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Wikipedia:井戸端/subj/一般的にそうだとされている職業肩書きについての記述を、当該記事の対象の当人がその肩書きを望んでいないという理由で削除していいのか?

一般的にそうだとされている職業肩書きについての記述を、当該記事の対象の当人がその肩書きを望んでいないという理由で削除していいのか?

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『魂(ソウル)のゆくえ』『200CD+2 BLACK MUSIC』『ピーター・バラカン音楽日記』『ピーター・バラカンのわが青春のサウンドトラック: Once Upon A Time In England... 』『テイキング・ストック ぼくがどうしても手放せない21世紀の愛聴盤』のようにソウルやロックの名盤紹介やバイヤーズガイドの著作が多数あるピーター・バラカンについて、彼を「音楽評論家」であるとWikipediaの記述しているところ

「ピーターバラカン本人が音楽評論家と呼ばれたくない」としていることをもって音楽評論家という記述を削除しようとする人がいます。(ピーター氏自身は自分はあくまで愛好家にすぎないという意識から音楽評論家という肩書きを好んでいないようです)

しかし、こういう著作を職業的にものす人物を、誰にもわかるように、ごく常識的にその職業を言い表すなら「音楽評論家」でしょう。ピーターバラカンを音楽評論家とするのは、次のような媒体もそうしています。 GQ[1]沖縄タイムズ[2]プレジデント[3]

この場合に記事の記述対象の当人の「本人が望んでいない」という記述対象当人の自意識やこだわりを理由として、客観的には常識的にそうされるだろう、そして実際に複数媒体でそうされている「音楽評論家」という記述を削除するのは適当でしょうか?--Travis sttoko会話2024年11月20日 (水) 03:56 (UTC)[返信]

当該記事のノートに書きましたが、ウィキペディアに掲載されているからが理由で、一般にもその肩書が使われてしまうことが問題なのですから、掲載し続けることはウィキペディアが論争に加わることになる中立性にかける行為なので、削除することは適当です。ピーター・バラカンさんが音楽評論家であるかどうかという議論があることと、間違ってそのように称されることがあることは事実で、これ以上間違って広まらないように知ってもらうことは意味のあることだと考え直して、削除さずに編集しなおしました。--Kylin会話2024年11月20日 (水) 04:25 (UTC)[返信]
「ウィキペディアに掲載されているからが理由で、一般にもその肩書が使われてしまう」上述のGQ、沖縄タイムズ、プレジデントはWikipediaをみて音楽評論家としたのですか?あなたの思い込みに過ぎないのではないですか?上述の著作がある人物を通常の日本語で客観的に表現するのに「音楽評論家」とするのはまったく自然ではないしょうか。各媒体もピーターバラカンの活動の実態をみて自然に「音楽評論家」と表記していると取る方がずっと素直ではないでしょうか--Travis sttoko会話2024年11月20日 (水) 05:49 (UTC)[返信]
こちらの議論を拝見し、「ピーター・バラカン」も拝見しました。「氏の肩書きを『ブロードキャスター』とするか『音楽評論家』とするか、または両方書くか」というよりも、「肩書きを『ブロードキャスター』とする資料もあるし、『音楽評論家』としている資料もある。しかし本人は『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない」ということをそのまま書いてしまえばよいと思うのですが、いかがでしょうか?
肩書きを「音楽評論家」としている資料の例は既にTravis sttokoさんが挙げているので、肩書きを「ブロードキャスター」としている例も挙げてみます。そして「本人が『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない」という資料の例はこちらでしょうか。WP:TWITTERでは「一次資料を出典とすることについては慎重になった方がよいが、記事の主題の本人が発信した本人に関する内容であれば使用できる(要約)」とあります。氏のTwitter(X)での発言をもとに「ピーター・バラカン氏は音楽評論家ではない」と書くのは誤りかもしれませんが、「ピーター・バラカン氏は『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない(好んでいない)」を記述するのは可能ですし、Wikipediaのガイドラインから外れていないように思います。--雪舟会話) 2024年11月20日 (水) 06:12 (UTC) 表記ゆれを修正。--雪舟会話2024年11月20日 (水) 06:16 (UTC)[返信]
 追記 下にて、Triglavさんが「2005年12月11日以前の資料があれば〜」と発言されたので少し調べてみました。これらを活かすのなら、「ブロードキャスター」「音楽評論家」ともに「そういう肩書きが使用されることがある」という出典として使用することは可能かと。--雪舟会話) 2024年11月20日 (水) 07:36 (UTC) 衍字修正。--雪舟会話2024年11月20日 (水) 07:44 (UTC)[返信]
おおむね雪舟さんのご意見に賛同するのですが、一点だけ「肩書」という言葉について、私も当該記事に書いてしまったことを反省しているのですが、曖昧な表現で不正確に感じるところがあり、使用を避けたほうがよろしいと考えます。--Kylin会話2024年11月20日 (水) 08:40 (UTC)[返信]
返信 (Kylinさん宛) 確かに当方の例示した資料を見てみても、あくまでも「ピーター・バラカン(○○)」や「○○のピーター・バラカン」という表現で氏を説明しているものばかりであり、「肩書き/肩書」という語句は使われていないようですね。ご指摘いただきましてありがとうございます。下でTriglavさんが書いているような「〜とされる」程度の表現を使う方が、正確かと存じます。--雪舟会話2024年11月20日 (水) 08:58 (UTC)[返信]
少し整理してみたらもうひとつ気になりました。「ピーター・バラカン氏は『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない(好んでいない)」なんですが、ピーター。バラカンさんは音楽評論家と呼ばれることを望んでらっしゃらないし、好んでいないことはわかります。ただ、ここでそう書くべきでない理由は、本人が好んでないからではなく、ご本人がご自分を音楽評論家ではないと考えていることです。好きなことを勝手に書いているだけで、それは評論活動ではない、と考えてらっしゃるからです。「好んでいない」は誤解をうむで避けるべき表現で、ウィキペディアに掲載して広めるべき事実は、適切な表現とは思えないので考慮が必要ですが「音楽評論家と誤解されることが多い」という趣旨であると考えます。--Kylin会話2024年11月21日 (木) 02:36 (UTC)[返信]
「好んでいない」という表現を使わないのはありだと思いますが自身がそうだと思っていないとしても第三者的にはそのように評価されている事実が複数で上がっているので「音楽評論家。ただし、(ピーター氏の思う理由を含んでもいいかもしれないにより)自身は音楽評論家ではない(誤解されている)としている。」のような記述が一番穏当な気がします。ピーター氏は「音楽評論家」という言葉の定義についての専門家ではないと思われます。(そもそも評論家の定義自体が曖昧なところもあるようですが。)なので、誤解というのもまた語弊を招くことになってしまうのでは?と考えました。--ぷにを会話2024年11月21日 (木) 03:11 (UTC)[返信]
ピーター・バラカンさんが音楽評論家であるかどうかは議論が残るので、誤解と断定して否定するのは適切ではない、ということわかりました。しかし「『音楽評論家』という言葉の定義についての専門家ではない」という概念を持ち込むのは、不適切だと思います。--Kylin会話2024年11月21日 (木) 04:44 (UTC)[返信]
一番伝えたかった点は伝わったかなと思うのでその点は良かったと思います。別件、私の理解が足りずに申し訳ないのですが後学のためどのような点で不適切なのか教えていただけると助かります。--ぷにを会話2024年11月21日 (木) 05:17 (UTC)[返信]
私が申し上げたかったのは、ここで音楽評論家の定義についての議論が始まってしまったら、議論が広がりすぎて結論が遠のくのではないかという懸念がありました。「言葉の定義についての専門家」が参加しなければ結論を出せないという印象を与え結論を遠ざけると感じて、不適切と表現してしまいました。一般的な国語辞典で評論家を引いて類推できる音楽評論家の定義をもとに議論すれば充分だと考えています。--Kylin会話2024年11月22日 (金) 04:27 (UTC)[返信]
回答ありがとうございます。私としても「一般的な国語辞典で評論家を引いて類推できる」範囲でのものでも十分と考えます。私があのコメントで言いたかったのは『「言葉の定義についての専門家」が参加しなければ結論を出せないという』ということではなく、ピーター氏本人が「音楽評論家」という言葉の定義を正しく理解しているかは分からないということでした。このあたりはWP:信頼できる情報源の「偽の権威に注意」節にあるようなスタンスでコメントしました…がどちらにしても私の伝え方の問題はあったようでその点はご迷惑をおかけしました。--ぷにを会話2024年11月22日 (金) 05:08 (UTC)[返信]
こちらこそご意見いただけて私の拙い物言いを訂正でき、重ねて「音楽評論家という言葉の定義」への考察を深めるきっかけをいただき、心より感謝しております。--Kylin会話2024年11月22日 (金) 05:31 (UTC)[返信]
また安易に「言葉の定義への考察を深める」などと書いてしまいましたが、国語辞典やウィキペディアを引いただけで混乱が強まっております。
 手元にあった大辞林第三版で「評論家」を調べたところ「①評論を職業とする人。②自らは手を下さず、意見や批評を述べるだけの人を皮肉めかして言う語。」とありました。①は問題ないイメージできる語釈ですが、②の語釈には貶める印象があることがわかりました。このような二面性がある言葉なので、使用する際には慎重になる必要があるという思いを深めました。--Kylin会話2024年11月22日 (金) 08:01 (UTC)[返信]
タイミングが被りましたが通りすがりのコメントを残します。ピーター・バラカン氏がWikipediaのせいでそれらが広まっていると考えていることは分かりましたがプレジデントの出典は2011年の記事ですしインタビューなりなんなりした本人の言葉として記事にされているのであれば事前に構成校閲なりで目を通したりリリース後であっても「音楽評論家」ではないと訂正なりされていればまだ…とも思います。既に複数で「音楽評論家」とされているので「音楽評論家。ただし、本人は音楽評論家ではないとしている。」みたいな書き方でもいいのでは?感じました。--ぷにを会話) 2024年11月20日 (水) 06:13 (UTC) 誤字を修正。--ぷにを会話2024年11月20日 (水) 08:48 (UTC)[返信]
コメント 無出典で書き加えられた第2版(2005-12-11T03:27:03)より以前の資料を見つけることができれば文句なし。そうでなくても2024年沖縄タイムスを提示すれば(ウィキペディア的には)問題なし。Xを本人と認めてよいのであれば「~はラジオパーソナリティ。音楽評論家とされることもあるが本人は強く否定している。」あたりか? --Triglav会話2024年11月20日 (水) 07:01 (UTC)[返信]
ついでに「ブロードキャスター」ですが、ja版ではその職業で分類されていないようです(記事もありません)。曖昧さ回避ページが示すとおり、番組司会者ニュースキャスターラジオパーソナリティあたりに絞るとよいでしょう(ブロードキャスターのリンク先はチェックされましたか?)。『自身の肩書に「ブロードキャスター」を用いる』としたほうがよいです。--Triglav会話2024年11月20日 (水) 09:05 (UTC)[返信]
ご意見いただいている、雪舟さん「『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない(好んでいない)」を記述」、ぷにおさん「音楽評論家。ただし、本人は音楽評論家ではないとしている。」みたいな書き方」と同意見です。ピーターバラカンの冒頭で述べたような著述家としての肩書きを、ごく素直に、自然に、一般的な日本語の使用法で表現すると「音楽評論家」です。故に実際に前述のいろいろな媒体がピーターバラカンを「音楽評論家」だとしているのでしょう。ピーター氏の自己イメージや自己プレゼンテーションが違うとかいうことは、ピーター氏の自己紹介ページではないWikipediaの記事の客観的な記述とは関係がないはずです。またピーター氏の業績の概略をあらわすときに著述家としての側面をオミットするということもありえません。したがって本人が好む表現でないからという理由で「音楽評論家」の文言じたいを削除するのもナンセンスと考えます。ただピーター氏が、そう呼ばれることを好ましく思わない事実があるなら、そのことをその通りに注記すればいい話だと思います。
また、Triglavさんの言われる「ブロードキャスター」という表現についてもですが、ピーター氏は、「音楽評論家」の肩書きを好まないのと同じように、かなりこだわりを持って「ブロードキャスター」の呼称を使いたいようですが(その理由は「英語だとそう言うのが普通だから」ということだと思います)、この語は日本語としては全く一般的ではなく、ぱっとその単語を言われてすっと飲み込める人多くないでしょう。ピーター氏の活動実態を、日本で普通に伝わる常識的な表現にするなら「ラジオDJ・テレビパーソナリティー」でしょう。私はここも辞典の記述としては書き換えた方がいいと思います。--Travis sttoko会話2024年11月20日 (水) 09:30 (UTC)[返信]
コメント どの肩書を採用すべきかという点およびその書き方について、「餅月ひまり」のような例があることを思い出したので挙げてみます。記事の冒頭で「YouTuberという表現を使用していること(バーチャルYouTuberという表現を使用していないこと)」に関する注釈が添えられています。これに倣うべきというものではなく、こういう書き方をしている記事もあるという一例としてご覧いただければ幸いです。--雪舟会話2024年11月20日 (水) 09:48 (UTC)[返信]

