塩崎定夫
塩崎 定夫 | |
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生誕 |
1925年9月16日(99歳) 日本 静岡県掛川[1][注釈 1] |
国籍 | 日本 |
教育 | 浜松高等工業学校卒業 |
業績 | |
勤務先 | 本田技研工業 |
プロジェクト | 本田技研工業鈴鹿製作所の建設、鈴鹿サーキットの建設 |
概要
塩崎はホンダ草創期の1951年に入社し、入社間もない頃から生産管理の分野で頭角を現した(→#本田への直訴)。1958年から1960年にかけて同社の鈴鹿製作所の建設計画において、責任者の白井孝夫の下で建設の管理監督者として関与し(→#鈴鹿製作所の建設)、次いで1960年から1962年にかけて、日本初の全面舗装の常設サーキットである鈴鹿サーキットの建設計画において、建設実施の責任者を務めた(→鈴鹿サーキットの建設)。
鈴鹿サーキットの開業後はその運営会社として設立されたテクニランド(後のホンダモビリティランド)に転属となり、ホンダの子会社である同社で役員を務めた(→#テクニランド - ホンダランド)。
本田宗一郎、藤沢武夫との関係
当時のホンダで誰からも恐れられていた副社長で金庫番の藤沢武夫に対して[注釈 2]、塩崎は藤沢から怒鳴られてもズケズケとものを言え、委縮しないでいられる人物だと見られていた[3][注釈 3]。塩崎自身に余計な一言を言う悪癖もあったことから、藤沢とはたびたび衝突した[4][注釈 4]。
塩崎が重要な役割を任された鈴鹿製作所や鈴鹿サーキットの建設計画については、社長の本田宗一郎とナンバー2である藤沢に考えの隔たりが大きかった。しかし当人たちは互いに意見をぶつけ合ったりはせず、塩崎にそれぞれの要求を命じたため、塩崎はたびたび両者の間で板挟みとなった。その中で、塩崎は藤沢からは「本田派」と見られ、塩崎も自身を「本田派」と自認しており[6]、実際、どの計画でも藤沢ではなく本田の要望を実現させることを優先している(「#経歴」を参照)。
経歴
1925年(大正14年)、静岡県掛川の医者の家に生まれる[1]。
塩崎は医学の道には進まず、静岡県立浜松第一中学校(後の静岡県立浜松北高等学校)を経て、浜松工業専門学校(通称「浜松工専」。後の静岡大学工学部の母体)へと進み、1947年(昭和22年)3月に卒業した[4]。この浜松工専では、後にホンダの第2代社長となる河島喜好と同級だった[4]。
卒業後、塩崎は三菱化工機に入社し、港湾用の起重機(クレーン)の設計を行った[4]。
ホンダ入社 (1951年)
三菱化工機で3年間務めた後、1951年(昭和26年)2月1日に本田技研工業(ホンダ)に入社した[4]。当時のホンダは従業員16人の小さな会社で、塩崎は同社の野口工場(静岡県浜松市野口町)に配属された[4][注釈 5]。
本田への直訴 (1951年末)
野口工場はホンダのエンジン組立て工場だが、当時のホンダは1948年(昭和23年)の創業からまだ間もない時期で、工場運営は未熟で、従業員に規律はなく、生産管理もあいまいで、加えて、社長の本田宗一郎の思い付きで設計変更が図面もなしに命じられているような有様だった[7][注釈 6]。これに呆れた塩崎は入社した同年の暮れに本田宛に直訴状をしたためた。
社長は、常々能率、能率、とか世界一などと身の程知らずのことを仰言 っていますが、私としましては、もう少し組織化して、担当を決めたり、いろんなルールを作らないとダメだと思います。部品はそろっているのに線がつながっていないようなものです。社長がいくらどなったって、“ピー”とも“ガー”とも鳴りません。
部品の注文でも、現場ではだれが、何を、どこへ頼んであるかさえ、わからない状態です。下請け工場にしても何軒もあって、どこから、いつ、どんなものがはいってくるのかさえもわからない。そのようなことでなにが世界一でしょうか。現実を見つめ直すことから始めなくてはいけないのではないでしょうか[4] — 塩崎が本田に宛てた直訴状
塩崎としては半ばやけくそで書いた手紙だったが、この手紙を読んだ本田から「話を聞きたい」と年明け早々に本社に呼び出され、そこで塩崎は本田に三菱時代に教わった組織論を説いた[9]。塩崎は浜松の本社、東京の営業所、浜松と東京の各工場が有機的に結ばれていなければならないと説き、各工場では、しっかりとした工場長を置き、その下に「資材」、「検査」といった部門を置き、それぞれ担当者を育成する必要があるといったことを述べた[9]。
塩崎は辞めるつもりで腹を括ってそうした話をしたが、一通りの話を聞いた本田は塩崎に好きにやって見せるよう述べて[10]、野口工場では塩崎の案が採用され[11]、ほどなく、塩崎は新設の白子工場の立ち上げを任されることになった[12]。
