「Wikipedia:井戸端/subj/一般的にそうだとされている職業肩書きについての記述を、当該記事の対象の当人がその肩書きを望んでいないという理由で削除していいのか?」の版間の差分
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::::::::::: 本人が音楽評論ではないと言っている文章を、「音楽評論である」と主張されるのであれば、客観的理由が必要ですよね? |
::::::::::: 本人が音楽評論ではないと言っている文章を、「音楽評論である」と主張されるのであれば、客観的理由が必要ですよね? |
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::::::::::: 付け加えるならば、「そうだと言ってる人が多い」「みんながそう言っている」は「そうである」客観的理由にはならないですよね。--[[利用者:Kylin|Kylin]]([[利用者‐会話:Kylin|会話]]) 2024年11月22日 (金) 08:43 (UTC) |
::::::::::: 付け加えるならば、「そうだと言ってる人が多い」「みんながそう言っている」は「そうである」客観的理由にはならないですよね。--[[利用者:Kylin|Kylin]]([[利用者‐会話:Kylin|会話]]) 2024年11月22日 (金) 08:43 (UTC) |
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::::::::::::うーん。本人がそうだと主張しているだけの内容を本人の主張のみを元に「〇〇である」とするのは逆にダメなんじゃないかなと考えています。あくまで「出典」でどのように扱われているかで判断するべきです。「みんながそう言っている」ではなく「出典A、B、Cでそう言われている」からそのように書くだけなんですよ。逆に本人の否定だけで記事に記載できるかどうかが変わってしまうなら主題に対するマイナスな内容が書ける記事を探す方が難しいのではないでしょうか?(国会議員の先生方には疑惑がついて回りますが、疑惑を持たれている、本人は否定しているなんて記述はよくありますよね?)規模や内容は違いますけど本人が否定している内容の記載という点だけで言えば同じようなものではないかと…。--[[利用者:ぷにを|ぷにを]]([[利用者‐会話:ぷにを|会話]]) 2024年11月22日 (金) 10:11 (UTC) |
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::::::::私は、ピーター・バラカンを音楽評論家だとする事例が、これだけあればピーター・バラカンが音楽評論家であると一般に社会的に(すなわち客観的に)されている。したがって音楽評論家であるとはっきりと確実に断定できると思いますよ。 |
::::::::私は、ピーター・バラカンを音楽評論家だとする事例が、これだけあればピーター・バラカンが音楽評論家であると一般に社会的に(すなわち客観的に)されている。したがって音楽評論家であるとはっきりと確実に断定できると思いますよ。 |
2024年11月22日 (金) 10:11時点における版
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一般的にそうだとされている職業肩書きについての記述を、当該記事の対象の当人がその肩書きを望んでいないという理由で削除していいのか?
『魂(ソウル)のゆくえ』『200CD+2 BLACK MUSIC』『ピーター・バラカン音楽日記』『ピーター・バラカンのわが青春のサウンドトラック: Once Upon A Time In England... 』『テイキング・ストック ぼくがどうしても手放せない21世紀の愛聴盤』のようにソウルやロックの名盤紹介やバイヤーズガイドの著作が多数あるピーター・バラカンについて、彼を「音楽評論家」であるとWikipediaの記述しているところ
「ピーターバラカン本人が音楽評論家と呼ばれたくない」としていることをもって音楽評論家という記述を削除しようとする人がいます。(ピーター氏自身は自分はあくまで愛好家にすぎないという意識から音楽評論家という肩書きを好んでいないようです)
しかし、こういう著作を職業的にものす人物を、誰にもわかるように、ごく常識的にその職業を言い表すなら「音楽評論家」でしょう。ピーターバラカンを音楽評論家とするのは、次のような媒体もそうしています。 GQ[1]沖縄タイムズ[2]プレジデント[3]。
この場合に記事の記述対象の当人の「本人が望んでいない」という記述対象当人の自意識やこだわりを理由として、客観的には常識的にそうされるだろう、そして実際に複数媒体でそうされている「音楽評論家」という記述を削除するのは適当でしょうか?--Travis sttoko(会話) 2024年11月20日 (水) 03:56 (UTC)
- 当該記事のノートに書きましたが、ウィキペディアに掲載されているからが理由で、一般にもその肩書が使われてしまうことが問題なのですから、掲載し続けることはウィキペディアが論争に加わることになる中立性にかける行為なので、削除することは適当です。ピーター・バラカンさんが音楽評論家であるかどうかという議論があることと、間違ってそのように称されることがあることは事実で、これ以上間違って広まらないように知ってもらうことは意味のあることだと考え直して、削除さずに編集しなおしました。--Kylin(会話) 2024年11月20日 (水) 04:25 (UTC)
- 「ウィキペディアに掲載されているからが理由で、一般にもその肩書が使われてしまう」上述のGQ、沖縄タイムズ、プレジデントはWikipediaをみて音楽評論家としたのですか?あなたの思い込みに過ぎないのではないですか?上述の著作がある人物を通常の日本語で客観的に表現するのに「音楽評論家」とするのはまったく自然ではないしょうか。各媒体もピーターバラカンの活動の実態をみて自然に「音楽評論家」と表記していると取る方がずっと素直ではないでしょうか--Travis sttoko(会話) 2024年11月20日 (水) 05:49 (UTC)
- こちらの議論を拝見し、「ピーター・バラカン」も拝見しました。「氏の肩書きを『ブロードキャスター』とするか『音楽評論家』とするか、または両方書くか」というよりも、「肩書きを『ブロードキャスター』とする資料もあるし、『音楽評論家』としている資料もある。しかし本人は『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない」ということをそのまま書いてしまえばよいと思うのですが、いかがでしょうか?
