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孝武帝 (南朝宋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
孝武帝 劉駿
第4代皇帝
王朝
在位期間 元嘉30年4月27日 - 大明8年5月23日
453年5月20日 - 464年7月12日
都城 建康
姓・諱 劉駿
休龍
道民(小字)
諡号 孝武皇帝
廟号 世祖
生年 元嘉7年8月16日
430年9月19日
没年 大明8年5月23日
464年7月12日
文帝
昭皇太后路氏
后妃 孝武文穆皇后王氏
陵墓 景寧陵
年号 孝建 : 454年 - 456年
大明 : 457年 - 464年

孝武帝(こうぶてい)は、南朝の第4代皇帝。駿休龍、小字は道民。

生涯

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元嘉7年(430年)8月、文帝劉義隆の三男として生まれた。元嘉13年(436年)9月、武陵王に封じられた。元嘉16年(439年)、都督湘州諸軍事・征虜将軍・湘州刺史となった。元嘉17年(440年)、使持節・都督南豫豫司雍并五州諸軍事・南豫州刺史に転じた。元嘉21年(444年)、撫軍将軍の号を受けた。元嘉22年(445年)、寧蛮校尉・雍州刺史に転じた。

元嘉25年(448年)、安北将軍・徐州刺史に任じられ、彭城に駐屯した。元嘉27年(450年)、汝陽の敗戦の罪に連座して鎮軍将軍に降格された。元嘉28年(451年)2月、北魏の侵入を許した罪で、北中郎将に降格された。3月、南兗州刺史となり、山陽に駐屯した。6月、南中郎将・江州刺史に転じた。

元嘉30年(453年)2月、長兄にあたる皇太子劉劭が文帝を殺害すると、劉駿は兄を討つべく江州で起兵した。4月、新亭に進軍して、皇帝に即位した。5月、建康を陥落させ、劉劭を殺害した。大明3年(459年)4月、異母弟の竟陵王劉誕が叛乱を起こすと、車騎大将軍の沈慶之に討伐させた。

在位中、中央集権を推し進め、側近に寒門を登用するなどの政策を行う一方で、数人の兄弟の一族を殺害した上に一般市民などを虐殺し、暴虐さとともに奢侈を好む一面もあった。また、実母の路恵男に甘いとの噂も立った。そのため、財源確保のために租税を厳しくするなど、南朝宋の衰退の端緒となった。

大明8年(464年)閏5月、玉燭殿で崩御した。

妻子

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  • 正室:王憲嫄(孝武文穆皇后)
    • 長女:山陰公主 劉楚玉 - 何戢に嫁いだ。
    • 三女:臨淮公主 劉楚珮 - 王瑩(王偃の子の王懋の子)に嫁いだ。
    • 長男:前廃帝 劉子業 - 第5代皇帝
    • 次男:豫章王 劉子尚(孝師)
    • 皇女:劉楚琇 - 早世
    • 皇女:康楽公主 劉修明 - 徐孝嗣徐湛之の子の徐聿之の子)に嫁いだ。
  • 側室:殷淑儀
    • 八男:始平孝敬王 劉子鸞(孝羽)
    • 十四男:斉敬王 劉子羽(孝英)
    • 十九男:晋陵孝王 劉子雲(孝挙)
    • 二十男:劉子文 - 早世
    • 二十二男:南海哀王 劉子師(孝友)
    • 十二女
  • 側室:陳淑媛
  • 側室:何淑儀
  • 側室:徐昭容
    • 五男:劉子深 - 早世
    • 九男:永嘉王 劉子仁(孝和)
    • 十八男:南平王 劉子産(孝仁)
  • 側室:謝昭容
    • 十一男:始安王 劉子真(孝貞)
    • 二十四男:劉子雍 - 早世
    • 二十七男:東平王 劉子嗣(孝叔)
  • 側室:史昭儀
  • 側室:史昭華
  • 側室:何婕妤
    • 十男:劉子鳳 - 早世
    • 二十五男:劉子趨
  • 側室:江婕妤
    • 十二男:劉子玄 - 早世
    • 十七男:劉子況 - 早世
    • 二十三男:淮陽思王 劉子霄(孝雲)
  • 側室:楊婕妤
    • 十六男:淮南王 劉子孟(孝光)
    • 二十一男:廬陵王 劉子輿(孝文)
  • 側室:阮容華
  • 側室:杜容華
    • 二十八男:劉子悦
  • 側室:江美人
    • 十五男:劉子衡 - 早世
    • 二十六男:劉子期
  • 生母不詳の子女
    • 皇女:安固公主- 王志に嫁いだ。
    • 皇女:臨汝公主- 江斅に嫁いだ。
    • 皇女:安吉公主- 蔡約(蔡撙の兄)に嫁いだ。

伝記資料

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  • 宋書』巻6 本紀第6 世祖孝武皇帝
  • 南史』巻2 宋本紀中第2 孝武皇帝
先代
文帝
劉劭
宋(劉宋)皇帝
第4代:453年 - 464年
次代
前廃帝