コメント 昨日から色々と意見などを書いてみて、ふと、以前にノート:10億円で行った議論のことを思い出しました。そちらでは「ネタ作成者」に関して「ボケ担当のメンバーの個人名」を記載するか「両者」と記載するかで意見が対立し、最終的には「単語で言い切ろうとすることで意見がまとまらないなら、文章で記述すればよいのではないか」という方向で落ち着きました。今回の件についても、取り敢えず記事冒頭に概要として記載するものは、Triglavさんが提案されている「番組司会者ニュースキャスターラジオパーソナリティあたり」に絞り、「ブロードキャスター」および「音楽評論家」については記事の中で補足を交えて記述するのが良いのではないでしょうか? 「ピーター・バラカン」の特別:固定リンク/102651247の版をもとに簡単なサンプルを作成してみました。

ピーター・バラカン

ピーター・バラカン(Peter Barakan、1951年8月20日 - )は、イギリス出身のラジオDJテレビ司会者[注釈 1](肩書きについては#人物も参照)。

(中略)

人物

1951年、ロンドンでユダヤ系ポーランド人の父と、イギリス人とミャンマー人を両親に持つ母の間に生まれる。なお弟のマイケルは、後にロック・ギタリストになった。#家族の節で解説。

ロンドン大学日本語学科を卒業した後、1974年に来日。現在はフリーとして活動。日本国内のラジオ番組や、NHKワールドTVの番組『Japanology Plus』へのプレゼンター役としての出演などを続けている。

自身の活動や職業について、ピーター本人は「ブロードキャスター」という表現を用いる(ブロードキャスター (曖昧さ回避)#一般名詞も参照)。長年出演するNHKの番組情報などでも、同様の表記がされている。

また、『魂(ソウル)のゆくえ』『200CD+2 BLACK MUSIC』など、ソウルやロックの名盤紹介をする著作を多数上梓しているため、メディアによっては「音楽評論家」と紹介されることもある。しかしピーター本人は、自身のSNSにて「自分は音楽評論家ではない」と言及している。

来歴

(後略)

注釈

  1. ^ ここでは日本国内で広く伝わる表現として「ラジオDJ」「テレビ司会者」という表現を用いている。詳細については#人物を参照。

また、これは少々個人的な意見も入りますが、ピーター氏がWikipediaに「音楽評論家」と書かれたくないという気持ちは分からなくもないのです。何故ならピーター氏に限らず、Googleで人名などを検索すると、検索結果の右上に、画像検索の結果と共にWikipediaの冒頭文を抜粋した情報が出てくることが多いからです。Wikipediaを閲覧するつもりがなくとも、ただ検索をしただけでWikipediaで記述されていることがトップに来てしまうのなら「やめてほしいなぁ」と思う気持ちは分かります。しかし「音楽評論家」として言及・紹介しているメディアが複数あるのであれば、それを「誤解」として扱ってしまうのも何か違う気がします。それならば、記事の冒頭には日本国内で伝わりやすい名称を数個記述し、丁寧な議論や言及が必要なものについては記事の中で記述するのがよいのではないでしょうか。--雪舟会話) 2024年11月21日 (木) 03:38 (UTC) 誤字修正。--雪舟会話2024年11月21日 (木) 03:40 (UTC)[返信]
 追記 念のため補足します。昨日の議論の中で、Kylinさんから「『肩書き』という表現を使わない方がよいかもしれない」という意見があり、当方も賛同しておりましたが、上記のサンプルではどうにも上手い言い回しが思い付かず「(肩書きについては〜」という表現を1か所使用しております。ご意見を無視してしまったようにも捉えられかねないと思ったため、こちらで弁明いたします。--雪舟会話2024年11月21日 (木) 04:12 (UTC)[返信]

一行目の「ピーター・バラカン(Peter Barakan、1951年8月20日 - )は、イギリス出身のラジオDJ、テレビ司会者[注釈 1](肩書きについては#人物も参照)。」この行に音楽評論家(注記して本人はその呼び方を好んでいない)といれた方がいいと思います。入れないとむしろおかしいです。ピーターバラカンはラジオDJが余技で音楽評論をやっていると言う訳ではなく、音楽関係の著述が彼の業績の大きな柱ですから。(元々新潮文庫ででて新装版がでている「ソウルのゆくえ」という著作は、日本人のブラックミュージック受容に重大な役割を果たしたといっていいものです。また彼がdjのラジオののBARAKAN BEATやウィークエンドサンシャインは、そもそも信頼できる音楽評論家バラカンの選曲が聴きたいというニーズで成り立ってるはずです)前に述べましたが、「音楽評論家」と言う肩書きを避けたいばっかりに、記述からオミットするのは辞典の作成上本末転倒です。きちんと「本人が望んでいない」と注記する訳ですから記述を避ける理由はないはずです。--Travis sttoko会話2024年11月21日 (木) 08:11 (UTC)[返信]
返信 (Travis sttokoさん宛) おそらくそのご意見については、Travis sttokoさんと当方とで意見がかち合ってしまうように思います。当方としては「『音楽評論家』という表現を使うメディアが多数あるのは事実であり、それを記述しないのは良くないと思う。しかし、記事内できちんと触れているのであれば、冒頭で触れる必要はないと思う」という考えです。そのため、「(『ブロードキャスター』も含めた)「その他の肩書き」は後述する」とサンプルの中で示しました。『「音楽評論家」と言う肩書きを避けたいばっかりに』とおっしゃっていますが、当方としては、記事の中で触れているのであれば「避けてはいない」と思っております。但し当方は音楽関係に明るくないのは事実であり、浅学ながらこの議論を見るまでピーター氏のことを存じ上げていなかったのも事実です。そして門外漢ながら、氏を「音楽評論家である」と言い切らずとも、「音楽評論に関する書籍などを多数上梓している。そのため『音楽評論家』と紹介されることもある」と表現すれば、氏の活動や功績を偽りなく伝えられることは可能であると考えます。--雪舟会話2024年11月21日 (木) 08:38 (UTC)[返信]
辞書の記述としてどうあるのがいいのか?何に重みづけがされるべきか内容をきちんと考慮して記載しないと本末転倒になると考えています。ピーターバラカンとは何者か?ということに直截に答えるならば(本人が好まずとも)音楽評論の著述が第一なはずです。直截に書かれるべきことが一行目にあらわれていないのは変です。ラジオDJが余技で音楽評論をやっているのではなく、音楽評論家の仕事の幅が広がってDJをやっているというのが実際なはずです。ピーターバラカンが音楽評論家なのは本人がその呼称を好まなくとも、実際に30年読み継がれる音楽評論の名著(ソウルのゆくえ)を書いている以上客観的には動かしようがない話のはずです。--Travis sttoko会話2024年11月21日 (木) 09:18 (UTC)[返信]
返信 (Travis sttokoさん宛) うーん、Travis sttokoさんが「冒頭で記載すべき」と考えていることはよく分かりましたが、当方としてはやはり「記事内で触れていれば無理に冒頭で記載せずとも足りる」という考えに今は揺らぎはありません。Wikipediaは百科事典なので、辞書のように見出し語に対する説明は短文にまとめなきゃいけない訳でもないですし。これについては他の方の意見も聞いて判断したいです。--雪舟会話2024年11月21日 (木) 09:52 (UTC)[返信]

