シャルル・グノー
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シャルル・グノー Charles Gounod | |
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シャルル・グノー(1875年) | |
基本情報 | |
出生名 |
シャルル・フランソワ・グノー Charles François Gounod |
生誕 |
1818年6月17日 フランス王国、パリ |
死没 |
1893年10月18日(75歳没) フランス共和国、サン=クルー |
職業 | 作曲家 |
シャルル・フランソワ・グノー(フランス語: Charles François Gounod、1818年6月17日 - 1893年10月18日)は、フランスの作曲家。カルチエ・ラタン出身。
ゲーテの『ファウスト』第1部に基づく同名のオペラで知られるほか、バチカンの実質的な国歌である『賛歌と教皇の行進曲』を作曲したことや、バッハの『平均律クラヴィーア曲集』第1巻 前奏曲 第1番から伴奏を引用した声楽曲『アヴェ・マリア』(1859年)、『ヒッチコック劇場』で使用された『操り人形の葬送行進曲』(1872年)などを完成させたことでも知られている。「フランス近代歌曲の父」とも呼ばれ、美しい旋律、色彩感に満ちたハーモニーを伴った優雅でやさしい音楽は今日も広く愛されている[1]。
パリの芸術と音楽に恵まれた家庭に生まれたグノーは、後にパリ音楽院に入学し、ローマ大賞を受賞する。卒業後彼は音楽研究のために2年間のローマ留学の後、ウィーン、ベルリン、ライプツィヒ等を経由して、イタリアでファニー・メンデルスゾーン、ドイツではフェリックス・メンデルスゾーンに会った。イタリアではパレストリーナやシスティーナ礼拝堂の古い宗教音楽に影響を与え、1843年にパリに戻った後、一時司祭になることを考えたため彼は、サン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊楽長兼教会オルガニストとなった。
1851年に最初のオペラ『サッフォー』を作曲するが、『ファウスト』ほどの大成功をおさめることはできなかった[2]。この作品は今日でも最も有名なグノー作品であるが、シェイクスピア原作のオペラ『ロメオとジュリエット』(1867年初演)もまだ録音・上演機会がある。この頃、教会音楽、歌曲、管弦楽曲、オペラなど多彩なジャンルの作品を書いていた。
グノーの音楽家としての生活は普仏戦争によって一時中断された。彼は1870年にプロイセン軍によるパリ進行から逃れるため家族とともにロンドンに移住した。戦後、家族はパリに戻ったが、グノーのみロンドンに残り、アマチュア歌手のジョージナ・ウェルドンの家に住んでいた。3年後、彼は彼女の家を離れ、家族の元に戻った。彼がフランスに長期間不在だったことと、若手のフランスの作曲家の活躍もあり、彼がもはやフランス音楽界の代表者ではなくなっていた。グノーは他のビゼーを代表する多くの作曲家から尊敬され、慕われる人物ではあり続けたが、晩年には時代遅れと評され、今後『ファウスト』以上の成功を記録することはなく、彼の名は徐々に忘れ去られていった。彼はパリ近郊のサン=クルーの自宅で75歳の生涯を閉じた。
グノーの作品は現在は一般的に知られる作品はあまり残っているないが、後輩のフランスの作曲家のほとんどは彼に影響を与えた。彼が音楽に取り入れたロマンチックな雰囲気は、マスネなどのオペラに引き継がれる。また古典的な旋律と優雅さはフォーレに影響を与えたとされる。ドビュッシーは、グノーは「当時の本質的なフランスの感性を代表している」と書いた。
生涯
幼少期
シャルル・グノーはフランソワ・ルイ・グノー(1758年 - 1823年)とその妻ヴィクトワール、旧姓ルマショワ(1780年 - 1858年)[3]の次男としてパリのカルチエ・ラタンで生まれた。母はピアニスト・元ピアノ教師、父は画家・彫刻家・美術教師であった[4][2]。長男ルイ・アーバン(1807年 - 1850年)[5]は建築家として成功した。シャルルの誕生直後、父はシャルル・フェルディナン・ダルトワ男爵の宮廷画家に任命されていた。ため、シャルルの幼少期のグノー夫妻の住居はヴェルサイユ宮殿にあり、そこにアパートが割り振られた[6]。1823年、5歳のときに父が没した時、グノーの母はまたピアノ教師を始める。父の死後は母の手によって育てられた[4][2]。
