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「ノート:発散級数」の版間の差分

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Anti-min (会話 | 投稿記録)
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::::::私が 2010年8月1日 (日) 00:53 (UTC)に書いた[[利用者:Anti-min|Anti-min]]さんへのお願いについて.ここ数週間の[[利用者:Anti-min|Anti-min]]さんの精力的な活動には正直驚いており,敬服の念を抱いていることを最初に申し上げておきます.私は,記事の翻訳を,リンク先の確認,リンクの是非,記号の統一といった「雑草とり(=創造性を発揮しなくてもできる作業)」まで一通り行って片がつくと考えています.その私にとって,[[利用者:Anti-min|Anti-min]]さんの翻訳記事には(氏のバイタリティからすると余技だと思われる)上記の作業が十分になされておらず,英文を和訳することを優先されているようなので,対等の編集者として御一考をお願いした,ということです.
::::::私が 2010年8月1日 (日) 00:53 (UTC)に書いた[[利用者:Anti-min|Anti-min]]さんへのお願いについて.ここ数週間の[[利用者:Anti-min|Anti-min]]さんの精力的な活動には正直驚いており,敬服の念を抱いていることを最初に申し上げておきます.私は,記事の翻訳を,リンク先の確認,リンクの是非,記号の統一といった「雑草とり(=創造性を発揮しなくてもできる作業)」まで一通り行って片がつくと考えています.その私にとって,[[利用者:Anti-min|Anti-min]]さんの翻訳記事には(氏のバイタリティからすると余技だと思われる)上記の作業が十分になされておらず,英文を和訳することを優先されているようなので,対等の編集者として御一考をお願いした,ということです.
::::::ウィキペディアのルールやガイドラインが背景にあってのお願いではありませんし,編集者個人のポリシーやスタイルはそれぞれです.ご自身のスタイルに確信があるのであれば,「誰かが何か言っている」と鼻で笑って無視されればよいでしょう.この件についてこれ以上議論する必要もないかと思います.ただ私の書き方のせいで余計な心配をされたのならば,これについてお詫びします.[[利用者:NGiraffe|NGiraffe]] 2010年8月4日 (水) 15:44 (UTC)
::::::ウィキペディアのルールやガイドラインが背景にあってのお願いではありませんし,編集者個人のポリシーやスタイルはそれぞれです.ご自身のスタイルに確信があるのであれば,「誰かが何か言っている」と鼻で笑って無視されればよいでしょう.この件についてこれ以上議論する必要もないかと思います.ただ私の書き方のせいで余計な心配をされたのならば,これについてお詫びします.[[利用者:NGiraffe|NGiraffe]] 2010年8月4日 (水) 15:44 (UTC)
::::::: 実際には「「AならばB](「正則または線型」ならば「強力」)」という文章ではない(「強力」はまた別な因子ではないか)とも思いますが、それはともかく「「AでないがBである」場合があるのは不思議ではない」ということと、実際に「B であるものがある」というのとでは論理的に大きなギャップがあると思いますし、また「数学だから当然」というのは原文の "should be" や訳文の「然り」と意識としては同じものではないか、とも考えます(わたしはミスリーディングを防ぐためとは思っていますが、論理構造の強調だとは考えていません、「当然ありうることとして気にするだろうだし、実は本当にあるのだ」というようなことを言っているに過ぎないと考えます)。

::::::: 詳細なご説明ありがとうございます。「確信があるのであれば(中略)無視されればよい」と仰っていただいていますが、すみません、確信どころか元来の不安症でありまして、鼻で笑うなどとんでもないことで現在まだ非常に混乱しております。ご説明いただいたことを取りまとめると、私の投稿は NGiraffe さんの仰る「一通り」が「<nowiki>{{スタブ}}</nowiki><nowiki>{{翻訳中途}}</nowiki>などのテンプレートを追加」を要する程に「ある程度記事としての体裁や質を整え」るに満たないというご指摘であると認識いたしました。(「余技」という言葉の意味を理解していないのでそのせいで外しているのかもしれませんが)そういった後処理も自分ではやってきたつもりなので、ご示唆に従ってどうするべきか再考してみてはいますが、いろいろと考えあぐんでおります。もうしばらくは記事の編集を自重することになりそうです。--[[利用者:Anti-min|Anti-min]] 2010年8月6日 (金) 03:17 (UTC)
