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マティリアル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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マティリアル
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1984年4月4日
死没 1989年9月14日
  (5歳没・旧6歳)
パーソロン
スイートアース
母の父 スピードシンボリ
生国 日本の旗 日本北海道門別町
生産者 シンボリ牧場
馬主 和田共弘
調教師 田中和夫美浦南
競走成績
生涯成績 19戦4勝
獲得賞金 1億4101万5400円
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マティリアル日本競走馬1987年に行われた第36回スプリングステークスで最後方の位置から強烈な差し脚を見せて優勝し、以後人気を博した。全兄東京新聞杯を勝ったシンボリヨーク、全姉に青葉賞マウンテンストーンの母スイートミネルバ、半姉に朝日杯3歳ステークス3着馬メイキャリーがいる。

  • 馬齢については原則旧表記(数え)とする。

デビュー前

1984年4月4日、門別のシンボリ牧場で生まれる。この11日後に皐月賞を制し、その後7冠馬となるシンボリルドルフと同じパーソロンの仔(母の父もシンボリルドルフと同じスピードシンボリ)であった。その均整のとれた馬体は早くから牧場で注目され、シンボリ牧場社長の和田共弘も大きな期待をかけた。

この馬に惚れ込んだ田中和夫調教師は、早速サクラ冠名で知られる馬主・全演植に所有を勧めた。田中は以前から全に「いい馬がいたら紹介してくれ」という話をされていたため話がまとまるかと思われたが、牧場期待の馬ゆえに価格の折り合いがつかず破談。それでも諦め切れない田中を見兼ね、和田が自ら馬主となり田中厩舎所属馬としてデビューする運びとなった。しかし、全のこの年のクラシック組の持ち馬に二冠馬サクラスターオーがいたことは皮肉な巡り合わせとも言える。

2年後、デビューに際し競走名を付ける段となる。従来、和田の所有馬には牡馬なら『シンボリ』、牝馬なら『スイート』という冠名が付けられていた。しかし和田は本馬を「シンボリルドルフに匹敵する逸材。海外の大レースを制する大器」と評価し、将来の海外遠征を視野に入れ、特別に『シンボリ』の冠名を付けず『素材・逸材』を意味するマティリアル (Material) と名付けた。

なお、トラックマンの小宮均はテレビの競馬中継番組で本馬について語った際、「馬名に冠名が付いている馬ではJRAが記念競走を作らない[1]」ことを、和田が冠名を付けなかった理由のひとつとして挙げている。

デビュー後

1986年10月、東京競馬場での新馬戦でデビューしたマティリアルの手綱は、シンボリルドルフと同じく岡部幸雄が取った。マティリアルは1番人気に推され、これに応えて快勝、初勝利を飾る。続くオープン戦の府中3歳ステークスは3着に敗れたものの、年が変わって初戦の寒梅賞には勝利する。マティリアルはその好調を維持したまま、皐月賞トライアル、スプリングステークスに臨むこととなった。

スプリングステークス

本レースはマティリアルにとって初めてとなる重賞競走への挑戦であったが、前年に朝日杯3歳ステークスを制しこの年のダービー馬となるメリーナイス阪神3歳ステークスを制したゴールドシチーという東西の3歳王者を抑えての1番人気となった。

レースはウインストーンが引っ張り、メリーナイス・ゴールドシチーが3、4番手という好位を追走する。対するマティリアルはレースに付いていくことができず、1頭置かれた形で最後方を追走していた。馬群はその体勢のまま第4コーナーを回り、マティリアルはコースの内側に進路を取った。先団の馬はそれほど伸びず、鞍上の岡部が追い出しを始めるとマティリアルは後方からじりじりと差を詰めていったが、先頭を行く馬とはなお大きな差があり、フジテレビチャレンジ・ザ・競馬で実況を担当した大川和彦アナウンサーは「マティリアルも来ているがちょっと届きそうもない」と実況した。しかしマティリアルは残り100m付近から猛然とした末脚を見せ、脚の鈍った先行馬達を次々と交わしていくと、最後にバナレットをアタマ差とらえて1着でゴールインした。

その最後方からの殿一気という鮮やかな差し脚は競馬ファンに強烈な印象を与えた。だが、手綱を取った岡部は、以前シンボリルドルフに騎乗していた際、ルドルフの前年に三冠馬となったミスターシービーの極端な追い込み脚質を評して、「近代競馬では先行逃げ切りが基本。シービーはルドルフには勝てない」と、シービーの主戦であった吉永正人の騎乗法を暗に批判していた事がある。その為、そのシービーもさながらの後方一気の追い込みをしてしまったことで、かなりバツが悪かったものか、勝利ジョッキーインタビューでは自らの騎乗について、「ミスターシービーしちゃった」と、当時の岡部としては珍しくも冗談めかして語っていた[2]。またこの時マティリアルが記録した上がり3ハロンのタイムは36秒3であり、その派手な勝ちっぷりと比して驚くほどの末脚を繰り出していた訳ではなかった。出走馬中2番目に速い上がりを記録したバナレットの上がり3ハロンのタイムでも37秒1であったという事を考えれば、ほとんどの馬の末脚が最後に止まってしまった展開に恵まれた勝利、という一面がある。

