「ノート:エホバの証人」の版間の差分
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※ノート:エホバの証人/archive8の一部を編集の参考のために掲げておきます。
「キリスト教系」との表記と冒頭部分の記述について
「キリスト教系」についての解答です。上記で、私が何をどう考えどのように迷ったのかを記述すると、その私の解説を読んだ人が混乱するだけのような気がしますので、その部分の解説は割愛させて頂きます。手っ取り早く、「キリスト教系」の語を Google にかけたところ、以下のような語句が抽出できました。
- キリスト教系の出版社、キリスト教系の小売業者、キリスト教系高等学校、キリスト教系SNSサイト、キリスト教系書店、キリスト教系の月刊誌、キリスト教系課目、キリスト教系の大学、キリスト教系NGO、キリスト教系新聞、キリスト教系中学校、ユダヤ・キリスト教系の神学部、キリスト教系野党勢力、キリスト教系の幼稚園(以上、検索上位50件から抽出)
この結果からは、「キリスト教系」と表現することが「キリスト教であることを否定」することに繋がるという事実は存在しないように思えます。問題があるとすれば、検索結果の2番目にヒットした「キリスト教系の新宗教」という記事の内容との関連によるのでしょう(検索結果によってその存在を初めて知りました…いや、一連の著作権侵害の調査過程から知っていて然るべきなのですが、当時は全く眼中にありませんでした)。その内容が正しいことを前提に、その記事に「エホバの証人」を当てはめると、その位置づけは以下のようになります。
- (1)「ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白する宗教集団がキリスト教であり」とあるので、「伝統宗教としてのキリスト教内部」からは「キリスト教ではない」とされる。
- (2)「この中にあって…逸脱するものを異端…と呼ぶ。」とあるので、「この中」つまり「ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白」していないので「異端」ではないようです。この記事内に以前に「異端ですらない」と書かれたことがありましたが、その意味では正しかったようです。
- (3)「これに対して宗教学の立場からは、広義のキリスト教、すなわち聖書を経典としキリストを唯一の救世主と認める宗教を一般にキリスト教と認めようとする立場もある。」とあるので、「宗教学」の見解では「広義のキリスト教」として認められそうです。
- (4)「後者の立場からは、…キリスト教系の新宗教であると表現される。」とありますが、「後者」とは「聖書より上位の立場にある経典をもつ教団」のことなので、そうした上位の経典が存在しないエホバの証人は「キリスト教系の新宗教」ではないようです。
しかし、「エホバの証人」は、その記事の日本語版だけでなく英語版でもリストされており、もしかして日本語版の記事内容がどこか間違ってるのか?。と一瞬考えたのですが、英語版の記事名は "Restorationism" (復古主義?両者の内容はだいぶ異なる)なので、「記事内容に誤りが含まれている」とは一概に言えないようです。従って、「キリスト教系の新宗教」の記事内容が正しいと仮定した場合、「「広義のキリスト教」に属する新宗教」といったあたりが正しい描写になりそうです。また、「異端視される事も多い」との表現についても「批判される事も多い」などのように変更する必要があるかと。
エホバの証人は、宗教学上「広義のキリスト教」に分類される新宗教である。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることでも知られる。三位一体の教理を退けるため、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないとして、伝統的キリスト教徒(もしくは「伝統的キリスト教を擁護する立場」)からは批判される事も多い。
まとめると、こんな感じになりますが…。Rigel 2007年6月29日 (金) 12:50 (UTC)
確認可能な百科辞典類の記述を洗ってみました。
- 平凡社『世界大百科事典』28,2005年(改訂)
ものみの塔;「一般に<エホバの証人Jehovah’s Witness>として知られるキリスト教の一派、および<ものみの塔聖書冊子協会Watch Tower Bible and Tract Society>の機関誌名.」(p.258) - 平凡社『世界大百科事典』1,2005年(改訂)
アリウス;「キリスト論に関する異端アリウス主義Arianismの主唱者・・・(中略)・・・近代のキリスト教諸宗派のなかでアリウス派に近いものは<エホバの証人>(ものみの塔)である。(p.561) - 山折哲雄監修『世界宗教大事典』平凡社,1991年
ものみの塔;「一般に<エホバの証人Jehovah’s Witness>として知られるキリスト教の一派で、・・(以下略)」(p.1919)
アリウス;「キリスト論に関する異端アリウス主義Arianismの主唱者・・・(中略)・・・近代のキリスト教諸宗派のなかでアリウス派に近いものは<エホバの証人>(ものみの塔)である。」(p.100) - 井上順孝、中牧弘允外『新宗教教団・人物事典』弘文堂,1996年
定義なし。「ラッセル(一八五二~一九一六)は、・・・(中略)・・・十八歳の頃聖書研究のグループを作る。・・・(中略)・・・「シオンものみの塔冊子協会」(英語名。中略)が組織される。」(p.304) - ジョン・R・ヒネルズ編/佐藤正英訳『世界宗教事典』青土社,1999年
「チャールズ・テーズ・ラッセル・・・(英語名、生没年。中略)・・・が、この至福千年運動ないしセクトの創始者。」(p.67)「エホバの証人は、・・・(中略)・・・三位一体をしりぞけ、イエス・キリストをアリウス主義的に理解する。」(pp.67-68) - 山折哲雄他編『日本「宗教」総覧』新人物往来社,1992年
第四部諸教編「神道、仏教、キリスト教以外の系統の教団」を収める。
- 「ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)」の独立項目あり。
- 定義なし。「チャールズ・T・ラッセルは、・・・(中略)・・・聖書研究の集まりを始める。・・・(中略)・・・ものみの塔冊子協会を設立。」(p.308)
- 第9部新宗教
独立した定義項目なし。
「古代ユダヤ教のメシア待望の運動や原始キリスト教のキリスト再臨の運動、・・・(中略)・・・新宗教運動の特定の潮流のなかには、この特徴を見いだすことは可能である。・・・(中略)・・・「再臨のキリスト」による「最後の審判」や地上的な「神の王国」の間近な到来を告げ歩くキリスト教系のエホバの証人」(p.755)
「仏基両教の系譜をひくメシア的救済運動の創始者・・・(中略)・・・たとえば、ラッセル・・・(中略)・・・キリスト再臨の年を予言してきたエホバの証人の運動や、・・・(以下略)」(p.764)
※カーゴ・カルトなどと同じ千年王国運動の文脈で説明している。
- 村上重良『世界宗教事典』講談社,1986年,1990年(改訂)
- ※「プロテスタント(新教)諸派」(ルーテルからセブンスディー・アドヴェンティストまで一緒にしている。)と別項目で「エホバの証人・ものみの塔」の項目を立てる。
- 「エホバの証人は、・・・(中略)・・・キリスト教新教系の教派で、・・・(以下略)」(p.250)
- ※以下略には再臨や終末にかんする主張などの記述がある。
- 松野純孝編『新宗教辞典』東京堂出版,1984年
- 「チャールズ・T・ラッセルが、・・・(中略)・・・始めた聖書研究グループが組織化されたもの。」(pp.424~425)
- 「イエス・キリストはエホバによって最初に創造されたのである。」(p.425)
- ミルチャ・エリアーデ他/奥山倫明訳『エリアーデ世界宗教事典』せりか書房,1994年
- ※キリスト教の章があるがエホバの証人に関する記述は一切なく、巻末の語句解説に項目がある。
定義として「布教伝道活動で知られるキリスト教の教派。」(p.393)以下、会員数や創設に関する記述、再臨や終末にかんする記述がつづく。
- ジョン・ボウカー編松村一男監修『ケンブリッジ世界宗教百科』原書房,2006年