白子工場の設立 (1952年)
「 | こういう組織図をやると肩書きだけ欲しがるバカどもが必ず出るんだな。そして偉そうにふんぞりかえるバカが増える。(こういった組織図は)必要ない。[12] | 」 |
—塩崎の案についての藤沢武夫の意見 |
1952年(昭和27年)2月、ホンダは埼玉県北足立郡大和町白子に工場(「白子工場」)を新設し、同年3月、塩崎はその設立担当者として浜松から転勤した[12][注釈 7]。設立間もない白子工場も野口工場と同じような有様で、塩崎は職務分掌表、工場内の生産工程、生産管理の組織図といったものを作るべきと考え、ホンダ専務の藤沢武夫に試案を見せて直談判をした[12]。
藤沢は塩崎が本田に組織論の説明をした時にその場に同席しており[10]、本田が塩崎の案に(その場では)異を唱えなかったことも知っていた。しかし、藤沢は塩崎が白子工場について出した同様の案を酷評し、白子工場では問題はありつつも製品の製造そのものは行われており、塩崎の案を採用することは組織の官僚化を招くことになり、組織にとってメリットよりもデメリットのほうが大きいと持論を述べて、(本田と異なり)塩崎案に断固として拒否の姿勢を示した[11][注釈 8]。
入社2年目の塩崎にとってはこれが藤沢との最初の意見衝突となり、その後も藤沢とは意見の衝突を繰り返すこととなる[11]。
藤沢に逆らったことで、塩崎は白子工場の生産課長から降格となり工場の閑職に回された[14]。しかし、その間に安全管理を勉強して安全係長となり、在任中に工場内で発生した感電事故に際して労働基準局との交渉をうまくさばいたことが評価され、1954年には再び同工場の課長に返り咲いたという[14]。
鈴鹿製作所の建設 (1959年)
1958年(昭和33年)8月、ホンダはスーパーカブを発売した。同車は発売早々から好調な販売を記録し、発売前から藤沢が目標として掲げていた「月産3万台」は実際に必要な台数としての現実味を帯びる。月産3万台というのは発売前年に日本国内の全メーカーが生産したオートバイの台数を合計した数(年間およそ41万台)に迫るものであり、この時点で埼玉製作所[注釈 9]の生産管理を担当していた塩崎はその途方もない目標に呆然としたという[15]。スーパーカブの発売2ヶ月後に藤沢は新工場の建設を決断し、約60億円の予算を組んだ[16]。これは年間の総売り上げが約42億円だった当時のホンダにとっては社運を賭けた投資となる[16][W 4]。
塩崎は新工場建設計画の一員となり、適地を探すため、館林(群馬県)、宇都宮(栃木県)、犬山(愛知県)、長野(長野県)といった各地を訪れた[16]。この訪問は、社長の本田、役員の高橋健介、大和工場・生産技術課長の白井孝夫[注釈 10]、塩崎の4名で行われた[W 5]。
そうした候補地も検討した末、1959年(昭和34年)にホンダは三重県鈴鹿市との交渉を始め[16]、同年10月までに同市に工場建設のための土地21万坪を確保した[19][W 6][注釈 11]。鈴鹿建設計画室は同年7月に発足し[W 4]、建設責任者に任命された白井の下[W 5]、塩崎は「所長付き」の肩書を与えられ、新工場建設の監督管理を担当することになる[20]。
1959年9月に着工し、その直後の9月26日に三重県が伊勢湾台風により被災するという災難もあったが、その影響による工期の遅れが小さなものとなったのは塩崎の貢献も大きかったとされる[W 4]。
この工事において、社長の本田は「好きなだけ金をかけろ」と塩崎に言って、本田の考えた建設案を実行するよう命じ[21]、金庫番の藤沢は過剰投資となることを懸念して「できるだけ金はかけるな」と塩崎に命じ[22]、塩崎はまたしても両者の相反する意見の間で板挟みとなる[23]。
結局、塩崎は本田のものづくりの姿勢に共感を覚えていたことから、本田の意向に沿い、当時はほとんど走っていなかった四輪自動車用の駐車場を広く確保し[注釈 12]、鈴鹿川から取水した工場用水の使用後の汚水処理といった周辺環境に配慮した設備にも費用を惜しまず投じた[注釈 13]。そうして各所に余裕を持たせた形で建設を進めたことから、建設費は当初の計画を大幅に超過したものとなった[24]。スーパーカブがヒットしたとはいっても当時のホンダには資金の余裕はなく[24]、命令を無視された藤沢は当然不服だったが、本田の顔を立て、この時は塩崎のことは咎めることはしなかった[26][注釈 14]。
鈴鹿製作所の完成後、スーパーカブは同製作所だけで月に6万台を生産する大ヒット商品となり、本田の先見に従って余裕を持たせた工場とした塩崎の判断は結果として当たることになった[26]。