肩書きを「音楽評論家」としている資料の例は既にTravis sttokoさんが挙げているので、肩書きを「ブロードキャスター」としている例も挙げてみます。そして「本人が『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない」という資料の例はこちらでしょうか。WP:TWITTERでは「一次資料を出典とすることについては慎重になった方がよいが、記事の主題の本人が発信した本人に関する内容であれば使用できる(要約)」とあります。氏のTwitter(X)での発言をもとに「ピーター・バラカン氏は音楽評論家ではない」と書くのは誤りかもしれませんが、「ピーター・バラカン氏は『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない(好んでいない)」を記述するのは可能ですし、Wikipediaのガイドラインから外れていないように思います。--雪舟(会話) 2024年11月20日 (水) 06:12 (UTC) 表記ゆれを修正。--雪舟(会話) 2024年11月20日 (水) 06:16 (UTC)- 追記 下にて、Triglavさんが「2005年12月11日以前の資料があれば〜」と発言されたので少し調べてみました。
- 2005年1月17日のインタビューとされる記事で「ブロードキャスター」と明記。
- 2005年2月発売の雑誌にて「ブロードキャスター」と明記。
- 2003年12月放送の番組情報として「ブロードキャスター」と明記。
- 2004年6月の記事で「音楽評論家」と書かれていますが、ここでの書き方だと「音楽評論家」は1人目の高橋氏にのみ掛かっているとも取れそうなので微妙なところです。
- 2004年5月の記事(3ページ目)で「音楽評論家」と明記。
- おおむね雪舟さんのご意見に賛同するのですが、一点だけ「肩書」という言葉について、私も当該記事に書いてしまったことを反省しているのですが、曖昧な表現で不正確に感じるところがあり、使用を避けたほうがよろしいと考えます。--Kylin(会話) 2024年11月20日 (水) 08:40 (UTC)
- 返信 (Kylinさん宛) 確かに当方の例示した資料を見てみても、あくまでも「ピーター・バラカン(○○)」や「○○のピーター・バラカン」という表現で氏を説明しているものばかりであり、「肩書き/肩書」という語句は使われていないようですね。ご指摘いただきましてありがとうございます。下でTriglavさんが書いているような「〜とされる」程度の表現を使う方が、正確かと存じます。--雪舟(会話) 2024年11月20日 (水) 08:58 (UTC)
- 少し整理してみたらもうひとつ気になりました。「ピーター・バラカン氏は『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない(好んでいない)」なんですが、ピーター。バラカンさんは音楽評論家と呼ばれることを望んでらっしゃらないし、好んでいないことはわかります。ただ、ここでそう書くべきでない理由は、本人が好んでないからではなく、ご本人がご自分を音楽評論家ではないと考えていることです。好きなことを勝手に書いているだけで、それは評論活動ではない、と考えてらっしゃるからです。「好んでいない」は誤解をうむで避けるべき表現で、ウィキペディアに掲載して広めるべき事実は、適切な表現とは思えないので考慮が必要ですが「音楽評論家と誤解されることが多い」という趣旨であると考えます。--Kylin(会話) 2024年11月21日 (木) 02:36 (UTC)
- 「好んでいない」という表現を使わないのはありだと思いますが自身がそうだと思っていないとしても第三者的にはそのように評価されている事実が複数で上がっているので「音楽評論家。ただし、(ピーター氏の思う理由を含んでもいいかもしれないにより)自身は音楽評論家ではない(誤解されている)としている。」のような記述が一番穏当な気がします。ピーター氏は「音楽評論家」という言葉の定義についての専門家ではないと思われます。(そもそも評論家の定義自体が曖昧なところもあるようですが。)なので、誤解というのもまた語弊を招くことになってしまうのでは?と考えました。--ぷにを(会話) 2024年11月21日 (木) 03:11 (UTC)
- ピーター・バラカンさんが音楽評論家であるかどうかは議論が残るので、誤解と断定して否定するのは適切ではない、ということわかりました。しかし「『音楽評論家』という言葉の定義についての専門家ではない」という概念を持ち込むのは、不適切だと思います。--Kylin(会話) 2024年11月21日 (木) 04:44 (UTC)
- 一番伝えたかった点は伝わったかなと思うのでその点は良かったと思います。別件、私の理解が足りずに申し訳ないのですが後学のためどのような点で不適切なのか教えていただけると助かります。--ぷにを(会話) 2024年11月21日 (木) 05:17 (UTC)
- 私が申し上げたかったのは、ここで音楽評論家の定義についての議論が始まってしまったら、議論が広がりすぎて結論が遠のくのではないかという懸念がありました。「言葉の定義についての専門家」が参加しなければ結論を出せないという印象を与え結論を遠ざけると感じて、不適切と表現してしまいました。一般的な国語辞典で評論家を引いて類推できる音楽評論家の定義をもとに議論すれば充分だと考えています。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 04:27 (UTC)
- 回答ありがとうございます。私としても「一般的な国語辞典で評論家を引いて類推できる」範囲でのものでも十分と考えます。私があのコメントで言いたかったのは『「言葉の定義についての専門家」が参加しなければ結論を出せないという』ということではなく、ピーター氏本人が「音楽評論家」という言葉の定義を正しく理解しているかは分からないということでした。このあたりはWP:信頼できる情報源の「偽の権威に注意」節にあるようなスタンスでコメントしました…がどちらにしても私の伝え方の問題はあったようでその点はご迷惑をおかけしました。--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 05:08 (UTC)
- こちらこそご意見いただけて私の拙い物言いを訂正でき、重ねて「音楽評論家という言葉の定義」への考察を深めるきっかけをいただき、心より感謝しております。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 05:31 (UTC)
- また安易に「言葉の定義への考察を深める」などと書いてしまいましたが、国語辞典やウィキペディアを引いただけで混乱が強まっております。
- 手元にあった大辞林第三版で「評論家」を調べたところ「①評論を職業とする人。②自らは手を下さず、意見や批評を述べるだけの人を皮肉めかして言う語。」とありました。①は問題ないイメージできる語釈ですが、②の語釈には貶める印象があることがわかりました。このような二面性がある言葉なので、使用する際には慎重になる必要があるという思いを深めました。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 08:01 (UTC)
