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ノート:一澤帆布工業

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これはこのページの過去の版です。T tonomura (会話 | 投稿記録) による 2015年2月19日 (木) 11:25個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (概説について)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

「相続トラブルと一時営業休止の経緯」の見出しについて

「4.1」から「4.11」までの11項目は、箇条書きの文体で見出しが書かれています。見出し自体も、訴訟の結果に関わらず「~訴訟」という体言止めで記載されています。ところが「4.12」項だけ、文章の形で見出しが記載されています。また、訴訟の結果に触れる書き方がされています。他の見出しと統一性がありません。

そもそも、2012年の裁判は「控訴」と書かれていますが、「4.11」項に書かれた「信太郎はこの判決を不服とし、大阪高裁に控訴する方針を示した。」の控訴審の結果が4.12項であるのなら、この2つの項目を分ける必要がありません。(4.6項では一つの裁判について、地裁から最高裁までまとめて記載していますから。)

4.12項の見出しも、他の見出しと文体を揃えて記載しませんか?

できれば編集者の方には、どうしてこのような見出しの付け方をしたのか、教えてもらえれば幸いです。--LACHESMAN会話2014年5月23日 (金) 09:17 (UTC)[返信]

LACHESMAN様 確かに、地裁判決も高裁判決も信太郎氏の株式保有は認めておりますから、その部分は削除しました。 「4.11」項に書かれた「信太郎はこの判決を不服とし、大阪高裁に控訴する方針を示した。」の控訴審の結果が4.12項ではありますが、一澤帆布工業の最注目点は、2つの遺言書が存在し、そのどちらが本物かというところだと思います。

「4.11」の地裁判決には、この点は触れられておりませんが、私が大阪高裁で確認した書面には、亡信夫が残した第2遺言が「偽造によるものであると認めることはできない」と明記されていましたので「4.11」とは区別しております。

ご理解賜りますよう、お願い申し上げます。--toshi 2014年5月24日 (土) 04:41 (UTC)

ご回答ありがとうございます。どのような意図で編集されたのか、理解致しました。しかし、Toshi様の記載された考え方でこのページを編集すると、いささかの問題点が出てきてしまいます。
  • 1つ目は、 「一澤帆布工業の最注目点は、2つの遺言書が存在し、そのどちらが本物かというところ」という観点から編集されるのであれば、「4.6 信三郎の妻による遺言無効確認訴訟」の項目においても遺言を無効とした高裁、最高裁判決を項分けして書かなければならなくなってしまいます。(企業存続にとって、この遺言書の真贋が重要だ、と言われるのであれば、遺言の有効性についても同じレベルの重要性があると考えます。したがって、そこを重視して書くのなら、4.6項についても高裁・最高裁ごとに項を分けなければ、4.12項を分けた理由と矛盾します。)
  • 2つ目は、上記のように記載した場合、裁判の項目の比重が大変重くなってしまう、ということです。このページは「一澤帆布工業」のページであって、「一澤帆布工業における裁判の経過」のページではないと考えます。判決の経過や結果を重要視するなら、新たにページを分けて作るのも良いかもしれません。いずれにしても、一澤帆布工業という企業における一番の重要ごとが「2つの遺言書が存在し、そのどちらが本物か」では無いと考えます。ですから、一つの訴訟ごとに判決をいちいち分けて書いていくことは、百科事典として一澤帆布工業を解説する方法としては最適ではないと考えます。
このように考えますが、いかがでしょうか。
  • (追伸)今回回答頂いた「Toshi」様は、本文を編集された「Toshiyuki matsui」様でしょうか。もしそうでしたら、ノートページを編集される際にも署名をお願いします。署名の仕方は、このページの一番上に記載されています。
  • (追伸)私やIPユーザーの編集を取り消されていますが、「編集取り消し」は、荒らしや悪戯に対する対抗策です。どのような理由で取り消されたのかは不明ですが、編集取り消しの使用は慎重にお願いします。H:REVERTも是非お読み下さい。
--LACHESMAN会話2014年5月25日 (日) 23:41 (UTC)[返信]

LACHESMAN様 おっしゃる意味は、よく理解いたしました。 しかしながら、「4.6」は既に最高裁判決ですが、「4.11」は高裁判決であり、未だ係争中と思量いたしますので、最高裁判決がでれば、後々変更しようと考えます。 署名の「Toshi]は、「Toshiyuki matsui」です。IPはログインしないまま編集したので、ログイン後に再編集しました。申し訳ありません。--toshi 2014年5月26日 (月) 01:21 (UTC)

了解いたしました。個人的には「係争中であるからこそ、見出しとして記載することは慎重に行いたい」と考えますが、貴殿の編集方針を尊重いたします。最高裁判決がいつかは存じませんが、その際には改めて、編集をお願い致します。また、繰り返しになりますが、このノートに記載される際にも署名をお願い致します。--LACHESMAN会話2014年5月26日 (月) 06:21 (UTC)[返信]

皆様 信三郎の妻による遺言無効確認訴訟の項、こちら訴えを起こした日付がありませんので時系列が分かりづらいです。 どなたか出典をお持ちの方、日付の追記を頂きたいと思います。 --T Tonomura会話2014年12月16日 (火) 11:11 (UTC)[返信]

toshiyuki matsui様

多分操作のお間違いかと思いますが、私の投稿したノートにつきまして削除されたようですので、 元に戻させて頂きます。 --T Tonomura会話2014年12月17日 (水) 01:27 (UTC)[返信]

T tonomura様へ

はじめに、手違いによる投稿の取り消しについて、謝罪いたします。

尚、信三郎氏の妻(恵美氏)が訴えを起こした日付に関する資料について、当方では持合せがございません。--toshiyuki matsui会話2014年12月17日 (水) 07:19 (UTC)[返信]

T tonomura様へ

日付がございましたので、追記いたしました。ご指摘ありがとうございます。 平成18年3月3日 --Daisaku Takahashi会話2014年12月18日 (木) 04:17 (UTC)[返信]

Daisaku Takahashi様へ

追記ありがとうございます。助かりました。 --T Tonomura会話2014年12月19日 (金) 08:11 (UTC)[返信]

会社の基礎情報について

1. 掲載されている主要株主について、一澤帆布工業株式は閉鎖会社であるのに、これらの情報はどこで調べられたのでしょうか?出自をお知らせください。

2. ここに掲載されている一澤帆布工業のHPアドレス「http://www.ichizawa-hanpu.co.jp/ 」 は、一澤信三郎帆布のHPに自動的にリンクされています。 現在一澤帆布製の製品は一澤信三郎帆布にて展開されているため、アドレスの表記を「http://www.ichizawa.co.jp/ 」 (現在一澤帆布製の製品は一澤信三郎帆布にて展開中)に変更してはいかがでしょうか? また、「7.外部リンク」に記載しているアドレスも同様に変更してはいかがでしょうか?

--sassina 2014年10月6日 (月) 06:21 (UTC)


sassina様へ

(1)について 出典27にありますように、高裁判決で一澤信太郎氏の株保有を認めていることから、加筆いたしました。

因みに、一澤帆布工業㈱が閉鎖会社であるとのことですが、会社謄本は閉鎖されておりませんが、閉鎖会社であると主張される根拠は何処にあるのでしょうか?お知らせ下さい。

(2)について 確かにおっしゃられるように、一澤帆布工業のHPアドレス「http://www.ichizawa-hanpu.co.jp/ 」 は、一澤信三郎帆布のHPに自動的にリンクされています。

しかしながら、ここは一澤帆布のページですので、例え自動的にリンクされていても、旧アドレスのままで良いのではないでしょうか?

尚、私見ですが(現在一澤帆布製の製品は一澤信三郎帆布にて展開中)の記載については、事実ですので変更されても良いと思いますが、皆さんの意見もお伺い下さい。--toshiyuki matsui会話2014年10月7日 (火) 02:44 (UTC)[返信]

toshiyuki matsui様へ

(1)について、私が「閉鎖会社」と記載した意味は、会社の商業登記簿謄本が閉鎖されているという意味ではなく、「会社の株式の譲渡が制限されており、上場や店頭公開で取引されていない」ことを意味しております(これは会社法上の定型的な用語です)。こうした閉鎖会社である一澤帆布工業の株式については、株式の取引が制限されておりますが、会社法上の一定の条件を満たせば株式は譲渡されます。こうして閉鎖会社であっても株主構成は変動していくことがありますが、こうした閉鎖会社では、一般に株主以外には株主名簿を公開しておりません。 貴殿が、高裁判決を根拠に株主に関する加筆をしたとのことですが、それは高裁判決が出た時点でのものであり、上記の通り、株主構成は時々刻々と変動の可能性を秘めておりますので、現在でも同様の株主構成であるとは限りません。

以上のことから、一澤帆布工業の株主構成に関する記載は、現時点での株主構成を記載しているものと一般に受け取られる可能性があること、閉鎖会社において一般的に株主名簿を公開していないことを勘案して、株主構成の記載そのものを削除すべきとするのが、公平・公正を旨とするWikipediaの趣旨に沿うものと考えております。いかがでしょうか。

(2)につきましては、読者にわかりやすく(現在一澤帆布製の製品は一澤信三郎帆布にて展開中)の記載いたしました。

--sassina 2014年10月10日 (金) 06:33 (UTC) sassina様へ

(1)についてですが、当方が加筆したのは「一澤信太郎」氏だけです。現時点での株主構成を示す資料が無いのは事実ですので、株主構成の訂正はした方が良いのかも知れませんが、高裁判決が「一澤信太郎」氏の株保有を認めている記事だけが浮き彫りになる違和感は残りますが、その辺りはどうお考えですか?

(2)について、了解しました。--toshiyuki matsui会話2014年10月10日 (金) 08:20 (UTC)[返信]

toshiyuki matsui様へ

株主構成については、現状を知りうることはできないため、憶測だけで掲載することはWikipediaの公平・公正の理念に反するため、削除したいと思います。 --sassina 2014年10月11日 (土) 07:12 (UTC)

sassina様へ

当方記載の(2)の回答について、何ら返答を頂いておりません。少し強引すぎませんか?--toshiyuki matsui会話2014年10月14日 (火) 01:32 (UTC)[返信]

toshiyuki matsui様へ

以前にも申し上げましたが、高裁の判決は2012年のことであり、株主構成は時々刻々と変動の可能性を秘めておりますので、現在でも同様の株主構成であるとは限りません。なんら 出典もないので、こちらを削除いたします。高裁の判決が浮き彫りとなると私は思いません。 --sassina 2014年10月30日 (木) 05:37 (UTC)

sassina様へ 議論後の変更、又は反対意見が相当期間ない場合に変更されるならわかりますが、いきなり変更するとは、どういったお考えですか? 少なくとも、社長である「恵美」氏と、高裁判決で認められている「信太郎」氏は株主であると思いますが、いかがでしょう? sassina様の変更について、元に戻させていただきます。 又、その他の部分においても、何ら討論をせず、私からの質問にも答えず、勝手に編集されていますが、どういったおつもりでしょうか?

--toshiyuki matsui会話2014年10月30日 (木) 08:54 (UTC)[返信]


ご提案 一澤帆布の現時点での業務内容についてですが、一澤帆布のネームタグがついた製品は、別法人である㈱信三郎帆布加工所からの供給ではないのでしょうか?不明瞭であるこの部分の削除を提案いたします。 又、同社の現在事項には不動産賃貸業及び管理業務並びに特許権、商標権、実用新案権、意匠権の取得、保有、賃貸及び運用との記載があります。 これを業務内容に記載することを提案いたします。--toshiyuki matsui会話2014年11月11日 (火) 04:56 (UTC)[返信]

上記、提案に対してなんら意義が無いものとして、次のように修正いたします。

不動産賃貸業及び管理業務並びに特許権、商標権、実用新案権、意匠権の取得、保有、賃貸及び運用。尚、現在一澤帆布で販売されている「一澤帆布製」のタグを掲げている商品は、別法人である㈱社信三郎帆布加工所で作成されているものと推察される。--toshiyuki matsui会話2014年11月18日 (火) 02:51 (UTC)[返信]

概説について

①「3代目一澤信夫とその弟一澤恒三郎により、売り上げを伸ばした」との記載がありますが、三男一澤信三郎氏が1980年に朝日新聞社を退社し家業に戻った際は、従業員10数名で、家業を継がないと存続は難しいと判断したとの当時の話が雑誌、新聞に掲載されていました。2006年11月号の日経ベンチャーのP.24には、信三郎氏が家業に戻った時の売上高は約8,000万円でそのうちの2~3割がかばんによる売上比率と述べられています。その後、社長解任の前には10億円以上を売り上げていたとも掲載されています。そのころには職人の数が70名に増えています。また、HPによると信三郎氏が1983年4代目社長となり、1992年に本社ビルを新設しています。これらのことから、売上を伸ばし会社を成長させたと特筆するならば、信三郎氏であるように思われますが、いかがでしょうか?


②「信夫四男の一澤喜久夫が考案した「一澤帆布製」のタグを使うようになり、有名になる。」とありますが、一澤信三郎帆布のFacebookのページ (https://www.facebook.com/ichizawa.shinzaburo.hanpu ) の2014年7月10日の投稿に90年前のタグの写真が掲載されています。昔はハンコだったとのことで、デザイン自体は今のタグと変わらないように見受けられます。外枠を赤色にしたものが「一澤帆布製」のタグですよね?ちなみに、一澤喜久夫氏が考案したとする根拠を教えていただけますか?

--sassina 2014年10月6日 (月) 07:41 (UTC)

sassina様へ

①について、私が執筆したものでない為、わかりませんがバブルにより日本全体が好景気の中、業績が右肩あがりであったことが最大の原因ではないでしょうか?これは「3代目一澤信夫氏とその弟一澤恒三郎氏」が基礎をつくり「一澤喜久夫氏のネームタグが評価され、且つバブル経済によるものが大きいと思いますがいかがでしょうか?

②について、おっしゃるとおり、元々はハンコでしたが、使用しているうちに消えてしまうということで、一澤喜久夫氏がタグにしたと、旧一澤帆布のHPに記載されています。

一部抜粋します「だんだん地方の人・観光客の来店が増えてきて、その中に製品が気に入って再来するお客から、使っているうちに一澤帆布製のハンコが消えてしまうのが惜しいという声が多くなった。それで一澤喜久夫が刺繍のネームをつけることを1974年(昭和49年)に思いついた。ハンコの黒枠は赤枠の刺繍にかえた。  父、一澤信夫にネームを付けて見せると、信夫は「お前の作るものはいつもええもんを作るが、これだけはやめとき」と言ったが、喜久夫が「いや、つける」と強く言い張った。信夫は「ほな付けたんと、付けへんのと半分ずつにしい」といったので、製品の半分にネームタグを付けることになった。」

又、出典27の判決文にも、一澤帆布のタグの考案者であると記載されています。 --toshiyuki matsui会話2014年10月7日 (火) 05:43 (UTC)[返信]


toshiyuki matsui様へ

①について、バブルで大きな傷を受けた企業が多いなかで、売上高が10倍強に、職人の数も5倍強になっていることを考えると、バブル期だけを理由にするにはむしろ無理があるのではないでしょうか。一澤信三郎氏の経営手腕の結果と言わざるを得ないと考えますが、いかがでしょうか。

私の提案としましては、概説内「戦後はリュックサックや~~有名となる。」を「戦後は3代目一澤信夫とその弟一澤恒三郎により、リュックサックやテントも手がけ、職人用カバンを基にした各種のかばんで知られるようになる。1980年に信三郎が朝日新聞社を退社して家業に戻り、1988年に4代目の社長となる。1992年に本社ビルを新設。その後良質な天然素材の帆布を使った、シンプルで使い勝手の良い丈夫なかばんが全国的に知られるようになり、職人の数も飛躍的に増え、売り上げを伸ばした。」です。これらは、日経ベンチャー、日経ビズテック(No.004) 、経営者会報(2008.1)の記事をはじめとする出典を参考にしています。その点を勘案して頂きたく存じます。

②につきましては、旧一澤帆布のHPは現在存在しませんので、現在は誰も確認ができません。そのような中、上記記載いただいた内容が正しいかどうかの判断ができかねます。

一澤信三郎帆布のFacebookのページやHPに掲載されていますハンコの写真からもわかりますように、旧来のハンコを字体も含めそのままに刺繍の織ネームにしたもののように見受けられます。喜久夫氏のデザイン考案とまで言えるものなのでしょうか。また 「一澤喜久夫のネームタグが評価された」というのは、何か出典でもあるのでしょうか。そうでない限り記載者の主観の域を出ないかと思います。

--sassina 2014年10月10日 (金) 06:33 (UTC)

sassina様へ

①について、バブル景気は1988年から1992年とする政府見解があります。まさしく「一澤信三郎」氏が、社長になり本社ビルを建てた年代と同じです。1992年以後も、「一澤信三郎」氏の経営手腕で業績を維持したという根拠がありません。このことについて、いかがお考えですか?

変更案については、承服致しかねます。

下記にも記載してありますように、「一澤喜久夫」氏がネームタグを考案したことは、裁判所の判決文に出てくるような重要問題です。sassina様の変更案には、「一澤喜久夫」氏の功績を排除し、「一澤信夫」氏と「一澤恒三郎」氏の基礎を下に、「一澤信三郎」氏だけの功績にスポットをあてる変更案です。

更に言えば、京都デザイン優品において「一澤信三郎」氏が獲得した賞は、携帯筆ケースと腕時計だけということです。一方「一澤喜久夫」氏は帆布を使った物で、だ円型手さげバックをはじめ、スリーウィエバック、リュック、ボストンバッグといった一澤帆布らしさな物を発表されていることから、何故sassina様が「一澤喜久夫」氏の功績を排除した変更案を提示されているのか、大変疑問に思います。

②について、ネームタグ考案者の「一澤喜久夫」氏の部分を、削除する理由がわかりませし、当方もネームタグが「喜久夫氏のデザイン考案」とまでは言っておりません。旧一澤帆布のHPは探せばアーカイブが残っておりますし、そこにも「再来するお客から、使っているうちに一澤帆布製のハンコが消えてしまうのが惜しいという声が多くなった。それで一澤喜久夫が刺繍のネームをつけることを1974年(昭和49年)に思いついた。ハンコの黒枠は赤枠の刺繍にかえた。」と書いてあり、『デザインを考案』とは、一言も記載されていません。

私の手元にある高裁の判決文にも「大学卒業後結婚することなく被控訴人会社で稼動し「一澤帆布」のタグを考案するなど、被控訴人の業績向上に貢献した被控訴人喜久夫には・・・・」と記載されています。

裁判資料なので、高裁に行かれれば閲覧できますので、当方の記載事項が虚偽かどうか、ご自分でお確かめ下さい。

toshiyuki matsui様へ

①について、喜久夫氏の功績を排除した変更案を提示しているつもりはありません。当方は、信三郎氏と喜久夫氏の両方の功績を併記することを提案しています。日経ベンチャーや一澤信三郎帆布物語(朝日新書)などを読めば、信三郎氏の功績は自明です。なぜ信三郎氏の存在や功績を故意に無視しようとしているのか、理解に苦しみます。ちなみに信三郎氏は1983年から代表取締役社長です。代表取締役社長の権限をご存知ないのですか?