返信 (雪舟さん宛) 私の言葉たらずからでしょうがうまく伝わっていないようなので例えを使って説明しなおします。Wikipediaの村上春樹の記事をみてみるとの冒頭一行の紹介は「村上春樹は日本の小説家・翻訳家。」ですが、これが仮に「村上春樹は日本の翻訳家・エッセイスト。」と書き直されたとして、記事の下の方の文章で小説家としての著作が挙げられていることから「記事内で触れていれば無理に冒頭で記載せずとも足りる」で通るでしょうか?通らないはずです。そう言うレベルで根本的に重みづけがおかしいのです。「音楽評論家」の肩書が外れて「テレビ司会者」が載っているのは率直に言って滅茶苦茶なのです。

下の「人物」も重みづけもやはり変です。『Japanology Plus』のようなマイナーな事柄の固有名が挙げられて、音楽関係の長寿番組のラジオ放送の名前が挙げられておられず、本丸のはずの評論活動もオマケみたいに記載してあるのは重みがおかしいです。ピーターバラカンとはそもそも何者か?は第一義的には「書籍やラジオDJを通じた良質なな音楽の紹介者」です。私案(試案)ですがこうされるべきです。

ピーター・バラカン(Peter Barakan、1951年8月20日 - )は、イギリス出身の音楽評論家 (ただし本人は肩書を「音楽評論家」とされることを好まない)ラジオDJ[注釈 1](肩書きについては#人物も参照)。

人物

1951年、ロンドンでユダヤ系ポーランド人の父と、イギリス人とミャンマー人を両親に持つ母の間に生まれる。ロンドン大学日本語学科を卒業した後、1974年に来日して音楽出版社や音楽マネジメント会社の社員として働いた後、独立した。

ゴスペルブルースから80年代まで(新装版ではネオ・ソウルまで)のアメリカのブラックミュージックの通史を示して時代・ジャンルごとの代表盤を紹介した『魂(ソウル)のゆくえ』の著者。ブラックミュージック、ロック、ジャズ、ワールドミュージックのレコード・CDを紹介する著作を多数執筆している。(このことから「音楽評論家」とされることが多い。しかし本人は、自身のSNSにて「自分は音楽評論家ではない」と言及している。

1980年代に洋楽のミュージックビデオを放映するテレビ番組「ポッパーズMTV」の司会者として一般に名前を知られるようになった。「BARAKAN BEAT 」、「ウィークエンドサンシャイン」など、自ら選曲した楽曲を放送するラジオ番組のDJとして知られる。CBSドキュメントの司会のように音楽関係以外の放送の仕事もある。

自身の職業について、ピーター本人は「ブロードキャスター」という表現を用いる(ブロードキャスター (曖昧さ回避)#一般名詞も参照)。長年出演するNHKの番組情報などでも、同様の表記がされている。

来歴

(後略)

注釈

  1. ^ ここでは日本国内で広く伝わる表現として「音楽評論家」「ラジオDJ」という表現を用いている。詳細については#人物を参照。

--Travis sttoko会話2024年11月21日 (木) 20:00 (UTC)[返信]