- こちらこそご意見いただけて私の拙い物言いを訂正でき、重ねて「音楽評論家という言葉の定義」への考察を深めるきっかけをいただき、心より感謝しております。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 05:31 (UTC)
- 回答ありがとうございます。私としても「一般的な国語辞典で評論家を引いて類推できる」範囲でのものでも十分と考えます。私があのコメントで言いたかったのは『「言葉の定義についての専門家」が参加しなければ結論を出せないという』ということではなく、ピーター氏本人が「音楽評論家」という言葉の定義を正しく理解しているかは分からないということでした。このあたりはWP:信頼できる情報源の「偽の権威に注意」節にあるようなスタンスでコメントしました…がどちらにしても私の伝え方の問題はあったようでその点はご迷惑をおかけしました。--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 05:08 (UTC)
- 私が申し上げたかったのは、ここで音楽評論家の定義についての議論が始まってしまったら、議論が広がりすぎて結論が遠のくのではないかという懸念がありました。「言葉の定義についての専門家」が参加しなければ結論を出せないという印象を与え結論を遠ざけると感じて、不適切と表現してしまいました。一般的な国語辞典で評論家を引いて類推できる音楽評論家の定義をもとに議論すれば充分だと考えています。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 04:27 (UTC)
- 一番伝えたかった点は伝わったかなと思うのでその点は良かったと思います。別件、私の理解が足りずに申し訳ないのですが後学のためどのような点で不適切なのか教えていただけると助かります。--ぷにを(会話) 2024年11月21日 (木) 05:17 (UTC)
- ピーター・バラカンさんが音楽評論家であるかどうかは議論が残るので、誤解と断定して否定するのは適切ではない、ということわかりました。しかし「『音楽評論家』という言葉の定義についての専門家ではない」という概念を持ち込むのは、不適切だと思います。--Kylin(会話) 2024年11月21日 (木) 04:44 (UTC)
- 「好んでいない」という表現を使わないのはありだと思いますが自身がそうだと思っていないとしても第三者的にはそのように評価されている事実が複数で上がっているので「音楽評論家。ただし、(ピーター氏の思う理由を含んでもいいかもしれないにより)自身は音楽評論家ではない(誤解されている)としている。」のような記述が一番穏当な気がします。ピーター氏は「音楽評論家」という言葉の定義についての専門家ではないと思われます。(そもそも評論家の定義自体が曖昧なところもあるようですが。)なので、誤解というのもまた語弊を招くことになってしまうのでは?と考えました。--ぷにを(会話) 2024年11月21日 (木) 03:11 (UTC)
- 少し整理してみたらもうひとつ気になりました。「ピーター・バラカン氏は『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない(好んでいない)」なんですが、ピーター。バラカンさんは音楽評論家と呼ばれることを望んでらっしゃらないし、好んでいないことはわかります。ただ、ここでそう書くべきでない理由は、本人が好んでないからではなく、ご本人がご自分を音楽評論家ではないと考えていることです。好きなことを勝手に書いているだけで、それは評論活動ではない、と考えてらっしゃるからです。「好んでいない」は誤解をうむで避けるべき表現で、ウィキペディアに掲載して広めるべき事実は、適切な表現とは思えないので考慮が必要ですが「音楽評論家と誤解されることが多い」という趣旨であると考えます。--Kylin(会話) 2024年11月21日 (木) 02:36 (UTC)
- 返信 (Kylinさん宛) 確かに当方の例示した資料を見てみても、あくまでも「ピーター・バラカン(○○)」や「○○のピーター・バラカン」という表現で氏を説明しているものばかりであり、「肩書き/肩書」という語句は使われていないようですね。ご指摘いただきましてありがとうございます。下でTriglavさんが書いているような「〜とされる」程度の表現を使う方が、正確かと存じます。--雪舟(会話) 2024年11月20日 (水) 08:58 (UTC)
- 追記 下にて、Triglavさんが「2005年12月11日以前の資料があれば〜」と発言されたので少し調べてみました。
- こちらの議論を拝見し、「ピーター・バラカン」も拝見しました。「氏の肩書きを『ブロードキャスター』とするか『音楽評論家』とするか、または両方書くか」というよりも、「肩書きを『ブロードキャスター』とする資料もあるし、『音楽評論家』としている資料もある。しかし本人は『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない」ということをそのまま書いてしまえばよいと思うのですが、いかがでしょうか?
- 「ウィキペディアに掲載されているからが理由で、一般にもその肩書が使われてしまう」上述のGQ、沖縄タイムズ、プレジデントはWikipediaをみて音楽評論家としたのですか?あなたの思い込みに過ぎないのではないですか?上述の著作がある人物を通常の日本語で客観的に表現するのに「音楽評論家」とするのはまったく自然ではないしょうか。各媒体もピーターバラカンの活動の実態をみて自然に「音楽評論家」と表記していると取る方がずっと素直ではないでしょうか--Travis sttoko(会話) 2024年11月20日 (水) 05:49 (UTC)
- タイミングが被りましたが通りすがりのコメントを残します。ピーター・バラカン氏がWikipediaのせいでそれらが広まっていると考えていることは分かりましたがプレジデントの出典は2011年の記事ですしインタビューなりなんなりした本人の言葉として記事にされているのであれば事前に
構成校閲なりで目を通したりリリース後であっても「音楽評論家」ではないと訂正なりされていればまだ…とも思います。既に複数で「音楽評論家」とされているので「音楽評論家。ただし、本人は音楽評論家ではないとしている。」みたいな書き方でもいいのでは?感じました。--ぷにを(会話) 2024年11月20日 (水) 06:13 (UTC) 誤字を修正。--ぷにを(会話) 2024年11月20日 (水) 08:48 (UTC)
- タイミングが被りましたが通りすがりのコメントを残します。ピーター・バラカン氏がWikipediaのせいでそれらが広まっていると考えていることは分かりましたがプレジデントの出典は2011年の記事ですしインタビューなりなんなりした本人の言葉として記事にされているのであれば事前に
- 無出典で書き加えられた第2版(2005-12-11T03:27:03)より以前の資料を見つけることができれば文句なし。そうでなくても2024年沖縄タイムスを提示すれば(ウィキペディア的には)問題なし。Xを本人と認めてよいのであれば「~はラジオパーソナリティ。音楽評論家とされることもあるが本人は強く否定している。」あたりか? --Triglav(会話) 2024年11月20日 (水) 07:01 (UTC)