- キリスト教(Chistianity)の小項目アメリカの部分に記述あり。独立した定義項目なし。「歴史的伝統を持つ教派が異端とみなした新しい運動・・・(中略)・・・エホバの証人は、初期キリスト教徒が待望したように終末は近い、と主張し、・・・(以下略)」(p.258)
これをみてみると、「キリスト教の一派」、「キリスト教新教系の教派」との記述が見られる 一方、わざわざ、新宗教や諸教に分類する事典も見られます。ですから宗教学上、宗教人類学上の記述をするなら、 宗教学上は、キリスト教の一派とみなされることもあるが、そのキリストの再臨や終末論の強調から千年王国運動の系譜を引く新宗教とみなされている。 という記述になります。はっきり書いてはいませんが、カーゴ・カルトやゴースト・ダンスなどのメシア待望信仰は、文化人類学上は千年王国運動と一括して呼ばれます。時期的にも世界史的に新宗教が興隆した19世紀終わりごろであることからも、歴史認識上合致します。
それから、Rigelさんの
>伝統的キリスト教徒(もしくは「伝統的キリスト教を擁護する立場」)からは批判される事も多い。
ですが、伝統的キリスト教徒の立場からすれば、はっきり異端として位置づけています。教理の観点から異端としているわけですが、そのことは、前述した百科辞典類の引用をご覧になればわかるように、三位一体の否定が、アリウス派的な理解、すなわち「イエス・キリストはエホバによって最初に創造された」というキリスト論の考え方が教理上あるのであるならば、異端という位置づけになります。それから、例のキリスト教系の新宗教の記事ですが、フレーズだけでなく文全体を引用すると
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伝統宗教としてのキリスト教内部では、ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白する宗教集団がキリスト教であり、この中にあってキリスト教としての自己認識を保ちつつ正統教義から自覚的に逸脱するものを異端、教団外部にあるものを異教と呼ぶ。
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となります。ここで125.192.181.21.氏の
キリスト教系新興宗教と言う表現は明確にPOVですね。なぜなら、ものみの塔協会自体自分たちがキリスト教だと言っているのですから。
という発言が思いだされるのですが、異端の定義は、「キリスト教としての自己認識を保ちつつ正統教義(つまり、ニカイア・コンスタンティノポリス信条)から自覚的に逸脱するもの」であり、「この中にあって」という記述に引きずられないで、アリウス派的な教理から考えて異端そのものです。ただし、異端だと考えているのは「伝統的キリスト教徒」の側であり、エホバの証人、すなわちものみの塔冊子協会の会員は、125.192.181.21.氏が言うように、自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の使信を忠実につたえているという認識です。なお、アリウス派ないしは、アリウス派に近い立場というのは、「伝統的キリスト教徒」の立場からすれば、基本信条から外れているのですから、わざわざ、(もしくは「伝統的キリスト教を擁護する立場」)との言い換えは不要です。よって冒頭部分は下記のようになります。
エホバの証人とは、(チャールズ・T・ラッセルがピッツバーグ市に開いた聖書研究グループが教団化した)「ものみの塔聖書冊子協会」の会員ないし信者のことをいい、しばしば、「ものみの塔聖書冊子協会」の会員を集合的に指す場合の呼称である。宗教学上は、キリスト教の一派とみな[or「広義のキリスト教」に分類]されることもあるが、そのキリストの再臨や終末論の強調から千年王国運動の系譜を引く新宗教とみなされている。また、ニカイア・コンスタンティノポリス信条及び三位一体を否定(し、イエス・キリストを被造物と)する教理などから、伝統的キリスト教徒からは異端であるとされるが、エホバの証人の立場は、自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の使信を忠実につたえていると信じている。
または、
エホバの証人とは、(チャールズ・T・ラッセルがピッツバーグ市に開いた聖書研究グループが教団化した)「ものみの塔聖書冊子協会の会員ないし信者のことをいい、しばしば、ものみの塔聖書冊子協会の会員を集合的に指す場合の呼称である。宗教学上は、キリスト教の一派とみな[or「広義のキリスト教」に分類]されたり、キリストの再臨や終末論の強調から千年王国運動の系譜を引く新宗教とみなされている。また、ニカイア・コンスタンティノポリス信条及び三位一体を否定(し、イエス・キリストを被造物と)する教理などから、伝統的キリスト教徒からは異端であるとされるが、エホバの証人の立場は、いまや新世界訳聖書という最も適した翻訳を持っている自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の使信を忠実につたえているという認識をもっている。
- (注)()は省略可能部分、[or ]は、入れ替え可能部分。
書いていてRigelさんが以前提案したように「ものみの塔聖書冊子協会」と「エホバの証人」を分割するか「ものみの塔聖書冊子協会」に改名する必要がある気がしてきました。というのは、百科辞典類が教団名を項目にしているからです。 Siyajkak 2007年7月5日 (木) 09:08 (UTC)---一部加筆及び修正Siyajkak 2007年7月5日 (木) 17:26 (UTC)
なるほど~(詳細な調査、ご苦労様です)。
「この中」とは「伝統宗教としてのキリスト教内部」なんでしょうね。この点は完全に私の読み違えだったようです。ところで、その「教団名」が何なのか?というと、信者自身であっても分からないと思います。この点、私はノート:ものみの塔聖書冊子協会にある Hasec さんの「そもそも、この教団に、「教団」としての正式名称があるのでしょうか?」という発言と意見を同じにします。「ものみの塔聖書冊子協会」が単なる一法人に過ぎないのも確かなのですが、「エホバの証人」が教団名、もしくはグループ名なのかというと、…
- 私はエホバの証人です o
- 私達はエホバの証人です o
- 私はエホバの証人の信者です x
- 私達はエホバの証人の信者です x
やはり違うと思うのです。他、
- ものみの塔聖書冊子協会の会員ないし信者のことをいい
- 「協会」という言葉が本来持つ意味からすると、「会員」などはなるほどと思うのですが、「…協会の会員」、「…協会の信者」と呼ばれることに対する反論が現役信者から起こるような予感があります(違和感を覚える表現ですので)。編集合戦を招かないためにもこうした表現は出来る限り避けるべきかと思います。
- 「広義のキリスト教」
- 元々は私の提案ですが、Google で検索をかけたところ、最初は「約 731 件」とあったのが、次の検索結果を表示すると17件にまで激減してしまいました。うち2つは Wikipedia 自身の記事で、そのクローンも5件含まれるため、あまり一般的な呼称ではないようです。また、そのうちの1つは内村鑑三氏への言及であり、その文脈からすると、単に「伝統=狭義、他=広義」という分類用語ではなく、「キリスト教への固執=狭義、他宗教への寛容=広義」という思想的な意味合いを含んだ語であるようです。もしこうした定義が本当に存在するのであれば、軽々しく用いるべきではないように思います。
- 伝統的キリスト教徒からは異端であるとされるが
- 「教徒」=「信者」なので、このように断定調で用いるならば、もう少し表現に工夫が必要かと思われます。
- 新世界訳聖書という最も適した翻訳を持っている
- 「最も適した翻訳」とみなしているわけではないでしょう(大半は。一部、そう勘違いしている信者もいるであろう可能性については否定しません)し、新世界訳を用いなくとも宣教する際に困ることはないでしょう。
また、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の記事から分かることというのは、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」と「三位一体を信じていることを表明すること」は実質的に同一である、ということです。なので、「及び」(and)と表現して両者を別々のものであるかのように表すのはちょっと変です。