教育
グノーはパリの学校を転々とし、最後に通ったのはリセ・サン=ルイ(Lycée Saint-Louis)だった。ここに通ったことで、彼はラテン語とギリシャ語に優れた有能な学者になった。判事の娘として生まれ育った彼の母親は、グノーが弁護士になることを望んでいた。しかし、彼は芸術を好み、優れた絵画・音楽への知識を持っていた。こうして母親にピアノの手ほどきを受けて楽才を開花させる。グノーに音楽的影響を与えたのはイタリア座(Théâtre de la comédie italienne)で観た、ロッシーニの『オテロ』とモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』だった。1835年に『ドン・ジョヴァンニ』が上演されたとき、彼は後にこう回想している。
私はオペラの始まりから終わりまで、長い歓喜の中に座っていた。
同じ年の後半、彼はベートーヴェンの交響曲第6番『田園』と交響曲第9番『合唱付き』の演奏を聴き、私の音楽的熱意に火を付ける。
在学中、グノーはアントニーン・レイハ(ベートーヴェンの友人であり、同時代の人からは「当時生きていた中で最も偉大な教師」と評された)から個人的に対位法を学び[4]、1836年にレイハが没した後、パリ音楽院に入学してオペラ作曲家フロマンタル・アレヴィに対位法とフーガを、アンリ・モンタン・ベルトン、ルシュール、フェルディナンド・パエールに作曲を師事した[4][2]。ほとんどの教師はグノーの成績をあまり認めなかったが、音楽院在学中にエクトル・ベルリオーズに出会うと、彼は後に、ベルリオーズと彼の音楽が青春時代に最も大きな影響を与えたものの一つであると語った。 1838年にルシュールが没した後、彼の弟子達が協力して記念ミサ曲を作曲する。うち『アニュス・デイ』部の作曲はグノーに任せられた。この『アニュス・デイ』を、ベルリオーズは高く評価した。
ルシュールの弟子の最年少、Mr.グノーによる合唱付きの3つの独唱のための『アニュス・デイ』は美しい、とても美しい。メロディー、転調、ハーモニーなど、その中のすべてが斬新で際立っている、この曲では。グノーは、我々が彼にすべてを期待できるという証拠を与えてくれた。
- エクトル・ベルリオーズ
ローマ大賞受賞
1837年に初めてローマ大賞音楽部門に応募し、2位を得た。1839年にカンタータ『フェルディナン』(Ferdinand)でローマ大賞を受賞した。これが3回目の応募である。なお、父は1783年にローマ大賞絵画部門で2位を得ている。この賞により、グノーは補助金を受けてローマのヴィラ・メディチで2年、オーストリアとドイツで1年学ぶことができた。グノーにとって、これは彼の音楽生活の始まりであり、彼に印象を与え、それは晩年まで残ることとなった。音楽学者のティモシー・フリン(Timothy Flynn)の見解では、この賞は「おそらくグノーの人生の中で最も重要な出来事」であったという[7]。
ローマ時代
グノーはこの賞により、1840年からローマのヴィラ・メディチへ2年間留学した[4][2]。当時ヴィラ・メディチ所長は画家のドミニク・アングルで、父のことをよく知っており、グノーにも優しく接した。
グノーがローマで出会った著名な人物の中には、歌手のポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドやメンデルスゾーンの妹のファニーもいた。ガルシア=ヴィアルドはグノーのその後において大きな助けとなり、ファニーを通して彼女の兄だけでなく、フェリックスを通しては長い間無視されていたJ.S.バッハの音楽も知った。またグノーはフェリックスによって「これまで聞いたことのないであろうドイツ音楽のさまざまな傑作」も紹介された。イタリア滞在中にグノーはジェラール・ド・ネルヴァルによってフランス語に翻訳されたゲーテの『ファウスト』を読み、その第一部をオペラ化にすることに興味を抱くようになる[8]。それが20年の年月をかけて実現した。イタリア留学期間には、他にも沢山の曲が書かれた。
