コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「帰雲山」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
箱板 (会話 | 投稿記録)
外部リンク: {{画像提供依頼}}を追加しました。
編集の要約なし
 
(22人の利用者による、間の25版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox 山
{{Infobox 山
|名称=帰雲山
|名称=帰雲山
|画像=[[画像:Gthumb.svg|100px]]<br/>画像募集中
|画像=[[画像:Sarugabanbayama from Nodanisyojiyama 2010-4-18.JPG|300px]]
|画像キャプション = 野谷荘司山から望む帰雲山と[[猿ヶ馬場山 (岐阜県)|猿ヶ馬場山]]
|標高=1,622
|標高=1,622
|座標={{ウィキ座標2段度分秒|36|13|17.3|N|136|55|22.3|E|region:JP-21_type:mountain|display=inline,title}}
|地図=
|所在地=[[岐阜県]][[大野郡]][[白川村]]
|座標={{ウィキ座標2段度分秒|36|13|17.46|N|136|55|22.30|E|}}
|山系=[[飛騨高地]]
|所在地=<small>[[岐阜県]][[大野郡 (岐阜県)|大野郡]][[白川村]]</small>
|山系=
|種類=
|種類=
|初登頂=
|初登頂=
|地図={{Location map|Japan Mapplot|coordinates={{Coord|36.221517|136.922861}}|caption=|width=300}}帰雲山の位置{{日本の位置情報|36|13|17.46|136|55|22.30|平瀬(金沢)|36.221517,136.922861|帰雲山}}
}}
}}
[[File:Mount Kaerikumo 2009-05-14.jpg|thumb|right|250px|東方から望む帰雲山]]
'''帰雲山'''(かえりくもやま)とは、[[岐阜県]][[大野郡 (岐阜県)|大野郡]][[白川村]]にある標高1,622mの[[山]]。
[[ファイル:Monument of Kaerikumo Castle Ruins 001.JPG|thumb|[[帰雲城]]趾の碑。背後に帰雲山の山腹崩壊跡が見える。<br />([[2010年]](平成22年)撮影)]]
'''帰雲山'''(かえりくもやま)とは、[[岐阜県]][[大野郡]][[白川村]]にある[[標高]]1,622[[メートル|m]]の[[山]]。


== 概要 ==
== 概要 ==
岐阜県北部、大野郡白川村中央部、[[庄川]]右岸の木谷(きだに)にある。[[国道156号]]の同村内保木脇(ほきわき)付近からその山容と、後述の西側山腹にできた大崩落面を眺めることができる。
岐阜県北部、大野郡白川村中央部、[[庄川]]右岸の木谷(きだに)にある。[[国道156号]]の同村内保木脇(ほきわき)付近からその山容と、後述の西側山腹にできた大崩落面を眺めることができる。北西の麓は[[世界遺産]]の[[白川郷]]の萩町集落がある。[[飛騨高地]]最高峰の[[猿ヶ馬場山 (岐阜県)|猿ヶ馬場山]]の西にある前衛の山である。


== 山名の由来 ==
== 山名の由来 ==
19行目: 22行目:


== 山腹崩壊 ==
== 山腹崩壊 ==
[[1586年]]([[天正]]13年)に発生した[[天正地震]]により西側山腹が大崩壊を起こした。崩落した土砂麓の庄川を堰き止め湖が形成されたほどだったという。
[[1586年]]([[天正]]13年)に発生した[[天正地震]]により西側山腹が[[山体崩壊|大崩壊]]を起こした。崩落した土砂により麓の庄川が河道閉塞させ、堰き止め湖([[天然ダム]])が形成されたほどだったという。約400年の時間が経過した現在においてもなお、山頂付近から二つに割れた地形が確認できる<ref>「日の目見るか地下の幻城」『朝日新聞』昭和47年(1972年)7月11日夕刊、3版、8面</ref>


また、この頃帰雲山付近(正確な場所は未特定)にあった戦国武将・[[内ヶ島氏理]]の居城「[[帰雲城]]」が崩落した土砂により埋没し、内ヶ島氏一族郎党が滅亡した。内ヶ島氏は鉱山師でもあったと伝えられ、戦国武将の中では大量の[[金]]を保有していたとされることから、城跡には[[埋蔵金]]が埋まっているのではないかと考えられている。
また、この頃帰雲山付近(正確な場所は未特定)にあった戦国武将・[[内ヶ島氏理]]の居城「[[帰雲城]]」、及び300〜400戸あったとされる城下町が崩落した土砂により完全に埋没し、内ヶ島氏一族郎党を含む、領民の殆ど、死亡した(史書により異なるが、たまたま他の国に出ていて難を逃れた数人の領民を除いて、ことごとく死亡したとある)[[内ヶ島氏]]は鉱山師でもあったと伝えられ、戦国武将の中では大量の[[金]]を保有していたとされることから、城跡には[[埋蔵金]]が埋まっているのではないかと考えられている。


