片倉兼太郎
かたくら かねたろう 片倉 兼太郎 | |
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生誕 |
1850年1月12日 (嘉永2年11月29日) 信濃国諏訪郡三沢村(のちの川岸村、現在の長野県岡谷市川岸) |
死没 | 1917年2月13日(67歳没) |
職業 | 実業家、資本家 |
活動期間 | 1873年 - 1917年 |
著名な実績 | 片倉組(現在の片倉工業)設立 |
肩書き | 片倉組組長 |
後任者 | 二代目片倉兼太郎 |
親 | 片倉市助 |
初代 片倉 兼太郎(しょだい かたくら かねたろう、旧字体:片倉 兼󠄁太郞、嘉永2年11月29日 / グレゴリオ暦 : 1850年1月12日 - 1917年2月13日)は、日本の実業家、資本家である[2][3][4][5]。
片倉組(現在の片倉工業)を設立、片倉財閥の基礎を築く[2][3][4][5]。兼太郎の名は3代目まで引き継がれたが、本稿では初代のみを扱う。
人物・来歴
[編集]1850年1月12日(嘉永2年11月29日)、信濃国諏訪郡三沢村(のちの川岸村、現在の長野県岡谷市川岸)に生まれる[2][3][4][5]。片倉家は豪農であり、兼太郎は、1873年(明治6年)には10人繰りの座繰製糸を開始していたが、満26歳を迎える1876年(明治9年)、父市助(いちすけ)から家督を受け継ぐ[2][3]。
1878年(明治11年)、天竜川沿いに32人繰り器械製糸所である垣外製糸所を開設、さらに同年、輸出業の深沢社を設立する[2][3][5]。翌1879年(明治12年)、開明社を尾澤金左衞門、林倉太郎らと設立する[3]。松本製糸所、川岸製糸所も設立している[5]。
実弟や従弟とともに一致団結し、利潤を共有財産として、製糸業を拡大[2]、1895年(明治28年)、片倉組を設立、創立組長に就任する[2][4][5]。1903年(明治36年)以降、北海道および朝鮮半島に進出、農場や山林を経営した[2]。
1917年(大正6年)2月13日、死去した[2][3][4][5]。満67歳歿。
初代の創立した片倉組は、片倉製糸紡績(1920年)を経て片倉工業となり、20世紀半ばには、日本最大とも世界最大ともいわれる製糸企業となった[2][3]。
親族
[編集]⚫︎ 甥嫁・ 俊子 (貴族院多額納税者議員 武井覚太郎娘)[6]
⚫︎ 弟 ・今井五介 (片倉財閥一族、貴族院多額納税者議員)
歴代
[編集]- 初代
- 二代目 - 片倉 佐一(かたくら さいち、1862年 - 1934年)、初代の末弟(四男)、のちの養嗣子、片倉製糸紡績(現在の片倉工業)の創設、片倉館の開設、日東紡績社長、名は宗広(むねひろ)とも
- 三代目 - 片倉 脩一(かたくら しゅういち、1884年 - 1947年)、佐一の嗣子(長男)、八十二銀行頭取、全国製糸業組合連合会会長、美篶商会初代社長、貴族院議員