鈴鹿サーキットの建設 (1960年 - 1962年)
1960年(昭和35年)4月に鈴鹿製作所が操業を始め、塩崎は当時のホンダとしては最大の工場である同所の生産管理担当となった[2]。この当時、工場用地として確保した21万坪の敷地にはまだ余裕があり、鈴鹿製作所内で、この広大な土地を有効活用しようという話が操業開始からほどなくして持ち上がる[27]。
その構想は、所長の白井孝夫以下、鈴鹿製作所の各部署を代表して集った委員たちによって協議され、野球場や運動場など、従業員たちの福利厚生に資するレクリエーション施設を建設しようという方向で話が進められていた[27]。社有地を遊休地としないための活用方法としてはよくある穏当な計画であり、ひとまずの結論が出たことで、委員の一人であった塩崎は白井に従い、計画の承認を得るため、本田に報告を行った[27][17]。この計画を聞いた本田はそうした何かを建設するならば自動車レース用のレーシングサーキットを建設するよう強く主張し、この鶴の一声により、この計画はサーキットを建設するというものに変わった[27][注釈 15]。
駆けっこだの綱引きだのはバカでもできる。オレが欲しいのはそんなもんじゃない! レース場だ。レース場を作れ! レースをしなきゃクルマはいつになっても良くならん! たくさんのお客が見ている前でレースをやってしのぎを削る。それを徹底的にやらなきゃクルマは良いものができない。自前のレース場で他の奴らに負けてみろ。カッコ悪いだろう。そうすりゃ技術者は必死になって他社に負けないクルマをつくる。そこまでやらなきゃダメなんだ。いいクルマは作れない! レース場だ![27] — 塩崎らが提出した計画を一喝した本田の主張
そうして、1960年(昭和35年)半ばには藤沢を長としてホンダ社内に「モータースポーツランド設立委員会」が発足し[28][W 7][注釈 16]、その一員となった塩崎は実務の一端を担うことになる。
建設地の決定
本田の要望を受け、委員会はサーキット建設予定地を新たに探し、まず水戸市(茨城県)の射爆場跡地が検討され、次いで浜松の三方原、浜名湖北部の佐鳴湖周辺、長野県・群馬県の浅間山周辺、三重県の亀山、滋賀県の土山町なども候補として検討を行った[31][2][32][W 7][W 8]。いずれもサーキットを建設するには何らかの難点があったため土地探しが難航していたところ、鈴鹿市に建設するという案が新たに浮上し[W 8][注釈 17]、候補地は鈴鹿、亀山、土山の3ヶ所に絞られた末、1960年(昭和35年)8月に鈴鹿に決定した[2][W 7]。
委員会は鈴鹿市との協議を始め、当初、河島喜好(後のホンダ2代目社長)を中心とするスタッフは鈴鹿市が有していた詳細な航空測量図から平地を選択し、本田に試案を説明した[33][34]。これは水田をつぶす計画であったことから本田の怒りを買い、結果、サーキットの建設予定地は水田地帯になるべくかからないよう設定されることになる[33][34][W 8][注釈 18]。
レクリエーション施設を作ろうとした当初の時点では鈴鹿製作所のために取得した土地を使用するという計画だったが、サーキット建設のためには足りないため、ホンダは新たに鈴鹿市の丘陵地で買収を進め[34]、50万坪の土地を取得することになる[2][W 8]。結果として、当初案の要素も幾分残され、鈴鹿サーキットはサーキット以外に遊園地や運動施設(ボウリング場は1971年開業)を併設し、従業員の福利厚生施設としての側面も併せ持つという、世界的にも類例のない特殊なコンセプトのサーキットとなった[2]。
建設地の選定については、塩崎がどの程度の関与をしたのかは不明である[注釈 19]。
藤沢武夫との衝突
藤沢からサーキットの図面を作るよう命じられた塩崎は、ホンダの海外支社を介してヨーロッパと米国からレーシングコースやレジャー施設(遊園地)の資料を取り寄せ、社内で翻訳させ、それらを読み込んでいった[36]。遊園地を併設するという計画は藤沢の発案とされ、サーキットの経営を安定させる目的と、子供たちがモータースポーツに触れる機会を作る目的があったためと考えられている[37][W 9][注釈 20]。
そして、ここでも塩崎と藤沢との間で悶着が発生した。米国アナハイムのディズニーランド(1955年開園)や首都圏で進められていたディズニーのテーマパークの建設計画[注釈 21]について学ぶことを通じて、レジャーランド運営の最新事情について知見を得た塩崎は、レジャー施設を運営する際は施設の陳腐化に伴う来場客の飽きを防ぐために、将来的な拡張の余地を残す必要があり、土地は多めに確保しておく必要があると藤沢に進言した[40]。門外漢の藤沢には不可解な説明となり、鈴鹿製作所建設時の予算超過も腹に据えかねていた藤沢は予算をむやみに浪費するがごとき計画と考えて納得せず、塩崎の指図がましく意見する態度にも腹を立て[注釈 22]、塩崎をサーキット建設計画から解任するよう部下に命じたという[41]。