:議論に慣れていないこともあり、どのようなインデントで、どの場所に書くべきかどうか僕には良く分りません。もし大きな問題があるようでしたら、お手数ですが移動していただければと思います。
:議論に慣れていないこともあり、どのようなインデントで、どの場所に書くべきかどうか僕には良く分りません。もし大きな問題があるようでしたら、お手数ですが移動していただければと思います。
:今のところ、記事に関する論点としては、「収束」か「収斂」か、「英語版総和法の性質」についての最後の(英語版での"It should be noted ..."に対応する)文での表現、の二つが問題になっているのだと思います。これらは独立した問題で性格もやや異なりますから、必要ならば節分けして議論した方がいいかもしれませんね。
:今のところ、記事に関する論点としては、「収束」か「収斂」か、「英語版総和法の性質」についての最後の(英語版での"It should be noted ..."に対応する)文での表現、の二つが問題になっているのだと思います。これらは独立した問題で性格もやや異なりますから、必要ならば節分けして議論した方がいいかもしれませんね。

2010年8月6日 (金) 03:17時点における版

訳語

訳語についてですが、renormalizationは「再正規化」ではなく「繰り込み」と訳すのが普通ではないかと思います。--働けよおっ 2010年7月29日 (木) 14:48 (UTC)[返信]

ご指摘ありがとうございます、早速修正させていただきました。私は物理学方面には疎い(かといって数学に明るいかといえば疑問符がつきます)ので、最初に翻訳を行ったときは、正確を期すためにもう少し調べてから(あるいは詳しい方からの助力が得られるかもしれない)と思って二箇所ほど原文のまま置いておいたのですが、どうやら「ここは日本語版だから」とか言う程度の安直な理由でほんの少しの英文すらも我慢できない方がいるようで、なぜかコメントアウトされてしまい已む無く仮の翻訳を行ったものでした。誤りをお詫びしますと共に、ご協力に感謝申し上げます。--Anti-min 2010年7月30日 (金) 15:28 (UTC)[返信]
早速の編集、また、丁寧なご返信ありがとうございます。恐縮です。--働けよおっ 2010年8月2日 (月) 09:48 (UTC)[返信]

差し戻しについて

「2010年7月29日 (木) 11:17」のリバート(差分)についてですが、要約欄に記載がなく編集意図が不明のため、いったん元の状態に戻しました。差し戻しを行う場合は、いたずらへの対応などよほど自明な場合を除き、意図・理由を要約欄やノートで説明するようにしてください。

念のためにその直前にぼくが行った「2010年7月29日 (木) 11:07」の編集(差分)について補足しておくと、「…ということには注意が払われて然るべきであろう」というような執筆者の意思を感じさせる表現はWikipediaという百科事典には不適当なため除去しており、また(少なくとも2010年現在において)数学用語として「収斂」よりも「収束」のほうが一般的に用いられているため、前者を後者に置換しています。これらの編集に対してなにか異議があるのであれば、具体的にその内容をノートで説明してくださるようお願いします。--貿易風 2010年7月30日 (金) 12:47 (UTC)[返信]

「不適当」と言うのならば、むしろあなたの行動や存在そのもののほうが不適当であるように思われます。少なくともあなたの 2010年7月30日 (金) 12:47 (UTC) の最初の段落の主張は、あなた自身にも当てはまることではありませんか。相手に自重を求めるならばまずあなた自身がそれを実践してください。
「注意して然るべき」というのは英語版の原文に近い表現にしてあるつもりです。実際、その節自体の主張が「普通ならこうでなければならない」という趣旨で提示され、その注意点として「しかしそうではないものにも極めて有用なものがあるので、そうなっていないからと言って即ダメなわけではない」ということが当該の記述であげられています。つまり、あれは執筆者の意図を強調するものではなく、節全体としてのミスリーディングを避けるためのものと考えます。ゆえに「表現が問題である」という主張をするならば、(必要ならばもっと広いスコープで)文章を全体として組みなおすことが必要でしょう(たとえばモノイドの項での NGiraffe さんの最近の編集はすばらしいと考えています。きっと何かの参考になるでしょう)。少なくとも機械的な除去では節全体としてのニュアンスを損なうだけで、何も適切にならないということだけは確実に言えます。そのような安直な考えで「百科事典とは云々」などとやり始めるまえに、一度考え直してみてください。
