コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「燕山君」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jade0416 (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
m ページ 燕山君 (朝鮮王)燕山君 へ移動: 改名提案、移動依頼に基づく移動
(相違点なし)

2008年2月15日 (金) 14:58時点における版

燕山君
各種表記
ハングル 연산군
漢字 燕山君
発音 ヨンサングン
日本語読み: えんざんくん
ローマ字 Yeonsan-gun
テンプレートを表示

燕山君(ヨンサングン、えんざんくん、1476年10月7日 - 1506年11月6日, 在位1494年12月29日 - 1506年9月2日)は李氏朝鮮時代の第10代国王。第11代国王中宗の異母兄。名は[りっしんべんに隆](以下の記述には代字として「隆」の字を使用する)。第7代国王世祖の曾孫で、朝鮮王朝史上前例のない暴君[1]として知られる。

第9代国王成宗の長男として生まれた。母は廃妃尹氏(斉献王后)。生母尹氏は、成宗の最初の王妃であった恭恵王后・韓氏が1474年に死去すると正妃の位に登ったが、嫉妬心が異常に強く、成宗と関係した女官を殺害するなどし、さらには成宗の顔に傷をつけるなどしたため、1482年、王命により賜薬(死薬)を下され毒殺された。しかし事実は莫強した名門家出身だった太后と後宮たちとの勢力争いで敗れて悔しく謀陷を受けて死んだことだという主張もある。

尹氏が死んだ当時まだ幼かった隆は成宗の新しい王妃になった貞顕王后を母上とだまされて暮したと言う。

その後、隆は長男であったため、1483年、7歳で王世子(皇太子)に冊封されたが、非常に粗暴な性格の持ち主で、子供の頃から勉学を嫌い、王位後継者として相応しくないという意見があった。成宗もこれに同意していたが、廃嫡の決断をすることもできず歳月が過ぎ、1494年成宗が崩御すると、18歳でそのまま王位に登った。王妃は居昌慎氏。

即位初盤には学問を奨励した成宗時代の気品と人才及び士林がそのまま維持されていたから、ある程度の秩序は維持されていた. 燕山君はしばらく貧民たちを救済して、「国朝宝鑑」など多くの書籍を編纂し, 外勢の侵略を阻んで城を積むなど比較的安定的な政治を行った。

しかし時間の経つほど燕山君は徐々に自分の内面に隠されていた本来の性格を見せ始めた。その結果、治世4年後から悪行が目立ち始めた。燕山君は二度にわたって士林派に対する粛清事件(士禍)を引き起こした[2]。また戚臣のひとり、任士洪(イム・サホン)が彼をそそのかして生母尹氏誅殺に関係した者を捕らえて処刑している[3]。燕山君は多数の妓生を引き連れて遊興にうつつを抜かし、諫言する功臣たちはことごとく残酷な刑罰で処刑、朝鮮王朝史上まったく前例を見ない極悪かつ冷酷非情な君主となった。あまりの暴虐かつ傍若無人な振る舞いに臣下の離反を招き、1506年9月に朴元宗(パク・ウォンジョン)、成希顔(ソン・ヒアン)らが企てたクーデターによって燕山君は失脚し、江華島に追放、王位剥奪により燕山君に封じられた[4]。また正妃慎氏も同時に廃されている。配流からおよそ2ヵ月後、燕山君は30歳という若さで病死した[5]。暴君として廃された王であるため、廟号、尊号、諡号、陵名はない。後継には異母弟の懌[6]が推戴された。

ドラマと映画における燕山君

燕山君の劇的な生涯は現代韓国の映画テレビドラマの題材になることが多く1988年には林権沢による監督映画「燕山日記(ヨンサンイルギ)」が公開され、2003年にはキム・ヨンヒョン脚本による連続テレビドラマ「大長今(テジャングム)」(日本語タイトル、宮廷女官チャングムの誓い)が放送された。このドラマの主人公ソ・ジャングム(チャングム)は、燕山君の生母尹氏誅殺に関与したとして捕らえられた元武官の娘である。

先代
成宗
李氏朝鮮国王
第10代: 1494年-1506年
次代
中宗

関連項目

脚注

  1. ^ 一部では暗君との見方も。
  2. ^ 歴代の朝鮮国王のなかで2回も士禍を引き起こしたのは唯一、燕山君のみである。
  3. ^ 1504年に起こった甲子士禍
  4. ^ なお、この時燕山君の戚臣である任士洪と燕山君の寵姫である張緑水(チャン・ノクス)は反対勢力の手により処刑された。
  5. ^ 一説によると配流先の江華島で餓死したという説もある。
  6. ^ 成宗の次男・晋城大君(チンソンデグン)、のちの中宗。