注釈用Template追加。--雪舟会話2024年11月21日 (木) 21:37 (UTC)[返信]
返信 (Travis sttokoさん宛) 丁寧にご説明いただきありがとうございます。村上春樹氏の例を挙げていただいたことで、Travis sttokoさんの考えがより理解できたように思います。また、当方が提示したサンプルの「人物」節の内容についても、ご指摘ありがとうございます。当方のサンプルについては、ピーター氏や音楽分野に明るくない人間が、既存の記事や皆さんの意見を切り貼りしてそれとなく形にしたものなので、色々と正確でない点もあるだろうなとも思っておりましたが、やはりおかしなところがあったのですね。しかし一部の表現など当方のサンプルを活かしていただいた箇所も見受けられ、その点についてもお礼申し上げます。
ただ、ひとつ前のコメントにて「他の方の意見も聞いて判断したい」と申し上げた通り、Travis sttokoさん以外の方の意見も聞いてから判断したいというのが当方の気持ちです。と言うのも、この人物や分野に明るくないからこそ、Travis sttokoさんがおっしゃっている「音楽評論家の仕事の幅が広がってDJをやっているというのが実際なはず」という発言が、「はず」という語句を使われていることもあり、Travis sttokoさん以外の方もそう思われるようなものなのか判別が付かないからです。せっかく丁寧なサンプルを再提示していただいたこともあり、最初にTravis sttokoさんと議論されていたKylinさんも含め、他の方の意見も待ちたいです。--雪舟会話2024年11月22日 (金) 00:09 (UTC)[返信]
ピーター・バラカンさんのウィキペディアの記事をお読みいただいて、過去の出演番組の時期と著書の出版年月をご確認いただければ、「音楽評論家の仕事の幅が広がってDJをやっているというのが実際なはず」と考えるのは無理があることは御理解いただけるかと思います。雪舟さんの案をもとに議論を続けることを支持します。--Kylin会話2024年11月22日 (金) 03:06 (UTC)[返信]
一つ強調させてください。ピーターバラカンが音楽評論家であることについては、改めてですが、GQは、紹介文として「1951年、イギリス生まれの音楽評論家、ラジオDJ。…』とはじめています。沖縄タイムスは記事のタイトルに「音楽評論家ピーター・バラカンさん 80年代から現在までの音楽シーン解説 10月3・4日 沖縄市・プラザハウス創業70周年企画」としています。プレジデントのネット記事も「ブロードキャスター・音楽評論家 ピーター・バラカンさん」というタイトルです。これらの媒体がピーター・バラカンを一言であらわすなら「音楽評論家」だとしているのは間違いありません。
ピータバラカンについてちょっと検索すれば、ピーターバラカンを「音楽評論家」としているページは次々と出てきます。(これらは個人ブログではありません。ご確認ください。)
「親子の日」の公式サイト
https://oyako.org/project/talk-live-vol13/
尚美学園大学
https://www.shobi-u.ac.jp/cms/wp-content/uploads/2014/07/21962be75fd5f8bd329c589d062f619e.pdf
タワーレコード(CDジャーナル転載)
https://tower.jp/artist/821039?srsltid=AfmBOorqYBCNJNsDudzrOt3APDnPoGiqqlro-erSsU4y9TkLIBpOldqh
山口情報芸術センター
https://www.ycam.jp/archive/profile/peter-barakan/
CDジャーナル
https://artist.cdjournal.com/a/peter-barakan/870338
シンタックスジャパン
https://synthax.jp/tl_files/newsletter/140718/
Wikipediaのピーターバラカンの記事ノートでも「「ブロードキャスター」なる自称の肩書きについて」でおむねぬ氏は「バラカン氏が音楽評論活動を行っていることは明白であり」音楽評論家の肩書を使うべきだと主張されています。
ピーターバラカンが紹介される時に通常「音楽評論家」とされることは全く間違いなく、そうされないとおかしいレベルの話です。私が一人で意固地に独自説を唱えていると受け取られているとしたら大変に不本意なので、そうではないことを強調しておきます。--Travis sttoko会話2024年11月22日 (金) 06:11 (UTC)[返信]
あとWikipediaの記事を見て時系列で…とかいう(申し訳ないですが)あまりにおかしな論証はやめませんか?ピーターバラカンは1980年代のころから他の評論家に混じってミュージックマガジンのクロスレビューを執筆しています。
http://musicmagazine.jp/published/mmex-201010cr.html
単著にならない音楽評論の執筆業なんていくらでもあるわけです。(一般にならない場合のほうが多いでしょう)--Travis sttoko会話2024年11月22日 (金) 06:26 (UTC)[返信]
こちらの人物紹介をみるに執筆活動もラジオ出演も同時期に開始したことになっているのでどっちが早いと話しても建設的な議論にならないのかなと思うので改めてどうあるべきかを熱を入れずに調整する方がいいのかなと思いました。個人的な意見では「パーソナリティ、音楽評論家。ただし、本人は音楽評論家ではないとし、ブロードキャスターであるとしている。」(それぞれに適宜出典付。)くらいに記述されていれば大体わかるのかなと思っています。--ぷにを会話2024年11月22日 (金) 07:17 (UTC)[返信]
こちらの投稿を拝見する前に行き違いに下の投稿を返信して失礼しました。私も時期にこだわることは建設的ではないと思っています。ただ私は雪舟さんの案を支持していて、「音楽評論家。」と書くことは避けるべきだと考えていることは申し添えておきます。--Kylin会話2024年11月22日 (金) 08:22 (UTC)[返信]
何度も申し上げているつもりなのですが、ピーター・バラカンさんを音楽評論家を書いている事例を紹介されていても、それはピーター・バラカンさんが音楽評論家であると断定する理由にはならず、紹介されているという事実をあらわしているにすぎません。ピーターさんの発言を引用すると「ぼく音楽評論家ではありません。限られた音楽を趣味で聞いているだけです。そして紹介するのは勝手な好き嫌いだけが尺度です。それを評論と呼んではいけないと思います[4]とあります。もちろんこの発言があるからピーター・バラカンさんは音楽評論家ではないと断定することはできませんが、この発言に対して反論して納得できる議論を踏まえずに音楽評論家と決めつけることは、個人的見解であり、公平性が保たれた事実とは言えないです。
 もういちど書きます。ピーター・バラカンさんが音楽評論家と紹介されていることを理由に音楽評論家であると断定するのは Travis sttoko さんの個人的見解です。ピーター・バラカンさんが音楽を評論する仕事をしていることを客観的にご説明ください。
 Travis sttokoさんが独自説を唱えてるとは受け止めておりませんのでご安心ください。(申し訳ないですが)言葉を選ばずに申し上げますと、広く流布された俗説を事実だと断定して意固地に主張されていると受け止めております。ウィキペディが俗説を事実として広めることは不適切なので、ピーター・バラカンさんを音楽評論家だと断定的に書くことに反対します。--Kylin会話2024年11月22日 (金) 07:34 (UTC)[返信]
音楽評論家として複数であげられているのは検証可能ですし、個人の見解とするのは流石に暴論ではないかと…。本人が否定していることも検証可能です。並べて書いておけばそのように扱われるが本人が否定しているという点が十分伝わると思うのですよね。WP:検証可能性でいうところの『「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』を考えれば本人が否定していても出典を用いて客観的に書かれていることになるのではないでしょうか?--ぷにを会話2024年11月22日 (金) 07:55 (UTC)[返信]
「自分は音楽評論家ではなくて、音楽を評論していない人」のことを、音楽評論家と呼びたいのならば、せめて音楽を評論している事実を提示してください、というのが暴論なんですか? 「音楽評論家」の言葉の定義が曖昧であれば、使用することに慎重になるべきで、使用例が多いから事実であると断定するほうが暴力的であると感じます。--Kylin会話2024年11月22日 (金) 08:14 (UTC)[返信]
逆にどれだけ音楽を評論している事実が連なっても「音楽評論家」とどこにも書かれていなければ検証可能性を満たせず記載することができないと考えます。我々がするべきことはこれだけ音楽評論しているのだから音楽評論家だと判断することではなく出典でにそう書かれているから音楽評論家だと記載することです。そういう意味で出典に書かれていることを記載することを個人の見解としてしまったら何をもって検証可能であるとすればいいのかとなってしまいませんか?--ぷにを会話2024年11月22日 (金) 08:21 (UTC)[返信]
もうしわけございませんが、私は「これだけ音楽評論しているのだから」が事実とは言えないと考えているので議論が噛み合いません。音楽評論だと言って書いてるものではないものを音楽評論であると主張するには客観的な理由が必要ですよね? と最初から申し上げているつもりなのですが、私の拙い言葉でご理解を妨げて申し訳ございません。--Kylin会話2024年11月22日 (金) 08:26 (UTC)[返信]
まだるっこしい表現になってて誤解を招きそうなので、改善を試みます。
 本人が音楽評論ではないと言っている文章を、「音楽評論である」と主張されるのであれば、客観的理由が必要ですよね?
 付け加えるならば、「そうだと言ってる人が多い」「みんながそう言っている」は「そうである」客観的理由にはならないですよね。--Kylin会話2024年11月22日 (金) 08:43 (UTC)[返信]
うーん。本人がそうだと主張しているだけの内容を本人の主張のみを元に「〇〇である」とするのは逆にダメなんじゃないかなと考えています。あくまで「出典」でどのように扱われているかで判断するべきです。「みんながそう言っている」ではなく「出典A、B、Cでそう言われている」からそのように書くだけなんですよ。逆に本人の否定だけで記事に記載できるかどうかが変わってしまうなら主題に対するマイナスな内容が書ける記事を探す方が難しいのではないでしょうか?(国会議員の先生方には疑惑がついて回りますが、疑惑を持たれている、本人は否定しているなんて記述はよくありますよね?)規模や内容は違いますけど本人が否定している内容の記載という点だけで言えば同じようなものではないかと…。--ぷにを会話2024年11月22日 (金) 10:11 (UTC)[返信]
本人がそうだと主張しているから私がそう主張していると思われている事が、私からしたら勘違いなんです。雪舟さんへのコメントとして私の主張をいったんまとめたんですが、この件を追記したのでそこだけここにも投稿します。
 本人が書いて欲しくないという理由でウィキペディアから削除できない、というのは重々承知しております。しかし、本人が書いて欲しくないことを書くには相当の理由が必要であると私は考えています。紹介事例が多数あることからは、それが事実だと(本人の意志に反して)書く理由とはならず、「紹介事例が多数ある、本人は否定している」という事実を記載すれば充分だと思います。
その他に理由があるなら教えて下さいという趣旨で音楽評論家の定義にまつわる話を持ち出したせいで、議論が進まないのでしょうか?--Kylin会話2024年11月22日 (金) 11:09 (UTC)[返信]
私は、ピーター・バラカンを音楽評論家だとする事例が、これだけあればピーター・バラカンが音楽評論家であると一般に社会的に(すなわち客観的に)されている。したがって音楽評論家であるとはっきりと確実に断定できると思いますよ。
https://artist.cdjournal.com/a/peter-barakan/870338
これを典拠に私は音楽評論家としるすつもりですが、Wikipediaの「検証可能性」を十二分にクリアすると考えます。
そういう形式的なことだけでなく、ピーターバラカンがやっている仕事の中身実質を見ても、他の者がやっていれば何の疑いもなく明白に音楽評論家とされるものです。
そしてピーターバラカン本人が自分は音楽評論家ではないといっていることは、「ピーターバラカンはそう主張している」だけであって、音楽評論家でないという根拠には特にならない(社会的コンセンサスに反対する者が一名みつかっただけ)という見解は上のほうでぷにをさんが言っておられたことを支持します。
何をもって「ピータバラカンが音楽評論家でないかもしれない」とお疑いになっているのか率直に全くわかりません。
また、生身の人間について記事にするわけですから、そのことに配慮はひつようですが、「社会的には評論家とされているが、本人は好んでいない」ことも明確に記すわけですから、何も問題は生じないと思います--Travis sttoko会話2024年11月22日 (金) 08:25 (UTC)[返信]
コメント すみませんちょっと無粋な指摘なのですが……「ぷにを」さんの名前をずっと間違えて打っているようなのでいかがなものかなと……。ぷにをさんの会話ページを見るに同様の間違いをされている事例は何度かあったようなので、Travis sttokoさんに限ったことではないのでしょうけれど、気になったもので……)--雪舟会話2024年11月22日 (金) 08:32 (UTC)[返信]
ご指摘ありがとうございます。ぷにをさま。大変失礼しました。--Travis sttoko会話2024年11月22日 (金) 08:39 (UTC)[返信]
「他の方の意見も待ちたい」と言った手前、皆さんがたくさん議論を交わしているのを受けて現状の自分の意見を書いてみます。正直なところ、未だに「音楽評論家である」と記載せずとも「音楽評論家と説明されることもある」と書けば足りるのではないかという気持ちにあまり揺らぎはありませんが、Travis sttokoさんやぷにをさんのおっしゃる意見も否定できないと感じています。
その上で更に申し上げると、当方はやはりどうしても「Wikipediaを見るつもりが無くとも、Google検索をすればWikipediaの冒頭文が出てくる」という点が気になっております。これに関して「Wikipedia外のことまで気を回してたらキリがない」という指摘もあって然るべきだとも思っているので、当方の意見が議論の邪魔になるようであれば無視していただいて構いません。
そして無視されてもよいという前提で述べるならば、仮にTravis sttokoさんのサンプルを採用するとして、「音楽評論家 (ただし本人は肩書を「音楽評論家」とされることを好まない)」を脚注を付ける場合に、
音楽評論家[5] (ただし本人は肩書を「音楽評論家」とされることを好まない[6])。
ではなく、
音楽評論家 (ただし本人は肩書を「音楽評論家」とされることを好まない[6][5]
とすることは可能なのでしょうか? と言うのも、他の人名などで検索して調べてみたところ、どうやらGoogle検索で出てくる冒頭文には「脚注が付いていること」が反映されず(ワードを拾うシステムの仕様でしょうか)、「音楽評論家」と「(ただし本人は〜」の間に脚注が挟まると、補足情報が正しく拾われない可能性が高いと感じたからです。
しかし改めて申し上げますが、このような危惧は議論に不要だと思われても仕方ないと思っておりますので、「そこまで考慮する必要はない」というご意見がありましたらそれに従うつもりです。一意見としてお目通しいただけたら幸いです。--雪舟会話2024年11月22日 (金) 09:03 (UTC)[返信]
Travis sttokoさん、お気になさらず。だいぶ間違われることにも慣れてきたのと、間違われやすい名前なんだなということをWikipediaで発見した楽しさを味わっています。--ぷにを会話2024年11月22日 (金) 10:16 (UTC)[返信]
議論が逆戻りしていて当惑しています。「好まない」はワガママで好き嫌い言ってるような印象になるから違うと考えます。もとの断定しない表現で何がいけなかったのでしょう?--Kylin会話2024年11月22日 (金) 09:56 (UTC)[返信]
返信 (Kylinさん宛) もしも「当惑」の理由が当方のコメントでしたら申し訳ありません。ひとつ上のコメントで当方が例示した中で「好まない」という表現を使用しているのは、あくまでもTravis sttokoさんのサンプルから引用してきたためであり、脚注位置についての考えを示したいというのが本意です(そしてこの「引用してきたため」という発言について、Travis sttokoさんのサンプルを悪く言うような意図はないことを弁明しておきます)。当方としては「書く/書かない」の二極論ではなくどうにか中間辺りで落としどころを見付けられないかと色々と書いてみてるつもりなのですが、Kylinさんを含めなんだか皆さんを困らせてしまっているようで申し訳ない限りです。--雪舟会話) 2024年11月22日 (金) 10:37 (UTC) 誤字修正。--雪舟会話2024年11月23日 (土) 14:07 (UTC)[返信]
雪舟さん、私の勘違いだったことがわかって一安心しました。自分の頭を冷やすために主張をまとめてみました。長文になってしまいましたがご一読いただけたら幸いです。
 私は「ピータ・バラカンさんは音楽評論家ではない」と考えております。その理由は本人が繰り返しそう主張していることと、「音楽評論家としての業績が提示されていない」からです。
 世に「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」という意見もあることと、音楽評論家と紹介されている事例が多数あることは承知しております。
ですが、音楽評論家として紹介されていたとしても、音楽評論をしている実績ではないので、音楽評論家であると断定する理由にはなりませんし、本人は機会があれば抗議しています。
 音楽を紹介したり、音楽にまつわる著書を多数あっても、本人が評論ではないといってるものを評論と断じるにも理由が必要です。
 ご本人が「音楽評論家」と紹介されることに困っていて、その理由にウィキペディアにそう書いてるからとされています。ウィキペディアにピーター・バラカンは音楽評論家であると書き続けることは、ピーター・バラカンは音楽評論家であるか否かという議論に加担することになり、それはウィキペディアの求められる中立性に欠けることになります。ウィキペディアに書かれていなくても「音楽評論家」として紹介し続けられるから問題はない、と考えたとしても、「ピーター・バラカンは音楽評論家であるか否かという議論に加担した中立性に欠く行為であることには変わりはないので、避けるべき問題行動です。