- エホバの証人とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者、その一人ひとりを指す呼称。信者を集合的に指す呼称としても用いられるため、メディアではその教団名であるかのように用いられることもある。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることで知られる。宗教学上はキリスト教の一教派、もしくはキリストの再臨や終末論など教理的特長の類似から、千年王国運動の系譜を引く新宗教に分類される。
- 三位一体を否定し、キリスト教諸教派では最もアリウス派の解釈に近いとされる。このため、伝統的キリスト教会の定義に従うならば、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになるが、彼ら自身は、「自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている」といった見解を示す。
細部の表現等もまとめて修正すると、こんな感じになります。↑は昨夜のうちに書き上げていたのですが、色々と調べ物をしているうちにこんな時間になってしまいました。C.T.ラッセルへの言及を含むと冗長な文章となってしまうと感じます。Rigel 2007年7月6日 (金) 09:44 (UTC)
- コメントありがとうございます。当初から考えると的確な定義に仕上がってきて感動しています。お疲れ様です。わたし自身も「広義のキリスト教」と使うのは、首を傾げていましたので(実はRigelさんの記述を極端にいじりすぎた反省。)、ご自身で調査されて訂正されたことに敬意を表するとともに胸をなでおろしています。一方で、「教派」という語句ですが、宗教学上では、厳密な教理まではつきつめないため教派だろうと一派だろうと一緒くたでしょうから、教理的な性格が著しく異なることから「一派」くらいにしたいですね。また「伝統的キリスト教徒」というのも、Rigelさんの記述を尊重しようと意識しただけなので、「~教会」とされるならそのほうがいいです。
- >また、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の記事から分かることというのは、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」と「三位一体を信じていることを表明すること」は実質的に同一である、ということです。なので、「及び」(and)と表現して両者を別々のものであるかのように表すのはちょっと変です。
- これはおっしゃるとおりです。ちょっと安易でしたね。ただ定義なり教理的になにを根拠としているか挙げてみたかったということなので異論ありません。
- >C.T.ラッセルへの言及を含むと冗長な文章となってしまうと感じます。
- これもそう思いながらもラッセルの聖書研究会がもとになったと書いている辞典類の記述にならってみたものなので、省略可能を想定した()でくくってみました。冗長なら、ないほうがよいと思います。
- ところで、
- >三位一体を否定し、キリスト教諸教派では最もアリウス派の解釈に近いとされる。
- についてですが、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白する宗教集団」こそが、伝統的なすべてのキリスト教会を包括する定義(いや本当に簡潔で的確な定義だ...)であるため、「キリスト教諸教派」でアリウス派ないしはアリウス派に近い立場というのは存在しないはずなので、「キリスト教諸教派」を「教理的に」に訂正させていただきます。(ただし、宗教学上~以下の記述には、キリスト教に属するもののように扱われるので、その趣旨を生かします。)
- 一方、
- >伝統的キリスト教会の定義に従うならば、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになるが
- ですが、この「定義」は、教理じゃないかと一瞬思いましたが、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白する宗教集団」こそが「伝統的キリスト教会」ですので、やっぱり「定義」のほうが的確であることに同意します。
- また、全体的に冒頭の二行は、一緒くたになる外部の者にとっては非常にわかりやすい的確な表現で感激しました。加えて「使信」が「音信」になっているのは、エホバの証人自身の主張の部分なので「音信」のほうが的確なのかと勉強になりました。
- 以上のことをまとめると、
- エホバの証人とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者、その一人ひとりを指す呼称。信者を集合的に指す呼称としても用いられるため、メディアではその教団名であるかのように用いられることもある。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることで知られる。宗教学上はキリスト教の一派、もしくはキリストの再臨や終末論など教理的特長の類似から、千年王国運動の系譜を引く新宗教に分類される。
- 三位一体を否定し、教理的に最もアリウス派の解釈に近いとされる。このため、伝統的キリスト教会の定義に従うならば、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになるが、彼ら自身は、「自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている」といった見解を示す。
- 上記に対しての異存はありません。後は#作業分担の問題を残すのみかと思われます。Rigel 2007年7月7日 (土) 03:20 (UTC)
最近の議論
その1
- 上記の文はPOVであると主張します。
- 理由1:エホバの証人とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者とありますが、これは批評家が勝手に主張している見解であり、実際にはエホバの証人は聖書により訓練された個人の良心により行動していると言う事実を無視している。解釈は人により異なることもある。
- 理由2:エホバの証人…はメディアではその教団名であるかのように用いられることもある:これも事実と反する。エホバの証人自身がこの名称をグループ名(教団名)として受け入れている。
- 理由3:三位一体を否定し、・・・ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになる:これはカトリック・プロテスタント両教会が主張しているPOVな主張。この主張をNPOVにするにはニカイア・コンスタンティノポリス信条や三位一体が聖書正典の教理と一致していることを証明する必要あり。エホバの証人は三位一体が聖書と矛盾すると主張し、その根拠となる聖句を上げている。
- 理由4:[エホバの証人]自身は、「自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている」といった見解を示す。:これも嘘。エホバの証人はそのようなことを主張したことはない。むしろ、聖書正典が真理であり、エホバの証人が全体としてそれに従っているゆえに真のクリスチャンである、と言う見解。エホバの証人の出版物は不謬ではない(間違いがないわけではない)ことを認めている。実際、教理の調整(変更)はたびたびなされている。~~
<反論>
>上記の文はPOVであると主張します。
- POVではありません。むしろ後述のように反論しましたが、ノートの議論の参加せず護教的な記述に編集するほうがPOVなので慎まれたい。またアタナシウス信経というのは特殊な用語です。一般的に使われる普通の言葉を使うことができないことこそあなたの記述がPOVであることの証左です。
- 本文中>聖書正典のみを研究し、それを実践するキリスト教のグループである。
- は著しくPOV、すなわち中立的ではありません。なぜならエホバの証人以外は、エホバの証人が聖書正典のみを研究している、とは考えていないからです。