- ついでに「ブロードキャスター」ですが、ja版ではその職業で分類されていないようです(記事もありません)。曖昧さ回避ページが示すとおり、番組司会者、ニュースキャスター、ラジオパーソナリティあたりに絞るとよいでしょう(ブロードキャスターのリンク先はチェックされましたか?)。『自身の肩書に「ブロードキャスター」を用いる』としたほうがよいです。--Triglav(会話) 2024年11月20日 (水) 09:05 (UTC)
- ご意見いただいている、雪舟さん「『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない(好んでいない)」を記述」、ぷにおさん「音楽評論家。ただし、本人は音楽評論家ではないとしている。」みたいな書き方」と同意見です。ピーターバラカンの冒頭で述べたような著述家としての肩書きを、ごく素直に、自然に、一般的な日本語の使用法で表現すると「音楽評論家」です。故に実際に前述のいろいろな媒体がピーターバラカンを「音楽評論家」だとしているのでしょう。ピーター氏の自己イメージや自己プレゼンテーションが違うとかいうことは、ピーター氏の自己紹介ページではないWikipediaの記事の客観的な記述とは関係がないはずです。またピーター氏の業績の概略をあらわすときに著述家としての側面をオミットするということもありえません。したがって本人が好む表現でないからという理由で「音楽評論家」の文言じたいを削除するのもナンセンスと考えます。ただピーター氏が、そう呼ばれることを好ましく思わない事実があるなら、そのことをその通りに注記すればいい話だと思います。
- また、Triglavさんの言われる「ブロードキャスター」という表現についてもですが、ピーター氏は、「音楽評論家」の肩書きを好まないのと同じように、かなりこだわりを持って「ブロードキャスター」の呼称を使いたいようですが(その理由は「英語だとそう言うのが普通だから」ということだと思います)、この語は日本語としては全く一般的ではなく、ぱっとその単語を言われてすっと飲み込める人多くないでしょう。ピーター氏の活動実態を、日本で普通に伝わる常識的な表現にするなら「ラジオDJ・テレビパーソナリティー」でしょう。私はここも辞典の記述としては書き換えた方がいいと思います。--Travis sttoko(会話) 2024年11月20日 (水) 09:30 (UTC)
- どの肩書を採用すべきかという点およびその書き方について、「餅月ひまり」のような例があることを思い出したので挙げてみます。記事の冒頭で「YouTuberという表現を使用していること(バーチャルYouTuberという表現を使用していないこと)」に関する注釈が添えられています。これに倣うべきというものではなく、こういう書き方をしている記事もあるという一例としてご覧いただければ幸いです。--雪舟(会話) 2024年11月20日 (水) 09:48 (UTC)
- また、Triglavさんの言われる「ブロードキャスター」という表現についてもですが、ピーター氏は、「音楽評論家」の肩書きを好まないのと同じように、かなりこだわりを持って「ブロードキャスター」の呼称を使いたいようですが(その理由は「英語だとそう言うのが普通だから」ということだと思います)、この語は日本語としては全く一般的ではなく、ぱっとその単語を言われてすっと飲み込める人多くないでしょう。ピーター氏の活動実態を、日本で普通に伝わる常識的な表現にするなら「ラジオDJ・テレビパーソナリティー」でしょう。私はここも辞典の記述としては書き換えた方がいいと思います。--Travis sttoko(会話) 2024年11月20日 (水) 09:30 (UTC)
昨日から色々と意見などを書いてみて、ふと、以前にノート:10億円で行った議論のことを思い出しました。そちらでは「ネタ作成者」に関して「ボケ担当のメンバーの個人名」を記載するか「両者」と記載するかで意見が対立し、最終的には「単語で言い切ろうとすることで意見がまとまらないなら、文章で記述すればよいのではないか」という方向で落ち着きました。今回の件についても、取り敢えず記事冒頭に概要として記載するものは、Triglavさんが提案されている「番組司会者、ニュースキャスター、ラジオパーソナリティあたり」に絞り、「ブロードキャスター」および「音楽評論家」については記事の中で補足を交えて記述するのが良いのではないでしょうか? 「ピーター・バラカン」の特別:固定リンク/102651247の版をもとに簡単なサンプルを作成してみました。
ピーター・バラカン(Peter Barakan、1951年8月20日 - )は、イギリス出身のラジオDJ、テレビ司会者[注釈 1](肩書きについては#人物も参照)。
(中略)
1951年、ロンドンでユダヤ系ポーランド人の父と、イギリス人とミャンマー人を両親に持つ母の間に生まれる。なお弟のマイケルは、後にロック・ギタリストになった。#家族の節で解説。
ロンドン大学日本語学科を卒業した後、1974年に来日。現在はフリーとして活動。日本国内のラジオ番組や、NHKワールドTVの番組『Japanology Plus』へのプレゼンター役としての出演などを続けている。
自身の活動や職業について、ピーター本人は「ブロードキャスター」という表現を用いる(ブロードキャスター (曖昧さ回避)#一般名詞も参照)。長年出演するNHKの番組情報などでも、同様の表記がされている。
また、『魂(ソウル)のゆくえ』『200CD+2 BLACK MUSIC』など、ソウルやロックの名盤紹介をする著作を多数上梓しているため、メディアによっては「音楽評論家」と紹介されることもある。しかしピーター本人は、自身のSNSにて「自分は音楽評論家ではない」と言及している。
(後略)
また、これは少々個人的な意見も入りますが、ピーター氏がWikipediaに「音楽評論家」と書かれたくないという気持ちは分からなくもないのです。何故ならピーター氏に限らず、Googleで人名などを検索すると、検索結果の右上に、画像検索の結果と共にWikipediaの冒頭文を抜粋した情報が出てくることが多いからです。Wikipediaを閲覧するつもりがなくとも、ただ検索をしただけでWikipediaで記述されていることがトップに来てしまうのなら「やめてほしいなぁ」と思う気持ちは分かります。しかし「音楽評論家」として言及・紹介しているメディアが複数あるのであれば、それを「誤解」として扱ってしまうのも何か違う気がします。それならば、記事の冒頭には日本国内で伝わりやすい名称を数個記述し、丁寧な議論や言及が必要なものについては記事の中で記述するのがよいのではないでしょうか。--雪舟(会話) 2024年11月21日 (木) 03:38 (UTC) 誤字修正。--雪舟(会話) 2024年11月21日 (木) 03:40 (UTC)
追記 念のため補足します。昨日の議論の中で、Kylinさんから「『肩書き』という表現を使わない方がよいかもしれない」という意見があり、当方も賛同しておりましたが、上記のサンプルではどうにも上手い言い回しが思い付かず「(肩書きについては〜」という表現を1か所使用しております。ご意見を無視してしまったようにも捉えられかねないと思ったため、こちらで弁明いたします。--雪舟(会話) 2024年11月21日 (木) 04:12 (UTC)