しかし、この命令はホンダの幹部たちを困惑させた。この時点で塩崎はサーキット建設計画に不可欠な存在となっており、もしも計画から外せば完成が遅れることは避けられず、そうなればサーキット完成を待望している本田が烈火のごとく怒ることは必至で、首謀者を追求した末、本田と藤沢の対立に発展することすら懸念された[42]。そうした想定から、塩崎にとっては幸運なことに、藤沢に命令された幹部たちは塩崎の処遇には手を付けず、ほとぼりが冷めて藤沢の怒りが収まるのを待つことを決め込んだ[43]。
サーキット建設は計画当初は1億円が費用として見込まれていたが[43]、塩崎が建設計画を作成した時点でそれは4億円から5億円の見積もりとなっていた[2]。本田が「あらかじめ予算を決めてコトに当たるな」と後押ししたこともあって[2]、塩崎は1日でも早く完成させるべく資金を費やし、1962年(昭和37年)にサーキットが完成するまでにその建設には15億円もの巨費が投じられたとされる[注釈 23]。本田はサーキットの完成に大いに満足し、予算超過について塩崎が社内で責任を問われることはなかった[2][注釈 24]。
ヨーロッパ視察旅行とフーゲンホルツ招聘
1960年(昭和35年)8月、塩崎が作成していたサーキットの原案がひとまず完成する[48]。これは素人仕事だったが[49]、本格的なレーシングサーキットを建設するにあたって、当時のホンダにも日本にもサーキット設計の専門家などおらず、仕方のないことだった。そうした背景から、コース設計の確証を得るため、ホンダはヨーロッパに視察団を派遣することを決めた[48]。
1960年(昭和35年)12月、塩崎は、ホンダのロードレース世界選手権チームのチームマネージャーである飯田佳孝、小川雄一郎の2名とともに、ヨーロッパのサーキット視察の旅に出た[50][W 7][W 10][W 11][W 12]。
この視察旅行で一行はヨーロッパの主だったサーキットを訪れ、サーキットのレイアウトのほか、日本の一般道で目にするものとは異なるヨーロッパのサーキットのアスファルト舗装や、日本には未だ存在しないサーキットの付帯設備(ピット施設など)といったものの様子を視察して回った[50]。この際、オランダではザントフォールト・サーキットの支配人で、飯田とはすでに面識のあるジョン・フーゲンホルツと会い[50]、サーキットの設計を依頼し、承諾を得る[注釈 25]。
1961年(昭和36年)1月、フーゲンホルツの加入によりサーキットの設計が本格的に始まり、計画の中で設計グループの責任者を任されていた塩崎は、フーゲンホルツ、飯田を交えて計画を進める[50]。この際、サーキット設計の中心となったのは専門家であるフーゲンホルツで、フーゲンホルツは素人である他の者たちの意見も取り入れつつ設計を進めた[49]。
塩崎が作成した原案は二輪用として設計されており、コースレイアウトも立体交差を3つ持つという特異なものだった[W 13][注釈 26]。フーゲンホルツは原案を尊重して検討を行いつつ、四輪のレースも開催できるようにしたほうがよいと提案し[35]、当時の四輪のグランプリ(フォーミュラ1)の開催基準を満たす国際サーキットとして詳細設計を行った[35][注釈 27]。この際にフーゲンホルツは当初案で存在した立体交差の内の1つだけを残した上で、左周りと右回りのコーナーの均等化を図り、「8の字レイアウト」というサーキットの基本コンセプトを明確に定め[29][W 13][W 15][注釈 28]、サーキット序盤のS字区間をはじめとする特徴的な区間の設計を行った[W 13][注釈 29]。
フーゲンホルツはザントフォールト・サーキットの支配人であると同時に、サーキットの運営ノウハウを共有するための組織であるサーキット連盟(AICP)の創設者でもあり、当時のヨーロッパにおいてもサーキット運営における第一人者である。そのため、塩崎は、フーゲンホルツからサーキット付帯設備やマーシャルポストの配置、観客の動線の設計など、サーキット完成後の運営において必要となるノウハウも提供を受け、これらは建設工事においても活かされることとなる[注釈 31]。
サーキット建設責任者
1961年(昭和36年)6月に鈴鹿サーキットの建設工事が始まり[50][注釈 32]、塩崎はこの工事を管理監督するサーキット建設責任者を務めた[44]。