- 理由1:エホバの証人とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者とありますが、これは批評家が勝手に主張している見解であり、実際にはエホバの証人は聖書により訓練された個人の良心により行動していると言う事実を無視している。解釈は人により異なることもある。
- あなた自身が「これは批評家が勝手に主張している」と考えているだけで、事実として批評家がそのように主張していることを認めているのだから客観的な記述であることは論を待たない。論理が破綻している。
- 単なる客観的な事実記載であるのだからPOVとして差し戻しをする正当な理由がない。同じメディアの主張であってもキリスト教系新宗教ということについては、そういった表現を避けて客観的な記述になるようにし、宗教学上の記述として限定しているわけであるからこれは勝手な解釈ではない。
- 理由2:エホバの証人…はメディアではその教団名であるかのように用いられることもある:これも事実と反する。エホバの証人自身がこの名称をグループ名(教団名)として受け入れている。
- あなたの周辺のエホバの証人の方々がグループ名(教団名)として受け入れていても、Rigelさんのように考えている方もいるし、一般的な新聞雑誌の意見であるから、事実と反しない。
- 一般的な新聞雑誌の意見であるから:それは「意見」でしょう。「意見」を「事実」として記述することをPOVというのです。
- 理由3:三位一体を否定し、・・・ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになる:これはカトリック・プロテスタント両教会が主張しているPOVな主張。この主張をNPOVにするにはニカイア・コンスタンティノポリス信条や三位一体が聖書正典の教理と一致していることを証明する必要あり。エホバの証人は三位一体が聖書と矛盾すると主張し、その根拠となる聖句を上げている。
- これは、カトリック・プロテスタント両教会の立場を事実記載として例示しているだけで、エホバの証人の立場もその後に記述しているので、POVではない。都合の悪い事実記載を除いて護教的な記述に終始することこそPOVである。三位一体が聖書正典の教理と一致していることはキリスト論の神学書や各種聖書注解書、エホバの証人の反論本で自明であり、ここでいちいちあなた個人のために引用する労力をわたしが負う必然性がない。もし、教団も間違えることがあるというなら、三位一体を否定する理由すらも将来成り立たなくなる可能性もある。それから、聖書正典が正しいといいつつ、教団以外の本で汚染されるなどという感覚をもっているならそれこそがあなた自身が洗脳されていてPOVな記述を繰り返していることの証明になる。虚心坦懐に自分の行為を振り返ることと、教団以外の文献を虚心坦懐に読む勇気をもつことをおすすめする。
- 三位一体が聖書正典の教理と一致していることはキリスト論の神学書や各種聖書注解書、エホバの証人の反論本で自明であり:すみませんが、そのエホバの証人の反論書ではどの聖句から三位一体が聖書聖典と一致しているのか記すべきです。それに、それは意見であり、事実ではない。211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 03:41 (UTC)
- 理由4:[エホバの証人]自身は、「自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている」といった見解を示す。:これも嘘。エホバの証人はそのようなことを主張したことはない。むしろ、聖書正典が真理であり、エホバの証人が全体としてそれに従っているゆえに真のクリスチャンである、と言う見解。エホバの証人の出版物は不謬ではない(間違いがないわけではない)ことを認めている。実際、教理の調整(変更)はたびたびなされている。
- 嘘ではない。エホバの証人の方々の立場を客観的かつ好意的に記述しているのであり、そのたびに、間違いや教理の変更がなされているならそのほうがもっと問題である。つまりやっぱりうそだったということを自分で認めているわけで論理が破綻している。また、あなた自身が「聖書正典が真理であり、エホバの証人が全体としてそれに従っているゆえに真のクリスチャンである、と言う見解。」を持つのは自由であるが、そういった個人的な思い込みや感情こそが外部の人間からすれば事実ではなく著しくPOVであることを認識されたい。
- いったいどこが好意的なのか説明いただきたい。211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 03:41 (UTC)
「聖書正典のみを研究し、それを実践するキリスト教のグループである。」という記述と「アタナシウス信経」などという特殊用語ををやめてくれるなら、いくらかの加筆修正が必要になりますが以前のあなたの記述を前向きに検討する余地があります。---Siyajkak 2008年1月7日 (月) 17:57 (UTC)
その2
- ちょっとだけ。「アタナシウス信条」とか「アタナシオ信経」であればよいということですか。まあこういう用語は教派によって揺れがありますし、実際ググってみると「アタナシウス信経」も使われてたりしますから (多くは専門家でないひとのようですが)、穏便に訂正しておけばいいでしょう。
- 一点を除いて、Siyajkakさんが 2007年7月6日 (金) 12:30 (UTC) に示した案に賛成です。一点とは、「教理的に最もアリウス派の解釈に近いとされる」という一文です。これは教理に対する評価を含んでいますので、冒頭定義文に入れるのではなく、出典明記のうえ記事本体中にうつすべきです。
- 「三位一体を否定」という解説と意味的に重複します。また、ものみの塔の教理がアリウス派の思想に起源を持つなどの関連性があるかどうかは、自明なことではありません (他者からの評価である場合はもちろん、たとえ当事者がそのように主張しているのだとしても、それを示す出典がいる、ということ)。さらに、三位一体の否定がアリウス派の思想と同等であるかのようなPOVを含んでいます (ユニテリアン・ユニヴァーサリストやクリスチャン・サイエンスなどはアリウス派と関係あるでしょうか)。
- ではでは。 --Hatukanezumi 2008年1月8日 (火) 06:25 (UTC)
やはりよくご理解いただいていないようですが、「アタナシウス信経」なる表現ですが、少なくともプロテスタント超教派で出されている本をかなり目を通していてもなかなか発見することのできない(少なくとも自分は一度も目にした事がない)それくらい珍しい表現です。エホバの証人の反論本にすら目にすることができません(少なくとも必死に探すくらい珍しい表現です)。Biglobeのattayoで41件(ちなみにアタナシウス派は、1060件)、MSNでは、最初のページに単語として数件散見される程度です(アタナシウスだけなら数え切れないほど出てきますが...)。もしかしてカトリックやギリシャ正教会では使っているのかも知れませんが、そんな一般的でない表現を使うことに対してまた専門家でない人がたまたま使うことがあるという表現に対してなぜ穏便にすまさなければならないのか理解できません。
次に「アリウス派に解釈に近いとされる」を本文中に移してしまったら読者にとってわけのわからない表現になります。「アリウス派の思想に起源を持つなどの関連性があるかどうかは、自明なことではありません」といいますが、わたしが言いたいのは、起源がどうかではなく内容の問題であり、直接関係のない「(ユニテリアン・ユニヴァーサリストやクリスチャン・サイエンスなどはアリウス派と関係あるでしょうか)。」の話まで持ってくると、論点がぼやけてしまうのでこのことも全く問題にしていません。
アリウス派との近似に関しては、わたしが挙げた11冊の辞典類のうち3冊(27.273%)に出てきます(もう一度ここの過去ログとあなたのノートページの過去ログを熟読してください)。これは、前述の1060件に対する41件(3.868%)よりもはるかに大きい比率です。「アタナシウス信経」のほうを配慮して、合意した記述のほうがなぜPOVになってしまうのか、議論が定まったあとになって後だしじゃんけんのように差し戻しをする行為に対して譲れというのなら一時が万事ごね得になってしまいます。
