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成宗 (朝鮮王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
成宗 李娎
李朝
第9代国王
王朝 李朝
在位期間 1469年12月31日 - 1495年1月20日
諡号 康靖仁文憲武欽聖恭孝大王
廟号 成宗
生年 天順元年7月30日
1457年8月19日
没年 弘治7年12月24日
1495年1月20日
懿敬世子(次男)
昭恵王后韓氏
王后・王配 恭恵王后韓氏
廃妃尹氏
貞顕王后尹氏
妃嬪 下記参照
子女 下記参照
陵墓 宣陵
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成宗(せいそう[1]、ソンジョン、1457年8月19日 - 1495年1月20日)は、李氏朝鮮の第9代国王(在位:1469年11月28日(12月31日) - 1494年12月24日(1495年1月20日))。は娎(けつ[1]、ヒョル、)。は康靖仁文憲武欽聖恭孝大王。君号は乽山君(しゃさんくん、チャルサングン)。

第7代国王世祖の第1王子懿敬世子(桃源君、追尊して徳宗)の第2王子にして世祖の孫。母は昭恵王后韓氏(仁粋大妃)。前王睿宗は叔父にあたる。成宗は王道政治を貫き通した名君として知られており、士林派を積極的に登用したのも成宗の時代に入ってからである。

世祖~中宗の略系図

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7世祖 懿敬世子(桃源君) ━━ 9成宗 10燕山君

8睿宗 11中宗

生涯

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世祖の長男である懿敬世子(後に徳宗と追尊)と世子嬪韓氏(後の仁粋大妃)の次男として生まれた。幼い頃から聡明で度量が広く、祖父の世祖から太祖に似ていて気性と学識に優れているだろうという称賛を受けるほど、とても可愛がられたという。

世子であった父は、成宗の生後間もない1457年9月2日に病没。1461年、5歳の時に乽山君に封ぜられたが、1469年、懿敬世子の弟である海陽大君が睿宗として即位してわずか1年2ヶ月で死去すると、当時睿宗の息子は4歳と幼く、また兄の月山大君は病弱だったため、祖母・慈聖大妃の命によって第9代国王として即位した。

13歳で王位についたので、当初には慈聖大妃の垂簾聴政を受けた。当時有力な国王候補たちを皆追い抜いて韓明澮と慈聖大妃の意向によって王位に就いたので、摂政を受けた7年間の国政の全決定権は申叔舟、韓明澮などの元老大臣にあった。

しかし垂簾聴政を終わらせた1476年からは、元老大臣が国政の重要な決定に参加する院相制度を廃止して決裁権を取り戻し、1482年には廃妃尹氏を支持していた任士洪を筆頭とした功臣勢力を左遷させる一方、新進勢力を果敢に登用することで士林勢力の政治的基盤を作った。

成宗の治世は“文化の黄金期”と呼ばれるほど、世宗世祖が成した政治的功績を土台に輝く文化政策を拡大させた時期であった。

1474年には『経国大典』を完成・頒布し、1492年には経国大典を補った『大典続録』と『東国輿地勝覧』、『東国通鑑』、『楽学軌範』など多様な書籍を編纂、刊行した。世祖代に廃止された集賢殿と似た役割を引き継いだ弘文館を設置する一方、文臣中、すぐれた才を持った人物を選んで家で読書するようにさせる賜暇読書(湖堂制度)を実施するなど文化的発展に貢献した。

また僧侶たちを厳しく統制して、大部分の寺院を閉鎖するなど崇儒抑仏政策を徹底的に実践した。対外的には鴨緑江周辺の女真族を追い出して、豆満江地域の女真族の巣窟を掃討、辺方を安定させた。[2]

朝鮮時代初期の文物制度は成宗の代にほぼ完成され、民衆は建国以来最も太平聖代な歳月を迎えた。しかしこのような太平聖代は、成宗の治世後半に退廃的風潮を助長したりした。

在位期間25年の間始終善政を敷いた成宗は、1494年12月24日(旧暦)に38歳で薨去した。御陵は宣陵。

家系

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宗室

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成宗が登場する作品

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映画
テレビドラマ

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b 成宗”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年9月5日閲覧。
  2. ^ 『世界各国史17朝鮮史』武田幸男 147頁
  3. ^ 「傳旨吏曹, 淑儀李氏, 陞爲昭儀.」朝鮮王朝実録 成宗実録157巻 成宗14年8月6日丙寅4回目
先代:
端宗
李氏朝鮮国王
第9代:1469年 - 1495年
次代:
燕山君