== 周辺の山 ==
== 周辺の山 ==
* 猿ヶ馬場山(標高1,875m)
* [[猿ヶ馬場山 (岐阜県)|猿ヶ馬場山]](標高1,875m)
* 籾糠山(標高1,744.3m)
* [[籾糠山]](標高1,744.3m)

== 脚注 ==
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* 『ヤマケイアルペンガイド21白山と北陸の山』[[山と渓谷社]]、2000年、P132 - 135、ISBN 4-635-01321-9


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[飛騨高地]]
* [[帰雲城]]
* [[帰雲城]]
* [[内ヶ島氏理]]
* [[内ヶ島氏理]]
* [[天正地震]]
* [[天正地震]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www5.ocn.ne.jp/~tenpoint/ 帰雲城と内ヶ島氏の謎]
* {{Wayback|url=http://www5.ocn.ne.jp/~tenpoint/ |title=帰雲城と内ヶ島氏の謎 |date=20010219122350}}
* [http://lsweb1.ess.bosai.go.jp/jisuberi/disaster/aerialphoto.asp?num=1 帰雲山大崩壊災害発生現場の空中写真と諸元表]


{{Disaster-stub}}
{{Mountain-stub|pref=岐阜県}}
{{DEFAULTSORT:かえりくもやま}}
{{DEFAULTSORT:かえりくもやま}}
[[Category:山岳名目録]]

[[Category:飛騨高地の山]]
{{Template:Japan-geo-stub}}
{{Template:Disaster-stub}}
{{画像提供依頼}}

[[Category:岐阜県の山]]
[[Category:岐阜県の山]]
[[Category:白川村]]
[[Category:白川村の地理]]

2023年8月30日 (水) 13:58時点における最新版

帰雲山
野谷荘司山から望む帰雲山と猿ヶ馬場山
標高 1,622 m
所在地 岐阜県大野郡白川村
位置 北緯36度13分17.3秒 東経136度55分22.3秒 / 北緯36.221472度 東経136.922861度 / 36.221472; 136.922861座標: 北緯36度13分17.3秒 東経136度55分22.3秒 / 北緯36.221472度 東経136.922861度 / 36.221472; 136.922861
山系 飛騨高地
帰雲山の位置(日本内)
帰雲山
帰雲山の位置
プロジェクト 山
テンプレートを表示
東方から望む帰雲山
帰雲城趾の碑。背後に帰雲山の山腹崩壊跡が見える。
2010年(平成22年)撮影)

帰雲山(かえりくもやま)とは、岐阜県大野郡白川村にある標高1,622m

概要

[編集]

岐阜県北部、大野郡白川村中央部、庄川右岸の木谷(きだに)にある。国道156号の同村内保木脇(ほきわき)付近からその山容と、後述の西側山腹にできた大崩落面を眺めることができる。北西の麓は世界遺産白川郷の萩町集落がある。飛騨高地最高峰の猿ヶ馬場山の西にある前衛の山である。

山名の由来

[編集]

雲がこの山に当たると逆流して帰っていったという言い伝えに由来するとされる。

山腹崩壊

[編集]

1586年天正13年)に発生した天正地震により西側山腹が大崩壊を起こした。崩落した土砂により麓の庄川が河道を閉塞させ、堰き止め湖(天然ダム)が形成されたほどだったという。約400年の時間が経過した現在においてもなお、山頂付近から二つに割れた地形が確認できる[1]

また、この頃帰雲山付近(正確な場所は未特定)にあった戦国武将・内ヶ島氏理の居城「帰雲城」、及び300〜400戸あったとされる城下町が崩落した土砂により完全に埋没し、内ヶ島氏一族郎党を含む、領民の殆どが壊滅、死亡した(史書により異なるが、たまたま他の国に出ていて難を逃れた数人の領民を除いて、ことごとく死亡したとある)。内ヶ島氏は鉱山師でもあったと伝えられ、戦国武将の中では大量のを保有していたとされることから、城跡には埋蔵金が埋まっているのではないかと考えられている。

周辺の山

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 「日の目見るか地下の幻城」『朝日新聞』昭和47年(1972年)7月11日夕刊、3版、8面

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]