もし、「アリウス派に解釈に近いとされる」をどうしても譲れというのなら「伝統的キリスト教会の定義に従うならば、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになるが、」という熟慮と配慮で譲った表現を「キリストを被造物とし、聖霊を活動力とする教理は、正統派キリスト教会の基本信条であるニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端である。」と書き直すことになります。配慮がないようですが、これは、正統派キリスト教会の立場からすれば客観的に事実ですし、アリウス派云々についてよりも出典は数え切れないほどあるので(キリストを被造物にする考え方に対しては、なにしろ4世紀のニケーア公会議以降文献は枚挙にいとまがない、すなわち、この場合、三位一体の否定がアリウス派の思想と同等であってPOVではない。)、いちいち挙げていたらきりがありません。---Siyajkak 2008年1月8日 (火) 17:18 (UTC)
- わたしはクリスチャンではありません。そういう目から見ると、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っているかどうか」について、特にいいとも悪いとも思わないです。ただ、キリスト教関係の解説書ではかならず触れられることなので、キリスト教界やその周辺では、非常に重要な概念らしいな、ということがわかります。ですから百科事典では、そのことは特筆されるべきだとおもいます。
- しかし、同様に部外者の目からみると、「三位一体を否定する」というのが「アリウス派に近い」というのは、あまりに粗雑な主張だと考えます。三位一体を否定する主張というのは、キリスト教世界の歴史上、繰り返しでてきますし、時期によって消長はあるものの、常に存在する主張でありつづけています。当然ながら、すべてがアリウス派に発しているのではありません。実際、Siyajkakさんの挙げた文献でも、書いてあったとしても「アリウス主義」と書いてありませんか。これ自体、変な用語だとおもいますが (「社会主義思想」を「金正日主義」と呼ぶのとおなじくらい変です)、「アリウス派」だなんて書いてありませんよ。
- また、「アタナシウス信経」という用語の用法があるかどうかは、ちゃんと調べてください。「アタナシア信経」は聖公会で用いられますが、「一般的でない」と切り捨ててよいのですか。まして、ローマカトリックやギリシャ正教会を「一般的でない」と言うのは、いくらなんでもひどすぎるんじゃないでしょうか。また、ユニテリアンで話がぼやけるとおっしゃいますが、キリスト教関連思想や人道思想の日本への紹介という面では、決して無視できない存在です。Siyajkakさんにとっては、自教派の立場がもっとも主流で自然なものに見えるかもしれませんが、ほかのひとにとってはかならずしもそうではないのです。そして、百科事典は、そのようなさまざまな視点を包括するものでなければなりません。Siyajkakさん自身が、かなり深刻なPOVに基づいて議論してしまっていることに、気づいてください (もちろん、証人のかたが言っている意味でPOVなのではありません)。
- この記事は、エホバの証人、ものみの塔について書くところです。もちろん、その集団の宣伝に記事を使われるべきではありませんが、同時にその団体を断罪するために使われるべきでもありません。Siyajkakさん自身が同集団を断罪したい気持ちをあらわにしているために、反発を生んでいることにも、気をとめていただきたいとおもいます。まして、「異端である」と断言するような変更には、とても賛成できません。
- そういうわけで、Siyajkakさんの応答を読んでも、わたしの意見はかわっていません。 --Hatukanezumi 2008年1月8日 (火) 18:31 (UTC)
>また、「アタナシウス信経」という用語の用法があるかどうかは、ちゃんと調べてください。
これは、あなたが、「アタナシウス信経」の語を使うべきだと主張しているのだから、カトリックやギリシャ正教会で使われているかどうか、また一般的かどうかはあなたが確認すべきでしょう。わたしに頻度まで確認させておきながら、この言い方はないでしょう。それから、わたしは前レスで
>「聖書正典のみを研究し、それを実践するキリスト教のグループである。」という記述と「アタナシウス信経」などという特殊用語ををやめてくれるなら、いくらかの加筆修正が必要になりますが以前のあなたの記述を前向きに検討する余地があります。
と相手方に対して提案しているのですよ。あなたが横から意見を主張するのは、編集合戦を誘発するようにしか受け取れません。申し訳ありませんが後出しじゃんけんのようにご自分の主張を通されるなら不毛なことにしかならないことをご承知ください。あなたの主張は「ここの過去ログとあなたのノートページの過去ログを熟読し」てくれとわたしが言っているのに、わたしの意見が気に入らない、だから、ああしろこうしろと他人をあてにしているだけだということを自らを振り返って猛省していただきたい。わたしは、現状のままを変えないのが一番望ましいと考えています。---Siyajkak 2008年1月9日 (水) 09:35 (UTC)
>「アタナシア信経」は聖公会で用いられますが、「一般的でない」と切り捨ててよいのですか。まして、ローマカトリックやギリシャ正教会を「一般的でない」と言うのは、いくらなんでもひどすぎるんじゃないでしょうか。
これは、看過しがたい、はっきり言えば悪質ともいえる印象操作です。「もしかしてカトリックやギリシャ正教会では使っているのかも知れませんが、」というのは、そうかどうかわからない、もしかしたらそうかもしれないが、やっぱり違うかもしれないと正直に感想を意見をのべているだけで、「そんな一般的でない表現を使うことに対して」と直接つながるものではありません。誤解を生んだのかもしれませんがここまで歪曲されるといい気持ちはしません。
>また、ユニテリアンで話がぼやけるとおっしゃいますが、キリスト教関連思想や人道思想の日本への紹介という面では、決して無視できない存在です。
わたしはそういうことを話しているのではありません。エホバの証人の教理の問題のみを話しているのです。論点をそらすのと印象操作はやめていただきたい。---Siyajkak 2008年1月9日 (水) 16:45 (UTC)
- それから
- >同時にその団体を断罪するために使われるべきでもありません。Siyajkakさん自身が同集団を断罪したい気持ちをあらわにしているために、反発を生んでいることにも、気をとめていただきたいとおもいます。まして、「異端である」と断言するような変更にはとても賛成できません。
- についてですが、これは、あなたが異端という言葉に過剰反応して、断罪していると思い込んでいるだけです。そんなことなら、ニカイア信条に書いてある「アナセマ」(呪われよ)と書かれていることは、POVだからと、あなた個人の感情で否定しなければならないことになります。「アナセマ」の語がなくてもあなたの主張からすればニカイア・コンスタンティノポリス信条もPOVになってしまいます。どうしてもご自分の意見を通したいなら、ギリシャ語なりラテン語をならって、タイムマシンに乗って4世紀の世界のニケーア公会議や第1コンスタンティノポリス公会議にでて、異端というのは断罪だ、POVだと叫んできてください。それから、信条の本文に異端とは書いていないというかもしれませんが、アリウス派は異端と世界史の教科書にだって書いてあります。それとおなじようにキリストを被造物とする考え方は異端であることには変わりありません。表現を穏やかにするなら、キリスト教ではない、キリスト教とは違うことを明記するということなら理解できます。