なお「収斂」という用語は普通に用いられており、少なくとも数学記事関連の取り決めでは、そのような場合の用字選択は執筆者に委ねられることになっています(そもそも発散級数という主題自体、数学やそれに近い専攻の大学生でもまったく係わり合いにならずに社会へ出ることがあっても不思議ではないくらいマニアックなものですから、一般に用いられているかどうかということがそれほど強く用字制限を行う理由とはなりえないと考えます)。貿易風さんのように、本文になんらの貢献も行わず、議論により合意が得られるまえに力ずくで機械的な用字変更を行うなどということは卑怯な行為に他なりません。--Anti-min 2010年7月30日 (金) 15:28 (UTC)[返信]
(追記)リンク元を見るまで気がついていなかったのですが、どうやらこの項目がメインページで新着紹介されていたようですね。そうすると、このページは選考に関わられた方などすくなくとも複数の方の目に留まっていることになりますが、それらの方々は「収斂」と書かれていることで質の悪くなった記事をわざわざ選出したというのでしょうか。あるいは「収斂」と書いたことで文意が取れなくなり、内容の理解が損なわれたりしたでしょうか。総じて、貿易風さんの編集こそ編集者の何らかの「意思を感じさせる」ものではないのですか、というのが私の言いたいことに近いかもしれません。--Anti-min 2010年7月30日 (金) 15:44 (UTC)[返信]
では、あらためて「ということには注意が払われて然るべきであろう」という部分を除去することと、本記事の「収斂」の部分を「収束」に置換することを提案します。
まず「~であろう」の部分について。そもそも英語版の原文に近い表現を日本語版でも採用する必要性は全くありません。あくまでこの日本語版の記事として、問題の表現が存在した状態としない状態のどちらが望ましいかを検討するべきです。「広いスコープで文章全体を組みなおす」のもいいですが、少なくともぼくはそのような編集をする気はありませんし、そのような編集をしないからといって百科事典にふさわしくない表現を取り除く編集をしてはいけないわけではありません(Wikipediaは多様な参加形態を許すプロジェクトです)。ぼくは、該当部分の除去によって「節全体としてのニュアンスを損なうだけで、何も適切にならない」とは思いません。百科事典としては、「強力な数値的総和法の中に正則でも線型でもないようなものがある」という事実を淡々と説明すればいいのであり、すでに指摘したように読者に対して執筆者の意思を感じさせるような表現は引用文中に含まれているのでもない限り使うべきではないでしょう。
次に「収斂」と「収束」について。まず、Wikipediaの記事はだれのものでもないので(WP:OWN参照)、初版を投稿した人がある表現を使ったからといってそれを使い続けなければならないわけではありません。用字選択は執筆者に委ねられるというのはとりあえずはどんな表現を使って投稿してもいいよということであり、その後の変更が禁止されることを意味しません。次に、もしかしたら誤解されているかもしれませんが、ぼくは「『収斂』という用語は使われていない」とか「『収斂』という用語を使ってはならない」と主張しているわけではありません。「収斂」でも間違いではありませんが、(数学用語としての)「収束」と「収斂」の両方を比べたとき、少なくとも2010年現在においては前者のほうが後者より一般的に使われているので、そちらを使ったほうが好ましいだろうということです。「まったく係わり合いにならずに社会へ出ることがあっても不思議ではないくらいマニアックなもの」とのご指摘についてですが、ぼくが「一般に用いられている」と書いているのは一般社会のことではなくほかならぬ数学の世界においてのことです(記事の主題が属する分野において、どのような表現が一般的に使われているかというのは重要な要素です)。通常の微積や解析学の教科書でも大多数が「収斂」でなく「収束」を用いていますし、高等学校の数学の教科書でも「収束」で教えています。『数学小辞典 第2版』(ISBN 978-4320019317)には収束は載っていますが収斂では載っていませんでした。また、Yahoo百科事典(→『日本大百科全書』より)で「収束」を調べると[1]、「以前は収斂(しゅうれん)ともいった。 」というような解説がなされており、現代では「収束」のほうが主流と考えて間違いないと思いますが、いかがでしょうか。--貿易風 2010年7月31日 (土) 11:01 (UTC)[返信]