なにはともあれ、このスプリングステークスの勝利はマティリアルの評価を大いに高め、一躍クラシック戦線の大本命と目されるようになった。

勝てない日々

迎えたクラシック第一弾の皐月賞ではやはり1番人気に推された。ところが、スプリングステークス時の好調を維持していたものの、スタート下手な追い込み馬ゆえに最内枠(1枠1番)が仇となり、勝ったサクラスターオーから約3馬身差の3着に敗れる。その後、ダービー必勝を掲げる和田オーナーの意向により、マティリアルは調整を兼ねシンボリ牧場に放牧[3]に出された。

続く日本ダービーではサクラスターオーがレースを回避したことから、ファンの「今度こそ」という期待が高まり、再び1番人気となった。しかし、皐月賞の反動からか調子を崩した状態での出走強行からか、単枠指定を受けたマティリアルであったがいいところ無く24頭立ての18着(優勝・メリーナイス)と惨敗。レース後、マティリアルは再びシンボリ牧場に放牧に出された。

レースに復帰しても、マティリアルは復調できなかった。秋の復帰初戦のセントライト記念では2番人気に推されながら7着、三冠レース最後の菊花賞でも13着に敗れ、その後も人気は集めるものの勝てないレースが続き、マティリアルは次第に表街道のレースから遠ざかっていく事になった。又、マティリアルの不調が続いたこともあり、岡部は菊花賞以降しばらくマティリアルに騎乗していない。

復活と最期

不調が長引いた故に、半ば調教師と化していた和田オーナーから解放されたのが幸いしたのか、マティリアルは次第に本来の才能を取り戻し始める。6歳となり6月に復帰後3走を4,4,2着として復調の気配を見せ始めたマティリアルは、1989年9月10日・京王杯オータムハンデに出走した。鞍上がセントライト記念以来久々の岡部という事も好感視され、ファンはマティリアルを1番人気に推した。

スプリングステークス以後、直線に入っても伸びない、又は追い込みを見せても届かないマティリアルのレース振りを見てとった岡部は、このレースではスタート直後から積極的に先行し好位に取り付いた。意外なレース運びにスタンドはどよめいたが、そのまま2番手で直線に入ると末脚を爆発。逃げるアドバンスモアをクビ差捕らえ、マティリアルは2年6ヶ月振りの勝利を挙げた。ゴールの瞬間、滅多にガッツポーズをしない岡部が小さなガッツポーズを見せた。しかし直後に馬体の異変を察した岡部はマティリアルから下馬し、マティリアルは馬運車に収容された。このアクシデント以降、岡部は入線後のガッツポーズを長らく封印する事となった。

翌11日、関係者からマティリアルが右前第一指節種子骨を複雑骨折していたことが発表された。通常なら即座に安楽死の措置が取られる事実上予後不良の重傷であったが、和田オーナーの意向から安楽死は見送られ、手術が行われた。この手術自体は無事成功し、競走馬を引退し回復を待って種牡馬入りすることも決定した。しかし手術から3日後の9月14日、術後の痛みに耐えかねたマティリアルは馬房内で暴れ、激痛によるストレスから出血性大腸炎を発症した。大量に下血し、急激に衰弱していくマティリアルを発見した関係者は延命を断念。安楽死の措置がとられる予定だったが、その前にマティリアルは出血性ショックで死亡した。

スプリングステークスにおける強烈な差し脚とその後の長い低迷、復活劇と直後の悲劇的な最期は競馬ファンに深い印象を残し、戦績としては重賞を2勝しただけの馬であるにも関わらず、死後も多くの書籍などで取り上げられている。

戦績

  • 1986年(3歳・2戦1勝)
  • 1987年(4歳・6戦2勝)
    • スプリングステークス (G2)
    • 3着-皐月賞 (G1)
  • 1988年(5歳・7戦0勝)
  • 1989年(6歳・4戦1勝)
    • 京王杯オータムハンデ (G3)
    • 2着-関屋記念 (G3)

血統表

マティリアル血統トウルビヨン系/Tourbillon5×5=6.25% (父内) ) (血統表の出典)

*パーソロン
Partholon
1960 鹿毛 アイルランド
父の父
Milesian
1953 鹿毛 イギリス
My Babu Djebel
Perfume
Oatflake Coup de Lyon
Avena
父の母
Paleo
1953 鹿毛 フランス
Pharis Pharos
Carissima
Colonice Abjer
Colonis

スイートアース
1973 栗毛 北海道新冠町
スピードシンボリ
1963 黒鹿毛 北海道新冠町
*ロイヤルチャレンヂャー
Royal Challenger
Royal Charger
Skerweather
スイートイン *ライジングライト
*フィーナー
母の母
*ライトゲイム
Right Game
1962 青毛 イギリス
Right Boy Impeccable
Happy Ogan
Game Chip Big Game
Poker Dice F-No.22


叔母に安田記念クイーンステークス牝馬東京タイムズ杯の勝ち馬ハーバーゲイムがいる。

脚注

  1. ^ つまりは、シンボリルドルフが牡馬クラシック三冠、さらに7冠を達成したにもかかわらず、冠名付き馬名である事を理由に、『シンボリルドルフ記念』競走の設置という話がJRAからは全く無かった。
  2. ^ 『サラブレッド怪物伝説』p.99
  3. ^ 現在で言うところの外厩入厩のはしりである。

関連文献

  • 光栄出版部編『夢はターフを駆けめぐる4』 、150-153頁(光栄, 1994年9月)

外部リンク