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厙狄迴洛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

厙狄 迴洛[1](しゃてき かいらく、506年 - 562年)は、中国北魏末から北斉にかけての軍人本貫代郡[2][3][4]

経歴

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はじめ爾朱栄に仕えて統軍となった。永安元年(528年)、孝荘帝の擁立に協力し、別将となり、毋極県伯の爵位を受けた。葛栄を討ち、都督に転じた。永安3年(530年)、爾朱栄が殺害されると、迴洛は爾朱兆に属した。普泰元年(531年)、高歓が信都で起兵すると、迴洛は部衆を率いて高歓に帰順した。中興2年(532年)、爾朱氏を韓陵で討ち、軍功により都督となり、後将軍・太中大夫の位を加えられ、順陽県子に封じられた。右廂都督に転じた。山胡を討って、先鋒をつとめ、朔州刺史に任じられた。元象元年(538年)、宇文泰を河陽で破り、夏州刺史に転じた。武定元年(543年)、邙山の戦いでは奮戦して功績を挙げた。武定6年(548年)、高澄の下で潁川を平定した。北斉の天保元年(550年)、迴洛は建州刺史に任じられた。皇建元年(560年)、順陽郡王に封じられた。大寧元年(561年)、朔州刺史に転出し、博陵郡を食邑とした[5][4]562年(大寧2年)、太尉公・太子太師となった。3月、で死去した。享年は57[6]。使持節・都督定瀛済恒朔雲六州諸軍事・定州刺史の位を追贈された[7][4]

厙狄迴洛墓の発見

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1973年山西省寿陽県にて厙狄迴洛の陵墓が発掘され、貴重な文物・壁画などが発見されている。

妻子

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  • 斛律昭男(513年 - 545年、斛律可知陵の娘)[8]
  • 尉嬢嬢(尉天生の娘)[9]

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  • 厙狄光先[8]
  • 厙狄天智[8]

脚注

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  1. ^ 『北斉書』および『北史』厙狄迴洛伝による。墓誌は「諱洛、字迴洛」とする。
  2. ^ 『北斉書』および『北史』厙狄迴洛伝による。墓誌は朔州部落人とする。
  3. ^ 北斉書 1972, p. 254.
  4. ^ a b c 北史 1974, p. 1908.
  5. ^ 北斉書 1972, pp. 254–255.
  6. ^ 趙 2008, p. 415.
  7. ^ 北斉書 1972, p. 255.
  8. ^ a b c 趙 2008, p. 414.
  9. ^ 趙 2008, p. 407.

伝記資料

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  • 北斉書』巻19 列伝第11
  • 北史』巻53 列伝第41
  • 斉故定州刺史太尉公厙狄順陽王墓誌銘(厙狄迴洛墓誌)
  • 斉故厙狄氏武始郡君斛律夫人墓誌銘(厙狄迴洛妻斛律昭男墓誌)
  • 斉故郡君尉氏墓誌銘(厙狄迴洛妾尉嬢嬢墓誌)

参考文献

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  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 
  • 趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』天津古籍出版社、2008年。ISBN 978-7-80696-503-0