 本人が書いて欲しくないという理由でウィキペディアから削除できない、というのは重々承知しております。しかし、本人が書いて欲しくないことを書くには相当の理由が必要であると私は考えています。紹介事例が多数あることからは、それが事実だと(本人の意志に反して)書く理由とはならず、「紹介事例が多数ある、本人は否定している」という事実を記載すれば充分だと思います。
 その他に理由があるなら教えて下さいという趣旨で音楽評論家の定義にまつわる話を持ち出したせいで、議論が進まないのでしょうか?
 「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」と断定せず、紹介例が多数あるが本人は音楽評論家ではないとしているという趣旨の説明にすべきだと考えます。
 念の為に申し添えますが、「私がピーター・バラカンさんは音楽評論家ではないと認識しているのでウィキペディアにこう書くべき」とは全く考えておりません。議論の余地があって、断じて書くことに危険性があることを、安易に断じるかたちで書かないでくれ、議論しましょうということであります。--Kylin会話2024年11月22日 (金) 11:19 (UTC)[返信]
独自研究は載せないを見返してきました。
「つまり、ウィキペディアで公開されるいかなる事実、理念意見、解釈、定義、評論、考察、推測、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません。」とあります。
「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」と判断されている方は、「ピーター・バラカン 音楽評論家」のように紹介されている記事を出典とすることで、それを証明できるとお考えになっています。私には、その記事は「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」ことを主題にしているとは思えません。ですので「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」という意見を事実としてウィキペディアに掲載することは不適切と主張します。--Kylin会話2024年11月23日 (土) 10:27 (UTC)[返信]
少し噛み砕いて書いてみます。
「音楽評論家のピーター・バラカンさんと紹介されている」事例は、「紹介されている事実」しか確認できません。「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」ことを主題にした言論を出典として確認できたことはありません。「ピーター・バラカンは音楽評論家である」とウィキペディアに書きたい方は、検証可能な形でご提示ください。
 このことを例えとしてあえて言うならば「ピーター・バラカンは音楽家であるというのは俗説である」「みんなが言ってるから正しいと同じではないか」という趣旨の発言をしました。ですので、俗説ではない、みんなが言ってる程度の話ではないとおっしゃられても「検証可能な出典がないですよね?」という疑問に答えていただけなければ、反論になっていません。--Kylin会話2024年11月23日 (土) 11:40 (UTC)[返信]
検証可能性中立的な観点は熟読できていませんが目を通してきました。
「ピーター・バラカンは音楽評論家である」ということを事実であることを確認できるかどうか、一例としてGoogle検索で「ピーター・バラカンは音楽評論家である」を検索してみました。10頁まで検索結果を眺めてリンク先までは確認していませんが、タイトルとサムネイルで「ピーター・バラカンは音楽評論家である」を主題とし説明しているリンク先は見つけられませんでした。逆に一番目の検索結果に『|なぜピーター・バラカンは自らを「評論家ではない」と語るのか?』[[1]]があったので、ジャーナリストでもないと主張していることを知ることができました。ちなみに冒頭の強調スニペットにはウィキペディアの記事からの定義が紹介されています。
もちろん、検索結果には音楽評論家のピーター・バラカンさんのように紹介されているに紹介されている記事などもありますが、重ねて申し上げますがそれらは「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」ことを主題にしているわけではありませんので、これをして「ピーター・バラカンは音楽評論家である」という事実を示す根拠にはなりません。--Kylin会話2024年11月23日 (土) 11:07 (UTC)[返信]
中立的な観点#中立的な観点とは
ここに「ウィキペディアが目指すところは、論争を記述することであり、論争に加わることではありません。」とあります。
その下の方にある「意見を事実として記さない」から少し長いですが引用します。
『通常、記事はその記述対象について表された重要な意見を情報として含みます。しかし、その意見をウィキペディアの見解として述べてはいけません。それよりはむしろ、その意見が特定の情報源に帰することを文中に記すか、あるいは十分な根拠を示せる場合には、広く認められている意見として記述されるべきです。たとえば、記事中で「大量虐殺は悪行である」と記述してはいけませんが、「某氏は、大量虐殺は人間の悪の縮図であると記している」と記述することはできます。』
 このことからピーター・バラカンさんを「音楽評論家」と断じて記述するべきではなく、メディアで紹介されている、本人は否定している、という趣旨で記述する方がよいと考えます。--Kylin会話2024年11月23日 (土) 11:27 (UTC)[返信]
自分自身の記事
あなたが個人的に関わっていることがらについて記事を書くときには、あなたは、いつも以上に注意を払い、あるいはそれを控えなければなりません。」
と書いてあります。「本人発言を採用するべきではない」というルールがあるようには見受けられせん。
「ピーター・バラカンさんは自分は音楽評論家ではない」と繰り返し発言されているので、検証可能な出典があります。本人の発言ですので取り扱いに慎重になるのはもっともですが、「ピーター・バラカンの職業は音楽評論家であるか否か」という事実であり、本人が考えてるだけではない、仕事をするときの肩書として使用していないことは検証可能な事実ですので、退ける理由はありません。
 ひるがえって「音楽評論家のピーター・バラカンさん」と紹介されている例も検証可能な出典があります。ですが、「ピーター・バラカンさんはこのような理由で音楽評論家である」と説明している例は、(今のところ)ありません。
 「ピーター・バラカンさんは音楽評論家ではある」と断言するのは、検証可能な出典のない独自研究ですので、記事の主題である本人の意志とは関係なく、掲載すべきではありません。--Kylin会話2024年11月23日 (土) 12:40 (UTC)[返信]
返信 ( Kylinさん宛) ロジックがおかしいというか、話が色々と逆なのではないでしょうか?
> 紹介事例が多数あることからは、それが事実だと(本人の意志に反して)書く理由とはならず、「紹介事例が多数ある、本人は否定している」という事実を記載すれば充分だと思います。
とおっしゃいますが、出典が多数あるということは「ピーターバラカンは音楽評論家である」が、検証可能性のある事実である、ということを裏付けており、Wikipediaの考え方では、「事実として書く理由とはならず」ではなく「事実として書く理由となる」です。話が逆です。「書く理由とはならず」というのは、Kylinさん独自のお考えにすぎず、他の執筆者が従うべきものではないと考えます。
また、Kylinさんは「紹介事例が多数ある」ことを、少し前のご発言でも「広く流布された俗説」などともおっしゃっていましたが、Wikipediaの編集上、あなたはどういうお立場や権能で、出典を「俗説」と判断して切り捨てることができるのでしょうか?
出典に基づいて「ピーターバラカンは音楽評論家である」と検証可能な事実をストレートに書こうとするところ、そうではなく「紹介例が多数あるが」と書くべきだとおっしゃいますが、「そう書くべきだ」とおっしゃることは要するに、Kylinさんの独断で、「これらは俗説であり出典たりない、事実を裏付けない、と自分が判断したので、その通りに取り扱うべきだ」とおっしゃいることに他なりません。到底受け入れ難いご意見です。
これはKylinさんが「ピーターバラカンは音楽評論家でない」という自身の持論・特定の観点に肩入れして、その目的に沿うように恣意的に出典を選別排除していることであり、論争に加わることではないでしょうか?
逆に、私は「ピーターバラカンは音楽評論家である」という検証可能な事実に対して「ピーターバラカンは音楽評論家でないと本人が主張している」という別の事実も公平にはっきりとわかる形で書こうとみずから主張しています。Kylinさんが私を論争に加わっている、中立性に反しているなどと難じられるなら非常に心外です。話が逆です。論争に加わって中立性にに反しているのはKylinさんです。
Wikipediaの方針に沿って議論を整理するとこうなります。なお、お願いがあるのですが「(検証可能な)事実」とか「中立性」とか「論争に加わる」ということはWikipediaの用語であり、用語の概念や意味はWikipediaのガイドラインが定めているので、今後はそうした用語を使って議論する場合、ガイドラインに則ってお使いいただけないでしょうか?そうしないと議論が無駄に混乱します。--Travis sttoko会話2024年11月23日 (土) 06:11 (UTC)[返信]
申し訳ございませんが、何をおっしゃってるのか総意がつかめません。これから読み深めさせていただきたいと思うのでお時間をいただきたいところですが、目についた疑問をひとつ質問させていただきます。
「論争に加わって中立性にに反しているのはKylinさんです。」は、何を行っているのでしょうか? 私は「ウィキペディア論争に参加してはいけない」にもとづいて意見を言ったことはありますが、誰かがこの議論に参加することが間違っていると思ったことはないので、何をおっしゃってるのかわかりません。
そしてもうひとつ「議論が無駄に混乱」することを避けるために、私からも Travis sttoko さんにお願いしたいことがあります。「はずです」とお考えになったり発言することを控えていただけませんでしょうか? 現在のこのページを検索してみたら「はずです」とお書きになっているのは Travis sttoko さんだけで、他には 「Travis sttokoさん以外の方もそう思われるようなものなのか判別が付かない」ことの説明のための引用と、私がその意見を否定するために引用しているだけです。「はず」と書かれると、事実であるよりも個人的見解と受け止められますし、思い違いがないか検証する必要が生じ、議論が無駄に混乱します。よろしくお願いいたします。--Kylin会話2024年11月23日 (土) 08:53 (UTC)[返信]
「ウィキペディア論争に参加してはいけない」「ウィキペディアが目指すところは、論争を記述することであり、論争に加わることではありません。」ということの意味は、Wikipedia編集者であるあなたが、出典に対して「この出典は俗説だから採用できない」などとジャッジしてはいけないということです。あなたがジャッジするなら、それがすなわち「ウィキペディア論争に参加する」ことです。ですので、それはやめてくださいと申し上げています。ご理解ください
なお「はず」は言葉のあやで別になくても文意は一切変わらないため編集して外しました。--Travis sttoko会話2024年11月23日 (土) 09:32 (UTC)[返信]
読み解いてる途中ですが、明らかな誤解と思われる箇所があったので説明させていただきます。
「Kylinさんが私を論争に加わっている、中立性に反しているなどと難じられるなら非常に心外です。」とのことですが、そのように難じていることはありませんのでご安心ください。ウィキペディア"""が"""論争に加わることがないようにするにはどうすればいいか、についての話で、このノート上の議論に誰かが加わってはいけないなどという話はしておりません。中立性に関しても、意見が中立性に欠けているという話はあっても、Travis sttokoさんが人として中立性に反しているかどうかなど考えたこともないし書いたつもりもありません。ご安心ください。--Kylin会話2024年11月23日 (土) 13:05 (UTC)[返信]
返信 ( Kylinさん宛)
私もそんな話は全くしておりません。Wikipediaの中立的な観点の方針について、それに反しているのは私ではなくあなただという話をしております。以下にKylinさんの投稿に返答差し上げる形でそのことを記していますので、「③ 中立的な観点、論争に加わること」をご覧ください。--Travis sttoko会話2024年11月23日 (土) 21:11 (UTC)[返信]
「Travis sttoko(会話) 2024年11月23日 (土) 06:11 (UTC)[返信]」へのご返答と判断しご発言の記載場所をここに転載したご了承ください。転載されたご意見に直下でこのご意見に返答いたしします。--Travis sttoko会話2024年11月24日 (日) 00:03 (UTC)[返信]
独自研究は載せないを見返してきました。
「つまり、ウィキペディアで公開されるいかなる事実、理念意見、解釈、定義、評論、考察、推測、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません。」とあります。
「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」と判断されている方は、「ピーター・バラカン 音楽評論家」のように紹介されている記事を出典とすることで、それを証明できるとお考えになっています。私には、その記事は「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」ことを主題にしているとは思えません。ですので「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」という意見を事実としてウィキペディアに掲載することは不適切と主張します。--Kylin会話2024年11月23日 (土) 10:27 (UTC)[返信]
少し噛み砕いて書いてみます。
「音楽評論家のピーター・バラカンさんと紹介されている」事例は、「紹介されている事実」しか確認できません。「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」ことを主題にした言論を出典として確認できたことはありません。「ピーター・バラカンは音楽評論家である」とウィキペディアに書きたい方は、検証可能な形でご提示ください。
 このことを例えとしてあえて言うならば「ピーター・バラカンは音楽家であるというのは俗説である」「みんなが言ってるから正しいと同じではないか」という趣旨の発言をしました。ですので、俗説ではない、みんなが言ってる程度の話ではないとおっしゃられても「検証可能な出典がないですよね?」という疑問に答えていただけなければ、反論になっていません。--Kylin会話2024年11月23日 (土) 11:40 (UTC)[返信]
検証可能性中立的な観点は熟読できていませんが目を通してきました。
「ピーター・バラカンは音楽評論家である」ということを事実であることを確認できるかどうか、一例としてGoogle検索で「ピーター・バラカンは音楽評論家である」を検索してみました。10頁まで検索結果を眺めてリンク先までは確認していませんが、タイトルとサムネイルで「ピーター・バラカンは音楽評論家である」を主題とし説明しているリンク先は見つけられませんでした。逆に一番目の検索結果に『|なぜピーター・バラカンは自らを「評論家ではない」と語るのか?』[[2]]があったので、ジャーナリストでもないと主張していることを知ることができました。ちなみに冒頭の強調スニペットにはウィキペディアの記事からの定義が紹介されています。
もちろん、検索結果には音楽評論家のピーター・バラカンさんのように紹介されているに紹介されている記事などもありますが、重ねて申し上げますがそれらは「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」ことを主題にしているわけではありませんので、これをして「ピーター・バラカンは音楽評論家である」という事実を示す根拠にはなりません。--Kylin会話2024年11月23日 (土) 11:07 (UTC)[返信]
中立的な観点#中立的な観点とは
ここに「ウィキペディアが目指すところは、論争を記述することであり、論争に加わることではありません。」とあります。
その下の方にある「意見を事実として記さない」から少し長いですが引用します。
『通常、記事はその記述対象について表された重要な意見を情報として含みます。しかし、その意見をウィキペディアの見解として述べてはいけません。それよりはむしろ、その意見が特定の情報源に帰することを文中に記すか、あるいは十分な根拠を示せる場合には、広く認められている意見として記述されるべきです。たとえば、記事中で「大量虐殺は悪行である」と記述してはいけませんが、「某氏は、大量虐殺は人間の悪の縮図であると記している」と記述することはできます。』
 このことからピーター・バラカンさんを「音楽評論家」と断じて記述するべきではなく、メディアで紹介されている、本人は否定している、という趣旨で記述する方がよいと考えます。--Kylin会話2024年11月23日 (土) 11:27 (UTC)[返信]
自分自身の記事
あなたが個人的に関わっていることがらについて記事を書くときには、あなたは、いつも以上に注意を払い、あるいはそれを控えなければなりません。」
と書いてあります。「本人発言を採用するべきではない」というルールがあるようには見受けられせん。
「ピーター・バラカンさんは自分は音楽評論家ではない」と繰り返し発言されているので、検証可能な出典があります。本人の発言ですので取り扱いに慎重になるのはもっともですが、「ピーター・バラカンの職業は音楽評論家であるか否か」という事実であり、本人が考えてるだけではない、仕事をするときの肩書として使用していないことは検証可能な事実ですので、退ける理由はありません。
 ひるがえって「音楽評論家のピーター・バラカンさん」と紹介されている例も検証可能な出典があります。ですが、「ピーター・バラカンさんはこのような理由で音楽評論家である」と説明している例は、(今のところ)ありません。
 「ピーター・バラカンさんは音楽評論家ではある」と断言するのは、検証可能な出典のない独自研究ですので、記事の主題である本人の意志とは関係なく、掲載すべきではありません。--Kylin会話2024年11月23日 (土) 12:40 (UTC)[返信]

