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鶴澤探索

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鶴澤 探索(つるさわ たんさく) 1729年享保14年) - 1797年8月5日寛政9年7月13日))は、日本の江戸時代中期に活躍した狩野派絵師鶴澤探鯨の息子で鶴澤派の3代目。名は守煕。探索は号で、若年時の通称は式部。

略伝

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宝暦6年12月21日(1757年2月9日)28歳で法橋、明和6年6月18日(1769年7月21日)41歳で法眼になる。その翌年「御月扇調進、尤常式御用」を仰せ付けられ、以降禁裏から「御扶持」を得た。これまで鶴澤家は禁裏のお抱え絵師ではあったが、臨時の御用を務めて画料を貰うだけだった。しかし、これからは月扇料として扶持を貰うようになり鶴澤家の家格は向上した。天明の大火に伴う寛政度禁裏御所造営に伴う障壁画制作では、御用願書を提出した絵師たちに不備や不相応がないか調べるため、絵所預で土佐家土佐光貞の補佐を命じられた。これにより、鶴澤家が土佐家に次ぐ家格と認められていたことが分かり、以後幕末までその家格を維持することになる。

跡は養子または婿養子鶴澤探泉が継いだ。弟子に、伊庭玉洲、井上幽意、上田柳文、大森捜雲、片山墨随、狩野蔵之進、狩野宗三、河合索玩、小畑洞月、佐々木泉景、武田索駿、土屋索進、堀索道、安良周篤、山田索隠、山田作洲、山川千溪、吉村周圭、など数多い。

作品

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作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
群鶴図 紙本墨画著色 襖8面・壁貼付4面・腰障子貼付4面 園城寺法明院 1765年(明和2年)頃 款記「鶴澤探索筆」 法明院障壁画は、探索と同じ鶴澤派に属する大森捜雲・勝山琢舟、兄弟弟子にあたる石田幽汀の弟子円山応挙池大雅らが制作。中でも探索は特に重要な一室を担当し、制作の中心的立場だったことが分かる。鶴澤派に属さない大雅が参加している理由は不明。制作年は、応挙筆「山水図」にある落款で、応挙が若年期に用いた号「仙嶺」から推測[1]
朱子画像 絹本著色 1幅 115.4x42.1 公益財団法人 斯文会 1790年(寛政2年)前後 款記「法眼探索寫」/「守照」朱文方印 新井白蛾讃だが本人筆かは疑問が残る[2]
宇治製茶図 紙本著色 六曲一双 大徳寺 款記「鶴澤法眼探索」/「守煕」朱文方印 右隻が久隅守景筆「加茂競馬・宇治茶摘図屏風」と酷似する。
曇華院本堂障壁画 紙本著色 曇華院 款記「法眼鶴澤探索画」
四季草花図屏風 紙本金地著色 八曲一双 51.3x382.2 香川・円明院(京都国立博物館寄託 款記「法眼探索筆」 /「鶴澤」白文方印
花鳥図 紙本金地著色 戸襖2面 正法寺 (八幡市) 款記「法眼探索筆」
山水図屏風 紙本金地墨画 六曲一双 いすみ市郷土資料館 いすみ市指定文化財
孔雀図屏風 紙本著色 六曲一双 177.5X365.0(各) 泉涌寺 後花園天皇遺愛品[3]
唐人物図屏風 随心院
故事人物図屏風 大徳寺
柳に馬図屏風 六曲一双 個人[4]
洛中洛外図屏風 六曲一双 個人

脚注

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  1. ^ 秋田達也 「法明院の障壁画を描いた絵師たち」(大阪市立美術館 サントリー美術館 福岡市博物館ほか編集 『智証大師帰朝1150年 特別展 国宝 三井寺展』 NHK大阪放送局 NHKプラネット近畿 毎日新聞社発行、2008年10月31日、pp.244-247)。
  2. ^ 伊藤たまき 「斯文会所蔵《朱子画像》について」『科学研究費 基礎研究B 「礼拝空間における儒教美術の総合的研究」報告書 史跡湯島聖堂斯文会所蔵絵画資料調査報告論文集』 筑波大学大学院日本美術史研究室(守屋研究室)、2011年3月31日、pp.11-22。
  3. ^ 朝日新聞社文化企画局大阪企画部編集・発行 『皇室の御寺 泉涌寺展』 1990年、第67図。
  4. ^ 祇園祭の華─屏風祭展』 京都市美術館、1975年。

参考文献

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  • 佐々木丞平編著 日本美術調査研究センター調査編集協力 『平成8年春季企画展図録 江戸期の京画壇 --鶴沢派を中心にして』 京都大学文学部博物館、1996年8月
  • 京都文化博物館学芸課編集 『近世京都の狩野派展』 京都文化博物館、2004年9月
  • 兵庫県立歴史博物館編集 『彩 ~鶴澤派から応挙まで~』 「彩」実行委員会、2010年4月
  • 九州国立博物館監修・文 『美のワンダーランド 十五人の京絵師』 青幻舎、2012年7月、ISBN 978-4-86152-360-1
  • 五十嵐公一 「鶴澤探泉について ―生まれ年と家督相続―」『藝術文化研究』第21号、大阪芸術大学大学院芸術研究科、2017年2月13日、pp.1-14