村井満寿
村井 満寿 (むらい ます) | |
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1921年[1] | |
基本情報 | |
別名 | 相澤 滿壽[2]、相澤 満寿子[1]、相沢 ます子[3]、高階 満寿[4]、高階 ます子[5] |
生誕 | 1899年10月13日 |
出身地 | 日本 |
死没 | 1988年9月7日(88歳没) |
学歴 | 東京音楽学校 |
ジャンル | 歌手 |
共同作業者 | 高階哲夫 |
村井 満寿(むらい ます、1899年〈明治32年〉10月13日[6][7] - 1988年〈昭和63年〉9月7日[6][8])は、日本のアルト歌手。北海道札幌市の札幌市時計台を題材とした楽曲「時計台の鐘」の歌い手として知られる。同曲の作曲者である高階哲夫は1人目の夫。2人目の夫はバリトン歌手にして日本初の腹話術師でもある澄川久(本名:村井武雄)であり、後夫との子にクラリネット奏者の村井祐児がいる[9]。納豆の研究で知られる農学者の半澤洵は母方の叔父にあたる[10][11]。
経歴
北海道札幌区(後の札幌市)で誕生した[12]。旧姓は相沢[6]。幼少時に、教会の宣教師の賛美歌に感銘を受けて、音楽の道を志した[10][13]。また自宅の窓からは時計台が針まではっきりと見え、時計台に馴染んで少女期を送った[10][14]。
北海道庁立札幌高等女学校(後の北海道札幌北高等学校)を経て上京し[10]、東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽学部)本科を1920年(大正9年)に卒業[15][7]。同校出身の高階哲夫と共に、「相澤満寿子」の名で北海道内の演奏会に参加した後[1][16]、同校研究科を1922年(大正11年)に修了した[7][17]。
同1922年、高階哲夫と結婚した[7]。高階は若手ヴァイオリニストの第一人者であり、2人の演奏会には多くの客が訪れた[18]。
高階が札幌の街で受けた印象をもとに楽曲「時計台の鐘」を作曲すると[18]、満寿もその伴奏部分を手伝い、夫妻で意見を交換しつつ曲を仕上げていった[18][19]。1924年(大正13年)に大阪で、高階と共に「時計台の鐘」を初披露した[8]。
1928年(昭和3年)には、満寿の歌う「時計台の鐘」が、NHK各局で放送され始めた[20]。満寿以外の歌手が歌う機会も増えた[20]。やがてレコード発売の話が持ち上がり、高階がこの曲を発案してから8年を経て[20]、「時計台の鐘」のレコードが、「高階ます子」名義で発売された[21][22]。
1931年(昭和6年)に高階と離婚し、1933年(昭和8年)に澄川久と再婚した[20][23]。
戦中の1945年(昭和20年)5月、東京の自宅を空襲で失い、実家を頼って札幌へ帰郷した[23]。それに先駆けて、戦中の1942年(昭和17年)6月に、音楽雑誌『国民の音楽』で「時計台の鐘」が取り上げられたことで。レコード発売から10年以上を経て、札幌のあちこちで「時計台の鐘」が流れており、満寿が驚くという一幕もあった[20]。
1949年(昭和24年)に北海道大学助教授、1957年(昭和32年)に北海道学芸大学(後の北海道教育大学)札幌分校教授を歴任し、北海道栄養短期大学の教授も務めた[6]。また北海道高等盲学校へはピアノを寄贈し、北海道大学医学部の看護学校や助産婦学校で講師を務めるなど、次世代を担う若者たちのため、多方面で教育に携わった[20]。
晩年は「お金にあまり興味が無い」といって、後述の受賞による賞金も、今まで世話になった学校などに寄付し、慎ましく過ごした[24]。息子たちが東京に移り住んだ後も、札幌に愛着を抱き、札幌で余生を送った[24]。1988年(昭和63年)9月7日、東京都多摩市の日本医大永山病院で、心不全のため88歳で死去した[25]。
人物
高階哲夫との離婚を経て、戦後に「時計台の鐘」が有名になったことで、前夫である高階の作った歌を数多く歌う機会があったが、このことについて実妹は「皮肉なこと」「割りきって歌ったと思う」と語っていた[26]。一方で高階と満寿の間の1人娘である高階由美(椙山女学園大名誉教授)によれば、満寿に先立って高階が1945年(昭和20年)に死去したとき[8]、満寿は「離婚は女性として、一番悲しいこと」と嘆いていたといい、「いつまでも父が大好きだったに違いない。父を恨みながらも最後まで『時計台の鐘』を歌い、この歌から終生離れることが出来なかった。そういう女性だったんです」と語っている[26]。
受賞歴
- 1963年(昭和38年) - 北海道文化賞[27][28]