- 実は、三位一体は、キリスト教の教理の根本そのものなので、キリストが神でなく被造物だとしたら、十字架で個人の原罪を償うこと、個人の罪を背負って十字架上で身代わりに死ぬことができないことになり、十字架の贖罪を信じれば救われるという救済の教理が根本から崩れてしまいます。カトリックの場合は煉獄とか善行が救いに影響するという教理が部分的に見られますが、新約聖書のパウロ書簡、アウグスティヌスやルターの著書を読めばわかるように救済の教理については本質的には変わりません(ただwikipediaの記事については、自由主義神学や新正統主義などの影響が強い特定の立場で書かれた記事が多いのでこのあたりがぼやけている傾向がある、つまり実はPOVなので、福音派やいのちのことば社とか聖霊派の立場の本も合わせて読む必要がある)。教理の問題は人が救われるか救われない(ゲヘナに落ちるか)の問題なので、ことの是非はともかく火刑のようなことまでおこなわれた命がけの話だったのです。それを一時的な感情論で、POVだ、断罪していると軽々しく主張していだだきたくありません。ご自分が知らないことは知らないとして口を出すのは厳に慎まれたい。ちなみにわたしは、自分の苦手な分野や自信のない分野は手をださないようにしています。---Siyajkak 2008年1月9日 (水) 13:56 (UTC)--とりあえず最終的な修正Siyajkak 2008年1月9日 (水) 14:13 (UTC)
>しかし、同様に部外者の目からみると、「三位一体を否定する」というのが「アリウス派に近い」というのは、あまりに粗雑な主張だと考えます。
粗雑かどうかは、下記のニカイア信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の引用文を読めば普通は理解できるはずです。あなたはこれをちゃんと読んでいるのでしょうか。※下線部は、エホバの証人が否定する部分
---ニカイア信条・引用はじめ---
主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、(神からの神)、光からの光、 まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして
・・・(中略)・・・
神の子は、異なる本質或は異なる実体より成るもの、造られしもの、 変わり得るもの、変え得るもの、と宣べる者らを、 公同なる使徒的教会は、呪うべし。
---引用おわり---
---ニカイア・コンスタンティノポリス信条・引用はじめ---
主は神のひとり子、 すべてに先立って父より生まれ、 神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、 造られることなく生まれ、父と一体。(カトリック教会の訳文)
一の主イイスス・ハリストス、神の獨生の子、万世《よろづよ》の前に父より生まれ、光よりの光、真《まこと》の神よりの真の神、生まれし者にして造られしに非ず、父と一体にして(ギリシャ正教会の訳文)
---引用おわり---
あなたの意見は感情の吐露で反論のための反論でしかありません。数日かけてお考えいただきたいという言葉をそのままおかえしします。--Siyajkak 2008年1月9日 (水) 16:49 (UTC)---修正Siyajkak 2008年1月9日 (水) 16:55 (UTC)
- 「『アタナシウス信経』を使え」などと申し上げてはいません。よくお読みください。なぜそのように、お互いの意見のちがいを、お互いの否定ととらえてしまうのでしょうか。
- また、あなたはご自分の知らない話題や興味のない話題を向けられると「話がぼやける」「一般的でない」とおっしゃっているようにも見えます。それでは、かえって自分のPOVに固執しているように見えてしまいます。
- さて、冒頭定義文は本来、議論の余地のない定義を書くところであり、だれの主張であるかを確認しなければならないようなことを書くところではありません (ですので、「聖書正典のみを研究し」などという文言を定義文にまぎれこませるのも、当然わたしは反対です)。
- したがって、「異端である」と断言したいのであれば、それは特定の教派 (もちろん今日主流の教派ではありますが) の見解ですので、本文本体中で、出典を示して解説すればよいことです。実際、Siyajkakさんは、その出典になる資料を、このノートで多数示してこられたではないですか。それらを論争に勝つためにではなく、記事を充実させるために使ってください。
- まして、「アリウス派に近い」などという客観性のない粗雑な議論は、不正確すぎて百科事典の記述にはむきません。「誰々の見解である」と明示してしか載せられないと申し上げているのです。ですので、冒頭定義文には置けないのはもちろん、記事本体中に置く場合でも、信頼できる情報源にもとづく出典が必要です。
- 繰り返しますが、わたしは「どちらが正しいか」ということには興味はありません。また、あなたがあなたの意見を「これが主流の意見だ」と主張するのは自由です。しかし、あなたの信じる正しさによって他人を裁くようなまねは、やめてください。あなたがそうできるのなら、他人もそうしてよいはずでしょう?
- これ以上申し上げてもおなじことの繰り返しになりそうですので、これくらいにしておきます。すぐ応答なさる必要はありませんので、できれば、数日かけてお考えいただきたいです。 --Hatukanezumi 2008年1月9日 (水) 16:28 (UTC)
>「『アタナシウス信経』を使え」などと申し上げてはいません。よくお読みください。なぜそのように、お互いの意見のちがいを、お互いの否定ととらえてしまうのでしょうか。
- 「わたしは「どちらが正しいか」ということには興味はありません」といいながら、どうしてこのように他人のことを決め付けて印象操作をするのでしょうか?否定といいますがなにを否定しているか意味不明です。
- >「アタナシウス信条」とか「アタナシオ信経」であればよいということですか。まあこういう用語は教派によって揺れがありますし、実際ググってみると「アタナシウス信経」も使われてたりしますから (多くは専門家でないひとのようですが)、穏便に訂正しておけばいいでしょう。
- 教派によってゆれがあるから穏便に訂正、ということは、わたしには少なくとも訂正の上使いたいという意味に受け取れました。
- >また、「アタナシウス信経」という用語の用法があるかどうかは、ちゃんと調べてください。「アタナシア信経」は聖公会で用いられますが、「一般的でない」と切り捨ててよいのですか。まして、ローマカトリックやギリシャ正教会を「一般的でない」と言うのは、いくらなんでもひどすぎるんじゃないでしょうか。
- 下の部分については誤解である上に不本意な受け取られ方であり、印象操作がなされていて、非常に不愉快です。繰り返しになりますが、「もしかしてカトリックやギリシャ正教会では使っているのかも知れませんが、」というのは、そうかどうかわからない、もしかしたらそうかもしれないが、やっぱり違うかもしれないと正直に感想を意見をのべているだけで、「そんな一般的でない表現を使うことに対して」と直接つなげるつもりではありません。
- このように「他人を裁くまね」をはじめたのはあなたのほう(2008年1月8日 (火) 18:31 (UTC))でしょう。それだから猛省しろ(2008年1月9日 (水) 09:35 (UTC))と言ったわけです。
>また、あなたはご自分の知らない話題や興味のない話題を向けられると「話がぼやける」「一般的でない」とおっしゃっているようにも見えます。それでは、かえって自分のPOVに固執しているように見えてしまいます。
- 下線部のような印象操作と論点そらしをしないでください。知らないとか興味がないとか関係ありません。非常に不愉快です。冒頭分の内容について話し合っているのであり、わたしは、一貫してエホバの証人の教理のみを問題にしているのです。ユニテリアンの社会的意義とか(実は当然わたしも知っています、というか少なくとも過去その種の話を載せた本を読んだことがあります。)もちだしたら話が脱線してどうにもならなくなることをご理解ください。
>さて、冒頭定義文は本来、議論の余地のない定義を書くところであり、だれの主張であるかを確認しなければならないようなことを書くところではありません (ですので、「聖書正典のみを研究し」などという文言を定義文にまぎれこませるのも、当然わたしは反対です)。
- これについては全く同感です。
>したがって、「異端である」と断言したいのであれば、・・・
- 何か誤解なさっているようですが、あなたが意見を通したがっているみたいなので、交渉の材料として断言する提案をしているだけです。ただ違いははっきりさせるべきだとは思います。あなただって穏便にすませたいでしょう。だから、配慮して現在の冒頭文があるわけです。