- 一行目の「ピーター・バラカン(Peter Barakan、1951年8月20日 - )は、イギリス出身のラジオDJ、テレビ司会者[注釈 1](肩書きについては#人物も参照)。」この行に音楽評論家(注記して本人はその呼び方を好んでいない)といれた方がいいと思います。入れないとむしろおかしいです。ピーターバラカンはラジオDJが余技で音楽評論をやっていると言う訳ではなく、音楽関係の著述が彼の業績の大きな柱ですから。(元々新潮文庫ででて新装版がでている「ソウルのゆくえ」という著作は、日本人のブラックミュージック受容に重大な役割を果たしたといっていいものです。また彼がdjのラジオののBARAKAN BEATやウィークエンドサンシャインは、そもそも信頼できる音楽評論家バラカンの選曲が聴きたいというニーズで成り立ってるはずです)前に述べましたが、「音楽評論家」と言う肩書きを避けたいばっかりに、記述からオミットするのは辞典の作成上本末転倒です。きちんと「本人が望んでいない」と注記する訳ですから記述を避ける理由はないはずです。--Travis sttoko(会話) 2024年11月21日 (木) 08:11 (UTC)
- 返信 (Travis sttokoさん宛) おそらくそのご意見については、Travis sttokoさんと当方とで意見がかち合ってしまうように思います。当方としては「『音楽評論家』という表現を使うメディアが多数あるのは事実であり、それを記述しないのは良くないと思う。しかし、記事内できちんと触れているのであれば、冒頭で触れる必要はないと思う」という考えです。そのため、「(『ブロードキャスター』も含めた)「その他の肩書き」は後述する」とサンプルの中で示しました。『「音楽評論家」と言う肩書きを避けたいばっかりに』とおっしゃっていますが、当方としては、記事の中で触れているのであれば「避けてはいない」と思っております。但し当方は音楽関係に明るくないのは事実であり、浅学ながらこの議論を見るまでピーター氏のことを存じ上げていなかったのも事実です。そして門外漢ながら、氏を「音楽評論家である」と言い切らずとも、「音楽評論に関する書籍などを多数上梓している。そのため『音楽評論家』と紹介されることもある」と表現すれば、氏の活動や功績を偽りなく伝えられることは可能であると考えます。--雪舟(会話) 2024年11月21日 (木) 08:38 (UTC)
- 辞書の記述としてどうあるのがいいのか?何に重みづけがされるべきか内容をきちんと考慮して記載しないと本末転倒になると考えています。ピーターバラカンとは何者か?ということに直截に答えるならば(本人が好まずとも)音楽評論の著述が第一なはずです。直截に書かれるべきことが一行目にあらわれていないのは変です。ラジオDJが余技で音楽評論をやっているのではなく、音楽評論家の仕事の幅が広がってDJをやっているというのが実際なはずです。ピーターバラカンが音楽評論家なのは本人がその呼称を好まなくとも、実際に30年読み継がれる音楽評論の名著(ソウルのゆくえ)を書いている以上客観的には動かしようがない話のはずです。--Travis sttoko(会話) 2024年11月21日 (木) 09:18 (UTC)
- 返信 (Travis sttokoさん宛) うーん、Travis sttokoさんが「冒頭で記載すべき」と考えていることはよく分かりましたが、当方としてはやはり「記事内で触れていれば無理に冒頭で記載せずとも足りる」という考えに今は揺らぎはありません。Wikipediaは百科事典なので、辞書のように見出し語に対する説明は短文にまとめなきゃいけない訳でもないですし。これについては他の方の意見も聞いて判断したいです。--雪舟(会話) 2024年11月21日 (木) 09:52 (UTC)
- 辞書の記述としてどうあるのがいいのか?何に重みづけがされるべきか内容をきちんと考慮して記載しないと本末転倒になると考えています。ピーターバラカンとは何者か?ということに直截に答えるならば(本人が好まずとも)音楽評論の著述が第一なはずです。直截に書かれるべきことが一行目にあらわれていないのは変です。ラジオDJが余技で音楽評論をやっているのではなく、音楽評論家の仕事の幅が広がってDJをやっているというのが実際なはずです。ピーターバラカンが音楽評論家なのは本人がその呼称を好まなくとも、実際に30年読み継がれる音楽評論の名著(ソウルのゆくえ)を書いている以上客観的には動かしようがない話のはずです。--Travis sttoko(会話) 2024年11月21日 (木) 09:18 (UTC)
返信 (雪舟さん宛) 私の言葉たらずからでしょうがうまく伝わっていないようなので例えを使って説明しなおします。Wikipediaの村上春樹の記事をみてみるとの冒頭一行の紹介は「村上春樹は日本の小説家・翻訳家。」ですが、これが仮に「村上春樹は日本の翻訳家・エッセイスト。」と書き直されたとして、記事の下の方の文章で小説家としての著作が挙げられていることから「記事内で触れていれば無理に冒頭で記載せずとも足りる」で通るでしょうか?通らないはずです。そう言うレベルで根本的に重みづけがおかしいのです。「音楽評論家」の肩書が外れて「テレビ司会者」が載っているのは率直に言って滅茶苦茶なのです。
下の「人物」も重みづけもやはり変です。『Japanology Plus』のようなマイナーな事柄の固有名が挙げられて、音楽関係の長寿番組のラジオ放送の名前が挙げられておられず、本丸のはずの評論活動もオマケみたいに記載してあるのは重みがおかしいです。ピーターバラカンとはそもそも何者か?は第一義的には「書籍やラジオDJを通じた良質なな音楽の紹介者」です。私案(試案)ですがこうされるべきです。
ピーター・バラカン(Peter Barakan、1951年8月20日 - )は、イギリス出身の音楽評論家 (ただし本人は肩書を「音楽評論家」とされることを好まない)、ラジオDJ[注釈 1](肩書きについては#人物も参照)。
1951年、ロンドンでユダヤ系ポーランド人の父と、イギリス人とミャンマー人を両親に持つ母の間に生まれる。ロンドン大学日本語学科を卒業した後、1974年に来日して音楽出版社や音楽マネジメント会社の社員として働いた後、独立した。
ゴスペルやブルースから80年代まで(新装版ではネオ・ソウルまで)のアメリカのブラックミュージックの通史を示して時代・ジャンルごとの代表盤を紹介した『魂(ソウル)のゆくえ』の著者。ブラックミュージック、ロック、ジャズ、ワールドミュージックのレコード・CDを紹介する著作を多数執筆している。(このことから「音楽評論家」とされることが多い。しかし本人は、自身のSNSにて「自分は音楽評論家ではない」と言及している。)
1980年代に洋楽のミュージックビデオを放映するテレビ番組「ポッパーズMTV」の司会者として一般に名前を知られるようになった。「BARAKAN BEAT 」、「ウィークエンドサンシャイン」など、自ら選曲した楽曲を放送するラジオ番組のDJとして知られる。CBSドキュメントの司会のように音楽関係以外の放送の仕事もある。
自身の職業について、ピーター本人は「ブロードキャスター」という表現を用いる(ブロードキャスター (曖昧さ回避)#一般名詞も参照)。長年出演するNHKの番組情報などでも、同様の表記がされている。