②について、形状も字体も旧来のハンコのままで、刺繍ネームにしたことを「考案した」と言えるかどうか、常識の問題と考えます。正確を期して「長年使っていたハンコのネームを、喜久夫氏が織ネームに変えた」としてはいかがでしょうか?シンプルで、正確な表現だと思います。 --sassina 2014年10月11日 (土) 07:12 (UTC)

sassina様へ ①について、sassina様の先の変更案の何処に、「一澤喜久夫」氏の功績が盛り込まれているのでしょうか?お知らせ下さい。

因みにsassina様がおっしゃられる「代表取締役の権限」とは、どういったものでしょうか?少なくとも、2001年に「一澤信夫」氏が死去されるまで、過半数を超える株を持っていたのは「亡信夫」氏であります。報酬一つにしても、「代表取締役の権限」では、決めることはできませんよね?

「一澤信三郎」氏は1983年に社長職に就任されておりますが、バブル景気という追い風があったことは事実でしょう。(1980年に信三郎が朝日新聞社を退社して家業に戻り、1988年に4代目の社長となる。)と書かれたのは貴殿です。sassina様は、当方の質問に対してのお答えもしておられません。「一澤信三郎」氏の功績については、「携帯筆ケースと腕時計」というように、しっかり記載されていますが?当方の質問に対してお答えが「日経ベンチャーや一澤信三郎帆布物語(朝日新書)などを読めば、信三郎氏の功績は自明です。」ということなのでしょうか?

であるならば、「日経ベンチャー」は、何年の何号でしょうか?「一澤信三郎物語」については、当方としては「一澤信三郎」氏、又は「妻恵美」氏による一方的なものと考えております。綿密な取材はあったのでしょうか?例えば、「亡信夫」氏の相続者全員等。

②について、刺繍のネームタグの考案者は「一澤喜久夫」氏です。何度も申し上げますが、高裁判決で「一澤帆布」のタグを考案したのは「一澤喜久夫」氏となっています。「「長年使っていたハンコのネームを、喜久夫氏が織ネームに変えた」という表現の何処が「シンプルで、正確な表現」なのでしょうか?「 四男・喜久夫が「京都東山知恩院上ル一澤帆布製」というタグを考案。」このことこそ、シンプルで正確な表現と思います。--toshiyuki matsui会話2014年10月14日 (火) 02:18 (UTC)[返信]

toshiyuki matsui様

何度も申し上げますが、2006年11月号の日経ベンチャーのP.24には、「信三郎氏が家業に戻った時の売上高は約8,000万円でそのうちの2~3割がかばんによる売上比率と述べられています。その後、社長解任の前には10億円以上を売り上げていたと」掲載されています。社長解任時は2005年ですので、バブル崩壊後も順調に売り上げを伸ばしていたのは明らかです。また余談ですが、2008年1月号の経営者会報に、信三郎帆布を立ち上げてからの信三郎氏のインタビュー記事が掲載されています。その中に2006年の年商が12億円と記載されています。信三郎氏がバブルの影響だけでなく、経営者としての手腕があったことは明白です。出典に基づいた事実ですので、概要に追記いたしました。 --sassina 2014年10月30日 (木) 05:51 (UTC)

コメント 横からすみません。まず各位<br />等の強制改行コードは、記事、ノート共々控えてください。
こんな風に空行を一つあけるだけで改行になります。1行あけたい場合は、2行改行すればOKですWikipedia:表記ガイド参照)
それから、出典は「これです」とただ置いておくのはおやめください。記事のどの部分に対し、どの文献の何ページに書かれているのか、明確にしてください(Wikipedia:出典を明記する#出典の示し方参照)。先ほど記事冒頭にテンプレートを貼付いたしました。記事の精度、確度向上にご協力願います。
それから、売り上げは「事実」であるのは間違いありません(記載があるので検証可能性も満たします)。が、「信三郎氏がバブルの影響だけでなく、経営者としての手腕があったことは明白」である根拠(ウィキペディアでいうところの出典)をお示しください。それがないと、執筆者の独自研究とみなされます。よろしくお願いいたします。--maryaa会話) 2014年10月30日 (木) 06:30 (UTC)下線部追記--maryaa会話2014年10月30日 (木) 06:33 (UTC)[返信]

maryaa様へ 私も<br />を乱用しておりました。以後、気をつけます。

sassina様へ maryaa様がおしゃられるように、「信三郎氏がバブルの影響だけでなく、経営者としての手腕があったことは明白」である根拠(ウィキペディアでいうところの出典)をお示しください。

尚、出典として上げておられる中の『経営者会報 2008年1月号「異能経営者がゆく!」』は、検証可能でしょうか? 何処に行けば確認できますでしょうか?お知らせ下さい。 --toshiyuki matsui会話2014年10月30日 (木) 09:03 (UTC)[返信]

皆様へ "2010年(平成22年)、1971年(昭和46年)より、3代目一澤信夫と共にデザイン、職人への製作指導、店頭販売を手伝っていた一澤喜久夫が、「帆布カバン㐂一澤」(きいちざわ)を知恩院新門前に開店 製造部の住所は旧一澤帆布東工場と同一である。" とありますが、一澤帆布工業の概説としてはちょっと違和感があります。 "1971年(昭和46年)より、3代目一澤信夫と共にデザイン、職人への製作指導、店頭販売を手伝っていた"という部分は不要ではないでしょうか? その他の人物の解説にはいつから何をしていたかという記述はありません。また、㐂一澤の製造部の住所が旧一澤帆布東工場と同一である事もここで述べる必要が あるかどうかご意見を頂きたいです。 --T Tonomura会話2014年12月16日 (火) 10:10 (UTC)[返信]

toshiyuki matsui様

多分操作のお間違いかと思いますが、私の投稿したノートにつきまして削除されたようですので、 元に戻させて頂きます。 --T Tonomura会話2014年12月17日 (水) 01:27 (UTC)[返信]

T tonomura様へ

はじめに、手違いによる投稿の取り消しについて、謝罪いたします。

【概説に「喜一澤」】について

概説の中の「喜一澤」の項は、私が加筆したものですが、言われてみれば確かに"1971年(昭和46年)より、3代目一澤信夫と共にデザイン、職人への製作指導、店頭販売を手伝っていた"及び"東工場と同一"の部分は、ここに記載することでは無いかと思います。この部分の削除について反論はありません。

改定後は『2010年(平成22年)喜久夫(四男)が「帆布カバン㐂一澤」(きいちざわ)を知恩院新門前に開店』ということで間違いないでしょうか?

尚、その他の人物(特に信三郎氏)の解説についてですが、現在 Daisaku Takahashi 様に、変更案をご提示している最中です。

又、概説から外すとして、「相続トラブルと一時営業休止の経緯」の中の「喜久夫(四男)新ブランド立ち上げ」の中に、「1971年(昭和46年)より、3代目一澤信夫と共にデザイン、職人への製作指導、店頭販売を手伝っていた」という文言を記載したいと思います。

変更案は「1971年(昭和46年)より、3代目一澤信夫と共にデザイン、職人への製作指導、店頭販売を手伝っていた喜久夫(四男)は、2008年(平成20年)一澤帆布工業の取締役の地位を失った。しかし、2010年(平成22年)7月7日、喜久夫(四男)は、新ブランド「帆布カバン㐂一澤(きいちざわ)」を新たに一澤信三郎帆布のそば(東山区東大路通新橋上ル)に開店した。[39]。因みに製造部の住所は旧一澤帆布東工場と同一である。」です。--toshiyuki matsui会話2014年12月17日 (水) 07:33 (UTC)[返信]

toshiyuki matsui様 一旦、概説の部分のみを変更させて頂きます。 「喜久夫(四男)新ブランド立ち上げ」の項につきましてはその他の方のご意見を待ちたいと思います。 --T Tonomura会話2014年12月17日 (水) 07:57 (UTC)[返信]

皆様

【概説 喜一澤】について 知恩院新門前という住所は必要でしょうか?「2010年(平成22年)喜久夫(四男)が「帆布カバン㐂一澤」(きいちざわ)を開店」でいかがでしょうか。なぜなら「一澤信三郎帆布」には住所記載がございません。

【「相続トラブルと一時営業休止の経緯」内「喜久夫(四男)新ブランド立ち上げ」】について 「1971年(昭和46年)より、3代目一澤信夫と共にデザイン、職人への製作指導、店頭販売を手伝っていた喜久夫(四男)」の記載ですが、何度も申し上げていますが、「喜一澤サポーターサイト」とアーカイブにしか残っていない「旧一澤帆布」のHPの出典だけですと検証が不十分です。そのため、追記の必要はないかと考えます。また、「一澤信三郎帆布」の工房の住所などは記載されていない中、「因みに製造部の住所は旧一澤帆布東工場と同一である。」などと、「喜一澤」の工房の住所だけをわざわざ記載する必要性も感じません。ご意見ください。 --Daisaku Takahashi会話2014年12月18日 (木) 04:17 (UTC)[返信]

皆様

先日の合意に基づき概説につきまして下記のように変更をご提案致します。

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初代一澤喜兵衛(1853年(嘉永6年)生まれ)が行っていた西洋洗濯(クリーニング)や楽団KYOTO BANDが始まり。現在の一澤帆布は、1905年(明治38年)に創業。大正時代になると2代目一澤常次郎のもとで、薬屋、牛乳屋、大工、植木屋、酒屋などの職人用カバンの製造を行った。3代目一澤信夫は戦後にリュックサックやテントも手がけ、登山用品のトップブランドとなる。また「平凡パンチ」「ポパイ」「アン・アン」など若者の雑誌や「家庭画報」などに取り上げられたことで注目を集め、一般のお客様も帆布かばんに興味を持ちはじめる。 1980年に信夫三男、信三郎が朝日新聞社を退社して家業に戻り、1988年に4代目の社長となる。1992年に本社ビルを新設。家業を継いだ当時は社員わずか10数名の零細企業だったが、老若男女さまざまな人が使える帆布かばんを考案、色数や種類も増やし、約20年かけて社員も70人を超え、帆布かばんを製造直売する店として世間に広く認知される。そんな中、2006年(平成18年)、相続をめぐるトラブルにより一時営業休止。同トラブルにより、信三郎とそれまで勤めてきた職人は全員退社して、同様のかばんを取り扱う一澤信三郎帆布を設立。一澤帆布工業株式会社の社長となった長男の一澤信太郎は新たな職人と素材で2006年(平成18年)10月16日より営業を再開した。しかし2009年(平成21年)6月に裁判で信三郎が逆転勝訴し、信三郎夫妻が3年ぶりに経営に復帰したことに伴い、7月7日から休業していた。 2010年(平成22年)、四男喜久夫が「帆布カバン㐂一澤」(きいちざわ)を開店。 2011年(平成23年)3月28日、信三郎が「一澤帆布製」のブランド復活、並びに4月6日から一澤帆布工業株式会社の店舗にて一澤信三郎帆布が営業を再開すると発表した。一澤信三郎帆布が製造することとなった「一澤帆布製」ブランドと、従来の「信三郎帆布」「信三郎布包」とは併売されている。 現在、一澤信三郎帆布では、「信三郎帆布」「信三郎布包」「一澤帆布製」の3ブランドを展開中。

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ご確認頂きますようお願い致します。

--T Tonomura会話2015年2月11日 (水) 09:40 (UTC)[返信]

T Tonomura様

ご提案ありがとうございました。 しばらく書き込みがありませんでしたので、こちらからご提案しようかと思っておりました。 HPからほぼ抜粋いただいておりますし、トラブルの箇所もシンプルでわかりやすい表現かと思います。 こちらに同意いたします。

--Daisaku Takahashi会話2015年2月18日 (水) 02:17 (UTC)[返信]

皆様へ

概説をアップデート致しました。 ご確認下さいませ。

--T Tonomura会話2015年2月19日 (木) 11:25 (UTC)[返信]

沿革について

①4.9に記載してあるように「帆布かばん喜一澤」が、第3ブランドとの位置付けになっている理由を教えてください。一澤喜久夫氏は、本沿革にも記載があるように、裁判になる以前の1996年に退社しています。一方、本沿革には信三郎氏による「株式会社一澤信三郎帆布」設立の表記が全くありません。なぜ「喜一澤」だけが「第3ブランド」と表現されているのでしょうか?「喜一澤」だけが一澤帆布の流れを組むように記載されている印象があり、公正さに欠け、読者に誤解のみをあたえる表記がされていると思われますが、いかがでしょうか?

②現在、「一澤帆布製」のネームタグのかばんは「一澤信三郎帆布」にて販売されています。それにも拘わらず、前述の通り株式会社一澤信三郎帆布設立の項目が意図的に沿革に入っていない点は、非常に不自然であると考えます。また、本ページにおいて、喜久男氏の功績のみが取り上げられ、信三郎氏の一澤帆布工業株式会社における功績の記述が抜けているのは、なぜでしょうか?たとえば、「1998年(平成10年)9月25日 - 一澤帆布工業株式会社が商標出願(10月8日に商標登録)」、とありますが、この頃には既に喜久男氏が退社し、信三郎氏が社長として経営を担っていたと思われます。ここには特に「信三郎氏が」とは特に記載がありません。もちろん、会社が行ったことなので、特に記載する必要はないと思われ、問題はないのですが、一澤帆布製のタグのデザインを赤枠付きのものに決定したというような会社として行ったことに関して、「喜久男氏による」というような説明があることは、何か意図的な誘導があるようで違和感を覚えます。

--sassina 2014年10月6日 (月) 08:12 (UTC)

sassina様

①沿革に、第2ブランド「株式会社一澤信三郎帆布」設立の表記をされてはいかがですか?ただ問題は、現在㈱一澤信三郎帆布の会社概要では、創業が1905年となっており、これは初代喜兵衛が一澤帆布加工所を創業した年代だということです。wikipediaの一澤帆布工業㈱のページはもちろんのこと、㈱一澤信三郎帆布の会社概要まで矛盾が生じますが、どう思われますか?

②「一澤信三郎帆布設立の項目が意図的に沿革に入っていない点は、非常に不自然である」とのことですが、私が作為的に排除しているわけではありません。sassina様が、一澤信三郎帆布設立の項目を入れることに対し、阻害は致しませんが、①の通り、矛盾が生じることをどのように思われるか、答えを頂きたいと思います。

商標出願の件に関しましても、当方が執筆したものでない為、わかりません。しかし、タグの考案者は一澤喜久夫氏であることは、「概説について」の②でご説明したとおりです。--toshiyuki matsui会話2014年10月7日 (火) 06:59 (UTC)[返信]


toshiyuki matsui様へ

①については、おっしゃるように一澤帆布加工所は、一澤帆布工業(株)が法人化(昭和36年)する前の名称ですのですので、正確には1905年は一澤帆布加工所が創業ということになります。しかし、社名が変わっただけで、同じ職人が同じ素材で同じかばんを作っていたこともあり、「第2ブランド」とはどこにも表記されておりませんし、誰もそのように認識していなかったと思われます。

同様に考えますと、「一澤帆布製」のネームタグのついたかばんを現在作っているのは、一澤信三郎氏の「一澤信三郎帆布(株)」です。また現在の「一澤帆布工業(株)」の代表取締役は信三郎氏の妻、一澤恵美氏です。さらに店舗も一澤帆布工業(株)創業当時からの場所にあり、かつ周知の通り、職人たちも一澤帆布時代からの職人です。一澤信三郎帆布(株)は、すべてにおいて当時からの、流れをくんでいるということではないでしょうか。そのため、1905年創業と一澤信三郎帆布(株)の概要に掲載されていることに対して矛盾は感じません。代々続けられている会社の社名が変わることもよくあることです。これらのことから「一澤信三郎帆布」を第2ブランドと位置づけすることに対しても、疑問を感じます。

一方、「喜一澤」は、以前一澤帆布に勤めていたことのある一澤喜久夫氏が経営者ですが、「一澤帆布製」のかばんを製造販売しているわけではありません。また「一澤帆布工業(株)」や「一澤信三郎帆布(株)」から出資金をもらい独立したり、のれん分けされたわけでもありませんよね?設立についての記載はあっても良いかもしれませんが、「第3ブランド」として表現されていることは、読者に誤解をまねくのではないでしょうか。また貴殿が記述されたわけではないかもしれませんが、概要や沿革内で、「帆布カバン喜一澤」の文字だけが、黒い太字や赤字でマークされていることが、意図的な誘導ともとれますが、いかが思われますか。

②につきまして、皆様の意見に相違がなければ、沿革に加筆したいと思います。また①の矛盾に関しましては、上記の通り、またタグに関しましても、「概説について」の②でご説明した通りです。一澤帆布工業として「タグを使い始めた」ことは事実ですので、沿革のこの部分の表記を、"1973年(昭和48年) 「京都東山知恩院上ル一澤帆布製」というタグを使い始める"に変更してはいかがでしょうか。「同時期より、カタログのイラストを描き始める」の記述に関しても、何か出典でもあるのでしょうか。

--sassina 2014年10月10日 (金) 06:33 (UTC)

sassina様へ

①についてですが、貴殿は『社名が変わっただけで、同じ職人が同じ素材で同じかばんをつくっていたこともあり、「第2ブランド」とはどこにも表記されておりませんし、誰もそのように認識していなかったと思われます。』とのことですが、では何故wikipediaのページに「一澤信三郎帆布」のページがあるのでしょうか?

少なくとも、「一澤帆布工業」がお家騒動で、「一澤帆布工業」と「一澤信三郎帆布」に分かれたことにより、「一澤信三郎帆布」というページができたと推察できますがいかがでしょうか?

「一澤帆布工業」と「一澤信三郎帆布」とは、たとえ両社の社長様がご夫婦でも、別会社であることに変わりはありませんよね?『同じものを同じ職人が同じ素材で作って・・・』いても、別法人である以上、沿革については「一澤信三郎帆布」を第2ブランドとすることこそが沿革であると思いますが、いかがでしょうか?

そもそも、沿革なのですから、ことさらに詳細を書くべきと思いますがいかがでしょうか?失礼ながらsassina様は、なぜか「一澤帆布工業」「一澤信三郎帆布」を同一会社のごとくページ読者に刷り込みをしたいように見受けられてしまいます。矛盾を感じられないとのことでしたら、第2ブランドとして沿革に記載されてはいかがでしょうか?

「第3ブランド」についてですが、失礼ながら原状の「一澤帆布工業」は本のお手本になるほど有名な、お家騒動のものだと思います。ですので、「一澤帆布工業」が初代ブランド「一澤信三郎帆布」が第2ブランドと思っているのは私だけでは無いはずかと思量いたします。wikipediaのページでも「一澤信三郎帆布」は2006年3月に左京区にて設立され、同年4月に東山区稲荷町南組(グランエターナ知恩院前1F)に開店となっておりますので、やはり読者の中にも、「一澤信三郎帆布」は第2ブランドという位置づけなのでしょう。でなければ、「相続トラブルと一時営業休止の経緯」の中に、「「一澤帆布」ブランド、再び信三郎の元に」という記載があるほうが不自然であると思いますが、いかがですか?

