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フィランソロピー

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博愛主義(はくあいしゅぎ)とは、基本的な意味では、人類への愛にもとづいて、人々の幸福健康QOL等を改善することを目的とした、利他的活動や奉仕的活動、等々を指す。あるいは慈善的な目的を援助するために、時間、労力、金銭物品などをささげる行為のことである。従来日本語では「慈善活動」「博愛」「人類愛」「フィランソロピー」などとも呼んできた。この意味では「チャリティー」に近い。または、特定の活動や事業のために、長い年月をかけて労力や資金を支援するようなこと。

フィランソロピー(philanthropy)という呼び方は、古希: φίλος philos フィロス(ピロス)(=、愛すること)と、古希: άνθρωπος ánthrōpos アントロポス(=人類)という言葉から成っている表現であり、基本的に「人類を愛すること」という意味がある[1]

日本語では博愛主義を実践している人は篤志家(とくしか)と呼んできて、フィランソロピストと呼ばれることもある。

なお原綴のthとrの間にはoは入っておらず、英語の発音に近い表記はフィランスロピーであるが、日本では一般的にフィランソロピーとの表記が普及している[2]。大杉由香は「2010年9月現在,CiNiiでもフィランスロピーをタイトルにした論文等は38本であるが,フィランソロピーについては183本ある」と指摘している[2]

概説

博愛主義とは、基本的に、人々のwell being(心や体が健やかな状態で人生を送れること。幸福健康QOL等々)を改善したり高めることを目的とした、利他的活動や奉仕的活動、等々を指しており、またそうしたことを目的とした組織も指している。

博愛主義を行う人の経済状況は様々である。たしかに篤志家として、アメリカのロックフェラー家、カーネギー家、ビル・ゲイツなどのような富豪に注目が集まることも多くはあるが、博愛主義の実践に富の大小は関係ない。日本では個人による支援の側面より、企業の社会的貢献(企業自体の貢献、企業社員による貢献、および企業が一般市民の貢献の媒介となる活動)をさして使われることでこの言葉が広まった。

つまり、博愛主義には個人的な活動だけでなく、法人が組織として、人類のために行う慈善的な活動、たとえば日本で「企業メセナ」と呼ばれるような活動も含まれる。

欧米諸国では、博愛主義は、美術音楽宗教人道主義活動や、教育活動(地域の学校から大学まで)に財源を供給し(しかも主たる財源である)、人々のQOLの改善に貢献している。

フィランソロピーと政治

フィランソロピーは、福祉政策などに代表される政府の機能に頼ることなく、社会的改革に影響を及ぼそうとする民間セクターによる活動である。

政府はフィランソロピーの活動を制度的に支援することがある。多くの国では、チャリティー活動に寄付した場合税金が控除される。

フィランソロピーに対する反応

フィランソロピーを貧困な者に対する徳行や慈悲と同一視する者もいる。

フィランソロピーは現在の需要と将来の需要の両方に応えるものといえる[3]。たとえば差し迫った災害に対する慈善的反応は、フィランソロピーの基本的な機能である。これは遠い将来を予測する必要がなく、直後にフィランソロピストに栄誉を与える。

一方、「将来の需要に対するフィランソロピー」のほうは、寄付者の高度な予測能力と優れた知恵を必要とする。にもかかわらず、世間一般では、その行為が非常に高度で優れたものであることに気づいている人は少ない。実際は、将来の必要を予測し現在のうちに手を打っておくことは、困難な事態が起こってしまってから寄付するよりも、はるかに被害を少なくすることが出来るのであり、優れたフィランソロピーなのである。

フィランソロピーには慈愛からのものと憐れみからのものとがあり、いずれも結果的には有効であるものの、後者はともすれば上から下を見下ろすような視線があり、前者における「他人に対する自分の想い」が自分のためになるという貢献心の力が発揮されないとする見方も存在する。

主なフィランソロピスト

歌手

その他

関連項目

出典、脚注

外部リンク