(後略)
--Travis sttoko(会話) 2024年11月21日 (木) 20:00 (UTC)
- 注釈用Template追加。--雪舟(会話) 2024年11月21日 (木) 21:37 (UTC)
- 返信 (Travis sttokoさん宛) 丁寧にご説明いただきありがとうございます。村上春樹氏の例を挙げていただいたことで、Travis sttokoさんの考えがより理解できたように思います。また、当方が提示したサンプルの「人物」節の内容についても、ご指摘ありがとうございます。当方のサンプルについては、ピーター氏や音楽分野に明るくない人間が、既存の記事や皆さんの意見を切り貼りしてそれとなく形にしたものなので、色々と正確でない点もあるだろうなとも思っておりましたが、やはりおかしなところがあったのですね。しかし一部の表現など当方のサンプルを活かしていただいた箇所も見受けられ、その点についてもお礼申し上げます。
ただ、ひとつ前のコメントにて「他の方の意見も聞いて判断したい」と申し上げた通り、Travis sttokoさん以外の方の意見も聞いてから判断したいというのが当方の気持ちです。と言うのも、この人物や分野に明るくないからこそ、Travis sttokoさんがおっしゃっている「音楽評論家の仕事の幅が広がってDJをやっているというのが実際なはず」という発言が、「はず」という語句を使われていることもあり、Travis sttokoさん以外の方もそう思われるようなものなのか判別が付かないからです。せっかく丁寧なサンプルを再提示していただいたこともあり、最初にTravis sttokoさんと議論されていたKylinさんも含め、他の方の意見も待ちたいです。--雪舟(会話) 2024年11月22日 (金) 00:09 (UTC)- ピーター・バラカンさんのウィキペディアの記事をお読みいただいて、過去の出演番組の時期と著書の出版年月をご確認いただければ、「音楽評論家の仕事の幅が広がってDJをやっているというのが実際なはず」と考えるのは無理があることは御理解いただけるかと思います。雪舟さんの案をもとに議論を続けることを支持します。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 03:06 (UTC)
- 一つ強調させてください。ピーターバラカンが音楽評論家であることについては、改めてですが、GQは、紹介文として「1951年、イギリス生まれの音楽評論家、ラジオDJ。…』とはじめています。沖縄タイムスは記事のタイトルに「音楽評論家ピーター・バラカンさん 80年代から現在までの音楽シーン解説 10月3・4日 沖縄市・プラザハウス創業70周年企画」としています。プレジデントのネット記事も「ブロードキャスター・音楽評論家 ピーター・バラカンさん」というタイトルです。これらの媒体がピーター・バラカンを一言であらわすなら「音楽評論家」だとしているのは間違いありません。
- ピータバラカンについてちょっと検索すれば、ピーターバラカンを「音楽評論家」としているページは次々と出てきます。(これらは個人ブログではありません。ご確認ください。)
- 「親子の日」の公式サイト
- https://oyako.org/project/talk-live-vol13/
- 尚美学園大学
- https://www.shobi-u.ac.jp/cms/wp-content/uploads/2014/07/21962be75fd5f8bd329c589d062f619e.pdf
- タワーレコード(CDジャーナル転載)
- https://tower.jp/artist/821039?srsltid=AfmBOorqYBCNJNsDudzrOt3APDnPoGiqqlro-erSsU4y9TkLIBpOldqh
- 山口情報芸術センター
- https://www.ycam.jp/archive/profile/peter-barakan/
- CDジャーナル
- https://artist.cdjournal.com/a/peter-barakan/870338
- シンタックスジャパン
- https://synthax.jp/tl_files/newsletter/140718/
- Wikipediaのピーターバラカンの記事ノートでも「「ブロードキャスター」なる自称の肩書きについて」でおむねぬ氏は「バラカン氏が音楽評論活動を行っていることは明白であり」音楽評論家の肩書を使うべきだと主張されています。
- ピーターバラカンが紹介される時に通常「音楽評論家」とされることは全く間違いなく、そうされないとおかしいレベルの話です。私が一人で意固地に独自説を唱えていると受け取られているとしたら大変に不本意なので、そうではないことを強調しておきます。--Travis sttoko(会話) 2024年11月22日 (金) 06:11 (UTC)
- 一つ強調させてください。ピーターバラカンが音楽評論家であることについては、改めてですが、GQは、紹介文として「1951年、イギリス生まれの音楽評論家、ラジオDJ。…』とはじめています。沖縄タイムスは記事のタイトルに「音楽評論家ピーター・バラカンさん 80年代から現在までの音楽シーン解説 10月3・4日 沖縄市・プラザハウス創業70周年企画」としています。プレジデントのネット記事も「ブロードキャスター・音楽評論家 ピーター・バラカンさん」というタイトルです。これらの媒体がピーター・バラカンを一言であらわすなら「音楽評論家」だとしているのは間違いありません。
- あとWikipediaの記事を見て時系列で…とかいう(申し訳ないですが)あまりにおかしな論証はやめませんか?ピーターバラカンは1980年代のころから他の評論家に混じってミュージックマガジンのクロスレビューを執筆しています。
- http://musicmagazine.jp/published/mmex-201010cr.html
- 単著にならない音楽評論の執筆業なんていくらでもあるわけです。(一般にならない場合のほうが多いでしょう)--Travis sttoko(会話) 2024年11月22日 (金) 06:26 (UTC)
- こちらの人物紹介をみるに執筆活動もラジオ出演も同時期に開始したことになっているのでどっちが早いと話しても建設的な議論にならないのかなと思うので改めてどうあるべきかを熱を入れずに調整する方がいいのかなと思いました。個人的な意見では「パーソナリティ、音楽評論家。ただし、本人は音楽評論家ではないとし、ブロードキャスターであるとしている。」(それぞれに適宜出典付。)くらいに記述されていれば大体わかるのかなと思っています。--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 07:17 (UTC)
- こちらの投稿を拝見する前に行き違いに下の投稿を返信して失礼しました。私も時期にこだわることは建設的ではないと思っています。ただ私は雪舟さんの案を支持していて、「音楽評論家。」と書くことは避けるべきだと考えていることは申し添えておきます。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 08:22 (UTC)