因みに「帆布カバン㐂一澤」の文字が太字になってることや赤字になってることは、私の知るところではありません。

②についてですが、第2ブランドとして「一澤信三郎帆布」を加筆することに対し、当方が阻害することではありません。しかしながら、その他の部分については承服致しかねます。

タグの考案については前段で述べたとおりであります。--toshiyuki matsui会話2014年10月10日 (金) 10:53 (UTC)[返信]

toshiyuki matsui様へ

お家騒動があったとはいえ、一澤帆布時代の職人が、同じ材料で同じ製法で「一澤帆布製」のかばんを一澤信三郎帆布で現在生産しているという、厳然たる事実があります。ですので、第2ブランドと表現するのは間違っています。一澤信三郎帆布が、3つのブランドを展開していると一澤信三郎帆布のHPにも記載されています。 --sassina 2014年10月11日 (土) 07:12 (UTC)

sassina様へ

2014年10月10日の、当方への回答に「皆様の意見に相違が無ければ、沿革に加筆したいと思います。」とされながら、何故いまさら意見を変え「第2ブランドと表現することが間違い」なのでしょうか?一旦は同意した事項ですよ?

何度も申し上げますが、たとえ「両社の社長様がご夫婦・職人・同じ材料・同じ製法」で作っていても、「一澤帆布工業」と「一澤信三郎帆布」は別会社です。ここは、「一澤帆布工業」のページです。「2006年3月-京都市左京区に”第2ブランド「一澤信三郎帆布」設立」「2006年4月-同市東山区稲荷町南組(グランエターナ知恩院前1F)に開店。」「2011年3月-一澤帆布工業㈱の店舗にて営業を再開。「2011年3月-旧一澤帆布工業本社ビルに移転し、一澤信三郎帆布の他、信三郎かばん・一澤帆布の3ブランドを取り扱う。」でいいのではなのでしょうか?--toshiyuki matsui会話2014年10月14日 (火) 02:37 (UTC)[返信]

皆様へ

沿革についてですが、「一澤帆布工業」の閉鎖事項を確認してきました。「信太郎」氏については、記載のとおりでしたが、「喜久夫」氏に関しまして、誤記載があるようです。「喜久夫」氏の退任ですが、2001年(平成13年)11月30日となっております。又「信太郎」氏が社長に就任された2005年(平成17年)12月16日 に、再度取締役に就任され、2008年(平成20年)9月24日に解任されております。「信太郎」氏が、2009年(平成21年)6月30日に就任登記抹消となっているのは、同年の最高裁判決の結果であると、推察されますが、沿革にある「喜久夫」氏の退任(又は解任)について、以下のように修正してはいかがでしょうか?

「1996年(平成8年)12月 - 喜久夫(四男)が一澤帆布工業を退社」を前文削除

「2001年(平成13年)11月 - 喜久夫(四男)が一澤帆布工業を退社」を記載

「2005年(平成17年)12月 - 喜久夫(四男)が、再び取締役に就任」を記載

「2008年(平成20年)9月 - 喜久夫(四男)解任」を記載

以上です。

この出典は、「一澤帆布工業株式会社」の平成元年より平成21年のものを含む、同社の閉鎖事項全部証明書です。

尚、maryaa様がおっしゃられる出典について、当方で裁判所及び法務局へ「手持ち資料を公にして問題がないか?」と確認致しましたところ、裁判所は「判決文については、申請すれば誰でも閲覧できるものではあるが、利害関係人より訴訟を受ける可能性がある」と言われました。又、法務局もほぼ同様の見解でしたので、ご自身で申請していただきたいと思います。--toshiyuki matsui会話2014年10月20日 (月) 08:58 (UTC)[返信]

皆様へ

「喜久夫」氏の『「一澤帆布工業株式会社」の平成元年より平成21年のものを含む、同社の閉鎖事項全部証明書』につき、反対意見がありませんでしたので、編集致しました。--toshiyuki matsui会話2014年10月27日 (月) 05:26 (UTC)[返信]

ご提案

2006年(平成18年)3月1日 - 営業休止について、変更したいことがあります。 「信三郎(3男)が、解任後にミシンなどの製造機器や原材料をすべて持ち去り、休業せざるを得なくなった」という事実です。出典は「信三郎 額約13億3000万円の損害賠償」でのgoogle検索結果になります。

変更案は以下の通りです。

2006年(平成18年)3月1日 - 信三郎(3男)が、解任後にミシンなどの製造機器や原材料をすべて持ち去り、休業せざるを得なくなった為、営業休止となる。 以上です。--toshiyuki matsui会話2014年11月18日 (火) 09:12 (UTC)[返信]


皆様へ

全体的に誤字脱字や表記の乱れがありましたので修正させて頂きました。 --T Tonomura会話2014年12月12日 (金) 04:56 (UTC)[返信]

T tomomura様へ 誤字脱字や表記の乱れの修正、有難うございました。 一澤帆布労働組合についてですが、WEBアーカイブに残っていましたので、編集の取り消しをして、再度リンク修正し記載させて頂きます。--toshiyuki matsui会話2014年12月16日 (火) 08:14 (UTC)[返信]

Toshiyuki matsui様 ありがとうございました。写真が古かったりするようですので、手に入り次第更新致します。 --T Tonomura会話2014年12月16日 (火) 09:53 (UTC)[返信]

皆様へ

"一澤帆布工業"の沿革を辿る視点で読んだ時に、まず前半 1905-1970年あたりの情報に不足を感じます。 もう少し調べて必要な項目は追加させて頂きたいと思います。

その後に"1971年(昭和46年) - 喜久夫(四男)が大学入学と同時に、父・信夫の元で一澤帆布工業を手伝い始める、デザイン、職人への製作指導、店頭販売に携わる" が来るのもちょっと唐突に感じます。大学入学と同時に職人への製作指導をするのでしょうか? 家業を大学時代に手伝った事を特段ブランドの沿革に入れる必要があるかどうか皆様のご意見を頂きたいです。 入れるとしたら信太郎氏、信三郎氏も大学時代手伝っていたとしたら入れましょう。

また、デザイン優品の項ですが文字数も多く煩雑に感じます。大切な情報が埋もれて読みにくくなっていますのでもう少し文字数減らすか削除しませんか? 大した賞でもなさそうですし。。。一澤帆布工業の沿革として必要なのかどうか、ご意見を頂きたいと思います。 --T Tonomura会話2014年12月16日 (火) 11:43 (UTC)[返信]

Toshiyuki matsui様 一澤帆布労働組合のリンクについてですが、アーカイブを探して頂いてありがとうございます。こちらは外部リンクの項に必要でしょうか? リンクを押したときに表示されるページに、"現在に至っても、経営者である一澤恵美社長・一澤信三郎氏は一澤帆布を再開する努力を全くしていません。同年7月7日に恵美社長・信三郎氏側の弁護士が、自宅待機期間は給料を全額保証すると言っていたのにもかかわらず、労働組合との協議もなしに一方的に給料の4割カットを強行してきました。" 等とありますが、既に和解している件ですし、外部リンクをクリックしたときに現在係争中であるかのような誤解を招く可能性があると思います。 ここで敢えてアーカイブの内容を外部リンクとする事の必要性について皆様のご意見を賜りたいと思います。 --T Tonomura会話2014年12月16日 (火) 12:00 (UTC)[返信]

toshiyuki matsui様

多分操作のお間違いかと思いますが、私の投稿したノートにつきまして削除されたようですので、 元に戻させて頂きます。 --T Tonomura会話2014年12月17日 (水) 01:27 (UTC)[返信]

皆様

近くを通りましたので現在の店舗の写真に差し替えました。 --T Tonomura会話2014年12月17日 (水) 03:43 (UTC)[返信]

T Tonomura様へ

手違いによる投稿の削除について謝罪します。

【沿革】について

1905-1970年あたりの情報不足は確かに感じますね。「一澤信三郎帆布」HPのブランドヒストリーを確認すれば、多少細かなことが書かれていますが、常次郎氏のあたりは、何年の出来事かわかりません。

喜久夫氏が大学在学中から、一澤帆布に貢献していたということで、重要事項かと思います。

信太郎氏は不明ですが、信三郎氏が家業を手伝っていたという記述は「一澤信三郎帆布」HPのブランドヒストリーに記載がありますが、何を手伝っていたのか?ということは記載されていません。

又、デザイン優品ですが、これも必要と考えます。何故なら、一澤帆布のどの製品を誰がデザインしたかということがわかる為です。


【一澤帆布労働組合】のリンクについて 先だって、Daisaku Takahashi様にも申し上げましたが、史実として残すべきと思量致します。現在係争中との誤解を招く可能性があるとの事ですが、「沿革」「相続トラブルと一時営業休止の経緯」とも、2010年に和解したという時系列での記載がある為、誤解を招くことはないと思います。但し、最下層にある「外部リンク」は削除して良いと思います。--toshiyuki matsui会話2014年12月17日 (水) 07:36 (UTC)[返信]

toshiyuki matsui様

まずは外部リンクを削除致しました。 その他の部分につきましては、他の方のご意見も伺いたいと思います。 --T Tonomura会話2014年12月17日 (水) 08:04 (UTC)[返信]

T Tonomura様

誤字脱字の修正、また最新の写真のUP、リンク削除等ありがとうございました。適切なご指摘をたくさんいただき感謝申し上げます。 1905-1970年あたりの情報はこちらもまた出典を調べてみます。 また、「喜久夫(四男)が大学入学と同時に、父・信夫の元で一澤帆布工業を手伝い始める、デザイン、職人への製作指導、店頭販売に携わる" が来るのもちょっと唐突に感じます。大学入学と同時に職人への製作指導をするのでしょうか?」についてですが、こちらも適切なご意見ありがとうございます。信三郎氏が家業を学生時代から手伝っているという出典もありますが、沿革内にここまで記載する必要はないと思います。信太郎氏、信三郎氏、喜久夫氏すべてに、そこまでは詳細に記載せず、削除すべきではないでしょうか。沿革が長くなりすぎると読みづらくなりますし、不要かと思います。また何度も申し上げていますが、出典の信憑性も疑われます。

また、「京都デザイン協会」をHPで確認したところ、作品を出典するのには出品料も必要で、ジャンルも問わず誰でも応募できるもののようです。沿革には不必要ではないでしょうか。一澤帆布のデザイン性の良さは、この賞の記載がなくても認められているのではないかと思います。 --Daisaku Takahashi会話2014年12月18日 (木) 04:17 (UTC)[返信]

皆様へ

沿革につきまして、先にもご意見申し上げた通り、非常に読みづらいと思います。 受賞歴については削除した方がいいと思いましたが、残したい方もおられるようですので、別の項を作ってまとめませんか?

--T Tonomura会話2015年1月7日 (水) 06:12 (UTC)[返信]

皆様へ

他の項でもご報告済みですが、受賞歴について別立てに致しました。

--T Tonomura会話2015年1月8日 (木) 10:23 (UTC)[返信]

皆様へ

沿革につきまして、出典不明分を削除致しました。

--T Tonomura会話2015年2月13日 (金) 01:11 (UTC)[返信]

相続トラブルと一時営業休止の経緯について

「『一澤帆布』ブランド、再び信三郎の元に」 について 株式会社一澤信三郎では現在、「信三郎帆布」「信三郎布包(かばん:布に包という文字を組み合わせた造語)」「一澤帆布製」の3ブランドでの展開となっています。 この文章内では、「信三郎布包」の記述も抜けていて、「一澤帆布製」を「一澤帆布」と記述しているなど間違った表記もあります。2011年5月の日経デザイン、P.12に信三郎氏のインタビューが掲載されていますが、「今後は「信三郎帆布」「信三郎布包」「一澤帆布製」の3ブランドで製品を展開する。」と明記されています。 下記のような修正はいかがでしょうか?


・上記の通り、2011年(平成23年)3月28日、信三郎が4月6日から一澤帆布工業株式会社の元の店舗にて「一澤信三郎帆布」の営業を再開すると発表。従来の「信三郎帆布」「信三郎布包」の他に、「一澤帆布製」の商品も当面販売する。ブランドをどちらかに統一するのか、それとも並存させるのかは明らかにされていない。

・2011年(平成23年)4月6日、元の一澤帆布工業の店舗にて「一澤信三郎帆布」の営業を再開。5年ぶりに「一澤帆布製」のタグのついた商品が復活した。今後は一澤信三郎帆布として、「信三郎帆布」「信三郎布包」「一澤帆布製」の3ブランドで製品を展開する。

「高裁は、第2遺言が「偽造によるものであると認めることはできない」との判決を下した。」について。 本判決の前に、2011年8月には京都地裁により、「一澤帆布株主権、長男に認めず」という判決がありました。「遺言書には先代会長が重要文書に使用していた「一澤」の実印ではなく、「一沢」の認め印が使われていることなどから、松本清隆裁判長は「真筆と認められず偽物」と認定。この遺言書を有効とした2004年の確定判決を踏まえ、長男と三男の間に限定して長男の株主相続権は認めたが、会社に対する株主権の確認については棄却した。」と、2011年8月27日付けの読売新聞でも掲載されています。こちらの内容も裁判の流れとして、加える必要があると思われますが、いかがでしょう?

--sassina 2014年10月6日 (月) 08:25 (UTC)

sassina様

これも当方が執筆したものでない為、わかりませんが、「『一澤帆布』ブランド、再び信三郎の元に」の修正案は特段問題無いと思いますが、皆さんのご意見も確認してください。

「高裁は、第2遺言が「偽造によるものであると認めることはできない」についてですが、sassina様が加筆が必要とされている部分は必要でしょうか?もし必要であれば、「信太郎、遺言の正当性を求めて提訴」の段落に加筆するべきと思いますが、ここに事細かく「「真筆と認められず偽物」と認定。」と記載すれば、次段落の「高裁は、第2遺言が「偽造によるものであると認めることはできない」との判決を下した。」に対しても、何故「偽造によるものであると認めることはできない」という経緯に至ったのかを、詳細に記載する必要が出てくると思います。例えば、判決文より抜粋しますと「亡信夫が第2遺言を作成したことが認められる。その理由は下記の通りである。

ア 第1遺言と第2遺言とを見比べると、その筆跡は、筆記用具、用紙及び製作時期が異なることを勘案してもなお極めて類似しており、第三者からみて同一人によるものとすることに格別の違和感は無い。」「第2遺言の筆跡が亡信夫のものでないとする○○氏(個人名の為、記載しません)他4名の各意見書は、主観的な印象を述べるか些末な差異を意的するだけであり根拠に乏しく京都府警本部科捜研の鑑定書及び意見書○○氏(個人名の為、記載しません)他1名に照らし、にわかに採用することができない等々、7ページに及ぶ詳細を記載しなくてはならず、ページ利用者にとって、利用しづらいものとなると思いますが、いかがでしょうか?--toshiyuki matsui会話2014年10月7日 (火) 07:43 (UTC)[返信]

toshiyuki matsui様へ

「『一澤帆布』ブランド、再び信三郎の元に」の修正案は、皆様の意見に異議がなければ、上記項目を追記したいと思います。

「高裁は、第2遺言が「偽造によるものであると認めることはできない」との判決を下した。」について、私の意見は、高裁でも結論的に異なる判断がされているという意味で、両方併記すべきということです。逆に今のままでは、他方の判断だけ記載されているので、公平・公正を害する状態になっていると言うことです。 次段落の「高裁は、第2遺言が「偽造によるものであると認めることはできない」との判決を下した。」に対しても、何故「偽造によるものであると認めることはできない」という経緯に至ったのかを、詳細に記載する必要が出てくると思います」とのことですが、そのような必要はないと思います。単純に併記すればよいのではないでしょうか。 この点、なぜこのように一見矛盾するような判決となっているのかという点ですが、それは、同じく遺言書の真偽を争点としているものの別個の訴訟事件が存在し、それぞれが異なる裁判体で裁判がなされ、それぞれがそういった判決をしているからです。このあたりを説明しようとすると、民事訴訟法的にかなり高度な議論となってしまうことでしょう。そういうことですので、異なる裁判体で、異なる裁判がなされているのだから、両方併記する必要がある、ということをお伝えしたいのです。このあたりが、中立性を考えた上での落ち着きどころではないでしょうか。 --sassina 2014年10月10日 (金) 06:33 (UTC)

sassina様 「中立性を考えた上で・・・」とのことですが、当方の考えとしては、先に述べたとおりです。 読者にとって、「地裁」での判決はこうであった。又「高裁」ではこうであった。は、今特段に書き換える必要がないと思量いたします。 当方も、「最高裁」判決がでれば、この部分を書き換えるつもりであります。最新の結果のみを、読者に読みやすくすることが最良と考えますがいかがでしょうか?

先に申し上げたとおり、高裁判決を簡潔に伝えるべく努力した結果が、かの記載です。詳細にとなると読者が読みにくくなりますので、ご勘弁頂きたいと思います。--toshiyuki matsui会話2014年10月10日 (金) 11:03 (UTC)[返信]

toshiyuki matsui様 最高裁で結論が出ていない以上、地裁の判決と高裁の判決の内容が違う場合は、併記するのが当然ではないでしょうか?もしくはどちらにも言及せず、最高裁の判決を待って記載すれば良いのではないでしょうか?

--sassina 2014年10月11日 (土) 07:12 (UTC)

sassina様へ

個人名や所得等、公にすることに問題がある部分も多数ありますので、ご勘弁頂きたいと思います。

例えば、平成13年3月9日当時、月額の役員報酬が信三郎夫妻合わせて○○○万円(仮に10とします)に対し、亡信夫氏は2、喜久夫氏は1と、大きな格差があったとか、信三郎氏と喜久夫氏の関係は円満ではなかった〔信太郎氏及び信三郎氏の法廷供述〕〔喜久夫氏の陳情書〕とかの判決文もこと細かく書くのですか?

