草津シネマハウス
草津シネマハウス Kusatsu Cinema House | |
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情報 | |
正式名称 | 草津シネマハウス |
旧名称 |
草津第二映画劇場 草津スターホール |
完成 | 1956年 |
開館 | 1956年 |
閉館 | 2007年9月30日 |
収容人員 | (5スクリーン)573人 |
設備 |
ドルビーデジタル5.1ch 35㎜映写機 |
用途 | 映画上映 |
運営 | 株式会社シネマハウス |
所在地 |
〒525-0032 滋賀県草津市大路1丁目2番14号 |
最寄駅 | JR草津駅東口より徒歩3分[1] |
最寄IC | 名神高速道路栗東湖南IC |
草津シネマハウス(くさつシネマハウス)は、かつて存在した日本の映画館である[2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16][17]。第二次世界大戦後の1956年(昭和31年)、滋賀県草津市で、角正太郎が草津映画劇場に次ぐ映画館、草津第二映画劇場(くさつだいにえいがげきじょう)として開館した[2][3][18][19]。1988年(昭和63年)にリニューアル、草津スターホール(くさつスターホール)および草津シネマハウス1・2の3館体制になる[9][17]。1996年(平成8年)には、名称変更と改装を行い最大の5スクリーンをもつ草津シネマハウス1・2・3・4・5に拡大したが[12][13]、2007年(平成19年)9月30日、閉館した[16][17]。閉館時には「県内最古の映画館」と報道された[17]。
沿革
[編集]- 1956年 - 草津第二映画劇場として開館[2][3][18][19]
- 1988年 - 草津スターホールおよび草津シネマハウス1・2の3館体制に拡大[9][17]
- 1996年 - 名称変更と改装、草津シネマハウス1・2・3・4・5の5スクリーンに拡大[12][13][17]
- 2007年9月30日 - 閉館[16][17]
データ
[編集]- 所在地 : 滋賀県草津市大路1丁目2番14号[7][8][9][10][11][12][13][14][16][20]
- 経営 :
- 支配人 :
- 構造 : 鉄筋コンクリート造二階建(1956年[4] - 1988年[7][8]) ⇒ 同五階建(1988年[17] - 2007年[9][10][11][12][13])
- 観客定員数 :
- スターホール(1階)⇒シネマハウス1(1階⇒2階) : 120名(1990年[9] - 1993年[10][11]) ⇒ 156名(1994年 - 2001年[12][13]) ⇒ 169名(2006年[14] - 2007年[16])
- シネマハウス1⇒2(2階⇒4階) : 218名(1990年[9] - 2001年[10][11][12][13]) ⇒ 137名(2006年[14]) ⇒ 145名(2007年[16])
- シネマハウス2⇒3(3階) : 184名(1990年[9] - 1996年[10][11][12]) ⇒ 81名(1997年[13] - 2001年) ⇒ 70名(2006年[14] - 2007年[16])
- シネマハウス3⇒4(4階⇒1階) : 81名(1993年[11] - 1996年[12]) ⇒ 184名(1997年[13] - 2001年) ⇒ 111名(2006年[14]) ⇒ 112名(2007年[16])
- シネマハウス5(2階) : 77名(1996年[13] - 2007年[14][16])
概要
[編集]第二映劇の時代
[編集]第二次世界大戦後の1956年(昭和31年)、滋賀県草津市大路井町(現在の同県同市大路1丁目2番14号)に草津第二映画劇場として開館した[2][3][18][19]。同館を経営した角正太郎(1899年 - 1987年)は、1948年(昭和23年)8月に文榮座(大路井町537番地、1927年開館、のちの草津グリーン劇場)を入手して復興して経営したが[18][19]、同館を開館するとともに、文榮座を手放し、荒廃していた大正座(草津本町2丁目9番地)を入手して復興、これを草津映画劇場と改称、同館はこれに次ぐ映画館と位置づけられた[2][3][18][19]。のちに同館の歴史に言及・報道する際に、文榮座がその起源として語られることがあるが[17]、文榮座と同館では立地が異なる[2][3][18][19]。
