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トーマス・キリエル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

サー・トーマス・キリエル(Sir Thomas Kyriell, KG, 1396年 - 1461年2月18日)は、百年戦争薔薇戦争期のイングランドの軍人。

ケント出身。ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターに仕え1417年からフランス戦線に従軍[1]1436年ル・クロトワの要塞を守備した[2]。翌1437年ジョン・タルボット(後に初代シュルーズベリー伯爵)とトーマス・スケールズと共にルーアンを攻撃しようとしたフランスの将軍ラ・イルジャン・ポトン・ド・ザントライユの軍隊を襲撃して打ち破り、ザントライユを捕らえる勝利を飾った[3]

1450年、フランスに大半を奪われたノルマンディーの奪還をイングランド王ヘンリー6世から命じられ、遠征軍を率いてイングランドから上陸して南下した。4月15日フォルミニーの戦いクレルモン伯ジャン(後のブルボン公ジャン2世)が率いるフランス軍を圧倒したが、援軍として駆け付けたアルテュール・ド・リッシュモン大元帥(後のブルターニュアルテュール3世)に撃破され、1400人の兵共々捕縛される大敗を喫した[4]。戦後釈放され帰国[1]、薔薇戦争ではヨーク派に入り、1461年2月8日にヨーク派の幹部であるウォリック伯リチャード・ネヴィルからガーター勲章を授けられた[5]

9日後の17日第二次セント・オールバンズの戦いが起こり、ウォリック伯はヨーク派に捕らえられたヘンリー6世の身柄を取り戻すべく進軍したマーガレット王妃のランカスター派と激突した。キリエルはボンヴィル男爵ウィリアム・ボンヴィルと共にヘンリー6世の護衛をウォリック伯から任されていたが、主力のウォリック伯が敗走するとランカスター派に捕らえられ、翌18日にエドワード王太子の命令でボンヴィル男爵と共に処刑された[6]

脚注

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  1. ^ a b ロイル、P427。
  2. ^ David Grummitt (2008). The Calais Garrison: War and Military Service in England, 1436-1558. Boydell & Brewer Ltd. p. 68. ISBN 978-1-84383-398-7. https://books.google.com/books?id=yIthoIVk1lgC&pg=PA68 
  3. ^ エチュヴェリー、P233、清水、P368。
  4. ^ エチュヴェリー、P274 - P280、清水、P387 - P388、ロイル、P188 - P189。
  5. ^ Peter Burley; Michael Elliot; Harvey Watson (9 September 2013). The Battles of St Albans. Pen and Sword. p. 54. ISBN 978-1-4738-1903-0. https://books.google.com/books?id=43Z-AwAAQBAJ&pg=PA54 
  6. ^ ロイル、P257 - P259。

参考文献

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