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褚湛之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

褚湛之(ちょ たんし、義熙7年(411年)- 大明4年5月25日[1]460年6月29日))は、南朝宋官僚は休玄。本貫河南郡陽翟県

経歴

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褚秀之(褚淡之褚裕之の兄)の子として生まれた。劉裕の七女の始安公主を妻に迎え、駙馬都尉・著作郎に任じられた。始安公主が死去すると、劉裕の五女の呉郡公主を後妻に迎えた。公主の夫たちは実務の才能のない者ばかりだったが、湛之は謹直で才幹を見せたため、文帝に知られるようになった。揚武将軍・南彭城沛二郡太守・太子中庶子・司徒左長史・侍中・左衛将軍・左民尚書・丹陽尹を歴任した。元嘉30年(453年)、劉劭が文帝を殺害して帝を称すると、湛之はその下で吏部尚書となり、輔国将軍・丹陽尹として出され、石頭の軍事を統轄した。

孝武帝が劉劭を討つべく起兵すると、劉劭は自ら新亭塁を攻撃した。湛之は劉劭の命を受けて水軍を率い進軍した。湛之は子の褚淵褚澄を連れて軽船で南に逃れ、孝武帝に投降した。6月、尚書右僕射に任じられた。孝建元年(454年)、中書令・丹陽尹となった。南郡王劉義宣の諸子たちが丹陽に逃れて匿われたため、罪に連座して建康県令の王興之と江寧県令の沈道源が獄に下り、湛之は免官されて禁錮を受けた。この年のうちに、散騎常侍・左衛将軍として復帰した。まもなく侍中に転じた。病のために職を退き、散騎常侍・光禄大夫の位を受け、金章紫綬を加えられた。ほどなくまた丹陽尹となった。大明2年(458年)2月、尚書左僕射に上った。都郷侯の爵位を受けた。

大明4年5月丙戌(460年6月29日)、死去した。享年は50。侍中・特進・驃騎将軍の位を追贈された。は敬侯といった。

子女

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脚注

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  1. ^ 『宋書』巻6, 孝武帝紀 大明四年五月丙戌条による。

伝記資料

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