- 1982年(昭和57年) - 北海道開発功労賞(音楽教育の推進と芸術文化の振興の功績による)[13][29]
- 1985年(昭和60年) - 地域文化功労者表彰[30]
脚注
- ^ a b c 「エンゼル館の音楽館 今二日目の演奏」『小樽新聞』小樽新聞社、1921年7月17日、5面。
- ^ 「入学許可 東京音楽学校」『官報』、大蔵省印刷局、1916年4月6日、146頁、全国書誌番号:00084180、2022年3月21日閲覧。
- ^ 前川 2001, p. 20
- ^ 坂本憲哉「北の歌紀行 時計台の鐘 ビル街に今も澄んだ音色」『読売新聞』読売新聞社、2002年3月2日、東京夕刊、15面。
- ^ 前川 2001, p. 227
- ^ a b c d 日外アソシエーツ 2010, p. 810
- ^ a b c d 前川 2001, pp. 204–205
- ^ a b c 前川 2001, pp. 206–207
- ^ 宮良 1983, pp. 24–25
- ^ a b c d 札幌市教育委員会 1978, pp. 138–139
- ^ 札幌市教育委員会 1983, pp. 304–305
- ^ STVラジオ 2002, p. 269
- ^ a b “北海道開発功労賞・北海道功労賞歴代受賞者” (PDF). 北海道. p. 14. 2022年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月16日閲覧。
- ^ 札幌市教育委員会 1983, pp. 300–301
- ^ 「卒業証書授与 東京音楽学校」『官報』、大蔵省印刷局、1920年3月29日、674頁、2022年3月25日閲覧。
- ^ 「札幌演奏会の曲目決まる 明日から三日間」『小樽新聞』1921年7月15日、4面。
- ^ 「卒業証書授与 東京音楽学校」『官報』、大蔵省印刷局、1922年4月19日、543頁、2022年3月25日閲覧。
- ^ a b c STVラジオ 2002, pp. 270–271
- ^ 前川 2001, pp. 50–51
- ^ a b c d e f STVラジオ 2002, pp. 274–275
- ^ 福田俊二・加藤正義編 編『昭和流行歌総覧』 戦前・戦中編、柘植書房新社、1994年4月15日、69頁。 NCID BN10725821。
- ^ 前川 2001, p. 175
- ^ a b 宮良 1983, pp. 22–23
- ^ a b 宮良 1983, pp. 36–37
- ^ 「村井 満寿さん(声楽家、元北海道教育大教授)死去」『読売新聞』読売新聞社、1988年9月8日、東京朝刊、31面。
- ^ a b 矢澤高太郎「うた物語 唱歌・童謡「時計台の鐘」前夫の作品を熱唱」『読売新聞』1998年8月2日、東京朝刊、4面。
- ^ “平成27年度 第2回北海道文化審議会 北海道文化賞関係資料” (PDF). 北海道. p. 8 (2015年9月11日). 2022年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月16日閲覧。
- ^ 「晴れの受賞を喜ぶ 道文化賞 みんな控えめに」『北海道新聞』北海道新聞社、1963年10月15日、全道夕刊、7面。
- ^ 「道開発功労賞決まる 伊藤、福屋、村井さんに」『北海道新聞』北海道新聞社、1982年7月23日、全道朝刊、21面。
- ^ 「野村道ウタリ協会理事長ら 道内から二個人一団体 地域文化功労」『北海道新聞』北海道新聞社、1985年10月15日、全道朝刊、20面。
参考文献
- 前川公美夫『響け「時計台の鐘」』亜璃西社、2001年10月1日。ISBN 978-4-900541-41-2。
- 『新撰芸能人物事典』 明治〜平成、日外アソシエーツ、2010年11月25日。ISBN 978-4-8169-2283-1 。2022年3月4日閲覧。
- STVラジオ編 編『続 ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々──。』中西出版、2002年9月10日。ISBN 978-4-89115-115-7。
- 札幌市教育委員会文化資料室編 編『時計台』札幌市〈さっぽろ文庫〉、1978年10月16日。 NCID BN02528949。
- 札幌市教育委員会文化資料室編 編『明治の話』札幌市〈さっぽろ文庫〉、1983年9月28日。 NCID BN02173242。
- 宮良高弘編 編『北海道を探る』 3巻、北海道みんぞく文化研究会、1983年9月1日。 NCID BA3320265X。