カール・フォン・フリッシュ
Karl von Frisch カール・フォン・フリッシュ | |
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カール・フォン・フリッシュ(circa 1926) | |
生誕 |
1886年11月20日 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン |
死没 |
1982年6月12日 (95歳没) ドイツ ミュンヘン |
国籍 | オーストリア |
研究機関 |
ロストック大学 ヴロツワフ大学 ミュンヘン大学 グラーツ大学 |
出身校 |
ウィーン大学 ミュンヘン大学 |
主な受賞歴 | ノーベル生理学・医学賞(1973) |
署名 | |
プロジェクト:人物伝 |
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カール・リッター[1]・フォン・フリッシュ(Karl Ritter von Frisch, 1886年11月20日 - 1982年6月12日[2])は、オーストリアの動物行動学者。1973年、ニコ・ティンバーゲン、コンラート・ローレンツと共にノーベル生理学・医学賞を受賞。動物行動学という学問分野の創設に大きな功績を残した。
ミュンヘン大学の動物学の教授としてミツバチの研究をし、彼らのコミュニケーション手段としての8の字ダンス、また紫外線に鋭敏な感覚を持ち合わせていることを発見した。
生涯
[編集]医師・大学教授のアントン・リッター・フォン・フリッシュ(Anton von Frisch)とその妻で作家のマリー(Marie von Frisch)の子としてウィーンで生まれる。幼い頃から動物の収集家であっただけでなく、熱心な観察者でもあった。大学に入学するまでに興味は動物学に集中していたが、父アントンは医学の方が現実的だと考えたため、それに従ってウィーン大学の医学部に入学した。大学での組織学、解剖学、人間生理学の知識は後の研究に大きな影響を与えた。大学の講師には叔父のジークムント・エクスナー(Sigmund Exner)がおり、フリッシュによれば叔父は人間生理学に限定されていたはずの講義で他の動物の研究を行うことを認めていた。
最終的には医学の素質がないと考え、ウィーン大学を退学してミュンヘン大学の動物学科に移った。そこでは魚類の感覚と体色の研究を続け、魚の頭部に感覚器が大量に存在することを突き止め、目が退化している魚がどのように光に反応して体色を変化させているのかを説明した。この研究で1910年に博士号を取得した。フリッシュは研究を続け、小魚が色を感知できることを示したが、この研究は好意的に受け取られなかった。フリッシュはチャールズ・ダーウィンの自然選択説を(当時はまだ論争の的であったにもかかわらず)信じ、魚の体色の変化は生存の成功に関わっているのだと予測した。その後ミツバチの研究に取り組み、ミツバチの色覚と花びらの色の共進化を明らかにした。
1914年に第一次世界大戦が始まると兵役は免れ病院で働いた。1917年に病院の看護婦だったマルガレーテ・モーア (Margarete Mohr) と結婚し、後に3人の娘と1人の息子をもうけた。
1919年には講師として大学に戻り、ミツバチの「ダンス言語」のような複雑な行動の存在を明らかにした。1921年にミュンヘン大学とロストック大学で教授となると魚類の聴覚について研究を行った。1923年にヴロツワフ大学の教授を経て、1925年からミュンヘン大学の動物学研究所で働くが、第二次世界大戦中に大学が破壊されたこともあって、二度目の敗戦の後グラーツ大学に移った。1950年にグラーツ大学の後任教授にコンラート・ローレンツを推薦し、動物学科を再建するためにミュンヘン大学に戻った。1958年にミュンヘン大学を退職後も一般向けに動物行動学、特にミツバチの生態に関して多くの本を書いた。
フリッシュの実験的で包括的な研究、ミツバチで発見された複雑な行動、魚類の鋭い知覚の解明、動物行動の理解への自然選択の導入は、その後の動物行動学者にとって非常に重要だった。1952年にユネスコから科学普及の功績に対してカリンガ賞を受賞、1962年バルザン賞受賞、1973年にティンバーゲン、ローレンツと共にノーベル生理学・医学賞が贈られた。
脚注
[編集]著書
[編集]- 『動物のことばの秘密』芸林書房 1976年
- 『ミツバチを追ってーある生物学者の回想』法政大学出版局 1969年
- 『十二の小さな仲間たちー身近な昆虫の生活誌』思索社 1988年
- 『ミツバチの不思議』法政大学出版局 1992年、2005年
- 『ミツバチの生活から』ちくま学芸文庫 1997年