工事は急ピッチで進められ、着工からわずか1年3ヶ月後の1962年9月にサーキットは完成した[50]。日本初の全面舗装のサーキット建設であったことから、路面の整地と舗装を担当した日本鋪道(後のNIPPO)にとっても手探りの建設工事となったが、急ピッチの工事が可能となったのは塩崎が現場で判断して擦り合わせが迅速に進められたことが原動力となったとされる[53]。ピット建屋や駐車場などのサーキット付帯設備の建設は竹中工務店に依頼し、それらは着工から完成まで8ヶ月という突貫工事で完成した[54]。
サーキットの建設において、本田は細かいことには口出しをしなかったが、建設工事と完成後のサーキット全般について、周辺住民の迷惑にならないよう心掛けることを望むとともに、特にコースの安全性、とりわけ観客の安全に配慮したものとすることを強く命じ[50]、塩崎はそれに従って建設を進めた[注釈 33]。
テクニランド - ホンダランド (1963年 - 1985年)
「 | オマエをサーキットの社長には絶対させないからな。危なくてしょうがないからな[55] | 」 |
—塩崎の専務就任時の藤沢武夫の宣告[注釈 34] |
1961年(昭和36年)、ホンダは傘下のレジャー施設を運営する子会社としてモータースポーツランド社を設立した。この会社は、翌年に「テクニランド」に改称し、後に「ホンダランド」などへの改称を経て、2022年現在はホンダモビリティランドとなっている。ホンダから同社に移籍した塩崎は、1963年(昭和38年)にテクニランドの専務取締役に就任し[55][2]、鈴鹿サーキットの支配人となった[45][注釈 35]。
同じ1963年の5月に開催された第1回日本グランプリ(四輪)では、テクニランドの代表者として挨拶を行っている[2][注釈 36]。
その後
1985年(昭和60年)にホンダランドを退職した後[2]、塩崎は1950年代のホンダ草創期を知る貴重な生き証人として、しばしば取材に応じており、主に1990年代から2000年代にかけて刊行されたホンダや本田宗一郎関連の書籍で証言を残している。
鈴鹿サーキットの「設計者」と主張 (2012年)
「 | フーゲンホルツさんの意見は実際にはほとんど入っていません。修正する時も直したのは私ですから。[2] | 」 |
—塩崎定男(2012年) |
「 | 彼はこれまでそんな主張(設計者であるという主張)をしてこなかったのに、なぜ今になって急に主張するのでしょう?(中略)塩崎氏はサーキット施工などのマネージャーにすぎません。彼の描いたというコース図案は実際のサーキットではまったく役に立たないとして、すぐに捨てられたのです。[51] | 」 |
—ジョン・フーゲンホルツJr.(2012年) |
2012年(平成24年)、鈴鹿サーキットの開業50周年となるこの年、塩崎はモータースポーツ誌や新聞紙上で、鈴鹿サーキットの「設計者」は(フーゲンホルツではなく)自分であるという主張を行った[2][32]。
鈴鹿サーキットの設計者がフーゲンホルツであるということは国際的には異論が出ておらず[注釈 37]、日本国内でもサーキット開業初期から鈴鹿サーキットの設計者は一般的にフーゲンホルツと認知されており[46]、サーキットの完成から50年後に塩崎が行ったこの主張は唐突なものとして受け止められた[51]。
建設と運営の主体であるホンダやテクニランド(ホンダモビリティランド)、あるいはホンダの歴代社長をはじめとする関係者たちも、フーゲンホルツを設計者と述べている事例は数多くある。
一方で、日本国内の出版物では、塩崎を鈴鹿サーキットの実質的な設計者、フーゲンホルツを「アドバイザー」としている例[59][注釈 38]、設計はテクニランドで「海外の専門家の意見も聞いた」としている例[61]、すなわちフーゲンホルツを必ずしも「設計者」とはみなさず、「アドバイザー」とする解釈も1960年代から存在し、こうした記述は2020年代の今日でも見られる。
塩崎を設計者として扱っているものとしては、塩崎のインタビューの中で「事実上、フーゲンホルツは「名前貸し」「権威付け」のために担ぎ出された立場だったようだ。」とし、塩崎を設計者として記述している例があるほか[2]、1960年代に日本オートクラブ(NAC)やデル・レーシング(日野自動車のレース部門)を担っていた塩澤進午は、「このレースコースのデザインは、原案も、最終デザインも、塩崎定夫鈴鹿サーキット支配人によるものであったとレース界では信じられている」と述べている[62]。
自身が鈴鹿サーキットの設計者であるという塩崎の主張を2012年に掲載した当事者である『Racing On』誌は、その後、フーゲンホルツの遺族から内容が事実と異なるとして抗議を受けた際、自らの記事を擁護することをせず、中立の姿勢を採っている[51][注釈 39]。