ローマでは、グノーはドミニコ会の説教者アンリ・ラコルデールの影響で自分の作品に強い宗教音楽への共感が高まっていることに気づき、市内の教会にある絵画からインスピレーションを得た作品を制作した。 ローマの芸術に影響を受けなかったベルリオーズとは異なり、グノーはミケランジェロの作品に感銘を受けた。彼はまた、パレストリーナやシスティーナ礼拝堂の古い宗教音楽に興味を持った[4]。
パレストリーナはミケランジェロの芸術を『音楽的に翻訳』したものである。
- シャルル・グノー
それに対して、彼と同世代(19世紀前半)のイタリア音楽は魅力を感じなかった。彼は、ドニゼッティ、ベルリーニ、メルカダンテらのオペラを厳しく批判し、これらの作曲家を「活力と威厳がなく、ロッシーニの偉大な幹に絡みついたつるのよう」だと評した。
ウィーン・ドイツ時代
ローマ賞の3年目はオーストリアとドイツで過ごすことになっており、グノーはウィーンで自作のミサ曲を上演した[4][2]。ウィーン国立歌劇場で初めて『魔笛』を聴き、昔モーツァルトとベートーヴェンがいたこの街に住む喜びが現存する手紙に記されている。ウィーン音楽の指導者・後援者であるフェルディナント・フォン・シュトックハマー(Ferdinand von Stockhammer)伯爵は、グノーのレクイエムミサの舞台化した作品を上演した。初演は大成功で、その成功によりシュトックハマーは作曲家に2個目のミサ曲を要求した。
グノーはウィーンからプロイセンに移った。その後ファニーの兄フェリックス・メンデルスゾーンに会うためにライプツィヒへ向かった。最初出会った際にはメンデルスゾーンは「あなたは私の妹が私に話していた狂人ですね」と始まったが、グノーは4日間をメンデルスゾーンを楽しませるために使い、お互い高く評価するようになった[4][2]。メンデルスゾーンはグノーに交響曲第3番を聴いてもらえるようライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の特別コンサートを企画し、聖トーマス教会のオルガンでバッハの作品を演奏した。グノーはそれに応えて自身の「怒りの日」を演奏し、メンデルスゾーンがルイジ・ケルビーニに値すると述べたときは満足したという。後のグノーの作品である交響曲第1番や聖セシリア荘厳ミサ曲、歌劇『ミレイユ』などにメンデルスゾーンの影響が見られる[4]。
このような巨匠からのこのような言葉は真の名誉であり、多くのリボンよりも誇りを持って身につけるものである。
パリへ戻る
1843年にパリに戻り、パリ外国宣教会の学校 (fr:Séminaire des Missions étrangères de Paris) の楽長に就任し、宗教音楽の演奏のために合唱隊を訓練した[4]。さらに音楽を離れて聖職に就くことを目指し、1847年からサン=シュルピス教会で神学を学んだが、翌年の1848年のフランス革命によって学業を中断した[4][2]。
音楽家に戻ったグノーは、インプレサリオのポーリーヌ・ヴィアルドの支援によってオペラ作曲家の道に進んだ[4]。1851年に最初のオペラ『サッフォー』、1854年に『血に染まった修道女』を初演するが、いずれも成功しなかった[2]。このためグノーはいったんオペラ作曲から遠ざかって交響曲を2曲作曲、1855年には『聖セシリア荘厳ミサ曲』を完成し、これらの作品によってグノーの名声は高まった[4]。
この時期またグノーは音楽教師ピエール・ジメルマンの娘のアンナと結婚し、パリの合唱団オルフェオン (fr:Orphéon) の指揮者に就任した[4]。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『平均律クラヴィーア曲集』第1巻第1曲の前奏曲に旋律をかぶせた『アヴェ・マリア』はあるいはジメルマンの影響によるものかもしれない[4]。
『ファウスト』の作曲