開館当初の同館は、支配人が芝宇太郎、観客定員数が500名、興行系統は一定の映画会社の封切館ではなく、日本映画各社の作品をブッキングして上映した[3][4]。角正太郎は、1958年(昭和33年)11月2日には、伊藤武郎の独立映画に協力して、東京に映画の製作会社として大東興業を設立、同社において『キクとイサム』(1959年)、『武器なき斗い』(1960年)の2作をしている[21][22]。同年、同館の経営が、長男の角沙門(1934年 - )に引き継がれる[4][23]。
同館の立地した大路井町は、東海道本線の駅であり草津線の起点である草津駅の南、駅東口を出てすぐ右折した商店街に位置した[16]。草津宿跡であり、大正座のあった草津本町(現在の草津市草津)とは、1886年(明治19年)につくられた草津川トンネルでつながっていた[24]。同館が開館した年の11月19日、東海道本線の米原 - 京都間が電化し、全線電化が完成した[24][25]。同館の開館2年前の1954年(昭和29年)10月15日には、草津町は市制を施行して草津市になっており、その4年後の1958年には、同館の面した道は滋賀県道143号下笠大路井線に制定されている。草津市内の映画館は3館になり[2][3]、同市都市部の娯楽の中心的存在となった[15]。
その後、1963年(昭和38年)には草津映画劇場が閉館したが、同館は「草津第二映画劇場」でありつづけた[5][6]。市内にもう1館残ったかつての文榮座が草津東映劇場であった1967年(昭和42年)前後には、同館は大映・日活・松竹の作品を上映し[7]、文榮座が草津東宝劇場を経て草津グリーン劇場と改称、日活ロマンポルノを中心とする成人映画館となった1972年(昭和47年)前後には、同館は外国映画(洋画)および松竹の作品を上映する混映館になっていた[8]。1987年(昭和62年)には、創立者の角正太郎が亡くなった。
シネマハウスの時代
[編集]25年間にわたって2館体制で来た草津市であったが、1988年(昭和63年)に同館が5階建の建物としてリニューアル開館、1階に観客定員数120名の草津スターホール、2・3階に218名の草津シネマハウス1、4・5階に184名の草津シネマハウス2の3館に拡大、日本映画・外国映画のいずれも上映する邦洋混映館になった[9][17]。当時の同館の経営は株式会社草津第二映画劇場(代表・角沙門)、支配人は川嶋尚であった[9]。1990年(平成2年)には、同館の経営会社が株式会社シネマハウス(代表・角沙門)と社名を変更している[9][10]。『ジュラシック・パーク』が大ヒットした1993年(平成5年)[26]には草津グリーン劇場が閉館し、草津市内の映画館は、草津スターホールと草津シネマハウス1・2・3の1サイト4スクリーンのみになった[11]。滋賀県出身のラジオパーソナリティ・野村雅夫は高校生だった1994年(平成6年)に、ジュリア・ロバーツ主演の『ペリカン文書』(アラン・J・パクラ監督)をシネマハウスで観たという[27]。
1996年(平成8年)には、草津スターホールの名称を廃し、草津シネマハウス1・2・3・4・5の5スクリーンに拡大[12][13]、その結果、翌1997年(平成9年)には、同館の年間入場者数がピークを迎える[17]。
2007年(平成19年)9月30日、閉館した[16][17]。『キクとイサム』、『フォレスト・ガンプ/一期一会』、『E.T. 20周年アニバーサリー特別版』、『ゴースト/ニューヨークの幻』が閉館特別番組として組まれ、最終日に上映した作品は、『タイタニック』、『ニュー・シネマ・パラダイス』、『キクとイサム』、『HERO』であった[16]。
閉館理由は、ピーク以降は年間入場者数が減少し、10年で半減に至ったため、という[17]。同市内の既存の映画館はこれで消滅したが、1年後の2008年(平成20年)11月26日、市内新浜町300番地にイオンモール草津が開業し、同施設に9スクリーンのシネマコンプレックス、ワーナー・マイカル・シネマズ草津(現在のイオンシネマ草津)が開館している[28]。シネマハウスの跡地には、2011年(平成23年)2月に地上10階建てのマンション「サンシティ草津駅前」[1]が竣工し、現在(2018年)に至る。
脚注
[編集]- ^ a b c “サンシティ草津駅前”. SUUMO物件ライブラリー. リクルート (2016年11月17日). 2016年12月6日閲覧。
- ^ a b c d e f g “昭和32年の映画館 滋賀県 38館”. 中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』1957年1月1日号). 2015年10月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 便覧[1958], p.181.
