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緒方の急死によって、[[4月5日]]に実施された自民党総裁公選では鳩山一郎が初代総裁に選出された。鳩山の健康がすぐれないこともあって、鳩山は一期で引退し、緒方が後継総裁となる党内合意ができていたにも関わらず、緒方にとっては不運なことであった。その後、[[日ソ国交正常化]]を花道に鳩山は後継者を指名しないで引退を表明したため、[[岸信介]]、[[石橋湛山]]、[[石井光次郎]]による総裁公選が行われ、自民党金権政治の最初のパターンがここで生まれた。緒方の急死がなければ、戦後政治史も大きく変わったと言われる所以である。しかし、いわば言論界の象徴として、その人格・識見を高く評価された一方で、政治家としての個性、手腕に乏しかったという厳しい評価もある。吉田内閣時代、昭和27年の[[東南アジア]]歴訪の途上、[[台湾]]を訪問、日台軍事同盟に言及したり、昭和29年、戦前の情報局総裁の経験から政府直属の情報機関設置構想を打ち出すが、ジャーナリズムから「特高的言論統制復活」と批判されるなど状況判断の甘さが終始つきまとっていた。
緒方の急死によって、[[4月5日]]に実施された自民党総裁公選では鳩山一郎が初代総裁に選出された。鳩山の健康がすぐれないこともあって、鳩山は一期で引退し、緒方が後継総裁となる党内合意ができていたにも関わらず、緒方にとっては不運なことであった。その後、[[日ソ国交正常化]]を花道に鳩山は後継者を指名しないで引退を表明したため、[[岸信介]]、[[石橋湛山]]、[[石井光次郎]]による総裁公選が行われ、自民党金権政治の最初のパターンがここで生まれた。緒方の急死がなければ、戦後政治史も大きく変わったと言われる所以である。しかし、いわば言論界の象徴として、その人格・識見を高く評価された一方で、政治家としての個性、手腕に乏しかったという厳しい評価もある。吉田内閣時代、昭和27年の[[東南アジア]]歴訪の途上、[[台湾]]を訪問、日台軍事同盟に言及したり、昭和29年、戦前の情報局総裁の経験から政府直属の情報機関設置構想を打ち出すが、ジャーナリズムから「特高的言論統制復活」と批判されるなど状況判断の甘さが終始つきまとっていた。

==悲劇の総裁==
人格・見識ともに党内外から高く評価されていた緒方は、吉田の側近である[[池田勇人]]の働きによって、吉田より自由党総裁の座を禅譲された。その後も吉田は首相の座に就き続けたが、その吉田の権力への執着ぶりを「総理、延命のための解散への署名は副総理の私にはどうあってもできません。それならば私は政界引退か、自由党分裂も覚悟しております。そうなれば総理は、格好の悪い西郷南州(隆盛)になってしまいます」といさめたのは有名な話。この発言に激怒した吉田は、緒方を罷免しようとするが、池田に「一度後継に決めた人間の首を切るなどということは、決して許されたものではない」との発言に内閣総辞職を決意。結果的に、この吉田政権崩壊を機に、三木武吉や[[河野一郎]]ら、党人政治家によって擁立された鳩山一郎内閣誕生の近因となった。

[[Category:日本の政治家|おかたたけとら]]
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2005年9月13日 (火) 12:47時点における版

緒方竹虎おがた たけとら 明治21年(1888年1月30日 - 昭和31年(1956年1月28日)は、ジャーナリスト昭和時代の政治家自由党総裁。国務大臣、内閣情報局総裁、内閣官房長官、副総理などを歴任。

明治21年(1888年)1月30日、緒方道平の三男として山形県に生まれる。4歳の時、父について福岡県に移る。父は福岡県書記官を退官後、福岡農工銀行頭取をつとめた。6歳で剣道を本格的に習い始め、中学時代に山岡鉄舟の無刀流免許皆伝となる。福岡県立師範附属小学校から、修猷館中学校に進む。この間、小学校から中学校を通じて、無遅刻無欠席を貫徹し無類の勤勉さで知られた。修猷館で中野正剛と出会う。修猷館から東京高等商業(現在の一橋大学)に入学するが、中野の影響で二年後、早稲田大学に転学し、玄洋社を主宰する頭山満らと親しく交わる。明治44年(1911年)に早稲田大学を卒業後、やはり、中野に誘われ大阪朝日新聞社に入社して東京勤務となる。朝日新聞社では出世街道を走り、東京朝日新聞社政治部長から、大正14年(1925年)に38歳で同編集局長、昭和9年(1934年)同主筆を経て昭和11年(1936年)朝日新聞社主筆となるが、社長村山長挙らと対立して昭和18年(1943年)に主筆を解任され副社長となる。取り立てて優秀な新聞記者とは言えなかったが、学生時代から頭山満を介して三浦悟楼犬養毅古島一雄らの知遇を得ており、「大正」の年号をスクープした。朝日社内ではなくてはならない存在という事で「空気のような男」という評判が立つようになっていった。金銭上公私の区別に厳しく、剛直な性格でも知られ2・26事件では、当時東京有楽町にあった東京朝日新聞社は中野輝明中尉率いる反乱軍に襲撃されるが、主筆であった緒方は、これに悠々と応対し、反乱軍を引き上げさせた。また、太平洋戦争中に学生時代からの親友だった中野正剛が、東条英機首相に弾圧され自殺を遂げると、その葬儀では、東条からの供花を拒否して見せた。