「あくまでこの日本語版の記事として、問題の表現が存在した状態としない状態のどちらが望ましいかを検討するべき」に極めて同意いたします。私も端からその趣旨で以って先の説明を差し上げています。
「すでに指摘したように読者に対して執筆者の意思を感じさせるような表現は」については、既に指摘したように、執筆者の意思を感じさせるような表現というのがあなたの完全な誤解であって、当該記述はミスリーディングを防ぐためのもので、冒頭誘導のようなまったく形式上のものです。つまり、「○は~を見てください」と書いてあったらそれはただの形式上の案内文であって、文章をぜひ読んでくれという発信側の希望を述べたものではありません、本件も同じことです。
「英語版の原文に近い表現を日本語版でも採用する必要性は全くありません」とのことですが、私は原文に忠実でなければならないとの主張を行っていません。現に、私はいくつかの記事の翻訳では、話の流れの都合など(というか現実にはわたしの en-0 以下レベルの英語力が主な理由)で文章の組み換えや意訳の類を行っています。そうではなくて、文意の問題で必要とおもわれるので、原文のままに近い文章にしたのだと申し上げています。
「ぼくは、該当部分の除去によって「節全体としてのニュアンスを損なうだけで、何も適切にならない」とは思いません」とのことですが、今説明を差し上げている通りそれはあなたの勘違いです、ご再考願います。ミスリーディングを誘うことを目論むかの如きあなたの機械的除去は、「望ましい」とは正反対の結果を導いていると再度申し上げておきます。できればおとなしくお認めください。
「「広いスコープで文章全体を組みなおす」のもいいですが」と仰っていますが、曲解されているのではありませんか。わたしは「必要ならば」スコープを広げよといっているだけで、絶対に全文組みなおせとは申しておりません。しかしどうしても問題だと主張したければ、機械的除去ではなくミスリーディングを誘うような表現とならないための文章をきちんと考えるべきだということを私は繰り返し主張しています。どうしても問題だと主張するなら、そう主張する側がその責任をお果たしください。責任を果たすつもりがないことをおおっぴらに口にしつつ同じ口でそれでも機械的に除去するというのは、どうかとおもいます。
そのうえでなお「少なくともぼくはそのような編集をする気はありません」というのならば、いい案が浮かぶなら私がそのうちやりますので不適切な編集を強硬に主張するのではなくできればおとなしくすっこんでてください。少なくともあなたの相手をしている時間は、内容と表現の検討には費やされません。ここは重要で曲解されたくはないので先に釘をさしておきますが、わたしは記事を所有した気になって触るなと命じているわけではありません、記事を適切に触る気が無いのならば他の人間を信じて(ほかのというのは必ずしも私をもということではないですが、私のことも可能ならばぜひ信用していただきたいものです)、手を出すのを控えてくれないかとお願いをしているのです。私は翻訳は(少なくとも私が手を出せる範囲の翻訳は)雑草取りの一環でしかないと考えており(もしろ私が雑草取り以上の何か創造的な行為を行える人間ではないことは明らかですので)、翻訳だけしてそのまま放置するつもりは毛頭ありません。ただあなたの編集が適切なものでないからやめるように要請しているだけです。もちろん、時間を置いて読み直すことではじめて気づくことも多々ありますし、修正するにしても時間が掛かるかもしれませんが、そのままでも何も問題が無いのだから、それで十分でしょう。あせって行動するのでなくほかの項目を翻訳を含めて雑草取りを行いつつ拝読しながらと考えています。
「その後の変更が禁止されることを意味しません」について、それをそのままあなたにもお返しいたします。そのうえで、白駒さんが音頭をとってまとめられた合意は、編集合戦の回避をこそ第一主題とするものであり、用字変更のみの機械的置換を厳に慎むことを求めた条文が設定されています。あなたがそれに真っ向から反対の行動をお取りになっている、またなさろうとしているということは合意を反故にしようという行為でありよろしくないことです。
「「『収斂』という用語は使われていない」とか「『収斂』という用語を使ってはならない」と主張しているわけではありません」について、あなたがそのような主張をされていると主張したつもりはありません。ですが使用されているれっきとした用語であることを追認いただいたことにはなりますので、その点は感謝申し上げます。ただ、使用禁止を主張していないと仰りながら、実際にあなたがやっていることは事実上の使用禁止・表現排除であるわけですから、これは矛盾しています。意味が通る、誤りでは決してないものをあなたがどうしてそれほど排除したがるのか私には理解できません。この点については、永久に合意に至ることは不可能なのであろうなと諦念しております。
