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'''清浦 奎吾'''('''きようら けいご'''、[[嘉永]]3年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]([[1850年]][[3月27日]]) - [[昭和]]17年([[1942年]])[[11月5日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。第23代[[内閣総理大臣]]。[[伯爵]]。
'''清浦 奎吾'''('''きようら けいご'''、[[嘉永]]3年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]([[1850年]][[3月27日]]) - [[昭和]]17年([[1942年]])[[11月5日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。第23代[[内閣総理大臣]]。[[伯爵]]。[[肥後]]([[熊本県]])出身。幼名は普寂(ふじゃく)。司法[[官僚]]を経験後、[[貴族院]]議員となり[[司法大臣]]、[[農商務大臣]]、[[枢密院]]議長を歴任。1924(大正13)年の組閣では、ほぼ全[[閣僚]]を貴族院議員とした清浦を[[護憲派]]が激しく非難し、わずか5ヶ月で総辞職した。清浦首相時代は、[[大正デモクラシー]]が最も高揚した時代でもあった。1942(昭和17)年、92歳で死去


==山県有朋側近中の側近==
[[熊本県]][[鹿本郡]][[鹿本町]](現[[山鹿市]]鹿本町)明照寺の僧侶、大久保了恩(おおくぼ りょうし)の五男として生まれた。幼名は、普寂(ふじゃく)。[[広瀬淡窓]]が創設した私塾[[咸宜園]]で、[[慶応]]元年([[1865年]])から6年間学ぶ。この間、熊本県令野村盛秀の知遇を得るとともに、同時期清浦奎吾と改名。
清浦奎吾は1850(嘉永3)年2月14日、肥後国鹿本郡来民村の明照寺住職・大久保了思の5男に生まれ、後に清浦の姓を名乗った。清浦は1865(慶応元)年から、[[豊後]][[日田]]で、[[漢学]]者・[[広瀬淡窓]]が主催する[[咸宜園]]に学び、日田で知り合った[[野村盛秀]]が[[埼玉県]][[県令]]に任ぜられると、野村を頼って上京し、1873(明治6)年、埼玉県14等出仕となった。同9年には[[司法省]]に転じ、[[検事]]、[[太政官]]や[[内務省]]の[[小書記官]]、[[参事院]][[議官補]]などを歴任するが、この間に、[[治罪法]](今日の[[刑事訴訟法]])の制定に関与した。このため、[[警視庁]]などから治罪法の講義を依頼され、それが「治罪法講義随聴随筆」という本にもなり、広く警察官に読まれたという。


こうした活躍が、当時[[内務卿]]であった[[山県有朋]]の目にとまり、1884(明治17)年、全国の警察を統括する内務省警保局長に、34歳の若さで異例の抜擢を受けた。清浦の警保局長在任は7年間の長期に及んだが、その在任期間中の[[内務大臣]]は、5年余りが山県であった。そして、この間に得た山県の信頼を背景に、清浦は出世の階段を順調に上ることになる。1892(明治25)年、第2次[[伊藤博文]][[内閣]]のもとで山県が司法相に就任すると、司法次官に任ぜられた。さらに、第2次[[松方正義]]内閣、第2次山県内閣、第1次[[桂太郎]]内閣のもとでは司法大臣などを歴任した。
[[明治]]6年([[1873年]])、野村盛秀が県令として赴任した[[埼玉県]]の下級[[公吏]]となる。明治9年([[1876年]])、27才の時に[[司法省]]に入省。その後、[[内務省]]大書記官、警保局長、司法次官、司法大臣、農商務大臣、内務大臣を歴任する。[[山県有朋]]系官僚の重鎮となる。


==国民の期待に応えぬ「特権内閣」==
[[大正]]3年([[1914年]])、[[枢密院]]議長の時、[[山本権兵衛]]の後任として組閣の大命を受けるも、海軍の大鑑建造計画を拒んだために組閣を辞退する。世情これを「鰻香(まんこう)内閣」と称した。
1914(大正3)年、[[シーメンス事件]]の影響で倒れた第1次[[山本権兵衛]]内閣の後を受けて、清浦は組閣の大命を受けたが、[[海軍]]拡張について調整がつかず、[[海軍大臣]]を得られずに大命を拝辞した。鰻丼の香のみ嗅いで食べさせてもらえなかったとして、世間ではこれを「鰻香内閣」と呼んで揶揄した。また、これより前の1906(明治39)年から[[枢密顧問官]]となっていた清浦は、1922(大正11)年の山県死去に伴い、後任の枢密院議長に就任し、松方正義、[[西園寺公望]]の両[[元老]]に準ずる存在となった。そして、その翌年に、第2次山本内閣が[[虎ノ門事件]]で総辞職すると、[[総選挙]]施行のため中立的な内閣の出現を望む西園寺の推薦によって、再び組閣の大命を受けた。