証言の信頼性
前記したように、塩崎は引退後にホンダ関連の証言を残しているが、それらの証言の中には信頼性に疑義が呈されているものもある。
- 鈴鹿サーキットの舗装技術が高速道路に転用された
- 塩崎はヨーロッパのサーキットの路面を靴べらで削って持ってきたものを試料として日本鋪道に渡し、舗装にあたってそれが参考にされたと述べ、そしてそれが日本の高速道路建設にも役立てられたと述べている[2][注釈 40]。実際にはジョン・フーゲンホルツが来日するにあたってヨーロッパのサーキットの路面をくりぬいたサンプルコーンを携え、それらを試供体としてホンダに渡しており、塩崎は自身の証言でそのことを伏せている。舗装を担当した日本鋪道の担当者は、(塩崎が述べている)鈴鹿サーキットの舗装が後の日本の道路に活かされたという話について2000年代に問われて「公共の道路建設では、構造の基準や法令に基づいて竣工するので、(サーキットのような)民間工事とは違います。だから、どれほどの役に立っているか解りませんが…」と困惑した発言を残している[63]。
- 塩崎が言うように名神高速道路の開通(1963年)は鈴鹿サーキットの完成(1962年)より後で、それは事実だが、日本鋪道は1960年8月から1961年1月にかけての山科試験工事(山科舗装工事)の時点で名神高速道路と東名高速道路の初期の路面舗装について確立している[W 20]。これは塩崎らのヨーロッパ視察旅行やフーゲンホルツの招聘(1960年12月 - 1961年1月)よりも前の時期にあたり、塩崎の主張は時系列においても矛盾を含む[注釈 41]。
脚注
注釈
- ^ 現在の掛川市にあたるが[2]、原典には「掛川」と記載されているのみで[1]、1925年当時の「掛川町」のことなのか、1999年時点の「掛川市」の市域のどこかという意味なのか、定かでない。
- ^ 藤沢がホンダの副社長に就任したのは1964年で、それ以前の肩書は専務だが、社内で誰もが認めるナンバー2だった。
- ^ ホンダ重役の川島喜八郎の見立て。
- ^ 本田よりも藤沢のほうが怖いということは当時のホンダ関係者は口を揃えて証言しており[5]、塩崎のように退職させられることもなく藤沢と対立し続けた従業員の例は珍しい。
- ^ 野口工場はホンダの創業最初期に存在した工場で、1948年(昭和23年)に設立され[W 1]、1954年(昭和29年)に廃止されている[W 2]。
- ^ 設計変更が伝わっていないにもかかわらず、変更が反映されていないことに怒った本田に組立て工が殴られ、その理不尽さに腹を立てる工員や辞めていく工員もいた[8]。
- ^ 白子工場の建屋は飛行機部品を作っていた古い工場をホンダが買い取ったもので[13]、新築されたものではない。
- ^ この時点のホンダが小さな組織だった点に留意を要する。
- ^ ホンダは白子工場(埼玉第1工場)を設立した後、1953年に同じ大和町(後の和光市)に大和工場(埼玉第2工場。後の「和光工場」)を設立し、両工場は施設としては異なるが組織としては合同し「埼玉製作所」となっている[W 3]。
- ^ 後の鈴鹿製作所の建設責任者で、同所の初代所長に就任する[17]。さらに後年、本田と藤沢がホンダの経営の一線を退いた際(1970年4月。正式な退任は1973年10月)に敷かれた専務トロイカ体制(河島喜好、川島喜八郎、西田通弘、白井)の専務の一人としても知られる[18]。
- ^ かつて存在した鈴鹿海軍工廠の跡地。
- ^ この案を出したのは本田で、本田は欧米のようにいずれ従業員たちは車で通勤するようになるから広い駐車場や四輪自動車用に整備された周辺道路が絶対に必要だと塩崎に建設を命じ[21]、他方、藤沢は広大な駐車場や四輪自動車用の道路などは必要ないから費用をかけるなと塩崎に命じた[22]。塩崎個人は藤沢と同様の想定を持っており、四輪自動車がそこまで増えるとは考えていなかったものの[22]、社長である本田の意向に沿うのが筋であろうと考え、本田の案に従って建設を進めた[24]。
- ^ 汚水処理の徹底は本田が厳命したもので[23]、鈴鹿市から工場用の取水設備を市の負担で建設するという申し出も受けていたのだが、周辺環境に配慮したいという本田の意向で辞退している[25]。
- ^ 塩崎が投資額をオーバーさせたのは上司を通さない越権行為だったため、直属の上司には叱責されたという[26]。
- ^ 本田は、戦前、常設サーキットを持たず各地を転々とし、いずれの開催地でも路面状況の劣悪さに悩まされ続けた日本自動車競走大会の参加者の一人だったことに留意を要する(当時の参加者たちは常設サーキットの建設を悲願としており、それが1936年の多摩川スピードウェイ開設につながった)。