o|会話]]) 2024年11月24日 (日) 11:43 (UTC)

返信 ( Kylinさん宛)
CDジャーナルのピーターバラカンのプロフィールです。すでに申し上げた通り、これを出典にしようと考えています。
https://artist.cdjournal.com/a/peter-barakan/870338
1951年8月20日、ユダヤ系ポーランド人の父とイギリス人とミャンマー人のハーフである母との間に生まれる。イギリス・ロンドン出身の音楽評論家/ラジオDJ。(以下略)
①独自研究について
「信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません」ということについてですが、ピーターバラカンの記事を書くときの「その記事の主題」は、当然に、ピーター・バラカンです。ピーター・バラカンのプロフィールは、当然に、ピータバラカンに関連して発表されています。
② 検証可能性
上述のCDジャーナルのピーターバラカンのプロフィールは、誰でも閲覧できるものであり誰でも検証可能な出典です。
③ 中立的な観点、論争に加わること
「ウィキペディアが目指すところは、論争を記述することであり、論争に加わることではありません。」ということについてですが、私は、「ピーターバラカンが音楽評論家であるかどうか」ということについて、出典に記載されている全くその通りにストレートに「ピーターバラカンは音楽評論家である。」とします、また再三申し上げたとおり、反対の観点としてピーター・バラカンの「自分は音楽評論家ではない」との考えもストレートに記述します。2つの観点を両方記述するだけで他に何も付しません。私はどちらの観点が正しいとも間違いだともいいません。2つの観点があるということを記述するだけです。すなわち論争に加わっておりません。
一方、Kylinさんは「この出典にはそう書いてあるが、ピーターバラカンが音楽評論家であることは間違いである」とお書きになりたいようですが、それは、「ピーターバラカンが音楽評論家であるかどうか」 についての正否の見解の1つが間違いであるとのあなたの見解を記事執筆に反映させるということです。それが論争に加わっているということです。論争を記述しているのは私です。論争に加わっているのはあなたです。
④自分自身の記事
この論点に関しては私は何もあなたに反対意見は申し上げておりません。ピーター・バラカンの「自分は音楽評論家ではない」との考えはきちんと記述すると繰り返し申し上げています--Travis sttoko会話2024年11月23日 (土) 21:29 (UTC)[返信]
返信 ( Kylinさん宛)
あと苦言を呈させてください。「検証可能性と中立的な観点は熟読できていませんが目を通してきました。」とのことですが、(検証可能な)事実や中立的な観点の論点を持ち出してきたのはKylinさんです。論点のWikipediaの方針は議論を始める前に熟読されているべきです。何で泥縄式にこれから熟読するのでしょうか?非常に不誠実です。率直に申し上げて真面目に議論している私は大変不快に感じました。
上で簡潔にあなたのご意見に返答しておりますが、あなたのご意見を読んで、率直に申せば、あなたがガイドラインを全然理解していないと言わざるをえません。「「検証可能性と中立的な観点は熟読できていません」ならそうなるのも当然かもしれませんが、あなたの不誠実な議論姿勢ご態度を知った上で、私はこの後も時間をさいてあなたとお話し合いをする必要が本当にあるのかも、率直に疑問を抱かざるをえません。
Triglavさん、雪舟さん、ぷにをさんからは、正否の両論併記の上で音楽評論家と記述することに、支持ないし、許容の旨を頂いているようですが、あなたとまだお話し合いを続ける必要がるのでしょうか?--Travis sttoko会話2024年11月23日 (土) 21:47 (UTC)[返信]
Kylinさん宛ですが…。「検証可能性と中立的な観点は熟読できていませんが目を通してきました。」は流石にいただけません。よく読んで理解してください。そのうえでそれらの方針に反しない範囲で記述についての調整であれば話し合いにもなりますがルールを理解していないけど変更したいでは議論のしようもありません。ちゃんと理解するまで読み込んだうえで再提案していただけますか?--ぷにを会話2024年11月24日 (日) 03:12 (UTC)[返信]
Travis sttokoさんへの直接の返信を避けて、私の意見を書き並べたところは、Travis sttokoさんの発言の趣旨を理解が難しいので、整理する意味で書いたもので、誰か個人への反論ではありませんし、他の方の意見をふまえたものも含まれています。返答と判断されたのは Travis sttoko さんの勘違いであることをご了承ください。
> 私もそんな話は全くしておりません。
 こちらの返信いただいた私の投稿は、Travis sttoko さんのお言葉に答える形で書いているので、「そんな話」が何のことを指すのかわからなくて混乱するのですが、わからないということを記すだけにとどめます。
> Wikipediaの中立的な観点の方針について、それに反しているのは私ではなくあなただという話をしております。
 私が申し上げているのは「ウィキペディアに記述しようとする内容が中立性に欠けていないか?」という話で、Travis sttokoさんの人格や意見が中立性に欠けているという話をしているつもりはありません。意見から導かれる記述しようとする内容が中立性に欠けているという議論はあったかと思いますが、それを意見を言う態度のことを言ってるわけではありません。よって、私が中立性に欠けているとおっしゃられても、Travis sttokoさんのお言葉を借りれば「私もそんな話は全くしておりません。」と言い得るかと思います。お互いにそんな話をしているつもりがないことに反論しあっても意味がありませんし、「誰が中立性に欠けているかという話」は議論に必要なことではありませんのでここまでにして、ウィキペディの「ピーター・バラカン」に編集しようとする記述の内容自体の中立性について議論していただけませんでしょうか?
 冒頭で書きました通り、自分自身の記事についての意見は、Travis sttokoさんに向けた返信ではありません。「この論点に関しては私は何もあなたに反対意見は申し上げておりません。」と言われても、何か私がTravis sttokoさんがおっしゃられていない反対意見を、さもあったことのように書いたと受け取られるところがありましたか? と心配になります。私はこれからも印象操作にならないよう注意深くWikipedia:礼儀を忘れない態度で議論を続けるつもりですが、甚だしく逸脱していると思わるところがあったらご指摘いただければ幸いです。--Kylin会話2024年11月24日 (日) 11:07 (UTC)[返信]
返信 ( Kylinさん宛)
Wikipediaの方針ガイドラインを熟読されて理解された上で私の発言を読み直してください。私の発言をあなたが理解できないのは私が一貫してWikipediaの方針ガイドラインに沿って話しているところ、一方のあなたがその方針ガイドラインをまったく理解していないことに起因しています。
議論の流れがわかるように適切な場所にご発言を移動しておりますことご了承ください。--Travis sttoko会話2024年11月24日 (日) 12:23 (UTC)[返信]
雪舟さんへの返信として、皆さんの合意を許容することを表明しました。今回の話し合いはこの返信までとさせていただきます。
 私が熟読していないと書いたのは、謙遜を含めて完全に理解しているとは言えませんが目は通しているので、ガイドラインに沿って書くように心懸けます、ということを表明したつもりだったのですが、ガイドラインをまったく理解せずに書こうとする失礼な行為だと受け止められる可能性を教えていただきありがとうございました。
 Travis sttokoさんがおっしゃる「Wikipediaの方針ガイドライン」は方針とガイドラインのことを指していると解釈してよろしいでしょうか? 「方針ガイドライン」と間違っている方が、方針とガイドラインを熟読して理解していらっしゃるのでしょうか? 単なるタイプミスだとしても礼儀を忘れないの冒頭にある「礼儀を忘れず、丁寧にふるまうこと」に則している行為と言えるのでしょうか?
私のことを指して「あなたがその方針ガイドラインをまったく理解していない」とお書きになるような発言をなさることも礼儀を忘れないに則しているとは思えず、方針とガイドラインを熟読されて理解されて発言してらっしゃるとは思えませんでした。だからと言って「まったく理解していない」とは思っておりませんし、Travis sttokoさんの言説は信用できないからと放置したつもりもありませんのでご安心ください。Travis sttokoさんの行動がガイドラインに反しているところがあるのに、私はまったく理解していないと決めつけて熟読と理解を求めるのは、どういうロジックなのだろう、と不思議でなりませんでした。返信できていないところは、未だに理解が難しくて返信できなかったのと、合意を許容したのでこれ以上の返信はしないほうがいいと判断したからですので、悪しからず。
 今回の私の返信が礼儀を忘れないのガイドラインから逸脱していることが懸念されますが、今までの疑問を疑問として表明するのに必要でしたのでご容赦ください。形式的に疑問を書いていますが、お返事を求めているわけではございませんのでご遠慮ください。
 ありがとうございました。--Kylin会話2024年11月24日 (日) 15:21 (UTC)[返信]