- 何度も申し上げているつもりなのですが、ピーター・バラカンさんを音楽評論家を書いている事例を紹介されていても、それはピーター・バラカンさんが音楽評論家であると断定する理由にはならず、紹介されているという事実をあらわしているにすぎません。ピーターさんの発言を引用すると「ぼく音楽評論家ではありません。限られた音楽を趣味で聞いているだけです。そして紹介するのは勝手な好き嫌いだけが尺度です。それを評論と呼んではいけないと思います[4]とあります。もちろんこの発言があるからピーター・バラカンさんは音楽評論家ではないと断定することはできませんが、この発言に対して反論して納得できる議論を踏まえずに音楽評論家と決めつけることは、個人的見解であり、公平性が保たれた事実とは言えないです。
- もういちど書きます。ピーター・バラカンさんが音楽評論家と紹介されていることを理由に音楽評論家であると断定するのは Travis sttoko さんの個人的見解です。ピーター・バラカンさんが音楽を評論する仕事をしていることを客観的にご説明ください。
- Travis sttokoさんが独自説を唱えてるとは受け止めておりませんのでご安心ください。(申し訳ないですが)言葉を選ばずに申し上げますと、広く流布された俗説を事実だと断定して意固地に主張されていると受け止めております。ウィキペディが俗説を事実として広めることは不適切なので、ピーター・バラカンさんを音楽評論家だと断定的に書くことに反対します。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 07:34 (UTC)
- 音楽評論家として複数であげられているのは検証可能ですし、個人の見解とするのは流石に暴論ではないかと…。本人が否定していることも検証可能です。並べて書いておけばそのように扱われるが本人が否定しているという点が十分伝わると思うのですよね。WP:検証可能性でいうところの『「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』を考えれば本人が否定していても出典を用いて客観的に書かれていることになるのではないでしょうか?--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 07:55 (UTC)
- 「自分は音楽評論家ではなくて、音楽を評論していない人」のことを、音楽評論家と呼びたいのならば、せめて音楽を評論している事実を提示してください、というのが暴論なんですか? 「音楽評論家」の言葉の定義が曖昧であれば、使用することに慎重になるべきで、使用例が多いから事実であると断定するほうが暴力的であると感じます。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 08:14 (UTC)
- 逆にどれだけ音楽を評論している事実が連なっても「音楽評論家」とどこにも書かれていなければ検証可能性を満たせず記載することができないと考えます。我々がするべきことはこれだけ音楽評論しているのだから音楽評論家だと判断することではなく出典でにそう書かれているから音楽評論家だと記載することです。そういう意味で出典に書かれていることを記載することを個人の見解としてしまったら何をもって検証可能であるとすればいいのかとなってしまいませんか?--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 08:21 (UTC)
- もうしわけございませんが、私は「これだけ音楽評論しているのだから」が事実とは言えないと考えているので議論が噛み合いません。音楽評論だと言って書いてるものではないものを音楽評論であると主張するには客観的な理由が必要ですよね? と最初から申し上げているつもりなのですが、私の拙い言葉でご理解を妨げて申し訳ございません。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 08:26 (UTC)
- まだるっこしい表現になってて誤解を招きそうなので、改善を試みます。
- 本人が音楽評論ではないと言っている文章を、「音楽評論である」と主張されるのであれば、客観的理由が必要ですよね?
- 付け加えるならば、「そうだと言ってる人が多い」「みんながそう言っている」は「そうである」客観的理由にはならないですよね。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 08:43 (UTC)
- うーん。本人がそうだと主張しているだけの内容を本人の主張のみを元に「〇〇である」とするのは逆にダメなんじゃないかなと考えています。あくまで「出典」でどのように扱われているかで判断するべきです。「みんながそう言っている」ではなく「出典A、B、Cでそう言われている」からそのように書くだけなんですよ。逆に本人の否定だけで記事に記載できるかどうかが変わってしまうなら主題に対するマイナスな内容が書ける記事を探す方が難しいのではないでしょうか?(国会議員の先生方には疑惑がついて回りますが、疑惑を持たれている、本人は否定しているなんて記述はよくありますよね?)規模や内容は違いますけど本人が否定している内容の記載という点だけで言えば同じようなものではないかと…。--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 10:11 (UTC)
- もうしわけございませんが、私は「これだけ音楽評論しているのだから」が事実とは言えないと考えているので議論が噛み合いません。音楽評論だと言って書いてるものではないものを音楽評論であると主張するには客観的な理由が必要ですよね? と最初から申し上げているつもりなのですが、私の拙い言葉でご理解を妨げて申し訳ございません。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 08:26 (UTC)
- 逆にどれだけ音楽を評論している事実が連なっても「音楽評論家」とどこにも書かれていなければ検証可能性を満たせず記載することができないと考えます。我々がするべきことはこれだけ音楽評論しているのだから音楽評論家だと判断することではなく出典でにそう書かれているから音楽評論家だと記載することです。そういう意味で出典に書かれていることを記載することを個人の見解としてしまったら何をもって検証可能であるとすればいいのかとなってしまいませんか?--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 08:21 (UTC)
- 「自分は音楽評論家ではなくて、音楽を評論していない人」のことを、音楽評論家と呼びたいのならば、せめて音楽を評論している事実を提示してください、というのが暴論なんですか? 「音楽評論家」の言葉の定義が曖昧であれば、使用することに慎重になるべきで、使用例が多いから事実であると断定するほうが暴力的であると感じます。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 08:14 (UTC)
