コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

牟俸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

牟 俸(ぼう ほう、1420年 - 1483年)は、明代官僚は公爵[1]本貫重慶府巴県

生涯

[編集]

1451年景泰2年)、進士に及第した[2]御史に任じられ、雲南を巡按した。南寧伯毛勝が金歯に駐屯していたが、牟俸はその不法放縦の罪を列挙した。1457年天順元年)、福建僉事として出向した。成化初年、福建副使に進んだ。後に江西按察使に転じたが、その統治は厳しく激しいものであった。1471年(成化7年)7月、入朝して太僕寺卿となった[3]

1472年(成化8年)、牟俸は左僉都御史となり、山東を巡撫した。1473年(成化9年)、不作の年のため、済南府の官倉を開いて備蓄を安価に売却するよう請願した。飢饉が起こると、牟俸の請願が容れられて、臨清州の官倉の粟10万石を移送して振恤にあてるよう命じられた。牟俸はさらに東昌府済寧州の官倉を開いて粟10万石あまりを軍士の月糧にあてるよう請願した。1474年(成化10年)、再び山東で飢饉が起こると、牟俸は官倉を開いて貸し付けをおこなうよう請願した。

1476年(成化12年)、牟俸は右副都御史となり、南畿を巡撫した[4]1478年(成化14年)、牟俸は議事のために北京に上京したが、陳鉞の誣告を受けて獄に下された。1479年(成化15年)、一兵士として鎮遠衛に流された[5]1483年(成化19年)9月、配所で死去した[6]。享年は64。

脚注

[編集]
  1. ^ 『江西通志』巻47
  2. ^ 『景泰二年辛未科進士登科録』
  3. ^ 談遷国榷』巻36
  4. ^ 『国榷』巻37
  5. ^ 『国榷』巻38
  6. ^ 『国榷』巻39

参考文献

[編集]
  • 明史』巻159 列伝第47