コメント 申し上げにくいのですが、そもそも本人発言を採用するべきではない、といいますか完璧な記事は有力な第三者の情報だけで作られるもので、本人から提示された資料は完璧ではない記事を補足するためのおまけでしかありません。とは言っても、ここは柔軟性豊かなウィキペディアですので、「貴重なご意見ありがとうございます」でそれ以降一歩も動かない報道各社よりは、本人寄りに立ってもよい気はしています。
  • 下の節に逃がすのもよいアイデアだと思いますが、「定義」に関することなので冒頭で書くべきかと。
  • 単語「音楽」と「評論家」で分離して、「音楽評論家」を使わずに問題の存在を示す。
  • 将来この問題を解説する第三者が現れたらそれを使って下の節で詳細に記述する。
こんな感じでいかがでしょうか?
「~は、定義1、定義2・・・定義n。音楽愛好家であり、評論家と紹介<ref>新聞社</ref>されることを激しく嫌う<ref>Xサイト</ref>。」
これで「音楽評論家」を採用するメディアがあれば、それはもうウィキペディアのせいじゃないわ。--Triglav会話2024年11月23日 (土) 03:27 (UTC)[返信]

コメント Kylinさん、ご返信ありがとうございます(改めて勘違いさせるような書き方をしたことをお詫びします)。丁寧にお考えを書いていただいた文章も拝見しました。
そしてKylinさんや他の方の意見を読んだ上で、改めて、自分なりの考えを書いてみます。まず言うと、当方は今も「『音楽評論家である』と記事冒頭に書くこと」については素直に頷けない立場です。何故ならば、過去に「裏付けとなる資料をもとに書き込まれた情報について、主題の人物のプライバシーへの配慮や、その本人からの意向を受けて記述しないことにした(記述の仕方を工夫した)」という事例を複数件見たことがあるからです。以下に例示します。

更に、(資料の有無に関わらず)Wikipediaへの書き込みにより、主題人物に明確な不利益が生じ、本人がそれを「何とかして欲しい」と訴えた例も見たことがあります。

  • webメディア「KAI-YOU」掲載記事 - 誹謗中傷ではないものの、Wikipediaにある記述によって不利益が生じていると本人が訴えた末に、それでも「信頼できる出典があるから」と対処されず一時泣き寝入りするしかなかった例
  • Wikipedia:削除依頼/大橋大記 20231015 - いたずら編集により主題の人物に対する虚偽の情報が書き込まれ、すぐに除去されたもののいたずら編集された版の内容が検索エンジンに拾われてしまった例

これらを知っているからこそ、いくらWikipediaでのルールに反さず、更に誹謗中傷でない内容であったとしても、本人が「書かないで欲しい」と訴えていることを冒頭に書くべきなのか(いやそんなことはないのではないか)と思わずにはいられないのです。それ故に当方は自分なりのサンプルを提示し、Triglavさんの言葉を借りるなら「下の節に逃がす」という形にし、「『音楽評論家』と紹介されることも多い」という表現を使うのはどうだろうかと提案しました。
当方としては、決められたルールに則りつつ、ルール違反にならない範囲で、記事ごとに少し例外的な措置を取る必要がある局面もあると考えております。例えば、当方やぷにをさんも参加したノート:にじさんじでは、外部リンク節について「外部リンクはひとつで十分(WP:ELMIN)」を考慮しつつも、色々な事情などを踏まえて数件リンクは残すということになりました。Wikipediaにはそれこそ星の数ほどの記事があり、それぞれの題材ごとにそれぞれの事情があって然るべきです。ルールに従うならばピーター氏を「音楽評論家である」と記述することは間違いではないのかもしれません。しかし、存命人物の訴えを無視してまで、そこまで杓子定規にならなければならないのでしょうか。第三者にとって、「音楽評論家」と「音楽評論家と紹介されることが多い人」はそれほど大きな違いがあるようには思えません(後者の説明を見て「つまりこの人は音楽評論家なんだな」と受け取る人も居るでしょう)。しかし前者を嫌う当人にとっては明確な違いがあります。であればこの記事に限っては後者のような表現をすることは間違いなのでしょうか。またTriglavさんのお言葉を借りるなら、「柔軟性豊かなウィキペディア」なのであれば、そういう対応も可能なのではないかと考えます。
しかし、「音楽評論家(しかし本人は否定している)。」というような丸括弧の補足を添えることが、でき得る範囲での「柔軟な対応」なのだと考える人が多いのならば、当方は「うーん」と思いつつも折れざるを得ないのかもしれないとも思っています。先日も書いたように、Travis sttokoさんやぷにをさんの考えは無視できないと思っておりますし、新たにTriglavさんがされたコメントについても同様で、「そこまでWikipedia側が気を揉む必要は無い」と言われてしまえばそれまでなのかもしれません。こちらとしても編集妨害をしたい訳ではなく、いつまでも納得しないに該当するつもりもないですし、そのような行為がしたい訳でもありません。もしも丸括弧補足付きの文言を冒頭に記載するという流れになったのであれば、せめて脚注を付ける位置だけどうにか工夫できないかなぁという意見も改めて提示しておきます。--雪舟会話2024年11月23日 (土) 14:07 (UTC)[返信]