- ^ 発足時期は「春」という説[W 7]と「秋」という説[28]がある。1960年当時はカミナリ族が社会問題となり、それに伴って二輪メーカーへの風当たりが強くなりつつあった時期であり、企業が果たすべき社会的責任(製品を売るだけでなく走る場所も提供する)という観点から、藤沢もサーキット建設に強く賛成し[29][30]、計画の陣頭指揮を積極的に執った[29]。
- ^ 鈴鹿市は元々はサーキット建設地の候補として考えられていなかったのだが、鈴鹿製作所の建設のために市内の航空写真や測量図が揃っていたことが好都合となり、ホンダが未取得の土地であっても、全長6㎞のサーキットを「ここなら入る」と地図に描き込んだ試案が(好き勝手に)様々に作られ、市長の杉本龍造までそれに加わり地図にアイデアを描き出すに至って鈴鹿が構想の中心となっていったと言われている[31]。
- ^ 完全に水田地帯を避けることはできず、予定地には小規模な水田がいくつか含まれ、どうしても立ち退いてもらう必要がある場合は代替地を用意して補償を行う方針が採られた[35]。
- ^ 本人も第三者も特に証言を残していない。
- ^ 藤沢は自著で鈴鹿サーキットを修学旅行コースに組み込んでもらうための努力をホンダとして行ったことや、サーキット内に交通教育センターを設置した意義などについて記している[38]。
- ^ 東京ディズニーランドが実際に完成するのは1980年代になってからで、20年以上後のことだが、計画としては1950年代から存在し、塩崎はその進捗についての情報を逐一得ていた[39](浦安市における建設計画が動き出したのが1960年代初めの同時期)。
- ^ 塩崎が口を滑らせ、この計画を理解できないのは藤沢が不勉強なためであるとあげつらった[41]。
- ^ 鈴鹿サーキットの建設にかかった費用は諸説あり、15億円(2012年の貨幣価値でおよそ100億円から150億円に相当)という説[44][45][2]以外に、20億円から30億円(施設拡充費を含む総建設費)という説[46]、25億円という説[43]もある。鈴鹿製作所の建設にかかった費用は従業員の社宅や寮なども含めて45億円から50億円と言われており[44][W 5]、鈴鹿サーキットの建設費はそれにはおよばないものの、採算が合うのかわからない施設ということを考えると多額だった[44]。
- ^ 鈴鹿サーキットの建設予算が予定を大きく超過したことについて、藤沢の反応には2つの説があり、藤沢の怒りに油を注ぐ結末となったという説[43]と、藤沢も本田と同様にそれほど気にしなかったという説[44]がある。当時、藤沢と本田はホンダの施設建設の融資を受けるために自宅も抵当に入れており、藤沢は塩崎に「他人の金だと思って好き勝手しやがって」と叱責を与えることはあったという[47]。
- ^ 塩崎はフーゲンホルツを現地で偶然に紹介され知り合ったかのような話をしているが[2]、飯田はフーゲンホルツとは以前から知り合いだったと述べており[50]、フーゲンホルツの子息も飯田とは以前からの知人で[51]、この視察旅行もフーゲンホルツがアレンジしたものだと述べており[51]、当事者の間で塩崎のみ異なる内容の証言を残している。明らかな事実として、1960年当時、世界選手権を戦っていたホンダ二輪チームはアムステルダムにヨーロッパにおける拠点を置き、近郊に所在するザントフォールトをテストコースとしており[52]、塩崎の証言は事実と照らしても矛盾がある。
- ^ この案はサーキットの建設委員会が要望した「レースの見せ場をグランドスタンド周辺に集中させる」という方針に基づいている[W 7]。
- ^ 来日したフーゲンホルツは日本の工業力が飛躍的な成長をすると見てとり、遠くない将来の出来事を見越し、四輪のグランプリレースを開催可能なように最低でも9メートルのコース幅を確保するようにして設計を行い、安全性を確保するためコース両側も15メートル以上の空間を設けることを基本に設計を行った[35]。フーゲンホルツはFIAのサーキット設計基準を最初に策定した人物で、そうした基準については専門家だったことから、この基準を取り入れることができた。最初から四輪のグランプリ規格で設計したことは後に大きな意味を持ち、本田宗一郎はグランプリ規格に合わせた設計としたことについてフーゲンホルツに特に謝意を述べている[W 14]。
- ^ レイアウトの中に立体交差を持つサーキットは1950年代以前にもいくつか例があるが、明確に8の字としたサーキットは当時は類例がない[W 13]。