--toshiyuki matsui会話2014年10月14日 (火) 02:44 (UTC)[返信]

一澤ファンとして、この「ノート」を拝読しました。なぜなら偶然見た「一澤帆布工業」のWikiが非常にわかりにくかったためです。toshiyuki matsui様はまさか「喜一澤」に近い方ではないですよね?非常に偏った意見で、驚いております。迷いましたが、あまりの内容にノートへの記載に踏み切りました。 sassina様の意見にほぼ同意しています。正確な情報が得られない状況で、株主を記載する必要がありますか?正確でないことはWikiに掲載すべきではないと考えます。「一澤信三郎帆布」のWikiのように、代表取締役の名前のみ、公になっている正しい情報の記載をお願いします。 また、バブル期だけで、一澤信三郎氏の功績をここまで否定されるという理由はどこにあるのでしょうか。sassina様の「2006年11月号の日経ベンチャーのP.24の記事」と記載がある中、信三郎氏の功績を否定する何か問題があるのでしょうか。ファンとして、一澤の製品が好きで雑誌新聞などを気にして読んできましたが、喜久夫氏の記事はほとんどなく、信夫氏や一澤信三郎氏のインタビューばかりです。一澤信三郎氏の功績を否定する方が難しいと思われます。皆わかっているので、「一澤信三郎帆布」設立後も、職人は一澤信三郎氏についていき、たくさんのファンが信三郎氏を支持した、また今もなお、一澤信三郎帆布のファンが絶えないことがすべてを物語っていると考えます。何十年も前のかばんもすべて「一澤信三郎帆布」で責任をもって修理をしてくれます。 また、「一澤信三郎帆布」が第2ブランドとすれば良いとのご意見ですが、「一澤信三郎帆布」や「一澤帆布」はWikiに記載があるほど、有名となっています。ではtoshiyuki matsui様が第3ブランドと位置づけされている「喜一澤」は、ここで第3ブランドとまで位置づけるほど名が知れているのでしょうか。現在の一澤帆布工業の代表取締役が、第2、第3ブランドと発表、公言しているならわかりますが、第2、第3ブランドとの位置づけはあくまで、記載された方の主観でしかないと思います。「第2ブランド」、「第3ブランド」の表記などなしにして、それぞれの設立のみの記載をされたら良いのではないでしょうか。それが最も公平かと思います。

判決について、「ご勘弁を」と書かれていることが、記載しない理由になるのでしょうか?toshiyuki matsui様はすでに、まだ最高裁で確定していない内容を記載されているのですから、もし「ご勘弁を」と書かれるようでしたら、高裁の内容の記述も現時点では必要ないのではないですか?すべてが中途半端で、却って本当の事実がわかりにくく、困惑しています。まずは、「喜一澤」関係者の意図的な行為だと誤解されそうな「太字」「赤字」を中立の立場で修正させていただきます。 そもそも、このWikiを訪問する読者が一番知りたいことは過去のことではなく、「一澤帆布」が今現在どうなっていて、「一澤帆布製」のかばんはどこで手に入るかではないでしょうか。 --Daisaku Takahashi会話2014年10月17日 (金) 00:19 (UTC)[返信]

コメント 横からすみません。特定の誰宛てではないのですが。
ウィキペディアは、閲覧者が何を求めているかを想定も期待もしないし、してはなりません。Wikipedia:中立的な観点に基づき、Wikipedia:信頼できる情報源によるWikipedia:検証可能性のあるWikipedia:出典を明記することにより、記事を淡々と執筆するだけです。もちろん、出典元のWikipedia:著作権への配慮は要しますし、記事対象が存命個人であればWikipedia:存命人物の伝記も考慮しなければなりません。
前述の通り、ウィキペディアは中立的な観点が求められます。Wikipedia:自分自身の記事をつくらないにあるように、利害関係のある方、記事対象の関係者や深くかかわっている方(ファンも同様)は、執筆においては特に慎重に対応するか、ご遠慮いただくかになります。よく学校関連や宗教関連で支持者と不支持者で対立し編集合戦になったりしていますが、この記事もそうなりかねないように見えます。どうか、集まった出典を並べて中立的な観点て吟味し、記事に反映していただくようお願いいたします。
繰り返しますが、ウィキペディアでは「出典による検証可能性」が最重視されますので、例えば見聞きした「本当の事実」でも、出典がないと記事には使えません。ご留意ください。--maryaa会話2014年10月17日 (金) 01:21 (UTC)[返信]


Daisaku Takahashi様へ はじめに申し上げますが、当方は「喜一澤及び喜久夫氏」に近しいものではありませんし、「信太郎」氏に近しいものでもありません。

Daisaku Takahashi様が「非常にわかりにくい」と思われたのは、どの部分でしょうか?お知らせ下さい。

又、株主構成についてですが、sassina様にも申し上げておりますように、株主構成欄の内、当方が加筆したのは「信太郎」氏の部分だけです。そして、株主構成欄の前文削除をした場合、高裁が認めた「信太郎」氏の株式保有を認めている記事だけが浮き彫りになる違和感が残りますが、どのような考えをもたれているのか、返答を待っている状況です。

尚、「信三郎」氏の功績を全否定しているわけではありません。Daisaku Takahashi様は、sassina様の「信三郎」氏の経営手腕により、業績を伸ばしたと主張を支持されているとのことですが、sassina様の変更案には、「一澤帆布工業」がその知名度を上げた原因の一つである「喜久夫」氏がネームタグをを考案したという事実が、スッポリと抜け落ちています。

sassina様は、執拗に『「喜久夫」氏がネームタグをを考案した』という事実を変えたいように受取れますが、Daisaku Takahashi様も同意見なのでしょうか?お知らせ下さい。

更に言えば、「亡信夫」氏や「喜久夫」氏は「一澤帆布」の礎ともいえるバッグを、数多く考案され入賞されています。そこには「信太郎」氏が経営的に尽力されたのでしょうが『「信三郎」氏の経営手腕により、売上げを伸ばし会社を成長させた」』というには、いささか早計であるように思えます。何故なら、ハンコであった「一澤」のネームを、何故ネームタグにすることになったか?が物語っていると思います。すなわちネームタグが考案された時点で、「一澤帆布工業」が全国的に有名になっていたということです。

一方、『「信三郎」氏の経営手腕により、売上げを伸ばし会社を成長させた」』とするならば、バブル期破綻後もその経営手腕により、業績を維持できたとする根拠をご提示願いたいと、sassiina様にもお願いしているところであります。

インタビューが「亡信夫」氏や「信三郎」氏ばかりであることは、前社長と現社長なので当然のことではないでしょうか?

『皆わかっているので、「一澤信三郎帆布」設立後も、職人は一澤信三郎氏についていき、たくさんのファンが信三郎氏を支持した、また今もなお、一澤信三郎帆布のファンが絶えないことがすべてを物語っていると考えます。』とのことですが、全て真実なのでしょうか?職人に関して「大部分の職人」が「信三郎」氏についていったということは知っていますが、では辞めた人たちは何故「信三郎」氏についていかなかったのでしょうか?この件につきまして、憶測の域を出ませんが、「信太郎」氏「喜久夫」氏が悪者で「信三郎」氏が善者ということを大前提として見てはいないでしょうか?おそらく大部分の人は「一澤信三郎物語」を読み聞きし、そういった目で見ている結果であるのではないかと思量いたします。しかし「喜久夫」氏がただの悪者であるなら、何故後継者もいないのに「喜一澤」を作ったのでしょうか?そのあたり、どうのようにお考えですか?

『現在の一澤帆布工業の代表取締役が、第2、第3ブランドと発表、公言しているならわかりますが、第2、第3ブランドとの位置づけはあくまで、記載された方の主観でしかないと思います。「第2ブランド」、「第3ブランド」の表記などなしにして、それぞれの設立のみの記載をされたら良いのではないでしょうか。それが最も公平かと思います。』とのことですが、「一澤信三郎物語」(朝日新書)では、このように作品を紹介しています。『「泥沼」「確執」「骨肉の争い」。京の老舗ブランドで何が起きたのか。すべてを失ったかに見えた一澤帆布の経営者・信三郎夫妻が、スタッフらと新ブランドを立ち上げるまでを綿密な取材でまとめたノンフィクション。』このように、「新ブランド」となっている点について、いかがお考えでしょうか?

wikiに「喜一澤」の記載があるなしで「名が知られていない」とされているようですが、理解いたしかねます。

ノートページ最上段にも記載しておりますが、最高裁判決がでれば、修正すべきところは修正いたします。ですが、高裁判決ですので、「相続トラブル」の経緯として最新の情報を記載しているにすぎません。判決について「ご勘弁を」と記載しているのは、判決事由に個人名等々の記載があります。申請すれば誰でも閲覧できるものですが、何処までのことを書いていいのかどうか、法律家ではないために判断できないことと合わせて、主たる部分だけを抜粋して記載するほどの文才もない為に「ご勘弁ねがいたい」と申し上げている次第です。ご理解下さい。

「太字」「赤字」の部分を修正されることについて、当方が関知するところではありません。

『このWikiを訪問する読者が一番知りたいことは過去のことではなく、「一澤帆布」が今現在どうなっていて、「一澤帆布製」のかばんはどこで手に入るかではないでしょうか。』というご意見ですが、では何故「相続トラブル」の経緯がページ上に存在するのでしょうか?下記のmaryaa様の言葉を借りれば「ウィキペディアは、閲覧者が何を求めているかを想定も期待もしないし、してはなりません。」当方もこの意見に賛同いたします。

maryaa様へ

おしゃられる通りだと、理解しております。当方も高裁判決文を基にして記載しています。しかしながら、Daisaku Takahashi様に申し上げたように「誰でも閲覧できるもの」でありながら、法律家ではない為「何処までの記載が許されるのか?」という壁にぶつかっております。この判決文が判例として裁判所のHPから閲覧できればいいのですが。--toshiyuki matsui会話2014年10月17日 (金) 09:35 (UTC)[返信]

maryaa様

中立な立場とのこと、理解しております。様々な出典が手元にあり、その上での記載でしたが、wikiに不慣れでしたため、申し訳ありません。必ず出典を書き添えるようにいたします。--Daisaku Takahashi会話2014年11月6日 (木) 07:59 (UTC)[返信]

toshiyuki matsui様

【非常にわかりにくい】と思った理由。

一澤帆布工業の沿革の上で大きな出来事である「信三郎帆布」の開店の経緯が抜けているのはどうしてでしょうか。(最後に書き添えました出典の新聞等をご確認ください。)また、一澤帆布休業から信三郎帆布開店に至るには、メディア各社で報道されたように「一澤信三郎氏を応援する会」が発足したことも大きなできごとです。「本当にあった怖い話信頼は一瞬にして崩れる」日経BPnet http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/special/142/index3.html sassina様が「応援する会」また「信三郎帆布」開店を追記されたのになぜ削除されているのでしょうか?さらにいうと、この応援する会に関して大徳寺真珠庵、山田宗正さんや老舗旅館俵屋の佐藤年さんなど著名人の応援があったという記載が以前にあったにもかかわらず表示されないようになっているのはどうしてでしょうか。百科事典の情報としてはいささか不適切とのことですが、「一澤帆布判決に京都町衆第反論」とAERA2006.2.20号に具体的に掲載されています。このような事柄がすっぽり抜けているにも関わらず、toshiyuki matsui様は喜久夫氏の経歴などだけ随時追記されています。ここまで細かく検証されているのに、どうしてでしょうか? 喜久夫氏がカタログのイラストを書き始めたなどという記載がありますが、細かい出典も教えてください。


【株主構成について】

sassina様が記述されているように、現在の株主が記載されている出典がないのですよね?(高裁判決は2年も前とのこと。) 出典ベースが基本のwikiですのに、なぜ株主を削除することをここまで気にされるのでしょうか。信太郎氏の株数の浮彫りなどは特に問題ないことに同意します。代表取締役一澤恵美氏と一澤信太郎氏だけを、現在の出典事実もない中、記述されるなどそれこそ強引すぎます。事実という確証がない情報は混乱するので掲載しないことがWikiの前提ではないですか。なぜ、ここまで強引に掲載されるのか、その方が理解に苦しみます。皆様のご意見もご確認ください。


【タグ考案について】

考案については過去の一澤のHPのライブラリーは確認できませんでした。どのように確認できるのでしょうか?その他、出典をお知らせください。 【憶測の域を出ませんが、「信太郎」氏「喜久夫」氏が悪者で「信三郎」氏が善者ということを大前提として見てはいないでしょうか?おそらく大部分の人は「一澤信三郎物語」を読み聞きし、そういった目で見ている結果であるのではないかと思量いたします。しかし「喜久夫」氏がただの悪者であるなら、何故後継者もいないのに「喜一澤」を作ったのでしょうか?そのあたり、どうのようにお考えですか?】について。 Wiki内でこのような憶測を書かれることに、ただただ理解に苦しみます。「一澤信三郎帆布物語」は一澤信三郎氏の自費出版ではありません。朝日新書より出版されています。正式な出典のひとつと考え何か問題がありますか。また善者、悪者など考えていません。ただ喜久夫氏に関する記載ばかりが多いと感じているだけです。「喜久夫氏の後継者がいない」などとのいうことにWiki内でどう考えるか議論する気もありませんし、必要もないかと思います。しかも、どこかの出典にこのような記載があるのですか?なぜここまで立ち入ったことをご存知なのでしょうか?(引用されている判決で、「結婚せず」とのくだりを記述されていましたが、後継者はいないとまでは書かれておりません。ご自分を近しいものではないと書かれていますが、よくご存知なのですね。


【第2、第3ブランド】という表現について

「新ブランド」という表現に関しては異論はありません。なぜ「第2」「第3」と記されるのですか?どのような出典に「信三郎帆布」が「第2ブランド」、「喜一澤」が「第3ブランド」と記載されているのでしょうか。以下に記しました様々な出典には、「第2」「第3」などとする表記は一切ございませんでした。新聞各社は「新ブランド」との記載です。


【最後に】

sasssina様の意見にほぼ同意しております。私も様々な「一澤帆布」に関する出典物を持ち合わせていますので、正しい事実がwikiに記載されるために掲載させていただきます。toshiyuki matsui様の意見、記載は、「一澤帆布」に関する事実をすべて記載されているようには思いません。Maryaa様は、「Wikipedia:中立的な観点に基づき、Wikipedia:信頼できる情報源によるWikipedia:検証可能性のあるWikipedia:出典を明記することにより、記事を淡々と執筆するだけです」と書かれていました。故意に選んだ事実だけを記載する、また憶測(株主のこと、善者などの表現)は、やめていただきたいです。Sassina様も疑問に思われた上でのご提起だと思いますが、他にも同じように思われる方、ぜひご賛同ください。


【出典】

AERA「一澤帆布判決に京都町衆大反論」2006年2月20日P.72 P.73

京都新聞「一澤帆布お家騒動」[新ブランド店舗開店]2006年3月21日社会30

朝日新聞「新ブランドを前社長設立へ」2006年3月22日社会29

毎日新聞「新ブランド名は信三郎帆布」2006年3月22日社会29

日経新聞「解任前社長が新ブランド」2006年3月23日企業15

京都新聞「それはそれはうれしいカバンです。信三郎さん、ありがとう。」2006年4月6日

日本経済新聞「一澤帆布前社長の新ブランド店きょう開店」2006年4月6日35

読売新聞「解任された前社長信三郎帆布設立 新ブランド販売」2006年4月6日社会34

産経新聞「一澤帆布前社長新店舗オープン」新ブランドを立ち上げた一澤信三郎氏2006年4月6日 経済9

朝日新聞「「信」ブランド、きょう船出」新ブランドを立ち上げ、公開2006年4月6日社会29

京都新聞「信三郎帆布満帆の船出」新ブランドで一澤信三郎帆布の店舗をオープン。2006年4月6日

朝日デジタル「一澤帆布騒動今度は四男、三男店舗近くに新ブランド店」2010年7月8日 http://www.asahi.com/fashion/article/OSK201007070210.html

スポニチannex「相続争いの一澤帆布 今度は四男が新ブランド」2010年7月24日 http://www.sponichi.co.jp/society/news/2010/07/24/kiji/K20100724Z00000550.html

朝日新書「一澤信三郎帆布物語」菅聖子著

一週間以内に異論がなければ、これらの出典をもとに、追記、修正を行いたいと思います。尚、2014年夏に撮影した一澤帆布(一澤信三郎帆布)の写真がございますのでこちらも異論がなければUPさせていただきたいと思っています。 --Daisaku Takahashi会話2014年11月6日 (木) 07:59 (UTC)[返信]

Daisaku Takahashi様へ 先ず、このノートページを全てご確認下さい。

一澤帆布工業の沿革に「信三郎帆布」の開店の経緯が抜けている件に関しましてsassina様にもお話しましたが、当方が悪意をもってそのようにしているのではありません。「信三郎帆布」の開店について、追記されることに関して当方が関知するところではありません。

sassina様が「応援する会」また「信三郎帆布」開店を追記されたのになぜ削除されているのでしょうか?と言う事ですが、sassina様が追記された記事に、第三者が検証可能な出典という定義を欠くからです。

AERA「一澤帆布判決に京都町衆大反論」2006年2月20日P.72 P.73に「応援する会」の発足年月日は記載がありません。

2006年(平成18年)4月6日 - 信三郎が一澤帆布の職人を全員引き連れ「信三郎帆布」を開店も、全員とされる、第三者が検証可能な出典をお願いします。 少なくとも、「信三郎」氏について行かなかった職人が存在していたとする、労働組合の話もあります。

上記2点の事から、sassina様の記載を削除させて頂きました。

【株主構成について】元に戻したのは、議論中の話題ながら、一方的な主張と同時に、削除されているからです。 現在の株主が記載されている出典はございませんが、「信太郎」氏に株式保有を認める高裁判決があり、その他の「信太郎」氏の主張が認められていないのであれば、この問題は当然に最高裁に部隊を移し審議中であると思量いたしますが、浮き彫りにならないということでしたら、「株式構成」を削除してくださって結構です。

【タグの考案について】高裁判決文に「喜久夫」氏がタグを考案したと、明記されておりますので、そちらでご確認下さい。

「一澤信三郎物語」は綿密な取材に則り出版されたのでしょうか?ならば何故「信太郎」氏や「喜久夫」氏の言葉が書かれていないのでしょうか?「信三郎」氏は朝日出身ですよね?

結婚もせず、後継者がいると考える考えるほうが、おかしいと思いますが?いかがお考えですか?

【第2、第3ブランド】という表現についてですが、wikiの一澤帆布のページ最下段に「トラブルを発端に一澤帆布から独立したブランド関連」ということで、1番目に「一澤信三郎帆布」2番目に「帆布カバン・喜一澤」となっております。 つまり、一澤帆布工業を第1ブランドとすれば、そこから派生した「一澤信三郎帆布」2番目に「帆布カバン・喜一澤」は3番目になるということです。 「新ブランド」という書き方に異論が無いということでしたら、そのように記載いたしますが、2006年(平成18年)4月6日 - 信三郎が一澤帆布の職人を全員引き連れ「信三郎帆布」を開店という記載は、先に述べたとおり承服致しかねます。

最後に、Daisaku Takahashi様はsassina様とほぼ同意とのことですが、世に出回っている出典の殆どが「信三郎夫妻」の一方的主張が記事になっていることについて、もう一度ご自身の所有されている出典をみて中立的な観点からお考え下さい。

「信三郎」氏が一澤帆布に戻るまで、家業に従事されていた「喜久夫」氏が何故、何もしていなかったように、このページに書かれていたのか? 当方の資料には、このような一節があります。「1971年の平凡パンチの他、アンアンやノンノンが京都特集をするたびに、一澤帆布が有名になっていった」又、「信三郎」氏の言葉でも、繁盛していったのは製品に信用があったからとも書かれています。 では、その「製品に対する信用」は誰の功績であったのか?このページには「信夫」氏はもちろんのこと「喜久夫」氏の功績も書かなくては、立派な辞書にはなりませんことを付け加えさせて頂きます。--toshiyuki matsui会話2014年11月6日 (木) 10:16 (UTC)[返信]

Daisaku Takahashi様へ 「一澤信三郎さんを応援する会」のHPを確認しました。初投稿日が2006年1月29日であることも確認できました。ただ、大徳寺真珠庵の山田住職が代表となり、義援金を募集されてたのには驚かされましたが。「一澤信三郎さんを応援する義援金を一口壱萬圓で募集しています.お一人様何口でも結構です.同封の振り込み用紙にてお振り込み下さい。平成十八年正月吉日  一澤信三郎さんを応援する会 代表 山田宗正  【事務局】〒604-8214 京都市中京区新町通錦小路上る百足屋町384。記載されるのでしたら、2006年1月29日、「一澤信三郎さんを応援する会」が大徳寺真珠庵山田住職代表となり発足。一口1万円の義援金を募った。と記載されてはいかがですか? 非常に正しい情報だと思量いたします。--toshiyuki matsui会話2014年11月11日 (火) 03:05 (UTC)[返信]

追記

(1)一澤帆布工業の株式構成を削除いたしました。(2)「一澤信三郎帆布」の出店を沿革に追加いたしました。(3)「一澤信三郎帆布」及び「帆布かばん・㐂一澤」ともに新ブランドと致しました。(4)特記事項に㐂一澤を追記しました。(5)脚注を用いて出展を追記いたしました。(6)事業内容と「一澤信三郎さんを応援する会」の表現につき、ご提案をしています。以上です。ご確認下さい。--toshiyuki matsui会話2014年11月11日 (火) 05:14 (UTC)[返信]