しかし、かつて貴族院議員として清浦がリードした貴族院会派・研究会によって組閣の実権が握られ、また、軍部大臣以外がすべて貴族院議員によって組織されたことから、[[マスコミ]]や政党から「特権内閣」と攻撃された。清浦内閣の出現によって、[[加藤友三郎]]、山本に次いで三度政権が政党の前を素通りしたことになる。そのため、政策的には政党との間に大きな隔たりはなかったものの、[[立憲政友会]]、[[政友会]]、[[革新倶楽部]]の[[護憲三派]]によって倒閣運動(第2次[[護憲運動]])が展開された。これに対し清浦は、解散・総選挙で応じたが、政友会から分裂し、同内閣の与党となった[[政友本党]]が第2党に転落したため総辞職した。
大正13年([[1924年]])再び組閣の大命を受けて、内閣総理大臣に任ぜられる。[[貴族院]]を母体とする最後の[[超然内閣]]として発足したため議会運営に難航し、6ヶ月の短命に終わった。


内閣はわずか5ヶ月の短命であったが、清浦自身は92歳という長寿を全うし、1942(昭和17)年11月5日に死去した。
その後は新聞協会会長などを歴任し、[[昭和]]16年([[1941年]])の[[重臣会議]]で[[東条英機]]の後継首相擁立を承認した事が最後の政治的活動となった。

著書に『明治法制史』がある。


==関連項目==
==関連項目==

2005年9月21日 (水) 07:10時点における版

清浦 奎吾きようら けいご嘉永3年2月14日1850年3月27日) - 昭和17年(1942年11月5日)は、日本政治家。第23代内閣総理大臣伯爵肥後熊本県)出身。幼名は普寂(ふじゃく)。司法官僚を経験後、貴族院議員となり司法大臣農商務大臣枢密院議長を歴任。1924(大正13)年の組閣では、ほぼ全閣僚を貴族院議員とした清浦を護憲派が激しく非難し、わずか5ヶ月で総辞職した。清浦首相時代は、大正デモクラシーが最も高揚した時代でもあった。1942(昭和17)年、92歳で死去。

山県有朋側近中の側近

清浦奎吾は1850(嘉永3)年2月14日、肥後国鹿本郡来民村の明照寺住職・大久保了思の5男に生まれ、後に清浦の姓を名乗った。清浦は1865(慶応元)年から、豊後日田で、漢学者・広瀬淡窓が主催する咸宜園に学び、日田で知り合った野村盛秀埼玉県県令に任ぜられると、野村を頼って上京し、1873(明治6)年、埼玉県14等出仕となった。同9年には司法省に転じ、検事太政官内務省小書記官参事院議官補などを歴任するが、この間に、治罪法(今日の刑事訴訟法)の制定に関与した。このため、警視庁などから治罪法の講義を依頼され、それが「治罪法講義随聴随筆」という本にもなり、広く警察官に読まれたという。

こうした活躍が、当時内務卿であった山県有朋の目にとまり、1884(明治17)年、全国の警察を統括する内務省警保局長に、34歳の若さで異例の抜擢を受けた。清浦の警保局長在任は7年間の長期に及んだが、その在任期間中の内務大臣は、5年余りが山県であった。そして、この間に得た山県の信頼を背景に、清浦は出世の階段を順調に上ることになる。1892(明治25)年、第2次伊藤博文内閣のもとで山県が司法相に就任すると、司法次官に任ぜられた。さらに、第2次松方正義内閣、第2次山県内閣、第1次桂太郎内閣のもとでは司法大臣などを歴任した。

国民の期待に応えぬ「特権内閣」

1914(大正3)年、シーメンス事件の影響で倒れた第1次山本権兵衛内閣の後を受けて、清浦は組閣の大命を受けたが、海軍拡張について調整がつかず、海軍大臣を得られずに大命を拝辞した。鰻丼の香のみ嗅いで食べさせてもらえなかったとして、世間ではこれを「鰻香内閣」と呼んで揶揄した。また、これより前の1906(明治39)年から枢密顧問官となっていた清浦は、1922(大正11)年の山県死去に伴い、後任の枢密院議長に就任し、松方正義、西園寺公望の両元老に準ずる存在となった。そして、その翌年に、第2次山本内閣が虎ノ門事件で総辞職すると、総選挙施行のため中立的な内閣の出現を望む西園寺の推薦によって、再び組閣の大命を受けた。

しかし、かつて貴族院議員として清浦がリードした貴族院会派・研究会によって組閣の実権が握られ、また、軍部大臣以外がすべて貴族院議員によって組織されたことから、マスコミや政党から「特権内閣」と攻撃された。清浦内閣の出現によって、加藤友三郎、山本に次いで三度政権が政党の前を素通りしたことになる。そのため、政策的には政党との間に大きな隔たりはなかったものの、立憲政友会政友会革新倶楽部護憲三派によって倒閣運動(第2次護憲運動)が展開された。これに対し清浦は、解散・総選挙で応じたが、政友会から分裂し、同内閣の与党となった政友本党が第2党に転落したため総辞職した。

内閣はわずか5ヶ月の短命であったが、清浦自身は92歳という長寿を全うし、1942(昭和17)年11月5日に死去した。

関連項目


先代
山本権兵衛
内閣総理大臣
第23代: 1924
次代
加藤高明