「東中野駅列車追突事故」の版間の差分
千葉支社の通達を主原因とするには無理があるため当該部分を削除 ノートにて提起済み |
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当時のATS-B型は警報が停止信号の約600m手前から作動し、さらに東中野駅手前約137mに設置されていた場内信号直下警報コイルでも警報を受けたはずだが、確認扱いと呼ぶ操作さえすればそのまま進行が可能で、さらに当時慢性化していた遅延の回避のため、列車の遅れを回復しようとした運転士が停止信号にも関わらず相応の措置をせずに進行した結果、見通しが悪い現場で停止中の先行列車に気付くのが遅れたために事故が起きたと見られる。レール面の衝突前非常制動痕は7mだった(このほか、運転士に健康面で何らかの急変が発生した可能性も報道されたことがある)。<!--東中野駅の新宿寄りは左カーブになっており、見通しが非常に悪いことは以前から問題視されていた。-->過去にも同じ地点で電車が追突した事故が2度([[1964年]]、[[1980年]])もあるが、どちらの場合も停止信号警報の確認扱いをした後に一旦停止しないまま進行する「追い上げ運転」を行ったことが原因である。この地点の事故は3度目であるが、3度の事故とも追突した電車の行先は「中野行」で、終着駅での折り返し時間が非常に短いために運転士は新宿~東中野間で走行中に持ち物をまとめるのが常態化していたといい、それと前の電車が見えない線路配置が重なって事故を誘発した可能性も事故直後の報道で指摘されていた。 |
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2009年4月16日 (木) 01:19時点における版
東中野駅列車追突事故(ひがしなかのえきれっしゃついとつじこ)は、1988年(昭和63年)12月5日に中央本線の東中野駅で発生した列車衝突事故である。
事故概略
JR東日本の中央緩行線東中野駅に停車中の津田沼発中野行下り中央線各駅停車(103系10両編成)に後続電車千葉発中野行下り中央線各駅停車(201系10両編成)が追突し、後続電車の運転士と乗客1名が死亡、116名が重軽傷を負い、両端のクハ201-3、クハ103-278を除く18両が廃車となった。 民営化後、初の旅客に死者を出した事故である。
事故要因
当時のATS-B型は警報が停止信号の約600m手前から作動し、さらに東中野駅手前約137mに設置されていた場内信号直下警報コイルでも警報を受けたはずだが、確認扱いと呼ぶ操作さえすればそのまま進行が可能で、さらに当時慢性化していた遅延の回避のため、列車の遅れを回復しようとした運転士が停止信号にも関わらず相応の措置をせずに進行した結果、見通しが悪い現場で停止中の先行列車に気付くのが遅れたために事故が起きたと見られる。レール面の衝突前非常制動痕は7mだった(このほか、運転士に健康面で何らかの急変が発生した可能性も報道されたことがある)。過去にも同じ地点で電車が追突した事故が2度(1964年、1980年)もあるが、どちらの場合も停止信号警報の確認扱いをした後に一旦停止しないまま進行する「追い上げ運転」を行ったことが原因である。この地点の事故は3度目であるが、3度の事故とも追突した電車の行先は「中野行」で、終着駅での折り返し時間が非常に短いために運転士は新宿~東中野間で走行中に持ち物をまとめるのが常態化していたといい、それと前の電車が見えない線路配置が重なって事故を誘発した可能性も事故直後の報道で指摘されていた。
対策
この事故を契機にATS-B型を使っていた全区間(首都圏と大阪圏)を含む稠密ダイヤ線区では、停止予定位置を基準にそれぞれの列車の減速性能から各地点の限界速度を定める速度パターン照査により確認扱いをなくして確実に強制停止させられるATS-Pへの切替を進め、さらにJR東海JR東日本が担当して全JR向け即時停止ATS-SNを開発した。が、米軍燃料輸送列車事故対応で設置した場内信号直下地上子相当添線軌道回路の機能が警報でなく、当時の国鉄広報内容通りATS-SNの強制停止機能であれば、衝突余裕距離からして充分避けられた惨事だった。
事故車とその後
事故を起こした編成は、両者共に中央緩行線では特徴のある編成であった。103系(ラシ336編成)は、中央線快速とともに投入された最初期の量産冷房車編成1本目のうちの6両と、山手線・京浜東北線のATC準備工事車として最も落成日の早かった先頭車両2両を含んでおり、そして山手線において最後まで残っていた2編成のうちの1本であり、同年6月のさよなら運転後、他線への貸し出しを経て、11月に101系最後の編成の置き換え用として習志野電車区に転入したばかりの編成であったが、僅か約2週間後に事故に巻き込まれた。一方201系(ミツ6編成)は1981年に中央線快速への201系量産車の第一陣として投入された5編成のうち1本であり、数年で中央緩行線へ転用され、その当時は検査入場までの間オレンジ色で中央緩行線に運用されていた編成であった。
事故によって該当車両は車両の基礎自体が損傷したため修理は不可能となり、衝突部から一番離れた2両を残して警視庁による検証が行われた後収容先の中野電車区で解体された。残った201系(クハ201-3)と103系(クハ103-278)は予備車両となった。クハ103-278は事故車補充用として三鷹電車区(現・三鷹車両センター)に転出、その後青梅線や武蔵野線・南武線に配属され、最後は中央緩行線に復帰して廃車されている。クハ201-3は復旧直後にこの事故以降緊急整備されたATS-Pに対応する改造のために編成から外された車両に代わって運用された。1990年代初めに三鷹電車区在籍の201系全編成の改造が終了した後は使用目的も無く放置されていた。
- 1997年の中央線大月駅列車衝突事故の後、事故車であったクハ200-116の代替とする案があり、大井工場へ回送されたが、使用されることはなかった。
その後2001年11月をもって三鷹電車区に所属する201系の編成がなくなったものの、クハ201-3は有効な使い道のないまま2005年12月まで留置され、同月大宮総合車両センターに廃車回送、解体された。これを以ってカナリアイエローの201系は消滅した。
その後車両補充のため1989年に205系が導入され、三鷹電車区に2編成が投入された。1990年に1編成が埼京線に転出したため、1993年に南武線・京浜東北線から転入してくるまで、三鷹電車区所属の205系列車は(事故車の編成番号を引き継ぎ1993年の編成番号変更までミツ6編成を名乗っていた)1編成のみ在籍していた。