追記2

Daisaku Takahashi様、sassina様へ 出典を多くお持ちだということは理解しましたが、それらは何に対しての出展なのでしょうか?maryaa様もご指摘されていますように、「出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明示してください。」--toshiyuki matsui会話2014年11月11日 (火) 09:08 (UTC)[返信]

一澤信三郎さんを応援する会について

特段反対意見もありませんので、次のように記載いたします。

2006年1月29日、「一澤信三郎さんを応援する会」が大徳寺真珠庵山田住職代表となり発足。一口1万円の義援金を募った。--toshiyuki matsui会話2014年11月18日 (火) 02:55 (UTC)[返信]

出典について

皆様へ

現在、脚注の無い出典がありますが、1週間以内にどの記載に対しての出典なのかが示されない場合、削除することを提案いたします。 削除する出典は下記のものです。

  • 日経ベンチャー 2006年11月号「FACE ザ・経営者」
  • 経営者会報 2008年1月号「異能経営者がゆく!」
  • 日経デザイン 2005年5月号「TOPICS」
  • 読売新聞 2011年8月27日

--toshiyuki matsui会話2014年11月17日 (月) 08:24 (UTC)[返信]


toshiyuki matsui様

株主削除、確認いたしました。冷静なご判断かと思います。沿革内、「一澤信三郎帆布」の開店、こちらも必須の記載事項かと思います。 だだ、こちらを記入されるようでしたら「目次」内にも「4.3 信三郎一家と職人の独立」の項目を、「信三郎(三男)新ブランド設立(信三郎一家と職人の独立)」と記述されてはいかがでしょうか。記載の仕方をそろえてください。喜久夫(4男)新ブランド設立との項目と合わせるとわかりやすく、異論がないようでしたら追記いたします。 尚、「一澤帆布の職人を全員引き連れ」はなぜ削除されたのでしょうか?確認したところ、sassina様が出典されている「経営者会報2008.1月号P10」「日経ベンチャー(2006.11月号P23)」にも記載がございました。これらを出典と認めず、第三者が検証可能な資料と申されますが、そのような発言に基づくと、すべての出典を疑うことになります。これを書かれた記者の方の資質を疑うべきということなのでしょうか?そこまで、信三郎氏の人望や経営者としての功績を否定され続けるtoshiyuki matsui様の意図がわかりかねます。こちらも追記の必要があるかと考えます。


【「一澤信三郎さんを応援する会」の記載のご提案に賛成です。】

AERAで見開きの大きな記事になるほど大きなできごとです。項目を設けてはいかがでしょうか。「信三郎による遺言無効確認訴訟と敗訴」後に、「一澤信三郎さんを応援する会」発足と記し、ご提案内容に合わせて、以下追記したいと思います。 「一澤信三郎さんを応援する会」が発足。 2006年1月29日、「一澤信三郎さんを応援する会」が発足。大徳寺真珠庵、山田住職が代表となり、義援金を一口一万円で募った。その後、京都政財界で大きな影響力を持つ有力者たちが相次いで三男(信三郎氏)側の支持を打ち出した。「裁判さえ勝てば、経営を握れると信太郎さんは考えたろうが、世の中そんなに甘くない」(山田住職)。「老舗の経営は店の空気や職人の心をつかんだ人でなければできない」(俵屋旅館、女将佐藤年)。後の「信三郎帆布」開店日に、国内だけでなく海外からも集まった義援金で、「京都新聞」朝刊(第14面)に「それはそれはうれしいカバンです。信三郎さん、ありがとう。」という全面広告が掲載された。

http://shinzaburo.info/archives/29 AERA「一澤帆布判決に京都町衆大反論」2006年2月20日P.72 P.73 京都新聞「それはそれはうれしいカバンです。信三郎さん、ありがとう。」2006年4月6日 (上記の追記内容は、以前記載されていたにも関わらず、百科事典の情報としてはいささか不適切とされ、削除されていた文章です。出典がはっきりしたため、異論がなければ復活させます。記載する際は上記を脚注、出典とします。)


【当方の資料には、このような一節があります。「1971年の平凡パンチの他、アンアンやノンノンが京都特集をするたびに、一澤帆布が有名になっていった】

どのような資料でしょうか?出典をお知らせください。また何度もお願いしていますが、喜久夫氏がイラストを書き始めたとはどのような出典に基づいているのか教えてください。出典がないようでしたら、記載は削除すべきではないでしょうか。


【3代目一澤信夫とその弟一澤恒三郎により、売り上げを伸ばした。】

toshiyuki matsui様はsassina様が挙げた出典を読まれたのですよね。でも納得されないとのことですが、では逆にこの文章の根拠の出典をお知らせください。sassina様の日経ベンチャー等の出典を私も確認しましたが、信三郎氏が代表取締役就任後に売上が急増したことはゆるぎない事実ではないでしょうか。


【世に出回っている出典の殆どが「信三郎夫妻」の一方的主張が記事になっていることについて、もう一度ご自身の所有されている出典をみて中立的な観点からお考え下さい。 】

何度も申し上げていますが、「一澤信三郎帆布物語」は一澤信三郎氏の自費出版ではありませんよね。先ほども指摘させていただきましたが朝日新書や日経新聞社のプロの記者の資質を問われているのですか?たくさんの新聞や雑誌の掲載も一澤信三郎氏の広告ではありませんよね?中立的な観点から考えた結果、正しい事実の記載をwikiに求めているだけですが、toshiyuki matsui様こそ、一度冷静に考えられてはいかがでしょうか。toshiyuki matsui様が指摘する喜久夫氏の功績についての根拠のある出典というのは、どこで確認できるのでしょうか?喜久夫氏の主張は、判決文だけでしょうか。そればかりが繰り返し引用されている印象です。判決文こそ、依頼人が弁護士費用を払っているわけですし、依頼人の都合の良いように弁護士が記述した、偏った主張の記録といえるのではないでしょうか。ここまでたくさんの出典を挙げているにもかかわらず、中立を欠いているかのように、toshiyuki matsui様が主張されることに、大変戸惑っております。


【事業内容について】

尚、現在一澤帆布で販売されている「一澤帆布製」のタグを掲げている商品は、別法人である㈱社信三郎帆布加工所で作成されているものと推察される。 こちらの、一文のご提案はありませんでしたが、勝手に追加・修正されるとはどういうことでしょうか。wiki内で、推察した文を記載できないことはtoshiyuki matsui様もよくご存知なのではなかったでしょうか。 toshiyuki matsui様もsassina様の事前の提案のない文章に憤慨され、削除されていましたよね?同様のことをされることが理解できませんが、とりあえずこの一文は承服しかねますので、削除いたします。 リンクの後に記した、「現在一澤帆布製の製品は一澤信三郎帆布にて展開中」の文言でいかがでしょうか。こちらが事実であり、非常にシンプルでわかりやすい表現かと考えます。


【沿革内、下記のご提案について】

また、ご提案いただいた下記の件ですが、Google検索の結果は何ら根拠に乏しいと思われますので、承服いたしかねます。事実と言い切る根拠はなんですか? 2006年(平成18年)3月1日 - 営業休止について、変更したいことがあります。 「信三郎(3男)が、解任後にミシンなどの製造機器や原材料をすべて持ち去り、休業せざるを得なくなった」という事実です。出典は「信三郎 額約13億3000万円の損害賠償」でのgoogle検索結果になります。


【出典について】

sassina様宛に削除提案されている出典ですが、上記、私の提案に異論がないようでしたら、それらを脚注を用いて引用することになります。そのため、削除はお待ちください。 sassina様、いかがでしょうか。また、私の提案に対してのsasiina様のご意見もお願いいたします。


--Daisaku Takahashi会話2014年11月19日 (水) 01:54 (UTC)[返信]


Daisaku Takahashi様へ

4.相続トラブルと一時休止の経緯」の項目に「信三郎(三男)新ブランド設立(信三郎一家と職人の独立)」と記載することに問題はないと思います。 但し、「一澤帆布の職員全員を引き連れて」は否定いたします。sassina様は、概説の中で「社長解任前の職人が70名」であったと主張されております。しかし、中日新聞2009年7月28日P15の表には、このように記載されています「2005年末・職人の大半が三男と行動を共にし、同社(一澤帆布)を退職」又、一澤信三郎帆布のwikiページには「2006年、一澤帆布工業株式会社の相続トラブルにより、裁判に負けて社長を解任された先代の三男が、ほぼ全ての職人と従業員を引き連れ独立し、創設した。」となっています。それと、出典元は忘れましたが、信三郎氏についていった職人は70人中65人だったとの記載があったと思います。

以上のことから、、「一澤帆布の職員全員を引き連れて」の記載は適切ではないと判断いたします。

「一澤信三郎さんを応援する会」の記載について、ご賛同頂き感謝します。 詳細の記載については「相続トラブルと一時休止の経緯」の中に入れてはいかがですか? 但し、「その後、京都政財界で大きな影響力を持つ有力者たちが相次いで三男(信三郎氏)側の支持を打ち出した。「裁判さえ勝てば、経営を握れると信太郎さんは考えたろうが、世の中そんなに甘くない」(山田住職)。「老舗の経営は店の空気や職人の心をつかんだ人でなければできない」(俵屋旅館、女将佐藤年)。後の「信三郎帆布」開店日に、国内だけでなく海外からも集まった義援金で、「京都新聞」朝刊(第14面)に「それはそれはうれしいカバンです。信三郎さん、ありがとう。」という全面広告が掲載された。」の出典はお持ちですか?

2006年2月20日AERAの記事及び2006年4月6日京都新聞の2006年4月6日京都新聞は「一澤信三郎さんを応援する会」の脚注としての出典ということでしょうか?それならば、問題がないと思います。

喜久夫氏の出典についてですが、既に脚注を用いて出展しております。ご確認下さい。

【3代目一澤信夫とその弟一澤恒三郎により、売り上げを伸ばした。】についてですが、先に述べた中日新聞2009年7月28日P15に、信三郎氏がこのように語っております。「どうして繁盛したかって?布きれ一つからこだわり、職人が丹念に作ったものを、目の届く範囲(京都の店)でしか売らない製造直売。対面販売をし、修理を含めた信用ですわ。『一澤帆布』と書いたタグは、『信用保証します』という証でやってきた。」とあります。 では、かばんのデザインは誰が行っていたか?平成19年1月15日の産経新聞に「鞄デザインはこうして出来上がった」という喜久夫氏の記事がありますのでご確認下さい。 要するに、この件を喜久夫氏の出典と、上記のことを合わせて考えますと、バブル景気より以前から、一澤帆布は全国に名の知れたかばんメーカーであり若者を中心にファッションのトレンドとなっていた。そしてバブル景気と妥協しないかばん作りが評価され、売り上げを伸ばしたということです。 ですので、maryaaさんもおしゃられるように、「信三郎氏がバブルの影響だけでなく、経営者としての手腕があったことは明白」である根拠(ウィキペディアでいうところの出典)をお示しください。と、お願いしている訳です。

一澤信三郎帆布物語は「ノンフィクション」とうたっていますが、何故喜久夫氏の記載が一切無いのでしょうか?この件に関しましては、様々なブログで問題視されていますよ。

そして、判決文は「判決の主文・理由などを記載し,裁判官が署名・捺印(なついん)した公文書。法曹界では「はんけつがき」と読みならわす。 」とありますように、裁判官が署名・捺印した公文書であり、「依頼人の都合の良いように弁護士が記述した、偏った主張の記録」ではありません。

「尚、現在一澤帆布で販売されている「一澤帆布製」のタグを掲げている商品は、別法人である㈱社信三郎帆布加工所で作成されているものと推察される。」について、ご提案無き加筆、大変失礼致しました。

ですので、再度ご提案させて頂きます。

「尚、現在一澤帆布で販売されている「一澤帆布製」のタグを掲げている商品は、別法人である㈱社信三郎帆布加工所で作成されているものと推察される。」出典はwikiの一澤信三郎帆布の中の「店舗」の中ほど「なお、同社の製造部門である株式会社信三郎帆布加工所の「東山工房」(京都市東山区進之町)では、職人の作業風景を窓ガラス越しに公開している。となります。

2006年3月1日-営業休止について

出典を2007年2月20日yahoo!ニュース「信三郎に13億円の賠償求め提訴」に変更し、再度ご提案いたします。 記事を抜粋します。「手作りかばんで知られる一澤帆布工業(京都市東山区)が14日、経営権をめぐる争いで同社から独立した新会社「一澤信三郎帆布」(東山区)と経営者らに総額約13億3000万円の損害賠償を求める訴えを京都地裁に起こした。遺産相続をきっかけとした兄弟間の争いが、再び法廷に持ち込まれることになった。 訴状によると、一澤帆布工業は2005年12月の臨時株主総会で、現在の代表取締役の一澤信太郎さん(61)らが弟の一澤信三郎さん(58)の社長解任を決議した。信三郎さんは社長時代の同年3月に「一澤帆布加工所」を設立し、同工業の製造部門の社員の大半を移して製品製造を全面的に手掛けており、昨年4月に販売などを担当する「一澤信三郎帆布」を新たに立ち上げて独立した。 一澤帆布工業側は「信三郎さんが解任後にミシンなどの製造機器や原材料をすべて持ち去り、休業せざるを得なくなった」と主張する。具体的な損害として、一澤帆布加工所を設立して以降の逸失利益約6億9000万円や役員報酬計約3億円などを請求している。

この件は、2009年10月21日に、請求権が無いとされ棄却されるまで争議となっています。 争議となるには、その事実があったということですよね?


最後に、「出典」についてですが、どの出典がどの記事の出典なのかをお知らせ下さい。--toshiyuki matsui会話2014年11月19日 (水) 09:01 (UTC)[返信]

sassina様へ ご質問です。一澤信三郎帆布のスタッフ便りにで(sachie)さんという方が、ブログを書かれていますが、同一人ではありませんか?--toshiyuki matsui会話2014年11月20日 (木) 05:02 (UTC)[返信]

「信三郎に13億円の賠償求め提訴」の出典日に錯誤がありました。正しくは2007年2月14日でした。

ですが、「尚、現在一澤帆布で販売されている「一澤帆布製」のタグを掲げている商品は、別法人である㈱社信三郎帆布加工所で作成されているものと推察される。」及び「信三郎さんが解任後にミシンなどの製造機器や原材料をすべて持ち去り、休業せざるを得なくなった」に、特段反論もございませんでしたので、加筆いたします。--toshiyuki matsui会話2014年11月28日 (金) 01:53 (UTC)[返信]

皆様へ

色々ご意見があるようですが、出典の正当性につきまして整理させて頂きたいと思います。 まず、アーカイブから引用されていた旧一澤帆布のサイトですが、こちらは信太郎氏社長時代のものという事になりますでしょうか。その場合、騒動の経緯からして適当な出典としては疑問が残ります。公式な一澤帆布側のアナウンスとしては、現在の一澤帆布のサイトを正式なものと考えたいと思いますがいかがでしょうか。 また、 㐂一澤サポーターズサイトが出典として多く引用されているようですが、こちらも公平な出典先としては不適当と考えますが皆様のご意見を頂けますでしょうか。 --T Tonomura会話2014年12月19日 (金) 09:08 (UTC)[返信]

追記:旧一澤帆布のサイトですが、アーカイブからは削除?されているようです。 --T Tonomura会話2014年12月19日 (金) 09:11 (UTC)[返信]

出展「帆布カバン喜一澤サポーターズサイト」についてですが、Daisaku Takahashi様、並びにsassina様にも再三アナウンスしていますが、現在の一澤帆布側から講義もないから存在しているものと考えます。 又、一澤帆布として「喜久夫氏」の功績を排除したいという思いを受けます。「喜久夫氏」の功績は、京都デザイン優品でも見て取れるように、確かに存在したものです。現在の一澤新三郎帆布に「喜久夫氏」の功績の記載が無いからと言って、直ちに不適切とする意見には、承服いたしかねます。

しかし、Daisaku Takahashi様もsassina様も突然に消えてしまいましたね。 T tonomura|様も他の2名と同様に、当方が「喜久夫氏」の功績を前面に押し出しているように思われるかも知れませんが、当方はDaisaku Takahashi様やsassina様の意向を汲み、概説などの編集もしておりますので、その点は誤解無きようお願い申し上げます。 --toshiyuki matsui会話

Toshiyuki matsui様

"出展「帆布カバン喜一澤サポーターズサイト」についてですが 〜 現在の一澤帆布側から講義もないから存在しているものと考えます。"

という事ですが、抗議もないから存在しているというのはどういった意味でしょうか?すいません、ご解説をお願い致します。

"しかし、Daisaku Takahashi様もsassina様も突然に消えてしまいましたね。 T tonomura|様も他の2名と同様に、当方が「喜久夫氏」の功績を前面に押し出しているように思われるかも知れませんが、当方はDaisaku Takahashi様やsassina様の意向を汲み、概説などの編集もしておりますので、その点は誤解無きようお願い申し上げます。"

ご両名も熱心に編集して頂いていると思いますので、ご意見を待ちたいと思います。

念の為ですが、Wikipediaのガイドラインです。Wikipedia:自分自身の記事をつくらない

喜久夫氏の功績につきまして、1996年12月に一澤帆布を実質上退社しているとの情報もみかけますが、こちらの部分はいかがでしょうか。このあたりは一澤帆布側の公式の情報や裁判記録等があれば、確認してもいいかもしれませんね。

どうやら出典の正当性等の部分で論争になっているようですので、一澤帆布側の公式の出典や見解を得るために、可能であれば一澤帆布側からの公式情報を依頼するのもいいのではないかと思います。手間も省けますので。

上記ガイドラインによると一澤帆布側が身分を明かして意見する事は可能ですので、一澤帆布側に問い合わせてみますね。 --T Tonomura会話2014年12月21日 (日) 14:58 (UTC)[返信]

T tomomura様へ

「旧一澤帆布」HPのアーカイブが無くなっているのは、現一澤帆布からの削除依頼があったからでしょう。ですが、「喜一澤サポーターズサイト」は今も存在していることから、現一澤帆布から削除要請又は講義が無いということです。削除以来又は抗議が無いということは、認めていることと同義ということです。ご理解いただけましたでしょうか?尚、Wikipediaのガイドラインです。Wikipedia:自分自身の記事をつくらないについては、十分に理解しているつもりです。

喜久夫氏が1996年12月に一澤帆布を実質上退社しているとの情報についてですが「一澤信三郎物語」の部分でしょうか?しかしながら、2001年(平成13年)11月30日まで、喜久夫氏は同社の取締役であったと、閉鎖事項全部証明書に記載があります。5年近くも、退社した人間が取締役となっていることが「実質上の退社」にたいして不自然と思われますが、いかがでしょうか?

