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アルシノエ2世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルシノエ2世
Ἀρσινόη
トラキア王妃・マケドニア王妃
エジプト女王
アルシノエ2世(紀元前3世紀ごろ)
在位 トラキア王妃:紀元前300年頃 - 281年
マケドニア王妃:紀元前281年 - 279年

出生 紀元前316年
死去 紀元前270年7月9日/268年7月16日(?)
配偶者 リュシマコス
  プトレマイオス・ケラウノス
  プトレマイオス2世
子女 プトレマイオス1世エピゴノイ英語版
リュシマコス
ピリッポス
家名 プトレマイオス朝
父親 プトレマイオス1世
母親 ベレニケ1世
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A gold coin shows paired, profiled busts of a plump man and woman. The man is in front and wears a diadem and drapery. It is inscribed "ΑΔΕΛΦΩΝ".
左がプトレマイオス2世ピラデルポスであり、ギリシア語ΑΔΕΛΦΩΝ(母を同じくする子ら)とある。デザインそのものは伝統的なものだが、地中海美術の流れをくんでやや丸みを帯びている[1]

アルシノエ2世Ἀρσινόη, 紀元前316年 - 紀元前270年から紀元前268年)は、プトレマイオス朝エジプトの女王である。リュシマコス王との結婚によりその妻としてトラキア小アジア、マケドニアの女王となり、後に弟であり夫ともなったプトレマイオス2世とともにエジプトを治めた。その権力は強く、実質的統治者として君臨したことから、クレオパトラベレニケ4世に並ぶプトレマイオス朝の女傑とも称される[2]

略歴

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ヘレニズム国家をエジプトに興したプトレマイオス1世ソーテールΠτολεμαίος Σωτήρ は「守護者プトレマイオス」の意)とその2番目の妻ベレニケ1世との間に長女として生まれた[3]

アルシノエ2世は15歳のときにリュシマコスと結婚し、3人の子をもうけた。その名はプトレマイオス1世エピゴノス英語版[4][5][6]、リュシマコス[5]、ピリッポス[5]と伝わる。息子たちを玉座に座らせるために、アルシノエ2世は反逆を企てたかどで夫の長子アガトクレス英語版を飲ませ処刑した。

リュシマコスが紀元前281年の戦い(コルペディオンの戦い)で亡くなると、急ぎカッサンドレイアへ向かい、異母兄弟であるプトレマイオス・ケラウノスと再婚した。2番目の夫は、プトレマイオス1世とその前妻エウリュディケ英語版の子供の一人だった。この結婚には2人がマケドニアとトラキアの覇権を争っていたという政治的な背景がある(生前のリュシマコスは両地を支配し、その権勢は南ギリシアと小アジアにも及んでいた)。2人の関係は長続きしなかった。プトレマイオス・ケラウノスがさらに力をつけはじめると、アルシノエ2世はその勢いを抑え、前夫との息子たちとともに夫に反旗を翻す時期だと判断した。しかし陰謀は露見する。プトレマイオス・ケラウノスはアルシノエ2世の2人の息子リュシマコスとピリッポスを殺害するが、長男のプトレマイオスは北へ脱出し、ダルダニア人の王国に逃れた。当のアルシノエ2世も弟プトレマイオス2世の庇護を求め、エジプトのアレクサンドリアへ逃れた。

ゴンザーガ・カメオエルミタージュ美術館

エジプトでもアルシノエ2世は術策を巡らせ、弟を唆してプトレマイオス2世の最初の妻であるアルシノエ1世に夫の暗殺疑惑の濡れ衣を着せて離婚させ[2]、南エジプトに追放させた。そして紀元前275年頃、アルシノエ2世が自分の同母弟の妻となった。かくて2人を形容して「兄弟姉妹を愛する者達」(古希: Φιλάδελφοι: Philadelphoi[7]という言葉が、おそらくは憤慨したギリシア人により与えられた[note 1]。アルシノエ2世は弟のもつ肩書き全てを自らも名乗り、女王に捧げられた街や崇拝者、その肖像を象った貨幣ができるなど、強い影響力をもった[8]。外交政策にも深く関わったとみえて、それは中東でセレウコス朝と対峙した第一次シリア戦争(紀元前274-271年)でのプトレマイオス2世ピラデルポスの勝利にもつながった。女王の死後もプトレマイオス2世は公文書でたびたびその名に触れており、貨幣や礼拝もかつてのままにさせ、さらにアルシノエ2世を女神として崇めさせた[9]。それはそのまま自らの神格化につながったのである。

脚注

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注釈
  1. ^ 換言すれば、エジプトの因習的な文化がギリシア世界に持ち込まれたとみることもできる(古代エジプトでは兄弟姉妹の結婚は禁忌ではなかった)[8]。そしてこれはまたプトレマイオス朝で初めての近親婚だった[2]
出典
  1. ^ クレイトン 1999, p. 269.
  2. ^ a b c 物應 2006, p. 3.
  3. ^ “Did female Egyptian pharaoh rule before Cleopatra?”. MSNBC. (December 2, 2010). http://www.msnbc.msn.com/id/40472692/ns/technology_and_science-science/ 2010年12月5日閲覧。 
  4. ^ Billows, Kings and colonists: aspects of Macedonian imperialism, p.110
  5. ^ a b c Bengtson, Griechische Geschichte von den Anfängen bis in die römische Kaiserzeit, p.569
  6. ^ Ptolemaic Genealogy: Ptolemy ‘the Son’, Footnotes 9 & 12
  7. ^ プトレマイオス2世には、プトレマイオス2世ピラデルポスの異名があるが、ギリシャ名のみで正式な名前ではない。
  8. ^ a b クレイトン 1999, p. 268.
  9. ^ 波部 2004, p. 143.

伝記

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  • エリザベス・ドネリー・カーニー『アルシノエ二世 ヘレニズム世界の王族女性と結婚』 森谷公俊 訳、白水社、2018年

参考文献

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  • H. Bengtson, Griechische Geschichte von den Anfängen bis in die römische Kaiserzeit, C.H.Beck, 1977
  • S.M. Burstein, "Arsinoe II Philadelphos: A Revisionist View", in W.L. Adams and E.N. Borza (eds), Philip II, Alexander the Great and the Macedonian Heritage (Washington, 1982), 197-212
  • R.A. Billows, Kings and colonists: aspects of Macedonian imperialism, BRILL, 1995
  • ピーター・クレイトン 著、藤沢邦子 訳『古代エジプト ファラオ歴代誌』吉村作治監修、創元社、1999年。ISBN 4422215124 
  • 波部雄一郎「プトレマイオス2世とディオニュソスのテクニタイ : アテナイオス第5巻198bを手がかりとして」『人文論究』53(4)、関西学院大学、2004年1月、140-153頁。 
  • 物應忠 (2006). クレオパトラと共和政ローマ (修士 thesis). 学位授与年度:平成18年度. 兵庫教育大学. 2023年4月12日閲覧

関連項目

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外部リンク

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