後藤五郎治
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後藤 五郎治(ごとう ごろうじ、1827年(文政10年1月[1][2][3])- 1897年(明治30年)10月9日[2][3])は、明治期の政治家。衆議院議員。名・畯、字・士喜、号・稼亭[4]。五郎次の表記有り[1][4]。
経歴
[編集]佐渡国加茂郡、のちの新潟県[2]加茂郡新穂村(佐渡郡新穂村[3]舟下[1][4]を経て現佐渡市)で生まれた。北君養、圓山溟北に師事し漢学を修めた[2][3][4]。
戸長、学区取締兼衛生取締、村長、新潟県会議員、佐渡中学校(現新潟県立佐渡高等学校)監事などを務めた[2][3]。教育振興、相川鉱山開発などに尽力した[1]。
1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(新潟県第9区、大手倶楽部)で当選し[1][5]、その後、進歩党に所属して、衆議院議員に1期在任した[2][3]。議員在任中の1897年10月に死去した[1][6]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 本間周敬『佐渡人名辞書』本間周敬、1915年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 牧野利平編『越佐人物誌 上巻』野島出版、1972年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。