南京国民政府(汪兆銘政権)
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