- 音楽評論家として複数であげられているのは検証可能ですし、個人の見解とするのは流石に暴論ではないかと…。本人が否定していることも検証可能です。並べて書いておけばそのように扱われるが本人が否定しているという点が十分伝わると思うのですよね。WP:検証可能性でいうところの『「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』を考えれば本人が否定していても出典を用いて客観的に書かれていることになるのではないでしょうか?--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 07:55 (UTC)
- こちらの人物紹介をみるに執筆活動もラジオ出演も同時期に開始したことになっているのでどっちが早いと話しても建設的な議論にならないのかなと思うので改めてどうあるべきかを熱を入れずに調整する方がいいのかなと思いました。個人的な意見では「パーソナリティ、音楽評論家。ただし、本人は音楽評論家ではないとし、ブロードキャスターであるとしている。」(それぞれに適宜出典付。)くらいに記述されていれば大体わかるのかなと思っています。--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 07:17 (UTC)
- 私は、ピーター・バラカンを音楽評論家だとする事例が、これだけあればピーター・バラカンが音楽評論家であると一般に社会的に(すなわち客観的に)されている。したがって音楽評論家であるとはっきりと確実に断定できると思いますよ。
- https://artist.cdjournal.com/a/peter-barakan/870338
- これを典拠に私は音楽評論家としるすつもりですが、Wikipediaの「検証可能性」を十二分にクリアすると考えます。
- そういう形式的なことだけでなく、ピーターバラカンがやっている仕事の中身実質を見ても、他の者がやっていれば何の疑いもなく明白に音楽評論家とされるものです。
- そしてピーターバラカン本人が自分は音楽評論家ではないといっていることは、「ピーターバラカンはそう主張している」だけであって、音楽評論家でないという根拠には特にならない(社会的コンセンサスに反対する者が一名みつかっただけ)という見解は上のほうでぷにをさんが言っておられたことを支持します。
- 何をもって「ピータバラカンが音楽評論家でないかもしれない」とお疑いになっているのか率直に全くわかりません。
- また、生身の人間について記事にするわけですから、そのことに配慮はひつようですが、「社会的には評論家とされているが、本人は好んでいない」ことも明確に記すわけですから、何も問題は生じないと思います--Travis sttoko(会話) 2024年11月22日 (金) 08:25 (UTC)
- ( すみませんちょっと無粋な指摘なのですが……「ぷにを」さんの名前をずっと間違えて打っているようなのでいかがなものかなと……。ぷにをさんの会話ページを見るに同様の間違いをされている事例は何度かあったようなので、Travis sttokoさんに限ったことではないのでしょうけれど、気になったもので……)--雪舟(会話) 2024年11月22日 (金) 08:32 (UTC)
- ご指摘ありがとうございます。ぷにをさま。大変失礼しました。--Travis sttoko(会話) 2024年11月22日 (金) 08:39 (UTC)
- 「他の方の意見も待ちたい」と言った手前、皆さんがたくさん議論を交わしているのを受けて現状の自分の意見を書いてみます。正直なところ、未だに「音楽評論家である」と記載せずとも「音楽評論家と説明されることもある」と書けば足りるのではないかという気持ちにあまり揺らぎはありませんが、Travis sttokoさんやぷにをさんのおっしゃる意見も否定できないと感じています。
その上で更に申し上げると、当方はやはりどうしても「Wikipediaを見るつもりが無くとも、Google検索をすればWikipediaの冒頭文が出てくる」という点が気になっております。これに関して「Wikipedia外のことまで気を回してたらキリがない」という指摘もあって然るべきだとも思っているので、当方の意見が議論の邪魔になるようであれば無視していただいて構いません。
そして無視されてもよいという前提で述べるならば、仮にTravis sttokoさんのサンプルを採用するとして、「音楽評論家 (ただし本人は肩書を「音楽評論家」とされることを好まない)」を脚注を付ける場合に、ではなく、
とすることは可能なのでしょうか? と言うのも、他の人名などで検索して調べてみたところ、どうやらGoogle検索で出てくる冒頭文には「脚注が付いていること」が反映されず(ワードを拾うシステムの仕様でしょうか)、「音楽評論家」と「(ただし本人は〜」の間に脚注が挟まると、補足情報が正しく拾われない可能性が高いと感じたからです。
しかし改めて申し上げますが、このような危惧は議論に不要だと思われても仕方ないと思っておりますので、「そこまで考慮する必要はない」というご意見がありましたらそれに従うつもりです。一意見としてお目通しいただけたら幸いです。--雪舟(会話) 2024年11月22日 (金) 09:03 (UTC)
- 「他の方の意見も待ちたい」と言った手前、皆さんがたくさん議論を交わしているのを受けて現状の自分の意見を書いてみます。正直なところ、未だに「音楽評論家である」と記載せずとも「音楽評論家と説明されることもある」と書けば足りるのではないかという気持ちにあまり揺らぎはありませんが、Travis sttokoさんやぷにをさんのおっしゃる意見も否定できないと感じています。
- 議論が逆戻りしていて当惑しています。「好まない」はワガママで好き嫌い言ってるような印象になるから違うと考えます。もとの断定しない表現で何がいけなかったのでしょう?--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 09:56 (UTC)
- ご指摘ありがとうございます。ぷにをさま。大変失礼しました。--Travis sttoko(会話) 2024年11月22日 (金) 08:39 (UTC)
出典
脚注
- ^ https://www.gqjapan.jp/tag/peter-barakan
- ^ https://c.okinawatimes.co.jp/index.html?kijiid=OTPK20240929A001700010L242004
- ^ https://president.jp/articles/-/2692?page=1
- ^ https://x.com/pbarakan/status/1811746048559448075
- ^ a b 音楽評論家であることの根拠となる資料
- ^ a b ピーター氏が「音楽評論家ではない」と言及している資料
- コメント 便宜的に節内(サブページ内)の出典をひろうため、専用のテンプレート Template:Reflist-talkを使用します。--Lingualatin(会話) 2024年11月20日 (水) 04:14 (UTC)
- {{Reflist-talk}}の前に「:」がある(おそらく返信ツールの使用により自動挿入された)ことで表示不具合が起きていたため、行頭の「:」をコメントアウトしました。--雪舟(会話) 2024年11月20日 (水) 05:22 (UTC)