1859年にリリック座で初演された『ファウスト』は初めて成功したグノーのオペラとなった[2]。この作品は今日でも最も有名なグノー作品である。この後の一時期はオペラ作家としてのグノーの絶頂期をなし、1860年代にはさらに5つのオペラを作曲している[4]。中でもシェイクスピア原作のオペラ『ロメオとジュリエット』(1867年初演)は現在も定期的に上演・録音がなされている。
1870年から1875年まで、グノーは普仏戦争の戦乱を避けてロンドンに移住し、のちの王立合唱協会(ロイヤル・コーラル・ソサエティ)の首席指揮者を務めた。この頃から、グノー作品の多くが実質的に声楽曲や合唱曲となった。
晩年
グノーのロンドン滞在中に、フランスの音楽の流行りは大きく変化した。1869年にベルリオーズが亡くなったころは、グノーは一般にフランスを代表する作曲家とみなされていた。しかしながら彼はフランスに戻っときには、もはやフランス音楽の先駆者ではなかくなっていたのだった。後輩のビゼー、シャブリエ、フォーレ、マスネなどの新しい国民音楽協会の会員を含む新興世代が地位を確立しつつあったのである。彼は、たとえ自身の地位が下がったとしても、気分を害することはなく、むしろ若い作曲家たちに対して好意的に接していた。後の世代の中で彼が最も感銘を受けたのは、17歳年下のサン=サーンスで、彼のことを「フランスのベートーヴェン」と呼んだと言われている。
パリに戻った後、グノーはオペラの作曲を再開するが成功しなかった[4]。晩年にはふたたび主に宗教曲を手掛けている[2]。『レクイエム』ハ長調が最後の作品となった。ロンドンに住んでいたときから書いていた『ポリュクト』を完成させ、1876年にサン=マール侯を題材にした4幕の歴史劇『サン=マール』を作曲した。『ポリュクト』は1877年4月にオペラ・コミック座で初演されたが、56回公演というグノーにしては平凡な結果だった。さらに『ポリュクト』が初演されたときの評判はさらに悪かった。
『ポリュクト』が29回も酷評された後、興行会社はもう十分だと判断した。彼は決して生き返ることはなかった。
1893年、パリ郊外のサン=クルーで死去[4]。オートゥイユ墓地 (fr:Cimetière d'Auteuil) に埋葬された。
エピソード
グノーが楽長を務めていたサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に、後に画家として著名になるピエール=オーギュスト・ルノワールが、1850年頃から数年間所属していたことがある。グノーはルノワールに声楽を教え、ルノワールの歌手としての才能を高く評価していた。そのため、グノーはルノワールの両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、断られた。グノーはルノワールを歌手にしようと考えていたので、その才能を惜しんだ。
主要作品
グノーの作品はあらゆる分野にわたるが、今日ではオペラ『ファウスト』と『アヴェ・マリア』の作曲者としてもっともよく知られている[4]。
管弦楽曲『操り人形の葬送行進曲』は、アルフレッド・ヒッチコックのテレビシリーズ『ヒッチコック劇場』でテーマ音楽に用いられて有名になった[9]。
2つの交響曲はハイドンやモーツァルトらの作品を熟知した上で作曲されている。この2曲は17歳のビゼーが交響曲ハ長調を作曲する上でも手本となった。
オペラ
- サッフォー(Sapho, 1851年)
- E.オージエの台本による3幕のオペラ。1884年に4幕に改訂される。初期作品であるが、時折上演され、終幕のアリア『不滅の竪琴よ』は有名である。
- 血に染まった修道女(La nonne sanglante, 1854年)
- A-E.スクリーブとG.ドラヴィーニュの台本による5幕のオペラ。『血にまみれた尼』とも。初期作品であり、演奏や録音は少なかったが、2010年にCPOレーベルからCDがリリースされた。
- いやいやながら医者にされ(Le médecin malgré lui, 1858年)
- ファウスト(Faust, 1859年)