出典の部分で、論争となっていますが、現一澤帆布に公式情報依頼しても、喜久夫氏の功績は除外されるでしょうね。現在の一澤信三郎帆布HPにて、喜久夫氏の功績は何一つ書かれてないことが、既にそれを物語っていると思います。--toshiyuki matsui会話2014年12月22日 (月) 02:18 (UTC)[返信]

T Tonomura様

いろいろと適切なご指摘ありがとうございます。ぜひ一澤帆布側の公式情報を依頼しましょう。憶測を論議しても意味がありません。また全く家業に従事していなかった一澤信太郎氏が代表取締役だった時代のHPは全く信憑性がないように私も考えております。HPがアーカイブから削除されたということは、現一澤帆布側も、このwikiに困惑しておられるのではないでしょうか。

toshiyuki matsui様

概要について、まだ議論の最中ですので、一度戻させていただきます。 まず売り上げですが、それぞれの記載で、期間が違うので、金額が変わるのは当然かと思います。 また概要のご提案について。 なぜここで、「3代目一澤信夫とその弟一澤恒三郎、喜久夫(信夫四男)により」、とどうして突然「喜久夫により」という記載になるのでしょうか?また「1971年(昭和46年)平凡パンチで「君は京都に行くべきだ」以後、様々な雑誌で「一澤帆布」が取り上げられる」とありますが、様々な雑誌とはどのようなものでしょうか?私が調べた掲載誌は、圧倒的に1980年後半以降のものになります。1970年代のものは、見つけられませんでした。この数字から見ても、三代目信夫氏の時代は「知る人ぞ知る店」」であり、四代目信三郎氏の代で大きく全国的に広まったと言えます。また京都デザイン協会を省略させていただいたのは、先日沿革内で述べた理由からです。 以下、ご提案いたします。

初代一澤喜兵衛(1853年(嘉永6年)生まれ)が行っていた西洋洗濯(クリーニング)や楽団KYOTO BANDが始まり。現在の一澤帆布は、1905年(明治38年)に創業。大正時代になると自転車が普及し、自転車のハンドルに掛ける道具袋の需要が生まれ、2代目一澤常次郎のもとで、薬屋、牛乳屋、大工、植木屋、酒屋などの職人用カバンの製造を行った。戦後はリュックサックやテントも手がけ、3代目一澤信夫とその弟一澤恒三郎により、職人用かばんを基に良質な天然素材の帆布を使った、シンプルで使い勝手の良い丈夫な各種のかばんで少しずつ知られるようになる。またかばんには 「京都東山知恩院上ル一澤帆布製」というハンコを押していたが、その頃ハンコのデザインを織ネームに変えた。1980年に信夫三男、信三郎が朝日新聞社を退社して家業に戻り、1988年に4代目の社長となる。1992年に本社ビルを新設。この頃から、雑誌、新聞などのメディアに丈夫な職人の手作りかばんが多数紹介されるようになり、全国的に知られるようになる。信三郎入社時8,000万だった年商は、2003年に10億を超えるまでになり、職人の数も飛躍的に増え、売り上げを伸ばした。

ただし、T tonomura 様が一澤帆布の正式見解をご確認くださるということですので、そちらを待った上で、正式な概要に修正させていただきます。 --Daisaku Takahashi会話2014年12月22日 (月) 06:03 (UTC)[返信]

Daisaku Takahashi様へ

先ず、ネームタグではなく織ネームとしたいのか、理解に苦しみます。そして、その考案者である喜久夫氏が、貴殿の前回の変更案にはありましたが、今回の変更案にはなくなっているのは、どういったことでしょうか?この変更案には承服致しかねます。

又、現在「一澤帆布工業」は稼働状況ではないですよね?「現在の一澤帆布は、1905年」と記載すれば、「一澤帆布」=「一澤信三郎帆布」と、読者が混乱しますので、これにも承服致しかねます。 --toshiyuki matsui会話2015年1月6日 (火) 02:16 (UTC)[返信]

追記、

又、沿革について、ご提案後の変更でありながら、勝手に削除したのは、何故でしょうか?

これについては、出典も備えておりますので、なんら問題が無いと思います。--toshiyuki matsui会話2015年1月6日 (火) 02:24 (UTC)[返信]


toshiyuki matsui様

まず、現在出典の正当性について議論させて頂いている事をご理解頂きたいと思います。

> 「旧一澤帆布」HPのアーカイブが無くなっているのは、現一澤帆布からの削除依頼があったからでしょう。ですが、「喜一澤サポーターズサイト」は今も存在していることから、現一澤帆布から削除要請又は講義が無いということです。削除以来又は抗議が無いということは、認めていることと同義ということです。ご理解いただけましたでしょうか?

私が申し上げたいのは、"一澤帆布"について記事を作成するために、「"他社"を応援しているサイト」を出典とする事の妥当性です。 さらに、「喜一澤サポーターズサイト」につきまして、一澤帆布側が存在を知っているかどうかは分かりませんよね? また、削除依頼や抗議がなければ内容を認めているというのはちょっとおかしいと思いますがいかがでしょうか? 当事者ではないので削除依頼や抗議があった事を確認する由もありませんが。とにかく、憶測で記事を編集するのは止めませんか。

> 喜久夫氏が1996年12月に一澤帆布を実質上退社しているとの情報についてですが「一澤信三郎物語」の部分でしょうか?しかしながら、2001年(平成13年)11月30日まで、喜久夫氏は同社の取締役であったと、閉鎖事項全部証明書に記載があります。5年近くも、退社した人間が取締役となっていることが「実質上の退社」にたいして不自然と思われますが、いかがでしょうか?

上記で検索するとネット上のあちこちに記載がありますので、事実関係を一澤帆布側に確認した方がいいと思います。出典でもあるといいのですが。 また、matsui様の上記のご理論によると、この記事も削除されてないと言う事は喜久夫氏側が認めているという事になりますがそれでよろしいのでしょうか。

> 現一澤帆布に公式情報依頼しても、喜久夫氏の功績は除外されるでしょうね。現在の一澤信三郎帆布HPにて、喜久夫氏の功績は何一つ書かれてないことが、既にそれを物語っていると思います。

はい、こちらは一澤帆布工業のページにつき、現一澤帆布の公式の見解を待ちたいと思います。 依頼をしておきましたので、対応を少し待ちましょう。対応してくれるかどうか分かりませんが。。

また、Daisaku Takahashi様ご提案の概説につきましても、一澤帆布側の公式の見解を待ちたいと思います。 --T Tonomura会話2014年12月22日 (月) 11:40 (UTC)[返信]

追記:一澤帆布工業側の公式見解を求めるにあたり、一澤帆布工業様からこちらにコメントを頂く場合、公式見解である事の証明として、一澤帆布工業のウェブサイト側にてその旨明記して頂く事を求めます。こちらは一澤帆布工業のウェブサイトのお問い合わせを通じて当方から依頼致します。 --T Tonomura会話2014年12月22日 (月) 15:52 (UTC)[返信]

T tomonomura様へ

先ず、ネット上の情報を出典にすることを先に否定されたのは、Daisaku Takahashi様です。 「また、matsui様の上記のご理論によると、この記事も削除されてないと言う事は喜久夫氏側が認めているという事になりますがそれでよろしいのでしょうか。」と言う事ですが、「喜一澤サポーターズサイト」には、喜久夫氏の退社は2008年となっており、全く違う意見であることを認めておられるようです。

尚、先にも述べましたように。一澤帆布に一番長く携わってきたのは喜久夫氏ですので、そちらの見解も取ってください。

ただし、「どのような内容を依頼され、どのような回答が返ってきたか、他の方が見て正当性を判断する為に、どのような方法を取られるのか、ご提示下さい。」--toshiyuki matsui会話2015年1月6日 (火) 02:35 (UTC)[返信]

Toshiyuki matsui様へ

またしても私のノートが消されておりました。 意図的でないとは思いますがお気を付け下さるようお願い申し上げます。 元に戻しましたのでよろしくお願い致します。 --T Tonomura会話2015年1月7日 (水) 01:19 (UTC)[返信]

皆様へ

一澤帆布工業側から今回の件につきまして回答がございましたので掲載致します。

-- ご丁寧にお問合せいただきまして誠にありがとうございます。 他社のサポーターズサイト、一澤帆布の旧ウェブサイト、また個人のブログ等は 公式の見解ではございません。 正しい情報もそうでない情報も混在しております。 現在、「一澤信三郎帆布」のウェブサイトで「一澤帆布」の歴史をご覧いただけま す。 こちらが公式見解となりますので、ご参照いただきますようよろしくお願いいたしま す。 皆様にご心配、ご迷惑をおかけしましたが、お陰様で「一澤帆布製」の製品も復活 し、 2015年は一澤帆布創業からは110周年の記念の年となります。 このような年を迎えることができるのも、弊社のかばんをご愛用くださっている皆 様、 そして弊社を支えてくださるすべての方々のお力添えあってのことです。 心より感謝申し上げます。 --

上記回答が得られました。近日中に一澤帆布のウェブサイトにて同様の内容を掲示して頂くとの事です。 ここで、皆様に出典の正当性につきまして改めてご確認を頂きたいと思います。

--T Tonomura会話2015年1月7日 (水) 01:27 (UTC)[返信]

皆様へ

上記一澤帆布工業側からの回答から、"他社のサポーターズサイト" "一澤帆布の旧ウェブサイト" "個人のブログ"を出典とした記事を削除する事を提案致します。 皆様のご意見をお待ちしております。

--T Tonomura会話2015年1月7日 (水) 01:47 (UTC)[返信]


T tonomura様へ

喜久夫氏には、見解を求めないということでしょうか?ご返答下さい。--toshiyuki matsui会話2015年1月7日 (水) 01:43 (UTC)[返信]

Toshiyuki matsui様へ

こちらは"一澤帆布工業"のページにつき、上記の一澤帆布工業からの正式回答に基づき、記事内容について、利害の対立している他社さんの見解を求める事は不適当と考えます。

--T Tonomura会話2015年1月7日 (水) 01:51 (UTC)[返信]

T tonomura様へ

一澤帆布の公式見解ではなく、一澤信三郎帆布の公式見解ですよね?

では、この見解は一澤信三郎帆布のWikiページに記載するべき事項ではありませんか?

何度も申し上げますが、一澤帆布の歴史を語る以上、喜久夫氏の見解は最低限必要な事項であると主張します。

これでは、Wikipedia:中立的な観点に基づき、Wikipedia:信頼できる情報源によるWikipedia:検証可能性のあるWikipedia:出典を明記することにより、記事を淡々と執筆する。出典元のWikipedia:著作権への配慮、記事対象が存命個人であればWikipedia:存命人物の伝記も考慮。:前述の通り、ウィキペディアは中立的な観点が求められます。Wikipedia:自分自身の記事をつくらないに抵触すると考えます。

一澤帆布工業は一澤信三郎帆布とは異なる企業ですよ。それを、例え一澤帆布の製品が一澤信三郎帆布で買えるとしても、別会社の一澤信三郎帆布が一澤帆布と同一会社であるように、読者が誤解してしまいます。

Wikipedia:自分自身の記事をつくらないということを尊重してくださいますようお願い申し上げます。

Toshiyuki matsui様へ

はい、おっしゃる通り、一澤帆布工業と一澤信三郎帆布は別の会社ですので、混同しないよう、"一澤帆布工業株式会社"に問い合わせを致しました。 上記は"一澤帆布工業株式会社"からの正式な回答です。内容を保証するため、追って正式に一澤帆布工業のウェブサイトにも同様の見解を掲載するとの回答を得ておりますので、しばらくお待ち下さい。

また、喜久夫氏につきましてmatsui様のおっしゃる通り、実際にどういった功績があったのか調べる必要がありますので、上記、ご提案頂いたように中立的な観点から、喜久夫氏の勤務実態等に付きまして、裁判記録を調べて掲載する事をご提案致します。

皆様へ

Toshiyuki matsui様がおっしゃる通り、Wikipediaのガイドラインに沿って編集したいと思います。 裁判記録を持っておられるかたがありましたら、喜久夫氏に関する部分を掲載頂けると有り難いです。

--T Tonomura会話2015年1月7日 (水) 05:32 (UTC)[返信]

T tonomura様へ

どのようにして、どのような形で、一澤帆布工業へ問い合わせをされたのですか?又、一澤帆布工業のHPは何処に存在するのでしょうか?お知らせ下さい。

又、「現在、「一澤信三郎帆布」のウェブサイトで「一澤帆布」の歴史をご覧いただけます。」これはどういった意味でしょうか?一澤帆布工業への問い合わせでなく、一澤信三郎帆布への問い合わせであったと推察いたしますが、間違いでしょうか? であるなら、一澤信三郎帆布の公式HPでの一澤帆布工業のブランドヒストリーは、他の企業の主張ということになると思います。この点についてもご回答をお願い致します。 --toshiyuki matsui会話2015年1月7日 (水) 07:20 (UTC)[返信]

Toshiyuki matsui様

http://www.ichizawa-hanpu.co.jp/

現在こちらですね。こちらのURLから辿りました。 whoisで確認しましたが、ドメインの所有者は間違いなく一澤帆布工業株式会社です。 代表者の一澤恵美様名で回答を頂いております。 お疑いがなきよう、こちらのドメインにて、見解を掲載して頂くよう依頼してあります。

--T Tonomura会話2015年1月7日 (水) 07:27 (UTC)[返信]

Toshiyuki matsui様へ

はい、一澤帆布工業様からのご回答として、現在上記内容が正しいとの確認が得られました。 間違いがないように、裏付けとして、一澤帆布工業株式会社所有の ichizawa-hanpu.co.jp にて同様の見解を頂くよう強く求めておきましたのでご安心下さい。

--T Tonomura会話2015年1月7日 (水) 07:32 (UTC)[返信]

Toshiyuki matsui様へ

失礼かと存じますが、編集履歴などからして、随分と喜久夫氏寄りのご意見が多いように見受けられます。まさかとは思いますが、ご本人や関係者、協力会社の方ではありませんよね?もしそのような方が意図的に記事を誘導している事実がありましたら大変な問題ですので、一応確認させて下さい。不躾で申し訳ございません。

--T Tonomura会話2015年1月7日 (水) 07:39 (UTC)[返信]

T tonomura様へ

その件につきましては、何度も否定をさせて頂いております。

しかしながら、一澤帆布工業にもっとも長く在籍し、数々の鞄デザインをされている喜久夫氏の功績が、一澤帆布工業のwikiページに存在しないことに違和感を覚え、調べ、加筆したのは確かです。

一澤帆布工業の現社長が一澤信三郎帆布の奥様であり、一澤帆布工業=一澤信三郎帆布となることを危惧しております。現に一澤信三郎帆布の公式HPでは、創業年月が一澤帆布工業のものとなっていることから、この一澤帆布工業のwikiページを使い、史実の捻じ曲げや混同、表に出したくない事実の隠蔽、wikiを使ったイメージ操作が行われないことを願ってやみません。

T tonomura様におかれましても、一澤帆布工業=一澤信三郎帆布とならないよう、ご配慮願います。--toshiyuki matsui会話2015年1月7日 (水) 07:58 (UTC)[返信]

T Tonomura様

一澤帆布工業側からの回答のご手配、ありがとうございました。まさかとは思いましたが、こんなにすぐにご回答いただけるとはありがたいですね。しかも、HPに上げていただけるのですね?信憑性の高いこちらの正式な回答があれば、正式なwikiページが出来上がります!感謝申し上げます。 ご提案いただきました通り、"他社のサポーターズサイト" "一澤帆布の旧ウェブサイト" "個人のブログ"を出典とした記事を削除することに同意いたします。以前よりそれらの信憑性が気になっておりました。

toshiyuki matsui様、

今回の回答は「一澤帆布工業」からの回答とT Tonomura様も記載されています。それがどうして「一澤信三郎帆布」からという捉え方になるのでしょうか?toshiyuki matsui様こそ、正式な「一澤帆布工業」の見解を無視して、ご自分で「自分自身の記事を作ろう」となさっていることをご自身でご認識いただきたいと思います。 またT Tonomura様のノートの記載を何度も削除されるなど、一体どういうおつもりでしょうか?はっきり申し上げて、ご自分の都合の良いように、誘導しようとされているとしか思えません。本当に何度議論しても、話になりません。 尚、概要については正式な一澤帆布工業からの見解にあるように、「一澤信三郎帆布」のウェブサイト内のブランドヒストリーを参照しながら、一から書き換える必要があると考えます。

また、喜久夫氏について、「病弱であったこともあり、仕事を辞めて母の看病をしながら趣味に生きたいなどと言って、平成8年12月同社を退社した」と平成20年11月27日判決文に記載がございました。平成8年(1996年)以降、喜久夫氏が一澤帆布で功績を残されていたという記載が、どこかの出典にない限りは、沿革も平成8年に修正すべきとご提案いたします。 --Daisaku Takahashi会話2015年1月7日 (水) 07:59 (UTC)[返信]

Daisaku Takahashi様へ

T tonomura様にも申し上げたように、「一澤帆布工業にもっとも長く在籍し、数々の鞄デザインをされている喜久夫氏の功績が、一澤帆布工業のwikiページに存在しないことに違和感を覚え、調べ、加筆したのは確かです。

一澤帆布工業の現社長が一澤信三郎帆布の奥様であり、一澤帆布工業=一澤信三郎帆布となることを危惧しております。現に一澤信三郎帆布の公式HPでは、創業年月が一澤帆布工業のものとなっていることから、この一澤帆布工業のwikiページを使い、史実の捻じ曲げや混同、表に出したくない事実の隠蔽、wikiを使ったイメージ操作が行われないことを願ってやみません。

貴殿におかれましても、一澤帆布工業=一澤信三郎帆布とならないよう、ご配慮願います。」

沿革については、正式に会社の登記簿があります。退社したものを5年間も役員にしておく会社はありません。したがって沿革の修正は必要なきことと思量いたします。--toshiyuki matsui会話2015年1月7日 (水) 08:13 (UTC)[返信]

Toshiyuki matsui様へ

まず、関係者でないかという失礼な指摘に付きましてお詫び申し上げます。最近はそのような事で逆ブランディングになった例などもありましたので、一応確認させて頂きました。重ねてお詫び申し上げます。

また、記事の公平性につきましては、現在、出典からみなおしているように特に注意をしたいと思っておりますので、ご協力頂きたいと思います。


皆様へ

沿革につきましては沿革の項のノートで受賞歴を別立てにすることをご提案申し上げておりますので、そちらでお願いします。 また、ichizawa-hanpu.co.jpへの正式なリリースを待って、出典につきまして整理させて頂きたいと思います。

一澤帆布工業株式会社 ≠ 株式会社一澤信三郎帆布 ではありますが、裁判の流れからして、正当に一澤帆布ブランドは一澤信三郎帆布が継承していると考えたいのですが、いかがでしょうか。 実際は 先代が亡くなる → 信太郎氏のものに → 信三郎氏と職人追い出される → 信三郎氏と職人が元にもどる。という流れで元の鞘に収まっただけですよね?