「一般社会のことではなくほかならぬ数学の世界においてのことです」と仰っていますが、別に一般社会の話を持ち出してはいません、「数学やそれに近い専攻の大学生でも」と申し上げております。数の問題でもありません。マニアックな主題を扱ったマニアックな項目で、内容は無視しているにもかかわらず、そこまで強いて「用字・表現のみ」一般性を求めることに意味があるのかと言っています。それから、なんのための「一般的な表現」なのか、相手に通じさせるためではないのかと申し上げておきます。そのうえで、「「収斂」と書いたことで文意が取れなくなり、内容の理解が損なわれたり」はしていないものと考えています。その理由として、新着選考および新着紹介で目にされたほかの方が(いったいどれくらいいらっしゃるのかは測りかねますが)「収斂」という用字を問題視されておられるらしいというようなことは、現在のところ目に見えたところではないように思われるから、ということを挙げておきます。内容が通じたからといって砕けた表現では場にそぐわないというようなことならば納得しますが、本件はそうではありません。きちんと通じるきちんとした表現であるのにも関わらず、それでもなおなぜその表現ではダメなのか、ぜひご教示ください。
総じて、あなた一人が、内容ではなく「表現のみ」にこだわり続けているということであると考えております。つまり、あなたが拘るのをやめれば終わる話かと存じます。いい加減に拘るのをやめてはいかがですか。--Anti-min 2010年7月31日 (土) 14:13 (UTC)[返信]

あなたが結び目関連の記事を編集しておられたころは、良い執筆者だと思っていたのですが、今度の件であなたの最近の編集履歴を追ってみて、愕然とし失望を覚えました。--Anti-min 2010年7月31日 (土) 14:13 (UTC)[返信]

(コメント)翻訳元であるen:Divergent series#Properties of summation methodsをあたると,"properties it is desirable" という表現を使っていて,Anti-minさんの書かれた「その節自体の主張が「普通ならこうでなければならない」という趣旨で提示され、」(強調は筆者による)という強制・要求の意味合いはありません.記事の最新版でも「持っていて欲しい「あるべき性質」」となっているので,「これこれの性質を持つことが望ましい.しかしそうでなくても(名前がついているくらいに)知られている総和法がある」とするのが妥当かと思います.
「収束」「収斂」の選択については貿易風さんと同じ意見です.敢えて付け加えると,閲覧者が書籍や一般のウェブページ,ウィキペディアの他の記事を見て「収束」をキーワードに発散級数のことを調べようとしたときに,本記事には直接たどり着けないことになりますが,記事の作成者であるAnti-minさんはこの点についてどう思われますでしょうか.
最後にAnti-minさん,編集のポリシーやスタイルは人それぞれですが,ある程度記事としての体裁や質を整えたうえで投稿されるようお願いしたいと思います.JAWP の記事は時と共に改善され発展していくものとはいえ,投稿された時点から既存の(編集を重ねて洗練された)記事と同等に扱われます.この視点からは,初版と言えども一定の質を備えているべきかと思います.修正や読み直しのために時間が必要であれば利用者ページを活用されるとか,せめて投稿の際に{{スタブ}}{{翻訳中途}}などのテンプレートを追加し,状況を明示してください.余談になりますが上の方で言及されたモノイドの編集,私自身の理由で編集に参加し,作業自体は楽しんで進めたのですが,私には結構な負担でした(私自身雑草とりのつもりで編集したのですが,Anti-min さんのコメントによると雑草とりの雑草とりをやったことになるんですね...).他の編集者にも閲覧者にも負担を強いるような編集スタイルでは今後の活動に差し支えがあるのではないか,と愚考いたします.NGiraffe 2010年8月1日 (日) 00:53 (UTC)[返信]
「という強制・要求の意味合いはありません」についてですが、それは文章構造の説明のために強調したもので、あくまで趣旨は「節全体としてのミスリーディングを避けるため」の注意喚起と考えているという点ですので、そこは誤解されませんよう。
発散級数を調べたいのならばそのまま「発散級数」をキーワードに調べれば良いのではないでしょうか。「収束」を調べに来て(あるいは調べていて)発散級数に興味を持ったというのであれば、「収束」に関する記述から入っていくでしょうし、それで直接でなくとも発散級数の記事にたどり着けるならばそれで十分なのではないかと思うのですがいかがでしょう。むしろ仰るとおりにしたとき、ある書籍で収斂と書かれていて他の文献へのポインタを求めにウィキペディアへ来た方は、何も情報を得られないことになりませんか。あるいは、「そんな奴は存在しないか、いたとしてもごく少数だから切り捨てるべきだ」とのご示唆と受け取るべきでしょうか。