>あなたの信じる正しさによって他人を裁くようなまねは、やめてください。あなたがそうできるのなら、他人もそうしてよいはずでしょう? これ以上申し上げてもおなじことの繰り返しになりそうですので、これくらいにしておきます。すぐ応答なさる必要はありませんので、できれば、数日かけてお考えいただきたいです。
- それはこっちの科白です。こういう捨て台詞じみた印象操作をされるいわれはありません。他人の意見を思い込みで解釈し、印象操作をくりかえし、あげくのはては「裁くようなまね」という言い方はないでしょう。過去のスレを読んでいないこととご自分の勉強不足を正直に認めたらいかがですか。過去のスレやこれまでの議論を読み、数日かけてご自分の態度を猛省していただくようおすすめします。---Siyajkak 2008年1月9日 (水) 18:02 (UTC)---Siyajkak 2008年1月9日 (水) 18:53 (UTC)
- 太字を多用するのはやめてください。議論が無用に感情的になります。
- 修正のしかたに絞って、提案をまとめておきますね。
- 論争の的となっていることには出典を示す。主流の見解であるならなおさらそうする。
- 冒頭定義文は定義を書く場所なので、出典が必要になるようなことは本文中に移す。
- したがって、現在の冒頭定義文のつぎのような記述は、すべて信頼できる情報源による出典を示し、かつ、本文本体中に移す。
- 「教理的に最もアリウス派の解釈に近いとされる。」
- 「しかし、アリウス派は政治・軍事活動を支持したのに対し、エホバの証人はそうした活動を支持していないという点で異なる。」(現在は脚注になっていますが、脚注をこのように使うことは感心しません)
- 「彼ら自身は、『自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている』といった見解を示す。」
- 1. は当事者以外からの評価を示した出典が必要かとおもいます。2. は当事者による文献が示されていますが、できれば第三者の評価を示した出典がほしいところです。1. と 2. はまとめられるでしょう。また 3. は、当事者の主張を引用したかたちに書き換えるべきでしょうが、客観的な内容ではないのであまり重要ではないでしょう。
- またこのようにしたとすると、現本文の冒頭定義文2段落めは「三位一体を否定するため、伝統的キリスト教会の定義に従うならば、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになる」という記述が残ることになりますが、これも「教理」の節に移してかまわないようにおもいます。残るのは、1段落めの内容だけとなります。 --Hatukanezumi 2008年1月10日 (木) 02:46 (UTC)
「正しいかどうか関心がない」といいながら、相手の回答や説明を自分に不都合だと無視して自分の思うようにすすめようとする姿勢は感心できません。わたしは、第一案として「聖書正典のみを研究し、それを実践するキリスト教のグループである。」という記述と「アタナシウス信経」などという特殊用語ををやめてくれるなら、いくらかの加筆修正が必要になりますが以前のあなたの記述を前向きに検討する余地があります。」と2008年1月7日 (月) 17:57 (UTC)に述べていたように125.193.23.145氏が提案した冒頭の記述
---引用はじめ---
エホバの証人はカトリック、プロテスタントいずれにも所属せず、聖書正典のみを研究し、それを実践するキリスト教のグループである。彼らはほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることで知られる。カトリック・プロテスタントが正典とするニカイア・コンスタンティノポリス信条やその書の教理である三位一体を聖書正典に矛盾するものとみなすため、両教会から異端視されている。
---引用おわり---
を、使ってシンプルに
---
エホバの証人(-しょうにん)は、1870年代初頭にチャールズ・ラッセルがピッツバーグ市に開いた聖書研究グループが教団化した「ものみの塔聖書冊子協会」の会員ないし信者のことをいう。会員ないし信者を集合的に指す呼称としても用いられるため、メディアではその教団名であるかのように用いられることもある。彼らはほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることで知られる。カトリックとプロテスタントの共通の基本信条であるニカイア・コンスタンティノポリス信条が定めた三位一体の教理を排除するため、両教会から異端視されている。
---
にすることを提案します。これについては、Hatukanezumiさんも、
>さて、冒頭定義文は本来、議論の余地のない定義を書くところであり、だれの主張であるかを確認しなければならないようなことを書くところではありません (ですので、「聖書正典のみを研究し」などという文言を定義文にまぎれこませるのも、当然わたしは反対です)。
と述べておられるので異論はないでしょう。
それから、現在の冒頭文は、長い話し合いの上決まったものなので、これを特定の個人が気に入らないと主張するからといって振り出しにもどしてしまったらなんでもありなので、編集合戦がさらに激化します。どうしても「アリウス派に近い」を除きたいのであれば、妥協案(第2案)として下記が考えられます。
---
エホバの証人(-しょうにん)とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者、その一人ひとりを指す呼称。信者を集合的に指す呼称としても用いられるため、メディアではその教団名であるかのように用いられることもある。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることで知られる。宗教学上はキリスト教の一教派、もしくはキリストの再臨や終末論など教理的特長の類似から、千年王国運動の系譜を引く新宗教に分類される。
教理の中心的な特徴に、キリストを被造物とし、聖霊を神の活動力とするなど三位一体の教理の否定があり、このため、伝統的キリスト教会の定義に従えば、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになるが、彼ら自身は、「自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている」といった見解を示す。
---
もちろん、Hatukanezumiさんのいう3.部分(下線部)を当事者の主張や意見によって変えていただく(この場合は彼ら自身の自己認識や主張の部分なので、いくらでも護教的な表現になってもかまわない)ことはやぶさかではありません。---Siyajkak 2008年1月10日 (木) 10:47 (UTC)---加筆修正Siyajkak 2008年1月11日 (金) 08:46 (UTC)
- 日があいてしまってすみません。上でSiyajkakさんが示している案のうち、1つめ (「シンプルに」と述べておられるほう) に賛成です。
- ところで、半保護もされたことですし (というか、半保護依頼をだすことも検討していたのですが、他事にまぎれてやっていませんでした。すみません)、ログインしないどころかノートでの発言に署名もしないようなかたを相手にするのは、やめませんか。 --Hatukanezumi 2008年1月17日 (木) 14:57 (UTC)
大変恐縮ですが、過去のノートで行なわれた議論をお読みください、と繰り返し申し上げているように
- エホバの証人(-しょうにん)は、1870年代初頭にチャールズ・ラッセルがピッツバーグ市に開いた聖書研究グループが教団化した「ものみの塔聖書冊子協会」の会員ないし信者のことをいう。会員ないし信者を集合的に指す呼称としても用いられるため、メディアではその教団名であるかのように用いられることもある。
の部分は、当事者のことをよくご存知なRigelさんのご提案で、
- エホバの証人とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者、その一人ひとりを指す呼称。信者を集合的に指す呼称としても用いられるため、メディアではその教団名であるかのように用いられることもある。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることで知られる。
