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鵜殿長持

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
鵜殿 長持
時代 戦国時代
生誕 永正10年(1513年[要出典]
死没 弘治3年9月11日1557年10月13日[注 1][1]
別名 藤太郎[2]、三郎[3]
戒名 日来[3]
官位 長門守
主君 今川義元氏真[3]
氏族 鵜殿氏
父母 父:鵜殿長将[2]
兄弟 長持長成長祐[2]
今川義元の妹?[注 2]
長照、藤九郎、長忠松平伊忠[2][5]
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鵜殿 長持(うどの ながもち)は、戦国時代三河国武将

略歴

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三河国宝飯郡上ノ郷城(現在の愛知県蒲郡市神ノ郷町、西郡城とも)の城主。16世紀前半の鵜殿氏は一族が分立し、現在の蒲郡市域の大半を統治していたらしい[2]。また駿河戦国大名今川氏に従属し、数字は正確ではなかろうが「三州西郡一万石」を領したとされる大身分だった。また今川義元の妹を室に迎えたという[6][注 2]。連歌師の宗長宗牧とも親交があった[7]弘治3年(1557年)自城にて没[注 1][1][5]

鵜殿氏は東海地域の法華宗の後援者であり、15世紀から16世紀にかけて多数の法華宗寺院の建立を支援したが、天文21年(1552年)には隣国遠江本興寺の仏殿修復の際には多額の寄進を行っており、棟札には長持の名が筆頭に挙げられている[注 3][6][8]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 三河物語』などは永禄5年(1562年)に松平家康に敗れて戦死した上ノ郷城主を長持とするが、子の長照の誤りである[1]
  2. ^ a b 寛政重修諸家譜』にその記述がある一方で『寛永諸家系図伝』にはそうした記述はないため、前者の編纂以前に創作されたものとする説がある[4]
  3. ^ この時改修された本堂は現存し、国指定重要文化財となっている。

出典

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参考文献

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  • 蒲郡市誌編纂委員会; 蒲郡市教育委員会 編『蒲郡市誌 本編』蒲郡市、1974年。 
  • 蒲郡市誌編纂委員会; 蒲郡市教育委員会 編『蒲郡市誌 資料編』蒲郡市、1976年。 
  • 石川松衛 編『蒲郡町誌』名著出版、1973年。 
  • 「静岡県の地名」編集委員会 編『静岡県の地名』平凡社日本歴史地名大系〉、2000年。ISBN 9784582490220 
  • 黒田基樹『北条氏康の妻 瑞渓院』平凡社〈中世から近世へ〉、2017年。ISBN 9784582477368 
  • 寛政重修諸家譜』 18巻、続群書類従完成会、1965年。ISBN 9784797102222