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片倉三平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

片倉 三平(かたくら さんぺい、1890年12月15日[1] - 1977年3月29日)は、日本実業家、長く日東紡績などの経営に当たった[2]。妻・かずは2代目片倉兼太郎の次女[3]

経歴

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片倉三平は、片倉財閥を興した片倉家の一員・片倉光治の三男として、長野県諏訪郡川岸村(現岡谷市)に生まれた。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東京高等蚕糸学校(現東京農工大学)を卒業。その後、片倉合名会社社員となり、その北陸監督や、片倉共栄製糸社長、片倉越後製糸社長など、傘下の様々な企業の役職を兼務した[4]

1921年に片倉傘下となっていた福島紡織が改組され、新たに福島県郡山市を拠点とする日東紡績1923年に設立された際には、片倉三平が初代社長に就任した [5][6]。社長となった片倉は、渡米して持ち帰った合成繊維を参考に同等のものの開発をさせるなど[7][8]レーヨン(スフ)やガラス繊維など[9]新素材の開発を積極的に進めた[5]1937年まで社長を務め[2]、その後は会長となった。

1930年代に統制経済体制が進むと日東紡績も共同組合に改組となり、片倉はその代表者であったが、それと並行して統制団体である日本ス・フ工聯の初代理事長などの役職も務めた[10]

第二次世界大戦後の1946年から1947年には、郡山商工会議所会頭も務めた[11]

1958年11月からは、前任者の片倉直人の死去を受けて長野県松本市松本松南高等学校理事長となり、死去するまでその職にあった[12]

1965年に日東紡績会長を退任し[9]1977年東京都内の自宅で死去した[2]。墓所は多磨霊園(9-1-10)

1993年日東紡績の創立70周年を記念して創業者の片倉三平の胸像が郡山市で除幕された[9]

脚注

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  1. ^ 『人事興信録 第25版 上』(人事興信所、1969年)か111頁
  2. ^ a b c “片倉三平氏(訃報)”. 朝日新聞・朝刊: p. 23. (1977年3月30日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  3. ^ 『人事興信録 6版』(人事興信所、1921年)か85頁
  4. ^ 高梨、2013、p.103.
  5. ^ a b 片倉工業史”. リゾートイン レア・メモリー. 2017年5月6日閲覧。
  6. ^ この時点では専務取締役であったとする記述もある。(高梨、2013、p.103.)
  7. ^ 井上尚之産官学連携が日本を救う:ビニロンから人工光合成までの技術研究組合の系譜」(PDF)『神戸山手大学紀要』第15号、神戸山手大学、2013年、82頁、2017年5月6日閲覧  NAID 40019991685
  8. ^ 田島眞. “エッセイ(私の夢)”. 日本音響エンジニアリング. 2017年5月6日閲覧。:初出は『技術ニュース』第5号 (1993年10月発行)
  9. ^ a b c “日東紡、福島・郡山市で創業者胸像の除幕式”. 日本経済新聞・東北: p. 24. (1993年4月7日). "福島県下に主力工場を置く日東紡績は六日、郡山市の富久山事業センターで、創立七十周年を記念し製作した創業者の故片倉三平氏胸像の除幕式を開いた ... 胸像は、発祥の地である市内麓山の郡山工場跡地に、再開発完了後に移設する。故片倉氏は一八九一年生まれで、一九二三年に日東紡を設立した。絹糸生産の基礎を築き、スフ、ガラス繊維の工業化に尽力した。六五年に会長を退任し、七七年に八十七歳で逝去した。"  - 日経テレコン21にて閲覧
  10. ^ “ス・フ工連統制規程変更”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 4. (1938年8月6日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  11. ^ 会議所のあゆみ”. 郡山商工会議所. 2017年5月6日閲覧。
  12. ^ 学校の沿革”. 松本松南高等学校. 2017年5月6日閲覧。 - 著作権表示されている学校法人松本松南高等学校は既に存在していない。E-FACTORY によるアーカイブ

参考文献

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  • 髙梨健司「片倉製糸の北陸地方における製糸業経営と蚕種配給体制」『社会科学年報』第47号、専修大学社会科学研究所、2013年、99-132頁。  NAID 120005269298