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鶴澤探泉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鶴澤 探泉(つるさわ たんせん) 1755年宝暦5年[1]) - 1816年11月27日文化13年10月9日))は、日本の江戸時代後期に活躍した狩野派絵師鶴澤探索養子鶴澤派の4代目。名は守之。探泉は号で、若年時の通称は式部。

略伝

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鶴澤探索の息子か養子か不明だったが、「実家の妹」が亡くなり探泉のみが喪に服しているため[2]、探泉は養子または婿養子だと考えられる[3]1780年安永9年)おそらく同年の光格天皇即位に伴う屏風絵制作が朝廷からの最初の御用である。寛政度禁裏御所の障壁画制作に探索とともに参加し、小御所、常御殿の担当している。1792年寛政4年)法橋に叙され、同年祇園祭船鉾の下絵(黒漆地螺鈿「波に飛龍図」)を描く。1799年(寛政11年)には法眼に進む。寛政度の障壁画制作をきっかけに鶴澤家は京絵師たちの中で存在感を強めたらしく、それまで鶴澤家は掲載すらされていなかった『平安人物志』において、1813年(文化10年)版では探泉は3番目、息子探春は4番目に掲載されている。なお、鶴澤家の住所は油小路竹屋町南だが、これは天明の大火以前と以後で変わっていない。

1816年(文化13年)中宮御所の御用のさなか亡くなった。享年62。墓所は中京区善導寺。家は三男の一之允が早世したため、四男の鶴澤探春が継いだ(長男と次男は不明)。なお探春に家督を譲る前に探泉が亡くなったため、当主交代の準備を整えた10月22日に死亡届けを出している。弟子が多かった父を引き継ぎ、探泉も門人が多かったようだ。代表的な弟子として、田辺藩[要曖昧さ回避]御用絵師となった真砂幽泉や、山本探淵、佐々木探龍などがいる。

作品

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作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款 印章 備考
瀟湘八景図屏風 紙本墨画 六曲一双 160.2x364.0(各) 七宝庵コレクション 款記「法橋探泉筆」 「鶴澤」朱文方印
亀図 紙本墨画 1幅 128.2x56.7 個人 款記「法橋探泉筆」 「鶴澤」朱文方印[4]
出山釈迦図 紙本墨画淡彩 1幅 105.8x29.7 七宝庵コレクション 款記「法橋探泉謹画」 「守之」朱文方印
七々草之図 絹本著色 1幅 46.1x52.2 七宝庵コレクション 款記「法眼探泉筆」 「守之」白文方印
江之島図 絹本著色 1幅 38.8x55.7 七宝庵コレクション 款記「法眼探泉筆」 「守之」白文方印
龍唐獅子図 紙本墨画淡彩 衝立1基2面 147.5x174.0(各) 清水寺成就院 龍図に款記「法眼探泉筆」[5]
鶴亀図屏風 紙本著色 六曲一双 92.5x260.0(各) 泉涌寺 款記「法眼探泉筆」 孝明天皇遺愛品[6]
瀟湘八景図屏風 六曲一双 款記「法眼探泉筆」
白衣観音図 著色 冷泉家時雨亭文庫

脚注

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  1. ^ 寿老人図」(個人蔵)の款記「文化十三丙子年正月 法眼探泉行年六十二歳筆」から逆算(五十嵐(2017)p.3)。
  2. ^ 『禁裏御所御用日記』寛政二年(1790年)八月七日条。
  3. ^ 五十嵐(2017)p.4。
  4. ^ 名古屋城管理事務所編集 『開府四〇〇年記念名古屋城特別展 狩野派と名古屋城四〇〇年』 名古屋城特別展開催委員会、2010年3月30日、pp.51,115。
  5. ^ 京都文化博物館学芸第一課編集 『京都文化博物館開館10周年記念特別展 京(みやこ)の絵師は百花繚乱 「平安人物志」にみる江戸時代の京都画壇』 京都文化博物館、1998年10月2日、p.106。
  6. ^ 朝日新聞社文化企画局大阪企画部編集・発行 『皇室の御寺 泉涌寺展』 1990年、第65図。

参考文献

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  • 佐々木丞平編著 日本美術調査研究センター調査編集協力 『平成8年春季企画展図録 江戸期の京画壇 --鶴沢派を中心にして』 京都大学文学部博物館、1996年8月
  • 京都文化博物館学芸課編集 『近世京都の狩野派展』 京都文化博物館、2004年9月
  • 兵庫県立歴史博物館編集 『彩 ~鶴澤派から応挙まで~』 「彩」実行委員会、2010年4月
  • 五十嵐公一 「鶴澤探泉について ―生まれ年と家督相続―」『藝術文化研究』第21号、大阪芸術大学大学院芸術研究科、2017年2月13日、pp.1-14。