- ^ S字区間以外は原案を踏襲したものだともされるが[W 7]、実際には各コーナーの曲率が見直されている[35]。
- ^ 塩崎らが作成した設計案。
- ^ 一例として、鈴鹿サーキットのピットボックスの各ボックスの開口部は四輪用として7メートル幅で作られたが、これは当時のヨーロッパのサーキットのそれは狭かったため広くしたもので、ボックス内を半分の3.5メートルで仕切れば二輪用にも使い勝手が良いというフーゲンホルツの考えで作られており[35]、当時としては進んだコンセプトが用いられている。メインゲート付近だけでも5,000台規模の駐車場が置かれたのもフーゲンホルツの指示による(1961年当時の日本は四輪自動車の普及前で、日本全体でも自動車の保有台数は300万台強に過ぎず、鈴鹿製作所の本田のケースと同様、当時の実数ではなく先見に基づいて駐車場の規模を決めている)。
- ^ 地鎮祭が行われたのは8月であるため、工事開始は「8月」とされることもある[32]。
- ^ 一例として、鈴鹿サーキットにコースの上を跨ぐ横断歩道橋がひとつも作られなかったのは、安全面から「絶対にダメだ」と本田が命じたことによる[50]。
- ^ どういった文脈で出た発言かは伝わっておらず、これは藤沢の冗談とも考えられる。同社がモータースポーツランドとして発足した際、初代社長に就任したのはホンダの従業員ではなく、三菱銀行京橋支店長だった鈴木時太で[28]、そのためホンダ出身者としては塩崎が最上位の一人ということになる。鈴木は1954年のホンダの倒産危機に際して京橋支店長として救済に動き、三菱銀行による全面支援体制を構築するのに尽力した人物で[56][28]、鈴木を社長としたのはその時の大恩に藤沢が報いたものだと言われている[28]。
- ^ 同サーキットの支配人の肩書は後年は「総支配人」となるが、1963年時点では「支配人」と記載されている[57]。また、テクニランドの支配人と、鈴鹿サーキットの支配人は別に置かれている[57]。
- ^ レース運営にあたっては競技副長を務めた[57]。翌年の第2回日本GPでは、新たに発足した日本自動車連盟(JAF)の関与が大きくなったためか、テクニランド関係者は社長の鈴木が名誉顧問に就いているのみとなっている。
- ^ 一例として、フォーミュラ1(F1)の公式ウェブサイトでは鈴鹿サーキットをフーゲンホルツが設計したものとして紹介している[W 16]。1963年の第1回日本GP(四輪)の時点でもフーゲンホルツが設計者だということは国外から鈴鹿を訪れたドライバーに知られており[58]、その後も、F1をはじめとする国際レースのため鈴鹿サーキットを訪れたドライバーやメディア関係者は、インタビューや記事中でフーゲンホルツの名前をサーキットの設計者としてしばしば挙げ、別の人物が設計者として名を挙げられるという例はない。
- ^ 同じ書籍を「参考文献」として[W 17]、ホンダのウェブサイトの企画記事「レーシングの源流」でも同じ説を載せた例があるが[W 18]、この企画記事の本編では「フーゲンホルツ氏が鈴鹿サーキットの設計者」と記しており[W 19]、記述が一貫していない。そのため、塩崎を「設計者」としているのは実質的にはグランプリ出版の書籍のみということになる。著者の桂木洋二は自動車史についての書籍を数多く著しているが、レース分野については門外漢であるとも述べている[60]。
- ^ 同誌はフーゲンホルツJr.から自誌の記事に寄せられた抗議に対して、「取材内容は正確」といった反論や記事の信頼性を担保する旨の主張を行わず、「公正を期すため」として、見解は述べずにフーゲンホルツJr.から送られた文章を載せている[51]。
- ^ ヨーロッパ視察で塩崎と同行した飯田佳孝は、靴べらで路面を削ったという話はしているが、それを実際の試料として日本鋪道に提供したとは述べていない[50]。
- ^ 1961年5月には、建設途中の名神高速道路の一部が自動車メーカーに開放され、舗装路による3㎞の直線走行テストが行われている[64]。これは鈴鹿サーキットの着工(1961年6月[50])よりも前の時期ということになる。
出典
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参考資料
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- 配信動画
- 鈴鹿サーキット - YouTubeチャンネル
- 第1回日本グランプリ自動車レース「スピードの記録」. 鈴鹿サーキット. 12 August 2022. ※完成間もない頃の鈴鹿サーキットのカラー映像。丘陵地帯を開削した建設工事の痕跡を確認できる。