に変えた経緯があり、IP氏がPOVだと主張している記述の代替案として改めて提案したという趣旨があります(このへんの説明不足はすみませんでした)。IP氏が納得する姿勢を見せたなら、それを根拠にRigelさんに交渉、再度提案するつもりでした。全員合意できるようであれば晴れて冒頭部分の記述にするのは可能かと思われます。しかし、実際にはIP氏は積極的に賛同する姿勢を示さないまま半保護になりましたので、同じことをRigelさんに交渉するのは、完全な議論の蒸し返しになるため、ありえません。したがって、Hatukanezumiさんと議論する場合において、この部分の変更はありえないことをご承知ください。アリウス派云々の部分はわたしが提案した記述ですので、どうしても納得いかないという意向は了解いたしましたのでこの部分のみの変更を行なうことは可能です。ちなみに「両教会から異端視されている。」というよりも、基本信条の内容から逸脱しているのは事実であり、多少ともやわらかい、かつ両教会の立場について正確な表現を使うとするなら「両教会から異端とされている。」となります。どうしてそのようになるのかは以前わたしが繰り返し述べてきた説明をお読みください。いくら事実であっても、どうしてもきつい表現になるのは否めないために、それを和らげようと「彼ら自身は、「自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている」といった見解を示す。」を加えているわけです。
>ログインしないどころかノートでの発言に署名もしないようなかたを相手にするのは、やめませんか。
- これは、まったくそうですね。以前は署名がある分弁解の余地がありません。半保護逃れをするようならしかるべき処置が必要かもしれません。---Siyajkak 2008年1月18日 (金) 10:28 (UTC)--補筆Siyajkak 2008年1月18日 (金) 16:33 (UTC)
- えーと確認ですが、「シンプルに」とおっしゃった文章は、案文としてだしたものではないという理解でよいですか。 --Hatukanezumi 2008年1月23日 (水) 08:10 (UTC)
これは、Hatukanezumiさんがいらっしゃる前のわたしとIP氏との話し合い、わたしの書いた1月11日 (金) 08:46 (UTC) と1月18日 (金) 16:33 (UTC)の発言を読み返していただきたいのですが、IP氏がPOVだと主張しているこれまでの合意部分についてIP氏に話し合いのテーブルについてもらいたいという意味で提案したという意味があります。二案提示したのはそういう意味があります。したがって、最初の「シンプル」案については、IP氏の意向が確認できない限り案としては成り立たないということです。繰り返しになりますが説明不足であった点についてはお詫びいたします。---Siyajkak 2008年1月25日 (金) 16:57 (UTC)
- うーん、そういう意図ですか。わかりました。とりあえず、「アリウス派に近い」の部分を定義文から除去するということで、第2の案に賛成しておきます (なお上でものべたように、「アリウス派に近い」という論の存在について十分な信頼性をもつ出典が提示されるのであれば、本文の解説で触れることはできると考えます)。
- なおわたしは、発言を一貫して同一人が行っているかどうかを確認できないIPアドレスでの意見表明は、合意を目的とした議論の場では考慮する必要はないという意見です。それは、霧の中で相手がだれと見定められずに対話するようなものです。 --Hatukanezumi 2008年1月29日 (火) 23:56 (UTC)
合意に基づいて記述の修正を行いました。---Siyajkak 2008年2月10日 (日) 11:17 (UTC)
その他
- エホバの証人(-しょうにん)とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者、その一人ひとりを指す呼称。は極めてPOVなので削除。さらに、ニカイア・コンスタンティノポリス信条はエホバの証人とは無関係なので削除します。
どこがPOVなのでしょうか?カトリックやプロテスタントの信者による、というのはあなたの主観であって、なんら客観的に中立でない根拠が示されていません。カトリックやプロテスタント以外の人も普通に納得しますし、現にエホバの証人の関係者と思われるRigelさんも賛同しています。あなたが気に入らなければPOVになるなら、あなたの意見こそがPOVですよ。ニカイア・コンスタンティノポリス信条については、エホバの証人が従わない基本信条なので関係大ありです。--Siyajkak 2008年1月17日 (木) 12:45 (UTC)
- ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践するという部分でしょう。こういう記述がNPOVなら、カトリック教会は「バチカンの主張する聖書解釈を実践するもの」、プロテスタントは「マルティン・ルターやヤン・カルバンの主張する聖書解釈を実践するもの」と書き換えなくてはなりません。なにしろ、彼らが主張する三位一体「論」は聖書とは無関係の「論」ですから(聖書正典中には「聖霊が神である」とはどこにも主張されていないので)。211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 03:33 (UTC)
まずは、署名してください。方法がわからないわけじゃないでしょう。別のアカウントでアクセスしているだけでしょうから。
- ログインしたら投稿ブロックすると脅迫する管理人がいる以上、ログインはできかねます。211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 06:10 (UTC)
そうではありません。三位一体では一致していますから。カトリック教会のなかでもいろんな意見を持つ人がいますよ。解放の神学とか様々な意見をがあって論争だっておきていますから。プロテスタントが、ルターやカルバンだけだとは困った話ですね。
- 三位一体では一致している:これは嘘ですね。三位一体論の中にも、イエスが神自身なのか、神と同格なのかで意見が分かれています。こういうPOVな主張はやめていただきたく。211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 03:33 (UTC)
- >聖書とは無関係の「論」ですから(聖書正典中には「聖霊が神である」とはどこにも主張されていないので)。
これはあなた方が恣意的な英語訳である新世界訳で歪曲した解釈をしているだけで、聖書全体をしっかり読めば、聖霊は 神であることがわかるようになっています。統治体によって編集され、自分たちの教理に合わせて都合のいいことばかり書いてあるものばかり読まず、別のものもしっかり読んで自らの間違いを認識してくださいね(ここに反論をのせるのが膨大な労力がかかることと、エホバの証人に対策として利用されるので載せれないのが残念です。)それから、wikipediaは、伝道の場ではないし、侵略の歴史とかで血塗られたキリスト教の名をかりるよりもあなたがたの主義主張や独自性を主張したほうがいいとおもますけどね。---Siyajkak 2008年3月10日 (月) 09:44 (UTC) ---Siyajkak 2008年3月10日 (月) 09:44 (UTC)
- これはあなた方が恣意的な英語訳である新世界訳で歪曲した解釈をしているだけで、聖書全体をしっかり読めば、聖霊は神であることがわかるようになっています。:私は新共同訳から聖霊が神でないと主張しているのですから、別に新世界訳が歪曲しているせいではないと思いますが。どこの聖句を読めば聖霊が神であることが分かるのか記述いただかないとあなたの主張がPOVであるという結果になると思いますが。211.135.129.4
:警告:今後こういうPOVな記述を続けると、法的措置をとります211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 03:03 (UTC)