田村駒治郎 (初代)
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田村駒治郎 たむら こまじろう | |
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生年月日 | 1866年7月29日 |
出生地 |
日本 摂津国池田村 (現・大阪府池田市) |
没年月日 | 1931年3月31日(64歳没) |
前職 | 田村駒商店社長 |
子女 | 長男・田村駒治郎 |
在任期間 | 1925年9月29日 - 1931年3月31日 |
初代 田村 駒治郎(たむら こまじろう、1866年7月29日(慶応2年6月18日[1]) - 1931年(昭和6年)3月31日[2])は、明治から昭和時代戦前の実業家。政治家。貴族院多額納税者議員。田村駒創業者。
経歴
[編集]摂津国池田村槻木(現・池田市槻木町)の酒造業・笹部九兵衞(神田屋)の二男として生まれたが、家業はすでに傾いており、9歳で父親を亡くし、13歳で西田商店(現・呉春酒造)に奉公、徴兵逃れのため1883年に親戚の田村キクの養嫡子となった[3][4]。翌年、モスリン友禅の開発に成功した大阪の洋反物商・岡島千代造[5]の店員となり、鮮明な染色法等を完成、1891年に岡島合名会社の共同出資者となり、1894年に洋反物卸商として独立、実弟の平松徳三郎(伊丹平松家養子)とともに「神田屋田村駒商店」を創業[3][6][7]。日清戦争・日露戦争の好景気に乗じて業績を伸ばし、1918年に株式会社化、1921年には大阪商業会議所議員、大阪市会議員となる[4]。1925年(大正14年)には大阪府多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から[8]死去するまで在任した[9]。篤志家として故郷の池田小学校の設備費を寄付したほか、66歳で没した翌年には、遺言による寄付金で池田市公会堂が建設された[4]。
また、1910年に東京銀座で展示された米国流行の福の神ビリケン像を見て、自社にビリケン堂を建てて祀り、1911年には登録商標をして使用した[3][10][11]。没後、長男の駒太郎が襲名し、二代目田村駒治郎となった[12][13]。二代目の岳父は安田財閥の安田善助 (2代目)[12]。
脚注
[編集]- ^ 人事興信所 1915, た31頁.
- ^ 衆議院、参議院 1960, 199頁.
- ^ a b c 田村駒治郎池田市立図書館
- ^ a b c 田村駒治郎は池田市が誇る偉人!公会堂を建てビリケンを登録商標、五月山の一部を寄付いけだより、2020.4.20
- ^ 岡島 千代造(読み)オカジマ チヨゾウ20世紀日本人名事典
- ^ 平松徳三郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 田村駒治郎「姫室の碑」と「献灯」は兄弟3人が服飾の神様に感謝いけだより、2020.4.20
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、35頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、39頁。
- ^ 市政ルポ : 池田市(大阪府) : 小さくとも世界に誇れるまち「福」あふれるまちを目指して遠藤隆 (全国市長会, 2009-11) 『市政』. 2009年(11月)
- ^ ビリケンさんの足の裏がテカテカで眩しい!「福の神ビリケン」、池田市栄本町に鎮座いけだより、2020.4.20
- ^ a b 田村駒治郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 三善 2000, 711頁.
参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年 。
- 人事興信所 編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年 。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年 。
- 三善貞司 編『大阪人物辞典』清文堂出版、2000年。ISBN 4792404991。