それはともかく「ある程度記事としての体裁や質を整え」ていない投稿をしたつもりはないので、なぜそのような案内を提示されたのか図りかねているのですが、具体的にはどのようなものを指しておられるのか具体的にご指摘いただければありがたいのですが……。
ええと、とりあえずあるいていど推測で述べますが、英語版に既にまとまった記事があり、それを叩き台とするためにまず翻訳する、翻訳時に多少修正や削除や変更を加えるにしても、本格的な手入れはその後にまわすというのはそんなにおかしいことなのでしょうか。「既存の(編集を重ねて洗練された)記事」がどれも半日やそこらで殆ど何の欠陥もなく読者の欲しいものが全て揃ったような記事になるというのならばそのあたりは理解できるかもしれませんが……。
「テンプレートが必要な状況でも絶対に使わない」というようなことを主張したいわけではありませんが、少なくともスタブや翻訳中途などのテンプレートが必要な状態で放棄したと思われるようなものは残してはいないと思います(段階的に翻訳するタイプの手法で訳した記事があったとしても、投げ出したと思われるレベルで中断したりしてないつもりでいますが、他ごとをやって忘れているものがありましたら申し訳ありません。まさか訳せない単語や文がひとつふたつ残っているというようなものにもテンプレートを貼って「翻訳中途」とせよと仰るわけではありませんでしょう?)。
恐らく何かいろいろと誤解されている感じがするのですが「修正や読み直しのために時間が必要」なのは翻訳などでなくとも、ふつうのどの「既存の(編集を重ねて洗練された)記事」にも当たり前に言えることだと思うのです。そうやって時間を掛けてちょっとずつでも質を上げる行為がダメだと仰るなら、ウィキペディアには記事が存在できないことになりませんか。また、既に放置してはいないし自分でやるつもりだと述べてきたように、質を上げることを他人にまる投げしたりはしていないつもりなのですが、私が翻訳等の雑草取りをすることでみなさんにご負担をおかけしているのでしょうか。だとしたらもう翻訳はしないようにしますので、ぜひ詳しくご教示ください。あるいは「お前は不要だ」とはっきり仰ってください。私のことが信用ならない、あるいは編集の質が悪すぎて話にならないとお考えならば、ぜひ私の関わった全ての記述をウィキペディアから永久に削除したうえで、私のアカウントを永久に追放していただけると幸いです(記述が残ったままでは未練が残って、きっと化けて出てしまいます :-))。
わたしは、「雑草取り」というのは、もちろん単純な誤字脱字の修正も含まれますがそれだけじゃなくて、たとえばページ間で内容の調整をやったりというような校正に関する多くのことをも含んでいるのだと考えていますし、翻訳は(言語こそ跨ぎますが)まさにそういうものだと思っているわけです。しかし、モノイドの項での NGiraffe さんの編集は「雑草取りのつもり」などとご謙遜なさるようなものではないと思いますし、「雑草取りの雑草取り」などと滅相もないことを私は口が裂けてもいえません。モノイドの項でよからぬご負担をおかけしたのであればお詫びいたします。--2010年8月1日 (日) 08:42 (UTC)
「注意して然るべき」という表現について.英語記事の翻訳のもととなった版を見ても,ミスリードは起きない,というのが私の意見です.「AならばB](「正則または線型」ならば「強力」)から,「Aでない」場合のBの真偽は導けないので,「AでないがBである」場合があるのは不思議ではありません(数学分野の記事ですし,この手の論理構造を殊更強調する必要はないでしょう).
「収束」「収斂」については,それぞれの表記から,検索の手間にあまり差が出ないようにで本記事にたどり着けるようにできればいいですね,とだけコメントしておきます.
私が 2010年8月1日 (日) 00:53 (UTC)に書いたAnti-minさんへのお願いについて.ここ数週間のAnti-minさんの精力的な活動には正直驚いており,敬服の念を抱いていることを最初に申し上げておきます.私は,記事の翻訳を,リンク先の確認,リンクの是非,記号の統一といった「雑草とり(=創造性を発揮しなくてもできる作業)」まで一通り行って片がつくと考えています.その私にとって,Anti-minさんの翻訳記事には(氏のバイタリティからすると余技だと思われる)上記の作業が十分になされておらず,英文を和訳することを優先されているようなので,対等の編集者として御一考をお願いした,ということです.
