コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

片岡音吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日[1] - 1948年5月6日)は日本の実業家野村證券初代社長や会長を務めた。

人物

[編集]

岡山県岡山市出身[1]大阪商業学校(後の大阪市立大学、現・大阪公立大学)を経て、1906年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業[2]

日本興業銀行貸付課長を務めていた際に、切れ者との評判をきいた野村徳七にスカウトされ、新設された大阪野村銀行の実権を担う取締役兼支配人に37歳で就任[3]

1920年大阪野村銀行に証券部が新設され、片岡は証券部部長に就任。1922年に、アメリカ合衆国に証券業界視察のため派遣され、1923年に帰国。

1925年に設立された野村證券の初代社長に就任。1926年に公社債専門業者として営業を開始、1927年にニューヨーク出張所を開設[4]。1933年大阪信託社長[5]。1938年には公社債専業から脱却し株式業務へ進出するため、株式業務許可を得た[4]。1941年に野村證券社長退任、同会長就任[6]

戦後、公職追放となる[7]。戦後の財閥解体の混乱期に公職追放で役員の大半を失った際には、北裏喜一郎に対し「野村証券はこの程度の追放で屋台骨がくずれることはないはずだ。玉ねぎのようにいくら皮をむいても新しい芽が出てくる。」と述べて励ました[8]

ジャパンライン(現商船三井)社長を務めた片岡晴四郎は次男[2]

参考文献

[編集]
  • 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。

脚注

[編集]
  1. ^ a b 『大日本実業家名鑑』下巻(実業之世界社、1919年)p.36
  2. ^ a b 人事興信録第8版 [昭和3(1928)年7月]
  3. ^ 1982/06/11, 日経産業新聞
  4. ^ a b 1999/07/19,日本経済新聞
  5. ^ (株)大和銀行『大和銀行七十年史』(1988.11)渋沢社史データベース
  6. ^ 「野村証券(株)『野村証券株式会社四十年史』(1966.10)」渋沢社史データベース
  7. ^ 公職追放の該当事項は「野村證券取締役會長社長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、222頁。NDLJP:1276156 
  8. ^ 1991/08/06, 日本経済新聞
先代
(初代)
野村證券社長
初代: 1925年 - 1941年
次代
飯田清三