- J.バルビエとM.カレの台本による5幕のオペラ(フランス語の発音では「フォースト」)。最も有名なオペラで、同時に最初に大規模な成功を収めた作品でもある。当初は対話を含むオペラ・コミック形式であったが、1868年のオペラ座での上演に際して、対話をレシタティーフ化し、オペラ座の慣習に基づいてバレエ音楽を追加する形で改訂しており、現在では、ほぼこの形で上演される。なお、バレエ音楽の作曲者はグノー本人でないとの説がある。またドイツでは、原作であるゲーテの『ファウスト』からかけ離れた内容であるとの理由から『マルガレーテ』(ヒロインであるマルグリートを原作通りにドイツ語で発音したもの)と呼ばれることが多かった。
- 鳩(La colombe, 1860年)
- J.バルビエとM.カレの台本による2幕のオペラ・コミック。1924年のディアギレフによる上演では、フランシス・プーランクがレシタティーフを作曲。
- フィレモンとボシス(Philémon et Baucis, 1860年)
- J.バルビエとM.カレの台本による2幕のオペラ・コミック(オヴィディウスの『変身物語』中の挿話に基づくラ・フォンテーヌの寓話による)。初演時は3幕構成であったが、1976年の改訂時に2幕とされた。1924年のディアギレフによる上演では、ジョルジュ・オーリックがレシタティーフを作曲。
- サバの女王(La reine de Saba, 1862年)『シバの女王』とも表記される。
- J.バルビエとM.カレの台本による5幕のオペラ。
- ミレイユ(Mireille, 1864年)
- ロメオとジュリエット(Roméo et Juliette, 1867年)
- J.バルビエとM.カレの台本による5幕のオペラ(シェークスピア原作)。『ファウスト』と共に最も知られる作品。ジュリエットのワルツ『私は夢に生きたい』はコロラトゥーラを得意とするソプラノたちに好んで歌われるアリアである。
- サン=マール(Cinq-Mars, 1877年)
- ポリュクト(Polyeucte, 1878年)
- J.バルビエとM.カレの台本による5幕のオペラ。
- ザモラの貢ぎ物(Le tribut de Zamora, 1881年)
- A.P.デリーとJ.ブレジルの台本による5幕のオペラ。ただし台本作者にJ.バルビエとM.カレも関わっているとされる。このオペラをもってグノーはオペラの作曲を止めたため、最後の作品である。
- ピエール親方(未完)(Maitre Pierre, 1877年-1878年)
- L.ガレの台本による5幕のオペラ(アベラールとエロイーズの物語に基づく)。管弦楽配置が半分ほど終了した時点で放棄された。グノーは、「4部からなる劇的組曲」に素材を流用した(スコアがパリの国立図書館に存在する)。グノーの死後、未亡人がカミーユ・サン=サーンスに完成を依頼し、グノーが完成した部分をつなぐレシタティーフが追加された。1939年に、レイナルド・アーンが最後の場面のみ演奏会形式で上演した。
劇音楽
- ユリシーズ(Ulysse, 1851年)
- Ponsardの劇のための音楽。全5幕。
- 町人貴族(Le bourgeois gentilhomme, 1856年)
- モリエールの劇のための音楽。
- フランスの2人の王女(Les deux reines, 1865年)
- ルグヴェの劇のための音楽。全4幕。
- ジャンヌ・ダルク(Jeanne d'Arc, 1873年)
- J.バルビエの劇のための音楽。全5幕。
交響曲と管弦楽曲
- 交響曲第1番 ニ長調(1854年)
- 全4楽章からなる最初の交響曲。ミシェル・プラッソン、クリストファー・ホグウッド、ネヴィル・マリナーなどの録音がある。
- 交響曲第2番 変ホ長調(1856年)
- 全4楽章からなる2番目の交響曲。イーゴリ・マルケヴィチ(1957年)、ネヴィル・マリナーなどの録音がある。
- 小交響曲 変ホ長調(1888年)
- 操り人形の葬送行進曲
宗教音楽・ミサ曲
- 聖セシリア荘厳ミサ曲(Messe solennelle en l'honneur de Sainte Cécile, 1855年)
