牧野康成 (大胡藩主)
牧野康成(狩野秀信筆「徳川十七将ノ図」より)。長岡市立中央図書館蔵 | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 弘治元年(1555年) |
死没 | 慶長14年12月12日(1610年1月6日) |
改名 | 貞成(初名)、康成[1] |
別名 | 新次郎、右馬允(通称) |
戒名 | 月照院殿前典厩応誉栄感称徳大居士 |
墓所 | 群馬県前橋市の浄土宗養林寺 |
官位 | 従五位下・右馬允 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康 |
藩 | 上野大胡藩主 |
氏族 | 牧野氏 |
父母 | 牧野成定 |
妻 | 鳳樹院 |
子 | 忠成、昌泉院、充、秀成、儀成、慶台院、馨香院 |
牧野 康成(まきの やすなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・譜代大名。徳川氏の家臣。はじめ三河国牛久保城主、のち上野国大胡藩初代藩主。官位は従五位下・右馬允。
生涯
[編集]- 本節は特に注記のあるものを除き、『寛政重修諸家譜』巻第三百六十四「清和源氏支流・牧野」の康成の項を参考に記述している。
永禄9年(1566年)、牛久保城主であった父・牧野成定の病死をうけて11歳で遺領を相続する。その際に一族の牧野某(出羽守・成元また成真とも、牧野保成の子)と遺領争いとなるも、徳川家康の承認と後援の結果、成元を退け相続に成功した[2]。争いの原因のひとつに康成が今川氏の人質として2年間身柄拘束され(一説に吉田城で)、牛久保に不在であったことが挙げられる。
徳川家康に仕えた後は、その東三河旗頭である酒井忠次に属し、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど家康の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げ、また家康の指示により天正年間は諏訪原城(遠江国)・興国寺城(駿河国)・柾戸城(伊豆国)・長久保城(駿河国)と諸城を在番し、家康の東海道平定戦に寄与した。その功績により、天正16年(1588年)4月までに従五位下・右馬允に叙位・任官、この時の口宣で清和源氏を称姓した(「柳営実録」)[3][4]。また天正18年(1590年)、家康が関東に加増移封されると、上野国大胡に2万石の所領を与えられ、大名に列した[5]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍に属して真田昌幸(西軍)が守る上田城攻めに参加した。徳川方の刈り田働き阻止をめぐる偶発的戦闘で、康成は友軍の危機を救援することを命じたが、これが城攻めにまで発展した。しかしこの城攻めは秀忠に無許可で、しかも結果は惨敗であったため、康成はその責を問われた。直接指揮をした部下の贄掃部を切腹させるよう命じられたが、康成は自ら責を負うとしてこれを拒否した。嫡男の忠成もこの命令に逆らい、贄らを伴い出奔したため大いに秀忠の怒りを買い、康成は上野国吾妻に蟄居処分となる[6]。牧野隊は真田方の策に気付かずに康成・忠成父子の指揮の下、上田城下に攻め入っており、家臣たちの助けで危うく難を逃れた。旗奉行の贄掃部は主君の失態の身代わりとして切腹を命じられていたとされる。
その後、慶長9年(1604年)に徳川家光が誕生したことによる恩赦で処分が解かれ、大胡藩2万石に戻った。ただしこの間、お家取潰しの状態ではなかった。これ以後、公事は嫡男の忠成に任せて大胡に閑居し、そのまま慶長14年(1609年)12月に死去した。法名は月照院殿前典厩応誉栄感称徳大居士。葬地は群馬県前橋市堀越町の浄土宗養林寺。なお『当代記』には死去の6・7年前から世の中を恨んで隠居したとある。
系譜
[編集]子女は3男4女[7]
父母
- 牧野成定(父)
正室
子女
- 牧野忠成(長男) 生母は鳳樹院
- 牧野秀成(次男)
- 牧野儀成(三男)
- 昌泉院(嫡女)昌泉院華景栄春 - 徳川家康の養女、福島正則継室
- 充、永昌院 - 松浦隆信正室
- 慶台院(三女) - 家臣牧野正行室
- 馨香院(四女) - 家臣牧野正成室
脚注
[編集]- ^ 実名に祖父の名を用い貞成と称した(祖父・父ともに同じ通称を用い、諱も類似しているためにこの3人は混同されやすいので注意)。武功により、徳川家康より偏諱として「康」字を拝領という。
- ^ 『長岡の歴史 第1巻』12 - 13頁
- ^ 『長岡の歴史 第1巻』17頁
- ^ 『寛永諸家系図伝』の編者注によるとする(『新編 豊川市史 第1巻』372頁)、および康成の源氏称姓時期は天正16年の従五位下・右馬允任官の際の口宣案とする(『新編 豊川市史 第1巻』374頁)。
- ^ ただし、牧野氏および康成は、徳川家康(松平氏)に先祖代々仕えた譜代の家臣ではなく、家康が桶狭間の戦いの後に岡崎に自立して三河を平定して行く過程で、その軍事的圧力に屈して征服された経緯を持つ。はじめ康成は酒井忠次配下の東三河の国衆の一人とされ、家康譜代の家臣団とは区別されていたが、大胡移封のこの時に譜代大名に列したものである。
- ^ 『長岡の歴史 第1巻』21 - 22頁および188 - 189頁
- ^ 『長岡の歴史 第1巻』24 - 25頁の添付系図とその注記による。
参考文献
[編集]- 堀田正敦等編『新訂 寛政重修諸家譜 第六』続群書類従完成会、1964年。
- 今泉省三『長岡の歴史 第1巻』 野島出版、1968年。
- 市史編集委員会編『新編 豊川市史 第1巻 - 通史編(原始・古代・中世)』豊川市、2011年。