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牛山鶴堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
牛山 鶴堂
誕生 牛山 良介
明治2年8月20日(1869年9月25日
信濃国高島藩諏訪郡下諏訪町
(現:長野県諏訪郡下諏訪町)
死没 1906年(明治39年)3月3日
東京府東京市日本橋区亀島町一丁目
(現:東京都中央区日本橋茅場町二丁目)
墓地 下谷区谷中 功徳林寺
職業 翻訳家、小説家、新聞記者
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 政治法律経済学得業士、特別認可学校卒業生[1]
最終学歴 下諏訪小学校、温故義塾、共立学校
活動期間 1886年(明治19年) - 1887年(明治20年)
ジャンル 政治小説ユートピア小説
文学活動 自由民権運動
代表作 『日本之未来』
デビュー作 『梅蕾余薫』
配偶者 小松よしゑ
子供 牛山鉄雄、ちよ、ふみ
所属 自治新誌、朝野新聞中外商業新報
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牛山 鶴堂(うしやま かくどう、明治2年8月29日(1869年10月4日) - 1906年(明治39年)3月3日)は明治時代の翻訳家、小説家、新聞記者[2]。1887年(明治20年)頃英文学の翻訳や政治小説を手がけた後、朝野新聞中外商業新報で記者として活動した。

経歴

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明治2年(1869年)8月20日[3]信濃国諏訪郡下諏訪町[2]大工牛山伝次の長男として生まれた[3]。本籍は同郡四賀村[2]。幼くして父に大工業を習った[2]。1875年(明治8年)下諏訪小学校に入学し[3]、1882年(明治15年)近所の温故義塾で西師意に学問を学んだ[2]

1883年(明治16年)上京し[2]尾澤琢郞等と同宿しながら職を探した[4]。1884年(明治17年)共立学校に入学して英語を学び、年末修業した[3]。1886年(明治19年)発表した『梅蕾余薫』が人気を博し、神田区五軒町20番地から末広町12番地に転居した[4]。また、この頃赤峰瀬一郎の実学会英学校に関係し[5]、同校教員天野為之との関係が後の新聞社等への就職に繋がった[6]

1887年(明治20年)著作を多数発表した後、諏訪に帰郷し、英語を教えた[7]。1888年(明治21年)10月15日から1889年(明治22年)4月23日まで埼玉県第一部庶務課雇員を務めた後[8]、『自治新誌』に「英国々会議院史」「欧米諸強国形勢一班」等の翻訳を連載したが、1890年(明治23年)6月廃刊し[9]、9月朝野新聞に入社した[3]

1892年(明治25年)帰郷し[3]、新聞経営を持ちかけられるも断った[1]。1893年(明治26年)6月20日独逸伯林本会日本東京支会国際法特別講修科を修業している[1]

1894年(明治27年)5月『中外商業新報』に入社し、1895年(明治28年)3月戦況通信のため近衛師団への従軍を出願して[3]日清戦争に従軍[1]、1896年(明治29年)頃関東地方の蚕糸業を取材したほかは[10]、主に外国関係の記事を担当し、西郷従道メキシコ公使館と関係を持ったという[11]

医学を独学し、1902年(明治35年)頃深川区に海浜病院の建設を計画したが、実現しなかった[12]

1906年(明治39年)3月3日腎臓病により日本橋区亀島町一丁目64番地の自宅で死去し、下谷区谷中功徳林寺に葬られた[12]。戒名は真如院円誉実相観月居士[12]

著書

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  • 日本新世界
    1887年(明治20年)5月前編のみ刊。殖産興業により実業社会が実現した未来の日本を舞台に、自由教育・男女交際・内地雑居等の模様を描く[20]
  • 英和対訳 西洋落語
    1887年(明治20年)5月刊。日本初の対訳笑話集[21]。1890年(明治23年)3月『西洋落噺』として再版[9]
  • 『改正パーレー氏万国史直訳』
    1887年(明治20年)刊。実学会英学校校閲[9]パーレー『万国史』対訳[22]
1887年(明治20年)7月刊。松本孝輔『英和通語』[23]の訳語を更新したもの[24]
  • 「稲妻銀行」
    挿絵のみ現存。元は小説か[22]
  • 「内臓組織解剖図原稿」
    西洋医学書の抜粋[12]

家族

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  • 父:牛山伝次 – 信濃国諏訪郡四賀村普門寺出身。諏訪大社下社の宮大工三井峰吉宅で働いた[2]
  • 母 – 諏訪郡下諏訪町小松貴一姉[2]
  • 妻:よしゑ – 伊那郡出身。小松貴一妻女の親戚。1896年(明治29年)結婚[12]
  • 長男:鉄雄 – 1899年(明治32年)生、同年7月7日没[12]
  • 長女:ちよ – 1902年(明治35年)生[12]
  • 次女:ふみ – 1906年(明治39年)生[12]
  • 養孫 - ふみの養子。下諏訪町で大工業を継承した[12]

脚注

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  1. ^ a b c d 今井 1936b, p. 79.
  2. ^ a b c d e f g h 今井 1936a, p. 55.
  3. ^ a b c d e f g 履歴書 1895.
  4. ^ a b 今井 1936a, p. 56.
  5. ^ 浦 2017, pp. 308–309.
  6. ^ 浦 2017, p. 318.
  7. ^ 今井 1936b, p. 78.
  8. ^ 今井 1936b, pp. 78–79.
  9. ^ a b c 浦 2017, p. 306.
  10. ^ a b 浦 2017, p. 307.
  11. ^ 今井 1936b, pp. 80–81.
  12. ^ a b c d e f g h i 今井 1936b, p. 80.
  13. ^ 柳田 1935, pp. 98–99.
  14. ^ p. 36.
  15. ^ 今井 1936a, pp. 56–57.
  16. ^ 柳田 1935, p. 180.
  17. ^ 今井 1936a, pp. 57–58.
  18. ^ a b 木村 1928, pp. 2–5.
  19. ^ a b 今井 1936a, pp. 59–61.
  20. ^ 今井 1936b, pp. 75–76.
  21. ^ 浦 2017, p. 309.
  22. ^ a b c 今井 1936b, p. 77.
  23. ^ 浦 2017, p. 317.
  24. ^ 今井 1936b, pp. 76–77.
  25. ^ 浦 2017, pp. 306–307.

参考文献

[編集]
  • 東京中外商業新報商況社員牛山良介の履歴書御届」『第3新聞記者従軍書類 共3冊 庶』防衛省防衛研究所、1895年https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C06062024900 
  • 木村毅「社会小説研究」『日本文学講座』第5巻、新潮社、1928年。 
  • 柳田泉『明治初期の翻訳文学』松柏館書店〈明治文学叢刊第1巻〉、1935年2月。 
  • 今井卓爾「鶴堂牛山良介について(一)」『書物展望』第6巻第5号、書物展望社、1936年5月。 
  • 今井卓爾「鶴堂牛山良介について(二)」『書物展望』第6巻第6号、書物展望社、1936年6月。 
  • 浦和男「牛山鶴堂と『西洋落語』」『國文學』第101巻、関西大学国文学会、2017年3月1日、303-318頁、ISSN 0389-8628NAID 120006239880