熊谷登久平
熊谷 登久平 | |
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生誕 |
熊谷 徳兵衛 1901年10月2日 岩手県東磐井郡千厩町 (現:一関市千厩町) |
死没 |
1968年11月24日(67歳没) 日本・東京都千代田区 日本大学病院 |
墓地 | 東京都台東区谷中 玉林寺 |
国籍 | 日本 |
教育 | 川端画学校 |
出身校 | 中央大学商学部 |
著名な実績 | 洋画 |
受賞 |
白日展白日賞 1929年 独立展海南賞 1933年・1935年 |
選出 | 独立美術協会 |
影響を受けた 芸術家 | 萬鉄五郎・藤島武二・長谷川利行・里見勝蔵・中澤弘光 |
熊谷 登久平(くまがい とくへい、本名:熊谷 徳兵衛、1901年10月2日 - 1968年11月24日)は、日本の洋画家、歌人[1]。岩手県出身[1]。
愛称は「とくさん」「熊公」「十九平/とくべえ」。
略歴
[編集]※出典[1]
1901年(明治34年)10月2日、岩手県東磐井郡千厩町(現・一関市)出身。
1925年(大正14年)、中央大学商学部を卒業。学生時代に川端画学校に入り、藤島武二、富永勝重の指導を受ける。1924年(大正13年)修了。
1926年(大正15年)ごろ、長谷川利行を識り、親交を結ぶ。
1927年(昭和2年)、長谷川利行と二人展(反調和会展)を上野の山、言問通り沿いの額縁屋彩美堂と大地堂(木秋社)を会場として開催(企画段階では松尾恒夫(詳細不明、戦前の白日会展と1930年協会入選者に名がある)を含む三人展)。洋画家・里見勝蔵(1930年協会、独立美術協会創立会員、二科会友)と前田寛治の知遇を得る。
1928年(昭和3年)、白日会展に入選。後に会友、会員に推された。1941年(昭和16年)まで連続出展。
1928年(昭和3年)、1930年協会に入選。1930年(昭和5年)まで連続入選。
1929年(昭和4年)には「気仙沼風景」「赤松と水車小車」を二科展に出品入選、翌1930年(昭和5年)には「海」「落日」を出品。
1931年(昭和6年)、独立美術展第1回展に入選、その後、毎回出品して、1933年(昭和8年)、1935年(昭和10年)の出品作で海南賞を受賞。1936年(昭和11年)、独立美術協会会友に推薦され、1941年(昭和16年)会員となり、1967年(昭和42年)の35回展まで出品。
1962年(昭和37年)以後、1966年(昭和41年)まで毎年、東京日本橋三越で個展を開催。
1963年(昭和38年)渡欧、多くの作品を残す。
また、著書に「初等図画練習帳」(5巻)、「熊谷登久平画集(絵と文)」(1941年、美術巧芸社)などがある。
戦後、短歌結社 まひる野に所属。
岩手県立美術館、青梅市立美術館、リアス・アーク美術館、郵政博物館などに作品が所蔵されている。また、故郷岩手県一関市千厩には親族が運営する熊谷美術館がある。
作品
[編集]※出典[2]
- 1928年(昭和3年)
- 「廃屋」
- 「冬日風景」
- 「家」
- 「大川」(隅田川と永代橋)
- 「ニコライ聖堂」
- 「千厩警察署」
- 1929年(昭和4年)
- 「居留地風景(横浜)」
- 「冬」
- 「気仙沼風景」
- 「赤松と水車小屋」
- 「燈台などの静物」
- 「小菅刑務所」
- 1930年(昭和5年)
- 「気仙沼風景」
- 「千厩風景」
- 「海」
- 「落日」
- 「冬の気仙沼湾」
- 「風景A」「風景B」「風景C」
- 「裸女」
- 1931年(昭和6年)
- 「教会堂」
- 「噴水のある風景(浜町公園)」
- 1932年(昭和7年)
- 「風景」
- 「秋」
- 「夏山」
- 「静物」
- 1933年(昭和8年)
- 「画架と雉子」
- 「鳥離室」
- 「月夜」
- 「風景」
- 1934年(昭和9年)
- 「山百合と娘」
- 「菜園」
- 1935年(昭和10年)
- 「夕月」
- 「五月幟」
- 「朝顔」
- 1936年(昭和11年)
- 「七夕」
- 「風景」
- 「雲雀」
- 1937年(昭和12年)
- 「港」
- 「Ballet Cauhaval」
- 「春の朝」
- 1938年(昭和13年)
- 「古都と噴水」
- 「パラシュート」
- 「美しき海」
- 1941年(昭和16年)
- 「太鼓」
- 「笛」
- 1942年(昭和17年)
- 「母子」
- 「鳩」
- 1943年(昭和18年)
- 「夕雲」
- 「早雲」
- 「白雲」
- 「茜雲」
- 「ちぎれ雲」
- 1944年(昭和19年)
- 「鹿島神宮」
- 「香取神宮」
- 「潮来朝霧」
- 1945年(昭和20年)
- 「蔵王」
- 「蔵王新雪」
- 1946年(昭和21年)
- 「十字架のある風景」
- 「修道女」
- 1948年(昭和23年)
- 「聖書頌歌」
- 1949年(昭和24年)
- 「朝の港」
- 「裸婦」
- 1952年(昭和27年)
- 「寿美子の乳房」
- 「うすれ日」
- 1954年(昭和29年)「ふるさと」
- 1955年(昭和30年)「白い町」
- 1956年(昭和31年)「夏去りし海」
- 1959年(昭和34年)「河口」「古き灯台」
- 1963年(昭和38年)「ナイル河」「サワラ砂漠」
- 1964年(昭和39年)「NICEの宿」「斗牛士」
- 1965年(昭和40年)「ローマの碑」
- 1966年(昭和41年)「愛も武力も十字架も(殉教)」
- 1967年(昭和42年)「裸女」「木の間」
脚注
[編集]- ^ a b c 「熊谷登久平 日本美術年鑑所載物故者記事」 - 東京文化財研究所
- ^ 「熊谷登久平」『日本美術年鑑』昭和44年版(69-70頁)