餅月ひまり方式で「ブロードキャスター。(音楽評論家として紹介されることも多いが本人は否定している。)」のような記述でもいいですが音楽評論家と呼ばれていること自体を載せないのは流石に無理かなと思います。少なくともご自身が校閲できそうな出典でも音楽評論家として書かれているようにも見受けられますし、その点では餅月ひまりの件の方が切り分けしやすいだろうなと感じました。別件、ピーター氏本人がXで呟いた内容についてどこまでこちらで意識を汲まなければいけないのでしょうか?本人または事務所などからWikipediaに直接の苦情がきているならまだしもいつ消えるか分からないSNSの1つのつぶやきに気を使いすぎかなとも思います。これは、問題のある編集者がWikipedia外で騒いだところで外でやる分には好きにすればいいじゃないと対応しないのと同じようなものかなとも考えています。--ぷにを会話2024年11月24日 (日) 03:26 (UTC)[返信]
冒頭文に「イギリス出身の音楽評論家 (ただし本人は肩書を「音楽評論家」とされることを好まない)ラジオDJ」と本人の意思をきちんとわかる形で明瞭に記して配慮して、それでも取り除かれない実害が本当にあるのか?私はあるとはとても評価できないです。
・そもそもWikipediaとか関係なしに音楽評論家としてオーソライズされている。(Wikipediaは後から追っかけているだけ)
・これと表裏一体だが仕事内容をみたら普通ならそれを音楽評論家とするだろうということ。
・肩書きをどうするか?を本人がグリップできそうなところですら音楽評論家の肩書きが普通に使われている。
・本人が自分は評論家ではないとするインタビューから受ける心証(たいして困ってないのでは?という印象を受ける)
ピーター:よく「評論家」とも言われるんですけど、自分では一度も名乗ったことがないです。評論家っていうのは、何でも聴く人で、それを客観的に分析して、伝える人。それも大事な役割ですけど、僕は一切そういうことはしていません。自分の興味のあるものしか聴かないし、好きなものしか紹介しない。そんなの評論家と呼んじゃいけない。僕は音楽ファンの延長線上でこの仕事をしてるんです。「甘い」と言われるかもしれないけど、仕事がある間は甘えさせていただきます(笑)。
https://www.cinra.net/article/interview-201710-peterbarakan
・またここでピーター氏が「私はこれこれ故に評論家じゃない」という「これこれ」は、音楽評論家ってそういうのじゃない?というピーター氏の評論家の定義が明らかに変という問題
など
「いつ消えるか分からないSNSの1つのつぶやきに気を使いすぎかなとも思います」このご意見に完全に同意します。--Travis sttoko会話2024年11月24日 (日) 05:31 (UTC)[返信]
当方のコメントに繋がる形でお二方からコメントを頂いておりますが、既に当方の意見および言いたいことは書き尽くしてしまったかと思いますし、Travis sttokoさんがKylinさんへの返信で書いた「許容」というのが現状の当方のスタンスであるように思います。自身で「例外的な措置」という表現を使ったように、今回の件に於ける当方の考えはWikipediaのルール等から少し外れたものであるということも自覚しており、これ以上それを主張しても「いつまでも納得しない」に抵触するおそれが高くなるだけかなと。コメントを頂いた上で無言なのも無視しているようで不誠実かと思いましたので、一旦「もう言い尽くしてしまったのでコメントを控える」という旨を書かせていただきます。--雪舟会話2024年11月24日 (日) 06:41 (UTC)[返信]
私は中立的な観点#深刻な論争がある主張を事実として記さないにある、
ある問題について異なる信頼できる情報源の間で主張に衝突が生じている場合には、それらの主張については事実ではなく意見として扱い、その主張自体を文中で直接記述することはしないでください。
という方針で、「音楽評論家。」と断言して書くことはしないでくださいと意見していたつもりですが、これは深刻な論争ではないから配慮する必要はないと考えられて、ご賛同いただけなかったのですね。
 ウィキペディアに「ピータ・バラカン 音楽評論家。」と書いてあることによって、今後も「音楽評論家。」として紹介され続けて、それが「ピータ・バラカン 音楽評論家。」と書くことの正当性を担保することになる、というのがウィキペディアが論争に加わることになって、ウィキペディアの方針に反している、という私の意見が、論争に加わっているのは Kylin だからと否定されても何をどう反論されているのか未だにわかりません。この件に関しての反論をうかがいたかったのですが、そもそも「ピーター・バラカンは音楽評論家である」は議論の余地がない事実である、という意見を変えるつもりがないので、私の反対意見は受け入れられないし反論する必要もない、ということなのであろうことと判断できました。
 論ずる必要がなかったという結論で議論を終了するのは心残りですが、いつまでも納得しない悪意のある編集者だと誤解されるのは本意ではありません。この議論は一旦終了し、皆さんの合意を許容したいと思います。
 私の「音楽評論家と紹介されている例が多い」という趣旨にとどめて「音楽評論家。」と断言してはいけない、という意見が採用されないのは残念ですが、括弧付きではあれ「本人は否定している」という趣旨で記述すること、「好んでない、望んでない、嫌がっている」などの表現を使わないこと、という許容できうる合意が得られたことで、話し合いが全くの無駄ではなかったことに安堵します。--Kylin会話2024年11月24日 (日) 13:44 (UTC)[返信]

返信 ( Kylinさん宛)

Kylin氏は、私が方針やガイドラインを読まずその内容も理解せずに、方針ガイドラインの用語を用いて議論しているのは不誠実であると強く抗議し、このままでは議論できないとお伝えし、ぷにをさんもやはり苦言を呈され、方針を熟読理解するよう要請されたところ

その後、投稿の内容から、方針を理解しているとは思えない内容の投稿を何も悪びれず再開したため、方針の理解を要請したところ、私が礼儀を忘れないガイドライン違反だなどといいだされ私を非難しました。

受忍できる理不尽さを超えたため、Kylin氏の議論姿勢についてコメント依頼を提出しました。

Wikipedia:コメント依頼/Kylin --Travis sttoko会話2024年11月25日 (月) 09:39 (UTC)[返信]

こちらのコメント依頼を拝見して以来、何をコメントすればいいのか考えながら下書きを書いては消してを繰り返すばかりで、発言が遅くなったことをお詫びいたします。いまも、どこまで書けばいいは悩みはつきませんが、事態を解決するために一つの提案をさせていただきます。
・このコメント依頼の依頼内容とコメント依頼での発言は「個人攻撃」にあたるので、コメント依頼を終わらせてください。
 ウィキペディアのガイドラインにあるWikipedia:個人攻撃はしない#個人攻撃への対処法を規範としてこのお願いをしております。ガイドラインのこの部分は文末に引用します。
 誰が個人攻撃をしているか、何が個人攻撃にあたるかという議論は、ウィキペディアの記事についての議論を阻害することになり、記事についての議論に優先して話し合う必要はないと考えます。この井戸端での議論とコメント依頼についての「個人攻撃」をやめていただければ、個人攻撃に関する議論は終わりにしたいと思います。
 念の為に補足しますがTravis stttokoさんに「個人攻撃の意思があったか」はまったく問題にしておりません。書かれた内容が個人攻撃かどうかが問題です。
 個人攻撃することに正当性があったかどうかも問題にしていません。このコメント依頼の主題は「氏の議論姿勢についてその悪質さの程度について理解したいためコメント依頼します。」です。たとえ私の議論姿勢が悪質であるとしても、Travis sttokoさんによる「個人攻撃」が許されることはありません。
 ガイドラインでは個人攻撃が止まない場合は、「コメント依頼などで解決を図ってください」とありますが、コメント依頼合戦になることは避けたいと思います。今回のコメント依頼の被依頼者コメントに、個人攻撃発言の具体的な例を書くことで、個人攻撃を止めていただけるようお願いを続けたいと考えております。
> 個人攻撃への対処法{[3]]
 個人攻撃をされた場合は、された利用者あるいはそれを発見した利用者が、まず攻撃者に対してそのことを伝え、個人攻撃の停止を求めましょう。この時、利用者の会話ページに{{subst:attack}}と警告文を貼って警告してもよいでしょう。
 それでも個人攻撃が止まない場合には、コメント依頼などで解決を図ってください。逆に、個人攻撃の意志がなくとも個人攻撃であると指摘された場合には、速やかにそれらの発言を停止するか、コメント依頼などで客観的な判断を求めるなどして解決を図ってください。
 また、議論が個人的なものになりかけてきたらその場を外部のサイトまたは e-mail に移しましょう。論争の党派が罵倒やその他の不快な言葉の応酬を始めたら、ウィキペディアに不快なものをさらすよりも、外部のサイトで行うか、私的な e-mail で討議を行った方がよいでしょう。これは議論を外部サイトや e-mail で行うべきだといっているわけではありません。なぜなら、ほとんどの議論は真に多くの人の役に立つものだからです。
 中身のある議論はその場で続ければよいですし、不快な個人的な感情は、私的な場所で好きなだけ、両人の間で議論してください。
 以上です、よろしくお願いいたします。2024年11月28日 (木) 09:26 (UTC)--Kylin会話2024年11月28日 (木) 09:47 (UTC)[返信]


Kylinさま
利用者‐会話:Kylinに返信しております。--Travis sttoko会話2024年11月28日 (木) 20:52 (UTC)[返信]


出典

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脚注

  1. ^ https://www.gqjapan.jp/tag/peter-barakan
  2. ^ https://c.okinawatimes.co.jp/index.html?kijiid=OTPK20240929A001700010L242004
  3. ^ https://president.jp/articles/-/2692?page=1
  4. ^ https://x.com/pbarakan/status/1811746048559448075
  5. ^ a b 音楽評論家であることの根拠となる資料
  6. ^ a b ピーター氏が「音楽評論家ではない」と言及している資料
コメント 便宜的に節内(サブページ内)の出典をひろうため、専用のテンプレート Template:Reflist-talkを使用します。--Lingualatin会話2024年11月20日 (水) 04:14 (UTC)[返信]
コメント {{Reflist-talk}}の前に「:」がある(おそらく返信ツールの使用により自動挿入された)ことで表示不具合が起きていたため、行頭の「:」をコメントアウトしました。--雪舟会話2024年11月20日 (水) 05:22 (UTC)[返信]