ウィキペディアのルールやガイドラインが背景にあってのお願いではありませんし,編集者個人のポリシーやスタイルはそれぞれです.ご自身のスタイルに確信があるのであれば,「誰かが何か言っている」と鼻で笑って無視されればよいでしょう.この件についてこれ以上議論する必要もないかと思います.ただ私の書き方のせいで余計な心配をされたのならば,これについてお詫びします.NGiraffe 2010年8月4日 (水) 15:44 (UTC)[返信]
実際には「「AならばB](「正則または線型」ならば「強力」)」という文章ではない(「強力」はまた別な因子ではないか)とも思いますが、それはともかく「「AでないがBである」場合があるのは不思議ではない」ということと、実際に「B であるものがある」というのとでは論理的に大きなギャップがあると思いますし、また「数学だから当然」というのは原文の "should be" や訳文の「然り」と意識としては同じものではないか、とも考えます(わたしはミスリーディングを防ぐためとは思っていますが、論理構造の強調だとは考えていません、「当然ありうることとして気にするだろうだし、実は本当にあるのだ」というようなことを言っているに過ぎないと考えます)。
詳細なご説明ありがとうございます。「確信があるのであれば(中略)無視されればよい」と仰っていただいていますが、すみません、確信どころか元来の不安症でありまして、鼻で笑うなどとんでもないことで現在まだ非常に混乱しております。ご説明いただいたことを取りまとめると、私の投稿は NGiraffe さんの仰る「一通り」が「{{スタブ}}{{翻訳中途}}などのテンプレートを追加」を要する程に「ある程度記事としての体裁や質を整え」るに満たないというご指摘であると認識いたしました。(「余技」という言葉の意味を理解していないのでそのせいで外しているのかもしれませんが)そういった後処理も自分ではやってきたつもりなので、ご示唆に従ってどうするべきか再考してみてはいますが、いろいろと考えあぐんでおります。もうしばらくは記事の編集を自重することになりそうです。--Anti-min 2010年8月6日 (金) 03:17 (UTC)[返信]
議論に慣れていないこともあり、どのようなインデントで、どの場所に書くべきかどうか僕には良く分りません。もし大きな問題があるようでしたら、お手数ですが移動していただければと思います。
今のところ、記事に関する論点としては、「収束」か「収斂」か、「英語版総和法の性質」についての最後の(英語版での"It should be noted ..."に対応する)文での表現、の二つが問題になっているのだと思います。これらは独立した問題で性格もやや異なりますから、必要ならば節分けして議論した方がいいかもしれませんね。
まず前者についてですが、Anti-minさんを支持します。貿易風さんもNGiraffeさんも、もしまだご覧になっていないならば、Wikipedia:ウィキプロジェクト 数学/函数と関数を一読され、またリンク先の議論(長大ですが)を一目見ていただきたいと思います。収束/収斂と関数/函数は非常に近い問題と言っていいと思います。ウィキペディア上ではこの様な表記の問題が大きな議論、編集合戦に発展してしまうことが多いようで、その反省を元に形成された合意だと僕は理解しており、尊重すべきと思います。また個人的には、今挙げたリンク先で議論されているように、収斂を収束に変えることで得られるメリットがさほど大きくない、或いは大きいかどうかについての判断が人によって有意にわかれる以上、記事に対しもっとも大きな貢献をされている(と僕には思われる)Anti-minさんの訳語を尊重するのが筋だと思います。
後者についてですが、「注意が払われて然るべきであろう」というフレーズは、書き手の価値判断というよりかは、読み手への注意喚起(いままでこれこれの性質を大事だといってきたが、しかし、その性質を持たずとも数値的に有用なものはある)でしょう。 貿易風さんの文でも、注意深い読者ならば、論理構造からこの注意喚起を読みとれるでしょうが、読みとれない読者もまた出てくると思います。その点で、貿易風さんの文はAnti-minさんの文よりも質が多少とも低くなっていると考えます。
貿易風さんがひっかかっているのは「注意が払われて然るべきであろう」という強い言いまわしなのではないか、と思いました。英語版での"It should be noted"(これや類似のフレーズは非常にありふれた表現で百科事典でも良く使われるものと思います)に対応するような日本語の表現で、良く使われているものがあまりないのがこの議論を生んだ一つの要因だと思います。僕も少し考えてみたのですが、注意喚起をしていることが明確で、日本語として良く使われているものは残念ながら思いつきませんでした。内容を落さず、より耳触りのよい表現が見つかるまで、Anti-minさんの文を残すのが、妥当な判断のように僕には思われます。
