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鵜殿長照

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
鵜殿 長照
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄5年2月4日1562年3月8日[1]
別名 藤太郎[2]、長助?
戒名 竺仙[3]
主君 今川義元氏真
氏族 鵜殿氏
父母 父:鵜殿長持、母:今川氏親娘?[4][5][注釈 1]
兄弟 長照、藤九郎、長忠松平伊忠[7][3]
松平清宗?[7][注釈 2]お田鶴の方?[要出典]
氏長氏次[7]
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鵜殿 長照(うどの ながてる)は、戦国時代武将今川氏の家臣。三河国宝飯郡上ノ郷城主。

略歴

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弘治2年(1556年)今川氏に従っていた父鵜殿長持が死去したため、城主を継ぐ[2][1][注釈 3]。今川氏が西進政策を採り続ける中で、三河の東西を結ぶ意味合いを持っていた鵜殿氏の所領は非常に重要度が高かった。そのため鵜殿氏の地位は向上し、今川義元の妹が生母ということで義元の甥にあたる長照も今川氏の親戚として重用された[4][注釈 1]

永禄3年5月(1560年)の桶狭間の戦い以前から、尾張大高城の城代に任命されていたといわれる。だが、大高城は対織田戦線の最先端にあって身動きを封じられ、兵糧枯渇の窮地に立たされていた。長照は城兵を鼓舞し、山野の草木の実を採取して飢えを凌いだと伝わる。桶狭間の戦いの前哨戦となった松平元康(のちの徳川家康)の指揮による兵糧運び入れが賞賛されたのはこの時である。窮地から解放されると、長照は元康と大高城の守備担当を交代させられる。その後の使命や働きなどは明確でない。本戦で義元が移動の小休止中に織田信長によって討たれると、元康よりも先に三河の本領に逃げ帰っている[要出典]

桶狭間の敗戦によって今川氏支配の領国は政治的に混乱し、その支配が弱まった三河では松平氏が急速に台頭する。依然今川氏に属した長照は松平家康(元康より改名)と対立することになり、特に近隣領主の竹谷松平清善[注釈 2]としばしば戦った[5]。長照は「不行儀」だったため人心を得られず一門の中から離反者も出たらしく、松平氏に降った者や駿府へ逐電した者がいた[5][9]。永禄4年(1561年)鵜殿勢は竹谷城に夜襲をかけようとしたものの、城兵らが夜通しで賭博していたのを計画が露見したと誤認して撤退している[7]。以後も長照は竹谷松平氏を相手に善戦したものの、永禄5年(1562年)松平勢は家康自ら軍勢を率いて上ノ郷城を攻撃した。長照はよく守ったが家康は甲賀衆に火計を用いさせたため、その混乱に乗じて城は攻め落とされ、長照は伴与七郎に討ち取られた[注釈 4]。長照の二子氏長氏次は捕らえられ、駿府に留められていた家康の妻子と交換する形で今川氏方へと送られた。上ノ郷領は久松俊勝に与えられた[11][12][13]

関連作品

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テレビドラマ

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脚注

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注釈

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  1. ^ a b 黒田基樹は母を今川氏親の娘とする説を江戸時代の創作としている[6]。その後、黒田はこの問題について具体的な見解を示している(後述)
  2. ^ a b 長照と竹谷松平家の関係について、長照の実母が後に松平清善に嫁ぎ清宗を生んだとする説(鵜殿長持室=松平清善室、『鵜殿家譜』)、長照と松平清善が異父兄弟であるとする説(鵜殿長将室=松平親善室、『寛政重修諸家譜』)がある[7]。前述の黒田基樹の説では今川氏親には鵜殿長持・松平清善に嫁いだ娘は実在しないことになる[6]。その後、黒田は長照の2人の子に「氏」の字が与えられていることに着目し、今川家臣で「氏」の字が与えられるのは御一家衆と呼ばれる一門の者に限定されるため、長照の妻は御一家衆の出身であったためその所生の子供も御一家衆の待遇に引き上げられたのを後世誤解された可能性を指摘している[8]
  3. ^ 後述の上ノ郷落城時の城主を長持とする説もあるが、誤りである[1]
  4. ^ 長照戦死の地と伝承される場所に「鵜殿坂」と呼ばれる地名が残されている。落城を脱した長照は現在の蒲郡市清田町にある安楽寺の横の坂で木の根に躓いて転倒し、その場で討ち取られたといい、長照の無念がこもったこの坂で転ぶと病気で死んでしまうという伝承がある[10]

出典

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  1. ^ a b c 『蒲郡市誌』, p. 207.
  2. ^ a b 『日本人名大辞典』, § 鵜殿長照.
  3. ^ a b 『寛政重修諸家譜』, p. 168.
  4. ^ a b 菊地 2020, p. [要ページ番号].
  5. ^ a b c 『蒲郡市誌』, p. 205.
  6. ^ a b 黒田 2017, p. 34.
  7. ^ a b c d e 『蒲郡市誌』, p. 199.
  8. ^ 黒田基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』平凡社新書、2022年、88-89.
  9. ^ 『蒲郡市誌』資料編, p. 49.
  10. ^ 伊藤 1981, p. 378.
  11. ^ 『蒲郡市誌』, pp. 205–208.
  12. ^ 『新編岡崎市史』, p. 127.
  13. ^ 『蒲郡市誌』資料編, p. 41.

参考文献

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  • 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 978-4-06-210800-3 
  • 菊地浩之『徳川家臣団の系図』KADOKAWA角川新書〉、2020年。ISBN 978-4-04-082326-3 
  • 黒田基樹『北条氏康の妻 瑞渓院』平凡社〈中世から近世へ〉、2017年。ISBN 978-4-582-47736-8 
  • 蒲郡市誌編纂委員会; 蒲郡市教育委員会 編『蒲郡市誌』 本編、蒲郡市、1974年。 
  • 蒲郡市誌編纂委員会; 蒲郡市教育委員会 編『蒲郡市誌』 資料編、蒲郡市、1976年。 
  • 伊藤天章 編『蒲郡史談』国書刊行会、1981年。 
  • 新編岡崎市史編集委員会 編『新編岡崎市史』 20巻、新編岡崎市史編さん委員会、1993年。 
  • 『新訂寛政重修諸家譜』 18巻、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0222-2