熊式輝
熊式輝 | |
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Who's Who in China 4th ed. (1931) | |
プロフィール | |
出生: |
1893年5月19日 (清光緒19年4月初4日) |
死去: |
1974年(民国63年)1月21日 台湾台中市 |
出身地: | 清江西省南康府安義県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 熊式輝 |
簡体字: | 熊式辉 |
拼音: | Xióng Shìhuī |
ラテン字: | Hsiung Shih-hui |
和名表記: | ゆう しきき |
発音転記: | ション シーフイ |
熊 式輝(ゆう しきき)は、中華民国の軍人・政治家。字は天翼。
事跡
[編集]民国初期の活動
[編集]江西陸軍小学を卒業後、1911年(宣統3年)に南京陸軍第四中学に入学し、この頃に中国同盟会に加入した。同年に武昌起義(辛亥革命)が勃発すると、漢口に赴いて学生軍に加わる。11月には江西都督府参謀となった。
中華民国成立後の1913年(民国2年)、熊式輝は陸軍第一予備学校に入学し、まもなく保定陸軍軍官学校第2期歩兵科に進学している。1916年(民国5年)5月に卒業すると、最初は雲南軍(滇軍)第4師(師長:方声濤)第38団に配属された。その後江西軍(贛軍)に移り、北伐贛軍司令部副官長に任ぜられている。
1921年、日本に留学して、陸軍大学校で学習している。1924年に卒業、帰国し、広州の滇軍幹部学校で教育長を務めた。翌年、同校が国民革命軍第3軍軍官学校と改称されたが、引き続き熊式輝は教育長の地位に在った。1926年(民国15年)夏、国民革命軍が北伐を開始する際に、熊は独立第1師党代表に任ぜられ、まもなく独立第1師が第14軍に拡充されても、党代表を務めている。10月、第14軍第1師師長を兼任した。
江西省政府主席へ
[編集]1927年(民国16年)2月、熊式輝は江西省政務委員会会計長に任ぜられる。10月、第1師は第13軍に改編され、熊は副軍長兼第1師師長となる(まもなく第1師は第37師と改められ、引き続き師長を務めた)。11月、江西省政府委員を兼ね、12月には淞滬衛戍司令も兼任した。8月、第37師は第5師に改編され、引き続き師長を務めている。
1930年(民国19年)5月、熊式輝は江浙皖剿匪総指揮兼陸海軍総司令部参謀長に抜擢され、中国共産党(紅軍)討伐に従事する。翌1931年(民国20年)6月、国民政府軍事委員会委員長南昌行営参謀長に任ぜられた。ところが、まもなく熊は飛行機事故にあって負傷し、これが原因で前線の軍人としての活動を断念せざるを得なくなる。同年12月、江西省政府主席に任ぜられ、翌1932年(民国21年)11月、南昌行営弁公庁主任となる。1934年(民国23年)10月には江西全省保安司令も兼ねた。1935年(民国24年)10月、中国国民党第5期中央執行委員に任命された。
日中戦争(抗日戦争)勃発後も、熊式輝は江西省政府主席を引き続き務め、日本軍迎撃のための体制を整備している。1942年(民国31年)2月、江西省政府主席を免ぜられ、国防最高委員会委員に移った。5月には江西全省保安司令からも免ぜられ、10年余り務めた江西省の軍政の要職から完全に退くことになる。その後、駐米軍事代表団団長としてアメリカを訪れ、1943年(民国32年)7月、三民主義青年団第1期中央団部評議員に招聘された。同年秋、中央設計局局長に任ぜられている。1945年(民国34年)5月、国民党第6期中央執行委員に再選された。
晩年
[編集]戦後の1945年(民国34年)9月、熊式輝は東北行営(後の東北行轅)主任兼行営政治委員会主任委員に任命され、崩壊した満州国統治地域の接収事務に当たる。翌年8月までこの地位を務め、12月、国民政府戦略顧問委員会委員に転じた。国共内戦末期の1949年(民国38年)に香港、次いでマカオに移り、さらにバンコクで紡績工場を経営している。1954年(民国43年)から台湾に移住した。
1974年(民国63年)1月21日、台中市にて病没。享年82(満80歳)。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
中華民国(国民政府)
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