このあたりの見解を皆様とまず共有したいと思いますので、ご意見がある方はお願い致します。

--T Tonomura会話2015年1月7日 (水) 08:34 (UTC)[返信]

T tonomura様へ

受賞歴を別立てすることに、異論はありません。

ただ、一澤帆布工業株式会社 ≠ 株式会社一澤信三郎帆布 である以上、この一澤帆布工業のwikiページが一澤信三郎帆布のブランディングになることは避けて頂きたいと考えます。

一澤信三郎帆布のwikiページも存在していますので、そちらで詳しく書き足せばよいのではないでしょうか?--toshiyuki matsui会話2015年1月7日 (水) 08:47 (UTC)[返信]

皆様へ

問題無さそうな部分なので、受賞歴を別立てにさせていただきました。

--T Tonomura会話2015年1月7日 (水) 09:10 (UTC)[返信]


T Tonomura様

一澤帆布ブランドは「一澤信三郎帆布」が継承しているとのお考えに賛成です。「一澤帆布製」の昔のかばんも「一澤信三郎帆布」で修理を受けているようで、一澤信三郎帆布のFacebookにも40年前のリュックを修理したとの記事がありました。「一澤信三郎帆布」と社名は変わりましたが、それだけのことです。社長は一澤信三郎氏で、職人も一澤帆布時代の職人さんであり、店舗も同じ、「一澤帆布製」のネームのかばんも復刻しています。本当に元の鞘に戻っただけですね。この流れを否定する理由がありません。 Toshiyuki matsui様は、「一澤帆布工業にもっとも長く在籍し、数々の鞄デザインをされている喜久夫氏」と書かれています。全てを否定するつもりはありませんが、「喜一澤サポーターズサイト」が正しい情報でないということが正式にわかった今、何の信憑性もございません。何か検証可能な出典を提示してください。 またToshiyuki matsui様は、検証もできない喜久夫氏の功績を上げられ、一澤信三郎帆布側が史実の捻じ曲げや混同、表に出したくない事実の隠蔽をしているかのようなことを記載されています。こういった表現、記載はなんの根拠もない上、一澤信三郎帆布のブランドイメージを下げ、名誉棄損で訴えられうるべきことであることをご認識された方がよいのではないでしょうか。「一澤信三郎氏」の数十、あるいは数百はあるかと思われる出典を挙げても、いまだこのようなことばかり記載され、本当に利害の対立する「喜一澤」の関係者と思われるのも当然でしょう。 T Tonomura様と共に正しい方向にこのwikiページを進めていく所存です。


Toshiyuki matsui様

「沿革については、正式に会社の登記簿があります。退社したものを5年間も役員にしておく会社はありません」と書かれていますが、実際の判決文に平成8年(1996年) に退社と書かれているのですから、ファミリービジネスにありがちな給料だけ支払われていた形だったのでしょう。平成8年(1996年)以降、喜久夫氏が一澤帆布で功績を残されていたという記載が、どこかの出典にない限りは、沿革も平成8年に修正すべきとご提案いたします。

--Daisaku Takahashi会話2015年1月9日 (金) 04:38 (UTC)[返信]


はじめて投稿します。 一澤信三郎帆布が一澤帆布の流れをくんでいて、一澤信三郎帆布=一澤帆布ですよね? ≠という理由が、よくわかりません。 また一澤帆布工業より、正式なコメントをいただいたとの記述があったので 公式のコメントに沿ってwikiを正しいものにしてほしいと思います。 信憑性のないものは載せるべきではないと、読ませていただいて思いました。 --山崎寛子会話2015年1月9日 (金) 08:31 (UTC)[返信]

Daisaku Takahashi様

喜久夫氏の実際の退社につきましては、裁判記録等をお持ちでしたら出典と内容を明らかにして頂きたいと思います。

--T Tonomura会話2015年1月9日 (金) 09:14 (UTC)[返信]

山崎寛子様

ご投稿ありがとうございます。 記事を中立的なものにするため、現在こちらの皆様と、まず出典の正当性を確認中です。 一澤帆布工業から正式な回答を頂きました。一澤帆布工業のウェブサイトへの見解の掲載を待ちまして、 それにそって各項目を出典から検証して不適切な部分は変更致します。 中立性を保つためご協力頂きますようお願い致します。

--T Tonomura会話2015年1月9日 (金) 09:14 (UTC)[返信]


皆様

一澤帆布工業株式会社より、正式なコメントを自社ドメインにて公開した旨の連絡を頂きました。

http://ichizawa-hanpu.co.jp/wiki/

念のため、下記引用です。

--

ネット上の情報につきまして、他社のサポーターズサイト、一澤帆布の旧ウェブサイト、また個人のブログ等は私共の公式の見解ではございません。正しい情報もそうでない情報も混在しております。 「一澤帆布製」の歴史につきましては現在、「一澤信三郎帆布」のウェブサイトで「一澤帆布」の歴史をご覧いただけます。こちらが公式見解となりますので、ご参照いただきますようよろしくお願いいたします。 皆様にはご心配、ご迷惑をおかけしましたが、お陰様で「一澤帆布製」の製品も復活し、2015年は一澤帆布創業からは110周年の記念の年となります。 このような年を迎えることができるのも、弊社のかばんをご愛用くださっている皆様、そして弊社を支えてくださるすべての方々のお力添えあってのことです。 心より感謝申し上げます。

一澤帆布工業株式会社

代表取締役 一澤恵美

--


これにより一澤帆布工業側からの正式な見解の裏付けが取れたと判断したいと思います。 よって、中立的視点から上記の正式ではない出典に基づく記事の削除、変更を順次行っていきたいと思います。

皆様にはご確認頂きますようお願い致します。

--T Tonomura会話2015年1月16日 (金) 10:30 (UTC)[返信]


T Tonomura様

一澤帆布の正式な見解をありがとうございました。HPにきちっと公開していただいたことにより、裏付けがとれ、これでこのwikiのページも整いますね。 感謝申し上げます。一澤帆布サイドも偏った記載のあるこのwikiをご覧になられて、さぞ驚かれたことでしょう。 他社のサポーターズサイト、個人のブログの出典による文章をまず削除いたしましょうか。 正しく公正な内容のwikiページとなるよう、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。 --Daisaku Takahashi会話2015年1月19日 (月) 08:41 (UTC)[返信]

Daisaku Takahashi様、T Tonomura様へ 一澤帆布側からの正式見解、確認致しました。 喜一澤サポーターズサイトや個人のブログによる出典の整理はお願い致します。

ただ、新聞等の出典が明確なものまで、編集されませんように、ご留意下さい。--toshiyuki matsui会話2015年1月19日 (月) 09:03 (UTC)[返信]

Daisaku Takahashi様 Toshiyuki matsui様

ご確認ありがとうございました。では、順番に整理を進めさせて頂きます。 まずは出典が明らかに不明確なものにつきましては一旦削除作業を進めます。 改変の必要な項につきましては順次こちらでご提案申し上げます。

--T Tonomura会話2015年1月22日 (木) 09:31 (UTC)[返信]


4 相続トラブルと一時営業休止の経緯

ご提案

4.6について、下記のように変更することをご提案いたします。出典はYahoo!ニュース2007年2月14日です。 一澤帆布工業側は「信三郎(3男)が解任後にミシンなどの製造機器や原材料をすべて持ち去り、休業せざるを得なくなった」と主張する。具体的な損害として、一澤帆布加工所を設立して以降の逸失利益約6億9000万円や役員報酬計約3億円などを請求している。 一方、信三郎(3男)は「両者の争いはすべて解決済み。無用な争いをしている場合ではなく、ものづくりでお客の期待に応えていくべき」としている。

同月、信太郎サイドは京都七条公共職業安定所(整理番号 26020 - 4057571)を通して、職人5人を新たに募集。32歳までなら未経験者でも応募可能だとしている。なお、この際の開示情報によると、同月時点での従業員は10人。--toshiyuki matsui会話2014年11月28日 (金) 02:22 (UTC)[返信]


toshiyuki matsui様へ

【「信三郎(三男)新ブランド設立(信三郎一家と職人の独立)」について】

こちら項目に入れさせていただきました。


【「職人を全員引き連れ」について】

ご指摘の点、理解いたしました。現在、判決文も含めた様々な出典で確認中です。改めてご提案させていただきます。


【「一澤信三郎さんを応援する会」の記載について】

ご賛同いただきましてありがとうございます。項目を追記いたしました。出典も記載いたしました。


【喜久夫氏の出典についてですが、既に脚注を用いて出展しております。ご確認下さい。について】

脚注では「喜一澤サポーターサイト」となっています。こちらは正式な出典と認めることができません。なぜなら、名前の通り「喜一澤」のサポーターのサイトであり、一澤喜久夫氏の応援をされている方が書かれたサイトであるためです。当然、こちらを「中立な正式な出典」とはwikiの規定では認めることはできませんよね。こちらを出典とされるとはどういうことでしょうか?これだけたくさん記載をされ、他社の皆様にも細々指摘されているtoshiyuki matsui様がこのようなことをされることに対し、理解苦しみます。脚注(3)(4)(6)に関しまして、サポーターサイト以外の出典がないようでしたら、一週間後に削除させていただくしかないでしょう。また「概要」内の、「1971年より3代目と〜」の一文も「喜一澤サポーターサイト」だけが出典ということでしたら、記載は削除すべきということになります。 また過去の「一澤帆布」のアーカイブも脚注とされていますが、こちらも一澤喜久夫氏が取締役に復活された時のサイトであり、もちろんご自身の都合の良いように一方的に記載されている可能性がございます。現在はアーカイブでしか残っていないサイトですし、現「一澤帆布」の社長がこのような記載を認められているような出典は見受けられません。そのため、このサイトも「中立な正式な出典」とみなすことは難しいと思慮いたします。他に確認が可能な正確な出典はないのでしょうか。信三郎氏側の一方的な主張で、流されているというようにいつもtoshiyuki matsui様は主張されますが、中立な数々の出典を基に記載をするwikiでは、いたしかたありません。私が主張、指摘させていただいているのは、数々の出典に基づいたことだけです。


【3代目一澤信夫とその弟一澤恒三郎により、売り上げを伸ばした。】について

中日新聞2009年7月28日P15、こちらの記事をあげておられますが、もちろんこちらの記事も確認いたしましたが、この記事がなぜ「一澤信夫とその弟一澤常三郎により、売り上げを伸ばした」という記載の証拠出典となるのでしょうか?「売上をこの時期に伸ばした」と確認できる記載はなんらございません。それに対し、何度も申し上げておりますが、sassina様があげられた日経ベンチャー等の出典は具体的な数字まで記載されており、急激に売上が伸びたことがはっきりと記載されています。「信三郎氏の手腕」を否定されるのでしたら、下記をご提案させていただきます。 戦後は3代目一澤信夫とその弟一澤恒三郎により、リュックサックやテントも手がけ、職人用を基にした各種のかばんで知られるようになる。またかばんには「一澤帆布製」というハンコを押していたが、信夫四男、喜久夫氏がそのハンコのデザインを織ネームとすることを考案。1980年に信夫三男、信三郎が朝日新聞社を退社して家業に戻り、1988年に4代目の社長となる。1992年に本社ビルを新設。良質な天然素材の帆布を使った、シンプルで使い勝手の良い丈夫なかばんが全国的に知られるようになり、信三郎入社時8,000万だった年商は、2003年に10億を超えるまでになり、職人の数も飛躍的に増え、売り上げを伸ばした。」 出典は下記を脚注としてあげさせていただきます。 日経ベンチャー 2006年11月号「FACE ザ・経営者」 経営者会報 2008年1月号「異能経営者がゆく!」


【”一澤信三郎帆布物語は「ノンフィクション」とうたっていますが、何故喜久夫氏の記載が一切無いのでしょうか?この件に関しましては、様々なブログで問題視されていますよ。”について】

toshiyuki matsui様、冷静にお考えください。何度も申し上げますが、私が上げさせていただいています出典は、もちろん「一澤信三郎帆布物語」だけではありませんよね。これだけの出典を上げているにもかからわらず、なぜか「信三郎氏」を否定されようとされているように思われ、不思議に感じております。また、すべてをそばで見ていて、一緒に仕事をしていた信夫氏の弟の一澤恒三郎氏は、信三郎氏を支持し行動を共にしていることはご存知ですよね。たくさんの職人、京都の町衆だけではなく、身内でずっと共に仕事をしてきた一澤恒三郎氏が、長男信太郎氏と喜久夫氏を全く支持しなかった!その事実が、すべてを物語っているのではないでしょうか。ブログで様々なことを書かれている方たちこそ、実際両者の意見を聞いたこともなく、多くの憶測を元に、おもしろおかしく勝手な意見を書かれているように思います。中立なwiki内でそのような一方的なブログを参考資料とする必要も、議論する必要もないかと思います。toshiyuki matsui様もそのようなブログを読まれて、同調されているわけですから、この中立なwikiへの記載のご資格を疑わざるを得ません。toshiyuki matsui様は憶測を元に、喜久夫氏の応援の記載をされようとなさっているように感じてなりません。私は、すべて持ち合わせている出典を元に、ご提案、記載を行っております。

判決文を記載の出典にかなり強くあげられておりますが、この部分もtoshiyuki matsui様は喜久夫氏のことのみ選んで記載されているように感じられます。私も判決文を確認しておりますので、しばしお待ちください。何度も申し上げますが、判決文の引用も、意図的に選んだ内容だけはおやめいただきたく思います。


【「尚、現在一澤帆布(一澤信三郎帆布ですよね?)で販売されている「一澤帆布製」のタグを掲げている商品は、別法人である㈱社信三郎帆布加工所で作成されているものと推察される。」について】

「株主」の記載の際もご指摘いたしましたが、なぜ「推測される」ことをwiki文章内に記載されるのか意図がわかりかねます。なぜ事実である「現在一澤帆布製の製品は一澤信三郎帆布にて展開中」の記載では問題なのでしょうか?


【営業休止について】

toshiyuki matsui様が先にこのように記載されていました。判決文は「判決の主文・理由などを記載し,裁判官が署名・捺印(なついん)した公文書。法曹界では「はんけつがき」と読みならわす。 」と。この上記の件は、審議にさえなっておりませんし、判決がでていないということですよね?一方的な訴状だけですので、事実かどうかもわからない記事をwikiに記載されようとすることを否定いたします。また、突然なんの議論もなく加筆されましたが、Yahoo!ニュースの出典に関しては、記事の内容も確認できず、「参照」だけでは正式な出典として認めることはできません。削除いたします。


【一部の脚注について】 一般の方のブログを脚注としてあげておられますが、どういうことでしょうか?(22)、(23)、(33)、(34)に関しましては、すべて個人の感想であり、真偽のわからないものになります。どうしてこれが正式な出典と言えるのでしょうか。こちらを脚注として記載されているtoshiyuki matsui様に対しては、wikiへの書き込みの資質を疑わざるを得ません。削除いたします。 また、いくつかの出典は既にリンク切れで、現在確認することができません。こちらで新聞記事が手元にあるので、差し替えられるものは可能でしょうか?また、それ以外確認できる出典がない限りは、削除することを提案いたします。


【最後にtoshiyuki matsui様へご助言です。】

sassina様がどのような方は存じませんが、ご提案されていた内容が私が所持している様々な出典と比較しても、意図的に選ばれた内容とは感じませんでした。それに比べ、wiki内でtoshiyuki matsui様が記載された内容が、非常に偏ったものと感じました。また、「喜一澤サポーターサイト」を支持されているようですが、このノート内で何度やりとりさせていただいてもtoshiyuki matsui様のご意見が、正式な出典ベースではなく、ノート内とはいえ、憶測や推測を書かれることが多く、中立な立場とは言いがたいように思われます。お気持ちの中のどこかで、一澤喜久夫氏を応援したいと思っていらっしゃるのではないでしょうか。 Maryaa様は、「ウィキペディアは中立的な観点が求められます。Wikipedia:自分自身の記事をつくらないにあるように、利害関係のある方、記事対象の関係者や深くかかわっている方(ファンも同様)は、執筆においては特に慎重に対応するか、ご遠慮いただくかになります。」と書かれています。 どうもtoshiyuki matsui様は、こちらのwikiへ記載される資格をお持ちでないように思います。ご自身でお考えいただいて「一澤帆布工業wiki内の記載」は、お辞めになられるべきだと最後に謹んで進言させていただきます。

--Daisaku Takahashi会話2014年11月28日 (金) 02:39 (UTC)[返信]


Daisaku Takahashi 様へ

【「信三郎(三男)新ブランド設立(信三郎一家と職人の独立)」について】確認しました。

【「職人を全員引き連れ」について】全員という出典があっても、中日新聞2009年7月28日P15等、全員ではないとしている出典があります。したがって、「職人を全員引き連れ」という表現は好ましくないと思量いたします。

【喜久夫氏の出典について】ですが、脚注で「喜一澤サポーターズサイト」が正式な出典と認められないというのでしたら、「信三郎さんを応援する会」の脚注出典も同様となりますが、いかがお考えになりますか? アーカイブにしても、現「一澤帆布」の社長である恵美氏から、削除要請を出せばアーカイブから消えますが、それをしていないことは認めていることと同様と思量いたします。ですので、喜久夫氏が取締役であったころ書かれたものは、中立な出典と思います。

【3代目一澤信夫とその弟一澤恒三郎により、売り上げを伸ばした。】についてですが、中日新聞2009年7月28日P15だけをあげているのではありません。産経新聞平成19年1月15日P28「鞄デザインはこうして出来上がった」(喜久夫氏談)にも記載があるように、1971年の平凡パンチをかわきりに、アンアンやノンノンでも取り上げられ、全国的に名前が浸透していったとあるように、喜久夫氏が家業につき、タグを考案した時点で、一澤帆布は全国的に有名な企業であったと言っているのです。

特段変更することは無いと思いますが、それでもあえて変更するならば、現在の空行のところに「1980年に信夫三男、信三郎が朝日新聞社を退社して家業に戻り、1988年に4代目の社長となる。1992年に本社ビルを新設。」だけでよいのではないでしょうか?Daisaku Takahashi様のご提案ですと、「良質な天然素材の帆布を使った、シンプルで使い勝手の良い丈夫なかばんが全国的に知られるようになり」が、信三郎氏が代表になられてから有名になったと解釈されますが、前段のとおり信三郎氏が代表になられる前には、一澤帆布は全国的に有名だったのです。何度も申し上げますが「バブルの影響ではなく信三郎氏の経営手腕により売り上げを伸ばした」事を証明できる出典をお願い致します。

一澤帆布での喜久夫氏の功績について、記載してはいけないのでしょうか? 私の資料である判決文は、原告が信太郎氏で、被告が信三郎夫妻と喜久夫氏です。その中でwikiに記載のないところを抜粋しただけで、喜久夫氏の応援と考えるのか理解に苦しみます。

【営業休止について】ですが、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070214-00000053-kyt-l26 で検索してください。 最終的には原告側に請求権がないということで、棄却されていますが、提訴してから棄却されるまで2年以上あります。何を根拠に審議にさえなっていないと言いきれるのか、理解に苦しみます。

一部の脚注について、信三郎夫妻と労働組合についての重要な資料と思量致します。そもそも、最終的には和解になっている為に、最終的にどうなったかではなく、当時どのようなことが問題になり、労働組合ともめていたかを示す資料です。 又、リンク切れになっている他の脚注もURLがリンク切れになっているだけで、それを元に資料を探すことができるものです。Daisaku Takahashi様のお持ちの資料がどのようなものかわかりませんが、資料を探せる情報元として、削除には反対致します。

最後に、sassina様の提案や意見が、意図的に選ばれていないものとする、貴殿の考え方には賛同いたしかねます。 sassina様は、一澤帆布を一躍有名にしたネームタグの考案者である喜久夫氏を、このwikiページから消す提案をされてきたのですよ? 私が、私の持つ情報で、喜久夫氏の功績を書かなければ、一澤帆布のwikiページは正しくない百科事典になるでしょう。 「喜一澤サポーターサイト」にしても、ページ製作者は喜久夫氏からの情報を聞き、書いてあるのは明白でしょう。そうでなければ、喜一澤よりクレームが入ってページは閉鎖されているからです。又、一澤帆布からも、同様にクレームが入っていないから、あのフェイスブックページはあるのです。

