牟俸
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牟 俸(ぼう ほう、1420年 - 1483年)は、明代の官僚。字は公爵[1]。本貫は重慶府巴県。
生涯
[編集]1451年(景泰2年)、進士に及第した[2]。御史に任じられ、雲南を巡按した。南寧伯毛勝が金歯に駐屯していたが、牟俸はその不法放縦の罪を列挙した。1457年(天順元年)、福建僉事として出向した。成化初年、福建副使に進んだ。後に江西按察使に転じたが、その統治は厳しく激しいものであった。1471年(成化7年)7月、入朝して太僕寺卿となった[3]。
1472年(成化8年)、牟俸は左僉都御史となり、山東を巡撫した。1473年(成化9年)、不作の年のため、済南府の官倉を開いて備蓄を安価に売却するよう請願した。飢饉が起こると、牟俸の請願が容れられて、臨清州の官倉の粟10万石を移送して振恤にあてるよう命じられた。牟俸はさらに東昌府・済寧州の官倉を開いて粟10万石あまりを軍士の月糧にあてるよう請願した。1474年(成化10年)、再び山東で飢饉が起こると、牟俸は官倉を開いて貸し付けをおこなうよう請願した。
1476年(成化12年)、牟俸は右副都御史となり、南畿を巡撫した[4]。1478年(成化14年)、牟俸は議事のために北京に上京したが、陳鉞の誣告を受けて獄に下された。1479年(成化15年)、一兵士として鎮遠衛に流された[5]。1483年(成化19年)9月、配所で死去した[6]。享年は64。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『明史』巻159 列伝第47