昭和19年(1944年)7月に朝日新聞副社長を最後に退職すると、小磯国昭内閣に国務大臣・情報局総裁として入閣。鈴木貫太郎内閣の顧問、東久邇宮稔彦王内閣で国務大臣・内閣書記官長をつとめるが、昭和21年(1946年)9月、公職追放となった。昭和26年(1951年)10月追放解除。翌昭和27年(1952年)10月の衆議院議員総選挙で福岡1区(当時)から出馬し当選する。第四次吉田茂内閣で1年生議員ながら、国務大臣・内閣官房長官に任命され、昭和28年(1953年)5月成立の第五次吉田内閣で副総理に就任した。この政界での急速な階梯昇段には、吉田の政治指南役だった古島一雄の紹介や、吉田が重光葵の後任として外務大臣になった際、緒方がいろいろ骨折りをした事などが上げられる。吉田政権末期、バカヤロー解散造船疑獄による指揮権発動により、急速に政権は求心力を失っていった。そうした中、鳩山一郎を中心とする反吉田勢力は、左右社会党と連携し吉田内閣不信任案を提出する。自由党は、衆議院解散総選挙による吉田内閣延命か、総辞職吉田退陣かで真っ二つに別れる。吉田は、自由党総裁職を緒方に譲るが、尚も政権維持に執念を燃やした。しかし、緒方は内閣総辞職を主張し、昭和29年(1954年12月7日、吉田が解散を強行した場合、閣僚として解散詔書に署名しないと、自らの政治生命を賭けて吉田に直言した。吉田は緒方を罷免してでも解散するつもりだったが、池田勇人幹事長の涙ながらの諫言にようやく解散を断念、総辞職した。12月8日自由党議員総会で吉田総裁の辞任を了承し、正式に後任総裁に緒方が選出された。

昭和30年(1955年)に入り、自由党と日本民主党による保守合同論の気運が高まりを見せる中、緒方はこれを積極的に推進する。新党総裁をめぐり、難航したが、総裁代行委員による集団指導体制に落ち着く。昭和30年(1955年11月15日、自由民主党が結党され、緒方は、鳩山、三木武吉大野伴睦と共に総裁代行委員に就任した。こうして鳩山後を確実視されていたのだが、昭和31年(1956年)に3月に総裁公選により、新総裁を選出することが決定し、緒方はそのための全国遊説中に風邪を引き、3日後の1月28日に急逝した。

緒方の急死によって、4月5日に実施された自民党総裁公選では鳩山一郎が初代総裁に選出された。鳩山の健康がすぐれないこともあって、鳩山は一期で引退し、緒方が後継総裁となる党内合意ができていたにも関わらず、緒方にとっては不運なことであった。その後、日ソ国交正常化を花道に鳩山は後継者を指名しないで引退を表明したため、岸信介石橋湛山石井光次郎による総裁公選が行われ、自民党金権政治の最初のパターンがここで生まれた。緒方の急死がなければ、戦後政治史も大きく変わったと言われる所以である。しかし、いわば言論界の象徴として、その人格・識見を高く評価された一方で、政治家としての個性、手腕に乏しかったという厳しい評価もある。吉田内閣時代、昭和27年の東南アジア歴訪の途上、台湾を訪問、日台軍事同盟に言及したり、昭和29年、戦前の情報局総裁の経験から政府直属の情報機関設置構想を打ち出すが、ジャーナリズムから「特高的言論統制復活」と批判されるなど状況判断の甘さが終始つきまとっていた。

悲劇の総裁

人格・見識ともに党内外から高く評価されていた緒方は、吉田の側近である池田勇人の働きによって、吉田より自由党総裁の座を禅譲された。その後も吉田は首相の座に就き続けたが、その吉田の権力への執着ぶりを「総理、延命のための解散への署名は副総理の私にはどうあってもできません。それならば私は政界引退か、自由党分裂も覚悟しております。そうなれば総理は、格好の悪い西郷南州(隆盛)になってしまいます」といさめたのは有名な話。この発言に激怒した吉田は、緒方を罷免しようとするが、池田に「一度後継に決めた人間の首を切るなどということは、決して許されたものではない」との発言に内閣総辞職を決意。結果的に、この吉田政権崩壊を機に、三木武吉や河野一郎ら、党人政治家によって擁立された鳩山一郎内閣誕生の近因となった。