- ^ a b c d e f g h 便覧[1961], p.205-206.
- ^ a b c d 便覧[1963], p.191.
- ^ a b 便覧[1964], p.181.
- ^ a b c d e f g 便覧[1967], p.135.
- ^ a b c d e f g 便覧[1973], p.141.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 名簿[1990], p.105.
- ^ a b c d e f g h i 名簿[1991], p.103.
- ^ a b c d e f g h i j 名簿[1993], p.99.
- ^ a b c d e f g h i j k l 名簿[1996], p.102.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 名簿[1997], p.103.
- ^ a b c d e f g h i 名簿[2006], p.152.
- ^ a b 草津市[1981], p.609.
- ^ a b c d e f g h i j k l m cinemahouse.com、草津シネマハウス公式ウェブサイト、2007年9月30日付、インターネットアーカイブ、2014年5月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “県内最も古い映画館閉館へ 草津「シネマハウス」 60年の歴史に幕”. 京都新聞 (47NEWS). (2007年9月7日). オリジナルの2014年5月28日時点におけるアーカイブ。 2015年10月3日閲覧。
- ^ a b c d e f 総覧[1955], p.133.
- ^ a b c d e f 総覧[1955], p.134.
- ^ 滋賀県草津市大路1丁目2番14号、Google ストリートビュー、2011年1月撮影、2014年5月27日閲覧。
- ^ 星光社[1958], p.209.
- ^ 田中[1976], p.349.
- ^ 本間[1995], p.250.
- ^ a b “コミュニティくさつ 通算96号” (PDF). 2014年5月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月27日閲覧。
- ^ “東海道本線全線電化”. 昭和毎日、毎日新聞 (1956年11月19日). 2019年8月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月27日閲覧。
- ^ “皆さん、本日は「炎の王国」の公開日ですよ!”. 奥田大器の活動ブログ. 純朴陶芸家 奥田大器 創作「大器の器」 (2018年7月13日). 2018年12月6日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 野村雅夫 (2018年5月30日). “「チン・チン・チネマ」第3回 雅夫の魔界大冒険”. キネプレ. 2018年12月6日閲覧。
- ^ 草津、イオンエンターテイメント、2014年5月27日閲覧。
参考文献
[編集]- 『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1955年発行
- 『映画年鑑 1956 別冊 映画便覧』、時事通信社、1956年発行
- 『映画年鑑 1958 別冊 映画便覧』、時事通信社、1958年発行
- 『左翼文化年報 1958年版』、星光社、1958年発行
- 『映画年鑑 1963 別冊 映画便覧』、時事通信社、1963年発行
- 『映画年鑑 1964 別冊 映画便覧』、時事通信社、1964年発行
- 『映画年鑑 1967 別冊 映画便覧』、時事通信社、1967年発行
- 『映画年鑑 1973 別冊 映画便覧』、時事通信社、1973年発行
- 『日本映画発達史 IV 史上最高の映画時代』、田中純一郎、中公文庫、中央公論社、1976年3月10日 ISBN 4122003156
- 『草津市史 4 現代編』、草津市史編さん委員会、草津市役所、1981年発行
- 『映画年鑑 1990 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1990年発行
- 『映画年鑑 1991 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1991年発行
- 『映画年鑑 1993 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1993年発行
- 『戦争の落とし子ララバイ』、本間健彦、三一書房、1995年10月1日 ISBN 4380952843
- 『映画年鑑 1996 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1996年発行
- 『映画年鑑 1997 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1997年発行
- 『映画年鑑 2006 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、2006年発行
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]画像外部リンク | |
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シネマハウス正面 2007年9月29日撮影 | |
閉館アナウンス 同上 |
- cinemahouse.com - 公式ウェブサイト(2007年9月30日付、インターネットアーカイブ)
- 滋賀県草津市大路1丁目2番14号 - 2011年1月時点の同館跡地 (Google マップ・Google ストリートビュー)