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南部利雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
南部利雄
南部利雄
時代 江戸時代中期
生誕 享保10年6月11日1725年7月20日
死没 安永8年12月5日1780年1月11日
別名 渾名:惣四郎殿
官位 従四位下大膳大夫
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
陸奥盛岡藩
氏族 南部氏
父母 南部利幹:橋本氏の娘・貞林院
兄弟 利雄信起
正室前田吉徳の養女・
利謹栄姫
養子利正
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南部 利雄(なんぶ としかつ)は、江戸時代中期の大名陸奥国盛岡藩の第8代藩主官位従四位下大膳大夫

経歴

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享保9年(1724年)(享保10年(1725年)とも)、第6代藩主・南部利幹の長男として誕生。元文3年(1738年)10月21日、従兄で7代藩主・南部利視の養子になった。同年11月1日、第8代将軍徳川吉宗御目見する。元文4年12月16日(1740年)、従五位下・信濃守に叙任する。元文5年(1740年)11月19日、前田利章の娘と結婚する。

宝暦2年(1752年)5月25日、利視の死去により家督を継いだ。明和3年(1766年)12月16日、従四位下に昇進する。治世中は連年の凶作による大飢饉に見舞われ、宝暦6年(1756年)には餓死者や病死者が6万人余りに上った(宝暦の飢饉)。加えて数度にわたる幕府の手伝い普請により、藩財政は極度に疲弊した。

長男・利謹は幕政参与を画策して重臣と軋轢を生じたため、安永3年(1774年)に乱心を理由に廃嫡し、先代・利視の六男で旗本となっていた南部利正を養嗣子として家督を継がせた。ここに盛岡藩南部家は、5代信恩 → 6代利幹(信恩の弟)→ 7代利視(信恩の子)→ 8代利雄(利幹の子) → 利正(利視の子/信恩の孫)と、信恩系と利幹系から交互に藩主が両統迭立される事態となった。

安永8年(1779年)に死去した。

人物

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藩政を家老任せにして「そうしろ」というのみだったので、「惣四郎殿」と陰口されたという。

系譜

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家臣

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宝暦5年頃、利雄の代の家老側用人城使ほか主要家臣は下のとおり。

家老
  • 北民部
  • 東彦七郎
  • 奥瀬内記
  • 南美濃
  • 桂源五左衛門
用人
  • 吉田友右衛門(城使兼務)
  • 漆戸主膳
  • 河野兵左衛門
  • 織笠庄助
  • 吉田矢左衛門(城使兼務)
  • 三ケ尻弥兵衛
  • 山本郷助
  • 村松喜太夫
  • 米田四郎兵衛
  • 三上多兵衛
城使
  • 尾崎富右衛門

参考文献

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  • 藩主人名事典編纂委員会編集『三百藩藩主人名事典 第1巻』(新人物往来社、1986年)