最後にAnti-minさんの翻訳活動についての僕の感想を述べます。僕はウィキペディア上での翻訳記事の一般の質についてはあまり良く知りませんが、Anti-minさんの翻訳の質は絶対的に言って十分に高く、注意深く訳されているように感じます。少くとも、Anti-minさんの翻訳が在ることが他の利用者の負担になるなどということはないと考えます。例えば、翻訳に手こずる一部が英文のまま残されていることは、体裁は悪いかもしれませんが、記事の内容を主眼に考えればむしろ誠実な態度と言えるのではないでしょうか。もちろん内容と体裁が双方良いにこしたことはありませんが、ウィキというシステムを使っている以上(当然ながら)初めから完成された記事はのぞまれていないでしょう。内容と体裁、どちらを重視するか、そのバランスは参加者によって異なると思います。Anti-minさんはそのバランスが一般に比べて内容の方によっている、ということはひょっとするとあるかもしれませんが、それが問題視されるべきこととは僕には思えません。--働けよおっ 2010年8月2日 (月) 15:15 (UTC)[返信]
(コメント)私はwikipediaの編集に関してほとんど造詣はありませんが、僭越ながらいくつかコメントだけさせてください。
  1. まず、私は、Anti-minさんが多くの記事を英語版から翻訳されていることに敬意を表しますし、翻訳された記事がさしあたって数学に関係する記事として致命的に問題がある状態でなおざりにされているものがあるようには思えませんでした。翻訳された記事がAnti-minさんご自身や別の編集者によってさらに充実されていくのはwikipedia本来の姿だと思うので、Anti-minさんのような方がwikipwdiaから去ってしまわれるのは、wikipedia自体にとっても決して好ましいことではないと思います。Anti-minさんには今後もwikipedia発展のためにご尽力いただければと僭越ながら願っています。次に述べる観点やwikipediaの翻訳記事のあり方のいずれについても、どうも議論がはじめから少し剣呑な雰囲気であるように私には思えました。
  2. 「注意が払われてしかるべきであろう」という記述を削除した理由に関して、私は貿易風さんの説明には得心がいっていません。「Aという性質を持っていることが望ましいが、そうでないものもある。例えばAという性質を持っていない○○や××が有益な方法であることに注意しよう。」とか「記号の乱用でAのことをBと書いてしまうこともあるから注意しよう。」「Aという概念はBという概念と混同しやすいので注意しよう」というような《注意》が百科事典にとって不適切な記述であると言い切ることはできないと考えます。「読者に対して執筆者の意思を感じさせるような表現」ということの意味が的確に掴めませんでした。しかしとはいうものの、その部分だけを百科事典にとって適切か否かを議論することやその部分を復活したり削除したりということで議論の応酬になるのはあまり建設的ではないと思います。NGiraffeさんのご提案もあるようですから,もう少し穏やかな書き方に書き換えてもかまわないのではないかと思います。ところで、英語版の方では、8/2の段階で“it shoud be note that”の部分は削除されているようだということも情報提供の意味で付記させていただきます。
  3. 収束か収斂かという議論はさらに建設的ではない話題だと考えますが、『「収斂」という用語は普通に用いられており』というAnti-minさんの発言には違和感を覚えます。「函数か関数か」とか「線形か線型か」は大学での科目名とか書籍によって半々くらいでどっちもどっちだという感覚はありますが、最近の出版物や数学に関連した箇所で「収斂」という用語を真正面から使っているものを私は寡聞にして知りません。もちろん古い本ではそうなっていることもあるでしょう。ひとつのデータとして、科研費データベースを引いてみます。研究分野として数学を設定して検索してみると
  • 線形3042件 線型1156件
  • 函数974件 関数5481件
  • 収束1316件 収斂0件
という感じです。『収束/収斂と関数/函数は非常に近い問題』だという働けよおっさんの議論にも違和感を覚えます。さすがに収斂という語を収束という語と同じ意味で用いることは稀になりつつあるのではないか、という程度の意味で貿易風さんやNGiraffeさんの判断には賛同できると思います。
しかし、現状のwikipediaの記事の中では収束と収斂が同一記事内においてさえ混合して用いられており、級数の項目でも両者が混合して用いられています。いまどちらの表記に一本化しなくても、検索の便という観点では致命的な問題があるというほどでもないように思われますし、その用語だけを機械的に置換することがさほど有益であると思えないのですがいかがでしょうか。
失礼な物言いがあったとすればご容赦ください。--Henon 2010年8月3日 (火) 10:11 (UTC)[返信]