「ロラード派」の版間の差分
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2007年8月1日 (水) 17:26時点における版
ロラード派(英:Lollards)あるいはロラード主義(英:Lollardy)は、14世紀中頃から宗教改革の時代にかけて、イングランドで起こった政治的かつ宗教的な運動のこと。ロラード主義はオックスフォード大学の著名な神学者ジョン・ウィクリフの教えから発展し、その主張はローマ・カトリック教会の改革を要求するものであった。ロラード派はカトリックの事効論[1]を否定し、信仰において「本物の」聖職者であるかどうかがサクラメントを行う者の必要条件であるとした。さらに信心深い俗人にも聖職者と同じ儀式を行う力があると説いた。つまりロラード派によれば、宗教的な力と権限は、聖職のヒエラルキーに基づくのではなく、信仰心に拠るものであった。同様に、ロラード主義は聖職者の権威が、聖書の権威に基づいていることを強調した。彼らは「救済された教会」の概念を説いた。それはキリストの本当の教会を意味し、忠実な信者の共同体であり、公的なカトリック教会と重なりながらも同質ではないとされた。またロラード派は予定説を唱え、両体共存説[2]に同意して全質変化[2]を否定し、教皇には清貧を求め、教会財産への課税を主張した。
語源
ロラードという言葉("Lollard、LollardiあるいはLoller")は学問的素養に乏しい者、たとえば英語のみで教育された者のことをいう一般的な蔑称であった。すなわち彼らはジョン・ウィクリフにしたがって、英語訳聖書によって活力を与えられていると考えられたからである。15世紀中頃までには、ロラードという用語は、一般に「異教徒」を意味するようになった。 他方ウィクリフ派は、一般により中立的な用語で、ロラード派と似たような主張であるものの、学問的素養が十分である場合に使われた。
ロラードという語の起源は明確ではないものの、4つの主要な説がある:
- オランダ語の「lollaerd」、つぶやく人、ぶつぶつ言う人という意味の言葉に由来するとするもの。これは同じくオランダ語の「lull」もしくは「lollen」と関連があり、これらの語は「母は子供を寝かそうとなだめた」("a mother lulls her child to sleep")の「なだめる」というような、あるいは「歌う、詠唱する」というような意味である。
- ラテン語の「lolium」、ドクムギに由来するとするもの [3]。
- ワルドー派に転向し、ギュイエンヌの伝道者として著名であったロルハルド("Lolhard")というフランシスコ会士にちなんだとするもの。当時フランスのギュイエンヌ地方はイギリスの支配下にあったため、イングランドの民衆の信心に影響を与えた。彼は、1370年代にケルンで火刑に処された。
- 中英語の「loller」、つまり「怠惰な放浪者、怠け者、詐欺的な乞食」を意味する言葉に由来するとするもの。ただしこれはおそらく後の用法で、チョーサーの『カンタベリー物語』によると考えられている。
おそらくもっとも信憑性の高いのはオランダ語起源説である。オランダではロラード主義の影響の下、ヘールト・フローテによって、1400年代の最後の20年に、オーファーアイセル州に共同生活兄弟団が作られた。とはいえ、ラテン語の「lolium」(ドクムギ)も興味深い説である。チョーサーが書いた『カンタベリー物語』中の「弁護士の物語」("The Man of Law's Tale")のエピローグがそれを裏付けているかのようである。
"And he'll go starting up some heresy
And sow his tares in our clean corn, perchance."
「そして、彼は異端を始める
そして、彼はわれわれのきれいな小麦の中にドクムギの種をまく、偶然に」
--ジェフリー・チョーサー『カンタベリー物語』
信仰
ロラード主義はジョン・ウィクリフの著作に対する関心から始まったと言うことができるが、ロラード派には核となる制度と教理がなかった。同様に運動が拡大しても、ロラード主義は卓越した権限を持ったり要求したりしなかった。運動は多くの異なる考えを支持したが、それぞれのロラード派がすべての信条に同意する必要はなかった。
基本的に、ロラード派は反教権的であり、彼らがカトリック教会は本質において不正であると考えており、教会指導者が神によって選ばれているという信仰に賛成してはいなかった。このようにカトリック教会が様々な点でゆがめられているために、ロラード派は自らの信仰の根拠を聖書に求めた。カトリック教会に対抗する権威を聖書に基づいて獲得するため、より多くのイングランド農民が聖書を読むことができるように、ロラード派は聖書の英語への翻訳を積極的におこなった。ウィクリフ自身も、1384年に死ぬまで多くの章句を翻訳した。
ロラード派の1派は、1395年2月にウエストミンスター大聖堂の扉に『ロラード派の決定12ヶ条』("The Twelve Conclusions of the Lollards")を掲示し議会に訴えた。この12ヶ条は決してロラード派の中心的な見解であるとはいえなかったが、彼らの基本的な考え方は明確に示されていた。まず第1条では、富の蓄積が宗教的な信仰心に代わって貪欲をもたらすという理由から、聖職者が現世で財産を獲得することを拒絶する。第4条では、聖餐式の聖餐用パンが聖書で明確に定められていない矛盾した教義であるというロラード主義的見解を論じる。パンがパンのままであるか、キリストの文字通りの身体になるかどうかは、福音により一様に定められていないというものである。第6条では、これが精神の問題と国家の問題の間での利害対立を生み出すので、教会の中で影響力を持つカトリックの上位聖職者が非宗教的な問題に関心があってはならないと述べている。第8条において、ロラード派の信仰に基づいて、カトリック教会に向けられる畏敬のイメージの滑稽さを指摘する。アン・ハドソンが『宗教改革のイデオロギー』("Reformation Ideology")で述べるように、「キリストの十字架、釘、槍と茨の冠が礼拝すべき対象ならば、もし見つかりさえすれば、ユダの唇さえも礼拝するのか?」(p.306)ということである。
ロラード派は、カトリック教会が現世の問題によって腐敗しているとし、本当の教会であるというカトリックの主張は、その伝統によって正当化されることはないと述べた。腐敗の一部は、死者への祈祷と寄進に関係していた。これらが他の仕事から聖職者を遠ざけ、それらが等しくすべて祈祷されていた時から堕落したのだとされた。ロラード派はまた、偶像破壊主義を唱えて、贅沢な教会の備品を余分であるとみなした。彼らは、贅沢な装飾品で飾り立てることに努力するよりはむしろ、貧窮者を助けて、説教をすることに重点を置かれなければならないと考えていた。聖像も危険なものであると考えられた。なぜかといえば、人々は神よりもむしろ聖像を崇拝するようになっており、偶像崇拝に陥っていると思われたからである。