- 3人の独唱陣(S,T,Bs)、合唱、管弦楽とオルガンのための作品。同年に作曲された『荘厳ミサ』より改作したもの。『聖チェチーリア荘厳ミサ曲』とも呼ばれる。
- レクイエム ハ長調(Requiem en Do majeur, 1893年)
- 4人の独唱陣(S,A,T,Bs)、合唱と管弦楽(ピアノまたはオルガンの任意)のための作品。
オラトリオ
- トビー(Tobie, 1854年)
- 十字架上のキリストの最後の7つの言葉(Les Sept Paroles de Notre Seigneur Jésus-Christ sur la Croix, 1855年)
- 贖罪(La rédemption, 1882年)
- 死と生(Mors et vita, 1885年)
- アッシジの聖フランチェスコ(Saint Francois d'Assise, 1891年)
歌曲
- アヴェ・マリア - 1853年にアルフォンス・ド・ラマルティーヌの詩をつけられて出版された。1859年に現在の歌詞がつけられた。
- 6つのメロディー (6 mélodies, 1855年)- 最初に出版された歌曲集。「ヴェニス」(アルフレッド・ド・ミュッセ詩)が有名。
- セレナード(Sérénade, 1857年) - ヴィクトル・ユゴー詩。さまざまな編曲でも知られる。日本では戦前に近藤朔風の訳詩による「夜の調べ」として知られ、1970年代まで高等学校の教科書に採用されていた。
- 春の歌(Chanson de printemps, 1860年)- ウジェーヌ・トゥルヌー詩。
- おいで、芝生が緑だから(Viens, les gazons sont verts, 1875年)- ジュール・バルビエ詩。
- いない人 - (L'absent, 1877年)- グノー本人の詩による。
脚注
- ^ 新編世界大音楽全集『フランス歌曲集Ⅰ』音楽之友社、208頁より引用
- ^ a b c d e f g h i j k l 「グノー:聖セシリアの為の荘厳ミサ」『最新名曲解説全集』 声楽曲2、音楽之友社、1981年、415-417頁。
- ^ 引用エラー: 無効な
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タグです。「grove
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t Huebner, Steven (2001). “Gounod, Charles-François”. Grove Music Online. Oxford University Press. doi:10.1093/gmo/9781561592630.article.40694
- ^ Harding, pp. 20–22 and 36
- ^ Harding, p. 22
- ^ 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。「f2
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ 『新グローヴ オペラ事典』P556
- ^ 日本ではLIXILのトイレ・INAXのラジオコマーシャル(2016年・CBCラジオほか)で使われている。
参考文献
- 『新グローヴ オペラ事典』 白水社(ISBN 978-4560026632)
- 『オペラ名曲百科 上 増補版 イタリア・フランス・スペイン・ブラジル編』 永竹由幸 著、音楽之友社(ISBN 4-276-00311-3)
- 『ラルース世界音楽事典』福武書店
- 『フランス・オペラの魅惑 舞台芸術論のための覚え書き』 澤田肇 著、ぎょうせい(ISBN 978-4324094037)
- 『オックスフォードオペラ大事典』ジョン・ウォラック、ユアン・ウエスト(編集)、大崎滋生、西原稔(翻訳)、平凡社(ISBN 978-4582125214)
- 『パリ・オペラ座-フランス音楽史を飾る栄光と変遷-』竹原正三 著、芸術現代社(ISBN 978-4874631188)
- 『フランス音楽史』今谷和徳、井上さつき(著)、春秋社(ISBN 978-4393931875)