塩田団平
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塩田 団平 しおた だんぺい | |
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1943年 | |
生年月日 | 1881年4月1日 |
出生地 | 日本 秋田県雄物川町(現:横手市)沼館 |
没年月日 | 1963年4月16日(82歳没) |
出身校 | 東京高等商業学校 |
称号 | 黄綬褒章(1956年) |
配偶者 | 塩田セツ |
塩田 団平(しおた だんぺい、旧字体:塩田 團平、1881年〈明治14年〉4月1日 - 1963年〈昭和38年〉4月16日)は、日本の政治家。銀行家。羽後銀行(現:北都銀行)頭取。
来歴・人物
[編集]秋田県雄物川町(現:横手市)沼館の大地主の長男として生まれる。幼名、重三。明治41年、父親が死去し、8代目の団平を襲名[1]。
旧制秋田中学、東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業。帰郷後、1913年(大正2年)32歳で沼館町(現:横手市)町長に就任し、1946年(昭和21年)まで町長を務めた。また、この間には1919年(大正8年)からは秋田県会議員を2期、1924年(大正13年)からは衆議院議員を2期(第15回、第17回総選挙当選)、1939年(昭和14年)には、貴族院多額納税者議員にも選出され、同年9月29日に就任し[2]、同成会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在職した[3]。
1916年(大正5年)、隣村の土田万助とともに横荘鉄道の創業に参画。この開通した「横手-沼館」の横荘線を地域住民は親しみを込め、団万鉄道と呼んだ。また、昭和初年には沼館農林学校を私財を投じ設立した。
その後、秋田農工銀行や植田銀行を創立。1921年(大正10年)から1932年(昭和7年)まで秋田貯蓄銀行取締役[4]を務め、1943年(昭和18年)には、羽後銀行の頭取に就任し、本店の増田町から横手市への移転等の施策を講じた。1963年(昭和38年)4月16日、82歳で死去。
ルーツ
[編集]- 沼館に蔵光院というお寺があり、300年以上前に中興開山と言われた宥受和尚が、同町館合の小柳家から二男をもらい受け、寺の子とし、後に寺の分家として独立したのが初代・塩田団平だという[1]。初めは小柳団平と称していたが、のち宥受和尚の生国・伊勢の塩田の地名にちなんで塩田と改姓[1]。
親族
[編集]きょうだいは3人の弟と4人の姉妹(1人は姉[1])の8人。次男に北都銀行の初代会長を務めた塩田雄次がいる。
以下、人事興信録8版より[5]。
- 父・7代団平
- 母・フサ(萬延元2月生、高橋利兵衛の長女)
- 妻・セツ(明24年、2月生、菅忠吉・三女)
- 女・慶子(明42年1月生)
- 長男・浩太郎(明治四四、七生)
- 次男・雄次(大正二、一生)
- 三男・陽三(大正五、六生)
- 二女・榮子(大正八、四生)
- 三女・武子(大正一一、三生)
- 四男・兼四郎(昭和二、七生)
一族
[編集]- 姉・イチ(明一二、一生)
- 妹・クニ(同三四、四生)
- クニの夫・湊貞輔
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『昭和人名辞典Ⅱ 第二巻』 日本図書センター、 1989年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年11月。
- 『秋田人名辞典』 秋田魁新報社、2000年7月。ISBN 978-4870202061。