そのようなsassina様と同意見であるというのであれば、貴殿こそwikiに記載される資格がないと進言させて頂きます。--toshiyuki matsui会話2014年11月28日 (金) 08:11 (UTC)[返信]


Toshiyuki matsui様へ

【全員引き連れ】について

中日新聞確認いたしました。同記事内に「約70人いた職人はほぼ全員が信三郎氏についていくと言ってくれ新会社信三郎帆布を立ち上げた」と記載されています。こちらには「ほぼ」という表現がありますが「全員」と表記されていて、誰かが抜けているとも書かれていません。また「経営者会報2001年1月号10P」に「70名いた社員全員が信三郎氏を慕い行動を共にすると申し出た」と記載されていますし、「日経ベンチャー、2006年5月号46P」に「70人の職人と社員の全員が信三郎氏と共に一澤帆布を離れた」、東京新聞2008年4月13日26面にも「職人は全員信三郎氏と行動を共にする」、またStore Journal 2006年9月号P87には「70人の従業員は1人の脱落者もなく、新会社に移ることを決めた」と記載されています。このように各紙に「全員」とかかれていますので、「全員」と書くのは何も問題がないかと思います。「全員」ではないという証拠をお持ちでしたらお知らせください。ないようでしたら、これだけの出典がございますので追記いたします。


【喜一澤サポーターサイトを出典とすることについて】

「信三郎さんを応援する会」についてですが、このサイトでは「一澤帆布」に関する歴史的事項や、検証事項の記載は一切ございません。また、何度も記載しておりますが「AERA」などの媒体でも掲載されていて、検証が可能です。 一方、「喜一澤サポーターサイト」ですが、こちらは「一澤帆布サポーターサイト」ではありませんよね?こちらだけでは検証できませんので、他の出典もお教えください。ないようでしたらやはり中立で正確な出典とは認められません。現在、「一澤帆布製」のかばんを製作・販売している「一澤信三郎帆布」のサイトにも一切こちらを検証できる内容は記載されていません。そのため、「喜一澤サポーターサイト」は、中立であるとは言い難く、やはりこれだけでは信用ができないものとみなされるでしょう。


【アーカイブの出典について】

「アーカイブが削除されていないため、中立な出典とする」とのお考えに反対です。もし、現代表取締役の一澤恵美氏が認められているのであれば、同様の記載が現在のHP等や、なんらかの出典にあるはずではないでしょうか。また認められないので、「旧一澤帆布のHP」や「労働組合のHP」が削除されているということでしょう。正式なHPではないにもかかわらず、現在は削除されているページをアーカイブからわざわざ引っ張って、脚注とされるtoshiyuki matsui様の意図がわかりかねます。他に出典がないようでしたらやはり1週間後にこちらの記載は削除させていただきます。


【3代目一澤信夫とその弟一澤恒三郎により、売り上げを伸ばした。】について

本当に何度申し上げれば良いのでしょうか?なぜ意図的に、信三郎氏の功績を否定されようとなさるのでしょうか?信三郎氏を否定したいという個人的な思いをお持ちとしか思えません。信三郎氏入社時8,000万だった年商は、2003年に10億を超えるまでになったと出典を基に、証明しております。Wiki内の「バブル時代」の定義は、「1980年代後半から90年初頭」です。信三郎氏入社時の1980年のバブル期がはじまる前から、バブル期が終わり全国的に景気が落ち込んだ10年後の2003年までの年商の伸びを数字でお示ししております。尚、ご提案している記載で「信三郎氏の手腕」とは一言も書き記しておりません。数字を示し、事実のみを記載しております。toshiyuki matsui様は1971年に雑誌に掲載されたからと言って「売り上げを伸ばした」と証明できる数字等はお示しいただけるのでしょうか?「各種かばんで知られるようになる」ではなぜ問題なのでしょうか?「タグ」の件もハンコのことも含めに正確に記載すべきです。最後に、判決文がお好きなtoshiyuki matsui様に判決文の抜粋もご提示いたします。「信三郎氏が経営を引き継ぐようになってから会社は順調に発展し、純売上高は信三郎が勤務を開始した昭和55年を基準とすると、平成12年度には7倍あまりにものび、従業員も約6倍に増え、同社の鞄は京都ブランドとしての信用を得るまでに至った」(平成20年11月27日付大阪高等裁判所P15)。何度、記載をしてもなぜか否定されますので、出典としてあげさせていただいた「日経ベンチャー」 2006年11月号「FACE ザ・経営者」 経営者会報 2008年1月号「異能経営者がゆく!」と同様にこちらの判決文も出典とさせていただきます。 正確な出典を示しているにも関わらずToshiyuki matsui様とは議論になりませんので、本当にどなたかご賛同いただきたいです。再度下記ご提案いたします。

「戦後は3代目一澤信夫とその弟一澤恒三郎により、リュックサックやテントも手がけ、職人用を基にした各種のかばんで知られるようになる。またかばんには「一澤帆布製」というハンコを押していたが、信夫四男、喜久夫氏がそのハンコのデザインを織ネームとすることを考案。1980年に信夫三男、信三郎が朝日新聞社を退社して家業に戻り、1988年に4代目の社長となる。1992年に本社ビルを新設。良質な天然素材の帆布を使った、シンプルで使い勝手の良い丈夫なかばんが全国的に知られるようになり、信三郎入社時8,000万だった年商は、2003年に10億を超えるまでになり、職人の数も飛躍的に増え、売り上げを伸ばした。」


【一澤帆布での喜久夫氏の功績について】

では、「信三郎氏」の功績について判決文にもさまざまな記載がございますが、ご提案されていますか?信三郎氏のことは一切追記せず、喜久夫氏のことばかり記載されているので指摘をさせていただいているのです。「喜一澤サポーターサイト」にtoshiyuki matsui様は登録なさっていますよね。支持されて応援されていることは間違いございませんので、そのような方がこのwikiに記載される資格がないと申し上げております。


【営業休止について】

提訴から棄却まで2年以上とはいえ、判決の出ていない原告の一方的な主張を記載すべきではないと考えます。toshiyuki matsui様は、このような訴えをご提案されるにもかかわらず、その他の判決文に記載された内容をご提案しても「記載をかんべんしていただきたい」とお答えになられるなど、何をどんな基準で選ばれwiki内に記載をされているのか、理解できません。この件については反対です。


【一部の脚注について】

「旧一澤」のHPと同様に「労働組合」のHPも、HP自体は削除され、アーカイブとしか残っておりません。Wikiに記載すべきこと、一澤帆布として必要でしたら残っているはずですが、なんらかの問題や、会社としては認められない内容があったから削除されたと推測されます。「一澤帆布」側も「労働組合」側も和解し、このページが必要なくなったため削除されたのでしょう。にもかかわらず、こちらが今現在のwikiに掲載するほどの重要で正確なものなのでしょうか?「労働組合」の記載もアーカイブ以外の出典がないようでしたら、1週間後削除させていただきます。尚、個人の感想の書かれたブログを脚注で用いられるなど、論外かと思われます。どなたかご賛同ください。


【リンク切れの脚注について】

ではリンクが切れていない探された資料でお示しになられたらいかがでしょうか。私もいくつかの出典を持ち合わせておりますので、ご協力させていただきます。リンクが切れてしまっていて、それ以外で出典が見つからないものに関しては、読者の混乱を招くため、削除すべきと提案いたします。そのような脚注でwikiに記載できるのでしたら適当な記載も可能になってしまいます。検証できないものは、脚注として認められないでしょう。


【事業内容について】

「現在一澤帆布製の製品は一澤信三郎帆布にて展開中」の提案に対して、ご意見がありませんでしたので、追記いたします。


【最後に】

「喜久夫氏」の功績を否定しているわけではありません。概要内にも「タグの考案」と記載をご提案しています。しかし、世にある出典を基に、このwikiを読むと、なぜか喜久夫氏の「喜一澤」が不自然なほどたくさん記載されていて、「喜一澤」が正式な一澤帆布の流れを汲んでいるかのような書き方であることに非常に違和感を感じます。Store Journal 2006年9月号P84に、生前の信夫氏のコメントを記載した記事があります。 「四男の喜久夫は、独り者で仕事は休みがちだ。職人との折り合いも良くなく、経営者として店を任せることは難しい。三男の信三郎が継いでくれるとええのになあ~(略)~その後、説得するのに何年も掛かったが、やっと信三郎を戻すことができた」 この記事にもあるように、信三郎氏は先代にも職人にも信頼されていたということですし、toshiyuki matsui様が執拗に展開する「喜久夫氏が一澤帆布の成長に多大な貢献をした」というようなストーリーには無理があるように思われます。しかも、その出典が、「喜一澤サポーターサイト」であるなど、本当に理解し難いことです。「喜一澤サポーターサイト」にtoshiyuki matsui様のお名前がございます。あなたは中立な立場とは言い難いお考えをお持ちの方です。「喜一澤」を応援されるのはご勝手ですが、「一澤帆布」のwiki内での記載はおやめください。

--Daisaku Takahashi会話2014年12月5日 (金) 06:44 (UTC)[返信]

Daisaku Takahashi 様へ

【全員引き連れて】について

中日新聞に「ほぼ」表現されていながら、その他の部分が全員となっているからといって「全員」と記載することには反対致します。

「経営開放2001年1月号」に「70人いた社員が全員」又「日経ベンチャー2006年5月号」の70の職人と社員の全員」、「Store Journal2006年9月号」に「70の従業員は全員」との事ですが、2006年2月25日の毎日新聞には「同社では株式の3分の2超を相続した前会長の長男・信太郎氏と四男が昨年12月に信三郎氏を解任し、代表取締役に就任した。しかし、信三郎氏側は、同社の 製造工場を賃借する有限会社「一澤帆布加工所」に製造部門の従業員65人全員を転籍させ、解任後もかばん製造を継続していた。」となっています。

たしか、sassina様も70名ということでしたが、このように誤差があります。 ですので、記載されるのでしたら、「全員」ではなく「ほぼ全員」が表記されるべきと思います。

「ほぼ全員」という表記で、何か問題がありますか?

【喜一澤サポーターズサイト及び旧一澤帆布HPアーカイブを出典とすること】について

「信三郎さんを応援する会」の発足日は歴史事項ではないのでしょうか?「AERA」には発足年月日は記載されていませんでしたよね? 貴殿は「喜一澤サポーターズサイト及び旧一澤帆布HPのアーカイブ」が出典と認めることが出来ないと主張されています。 その理由は、「現代表取締役の一澤恵美氏が認められているのであれば、同様の記載が現在のHP等や、なんらかの出典にあるはずではないでしょうか。」ということですが、今までのsassina様とのやり取りの中で、喜久夫氏の功績を一澤帆布のWikiページに記載したくないという思いが強く感じられました。 又、sassina(Sachie Sone)様は、一澤信三郎帆布の従業者ブログも書かれているようですから、現一澤帆布としては、喜久夫氏の功績は隠していたい事だと思います。 貴殿もsassina様と同意見との事ですから、喜久夫氏の功績を隠したいのではありませんか? 何度も申し上げていますように、喜一澤サポーターズサイトも旧一澤帆布HPのアーカイブも、現一澤から抗議が無いので、存在しています。ですので、立派な出典であると主張します。

【3代目一澤信夫とその弟一澤恒三郎により、売り上げを伸ばした。】について

こちらも、何度申し上げればいいのか苦しみます。「判決文がお好きな?」という挑発的な発言をする貴殿は少々、礼儀知らずな方だと理解いたしました。

さて、私が好きな判決文でも書いてありますように、「信三郎氏が経営を引き継ぐようになってから会社は順調に発展し、純売上高は信三郎が勤務を開始した昭和55年を基準とすると、平成12年度には7倍あまりにものび、従業員も約6倍に増え、同社の鞄は京都ブランドとしての信用を得るまでに至った」とありますね。 Sassina様は「当初8000万円の売り上げを、社長解任前には10億円以上を売り上げていた」と記載されています。おかしいですね?数字が?8000万×7=5億6千万です。 総売上高から値引、返品、割戻分を差し引いても、5割近く減っているのですね。

又、「戦後は3代目一澤信夫とその弟一澤恒三郎により、リュックサックやテントも手がけ、職人用を基にした各種のかばんで知られるようになる。またかばんには 「一澤帆布製」というハンコを押していたが、信夫四男、喜久夫氏がそのハンコのデザインを織ネームとすることを考案。1980年に信夫三男、信三郎が朝日 新聞社を退社して家業に戻り、1988年に4代目の社長となる。1992年に本社ビルを新設。良質な天然素材の帆布を使った、シンプルで使い勝手の良い丈夫なかばんが全国的に知られるようになり、信三郎入社時8,000万だった年商は、2003年に10億を超えるまでになり、職人の数も飛躍的に増え、売り 上げを伸ばした。」何故「1980年に信夫三男、信三郎が朝日 新聞社を退社して家業に戻り、1988年に4代目の社長となる。1992年に本社ビルを新設。」の後に、「良質な天然素材の帆布を使った、シンプルで使い勝手の良い丈夫なかばんが全国的に知られるようになり」となるのでしょうか? この書き方ですと、信三郎氏が社長になるまでは「良質な天然素材の帆布を使った、シンプルで使い勝手の良い丈夫なかばん」でもなく「全国」にも知られていなかったと受け取れます。

「良質な天然素材の帆布を使った、シンプルで使い勝手の良い丈夫なかばん」は信三郎氏が社長になってからではなく、故信夫氏や喜久夫氏の時代からそうであり、信三郎氏が社長に就任される頃には既に「全国」で有名なかばんメーカーであったのではないのでしょうか? 貴殿は、信三郎氏が社長に就任されてから、「良質な天然素材の帆布を使った、シンプルで使い勝手の良い丈夫なかばん」となったという出典をお持ちですか?

現在の表記であるものに、( )で信三郎氏の功績も合わせて、変更案をご提案致します。

初代一澤喜兵衛(1853年(嘉永6年)生まれ)が行っていた西洋洗濯(クリーニング)や楽団KYOTO BANDが始まり。現在の一澤帆布は、1905年(明治38年)に創業。大正時代になると自転車が普及し、自転車のハンドルに掛ける道具袋の需要が生まれ、2代目一澤常次郎のもとで、薬屋、牛乳屋、大工、植木屋、酒屋などの職人用カバンの製造を行った。戦後はリュックサックやテントも手がけ、3代目一澤信夫とその弟一澤恒三郎、喜久夫(信夫4男)により、職人用かばんを基に(良質な天然素材の帆布を使った、シンプルで使い勝手の良い丈夫な)各種のかばんで知られるようになる。((1971年(昭和46年)平凡パンチで「君は京都に行くべきだ」以後、様々な雑誌で「一澤帆布」が取り上げられる。このころに、喜久夫(信夫4男)が考案した「一澤帆布製」というタグを使うようになった。当時としては珍しい漢字表記が評判になり全国的にも有名となる。1980年(昭和55年)に信三郎(信夫3男)が朝日新聞を退社し、一澤帆布に入社、1988年(に信三郎が4代目の社長となり、1992年に本社ビルを新設。)その後、1990年代には京都デザイン協会主催「京都デザイン優品」[1]に信夫、恒三郎、喜久夫、入江祐子らによるバッグや常次郎、信三郎による小物などを出品、入選している。 (又、同社は信三郎(信夫3男)入社時、約8000万だった年商は、2003年(平成15年)には約10億を超えるまでに成長した。)

【一澤帆布での喜久夫氏の功績について】

信三郎氏の功績は、判決文によるところではなくとも加筆しているじゃないですか?「信三郎帆布設立」や「信三郎さんを応援する会発足」等。 私は「喜一澤サポーターズサイト」も「一澤信三郎帆布」も登録していますが?「喜一澤」だけならば問題かもしれませんが、両方しておりますので、特段資格が無いと言われる筋合いではありません。

【営業休止について】

虚偽であのような訴えをするわけがありませんよね?仮に虚偽であったのなら、信三郎氏は名誉毀損で信太郎氏を訴えているはずです。 ですので、「一澤帆布工業側は「信三郎(3男)が解任後にミシンなどの製造機器や原材料をすべて持ち去り、休業せざるを得なくなった」と主張する。具体的な損害として、一澤帆布加工所を設立して以降の逸失利益約6億9000万円や役員報酬計約3億円などを請求している。 一方、信三郎(3男)は「両者の争いはすべて解決済み。無用な争いをしている場合ではなく、ものづくりでお客の期待に応えていくべき」としている。出典は京都新聞2007年2月14日として加筆したいと思います。 ご勘弁頂きたいといっているのは、例えそれが誰もが閲覧可能なものでも、判決文等を細かく書き出せば、個人から訴訟されるリスクがありますから、ご勘弁願いたいと、先にも記載しています。

【一部の脚注について】

先に述べたとおりです。削除されていないということは、削除以来をされていない訳です。認めていることと同義だと言うことです。 どのような問題があったのか、大事な出典と解釈しておりますので、くれぐれも一方的な判断で削除されませんように、ご注意下さい。

【リンク切れの脚注について】

リンク切れの脚注出典について、何故削除されたいのでしょうか?「読者の混乱を招く為」とのことですが、どうして混乱を招くのでしょうか? リンク切れの殆どが、京都デザイン優品のものですよね?デザイン優品を受賞した殆どが、信三郎氏以外のためでしょうか? 尚、京都デザイン優品は、新たなリンク先が見つかりましたので、編集させて頂きました。事後報告で申し訳ございません。 貴殿がお持ちの出典で、ご協力いただく分は一向に構いませんが、その他リンク切れの記事は、リンクを外すだけでよいと思います。

【最後に】

貴殿及びsassina様が喜久夫氏の功績を否定していないとするならば、何故京都デザイン優品まで削除しようとするのか、理解に苦しみます。 旧一澤帆布HPアーカイブを一通り読めば、喜久夫氏の一澤帆布の功績が、いかに多大だったのか、誰にでも確認できます。 そのような喜久夫氏の功績も信三郎氏と合わせて記載してこそ、一澤帆布のWikiページは正しい辞書となっていくものと思量致します。 「正式な一澤帆布の流れを汲んでいるかのような書き方に違和感を覚える」とのことですが、私はそうは思いません。 喜久夫氏の功績を、疎ましく思うからこそ、そのような違和感を覚えるのではないのでしょうか?--toshiyuki matsui会話2014年12月11日 (木) 01:25 (UTC)[返信]

Daisaku Takahasi様へ 当方の提案について、特段意義が無かったようですので、「概説」「沿革」並びに「相続トラブルと一時営業休止の経緯」を変更させて頂きました。--toshiyuki matsui会話2014年12月19日 (金) 08:57 (UTC)[返信]

2 製品の特色について

"販売は京都市東山区にある一澤帆布店のみに限られていた。"

と過去形でありますが、現在"一澤帆布製"ブランドは復活し、一澤信三郎帆布の店舗で購入できるようですので、その旨記載する事を提案致します。

"現在は同じ場所である一澤信三郎帆布の店舗で購入可能である。”と追記でいかがでしょうか?

--T Tonomura会話2014年12月12日 (金) 09:42 (UTC)[返信]

T tonomura様へ 特段、異論はありません。--toshiyuki matsui会話2014年12月17日 (水) 07:41 (UTC)[返信]

皆様へ 上記追記致しました。 --T Tonomura会話2014年12月17日 (水) 07:54 (UTC)[返信]