「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の版間の差分
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| 各国語表記 = Wilhelm II |
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| 君主号 = ドイツ皇帝・プロイセン王 |
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| 画像 = Kaiser Guglielmo II.jpg |
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| 画像説明 = |
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| 全名 = フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン |
| 全名 = フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン |
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| 出生日 = [[1859年]][[1月27日]] |
| 出生日 = [[1859年]][[1月27日]] |
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| 生地 = {{ |
| 生地 = {{PRU}}、[[ベルリン]] |
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| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1859|1|27|1941|6|4}} |
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| 没地 = {{NLD}}、[[w:en:Doorn|ドールン]]、[[w:en:Huis Doorn|ドールン城]] |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 生誕 === |
=== 生誕 === |
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[[1859年]][[1月27日]]に[[プロイセン王国]]首都[[ベルリン]]の[[ウンター・デン・リンデン]]の[[皇太子宮殿 (プロイセン)|皇太子宮殿]]([[:de:Kronprinzenpalais (Berlin)|de]])に生まれる<ref name="村島(1914)1">[[#村島(1914)|村島(1914)、p.1]]</ref><ref name="LeMO">[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/WilhelmII/index.html LeMO]</ref>。 |
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ヴィルヘルム2世は[[1859年]][[1月27日]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(のちの皇帝[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]])と王太子妃[[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア]]([[イギリス]]女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]の長女)との間に第一子として生まれた。少年期のヴィルヘルム2世の性格は自己中心的で移り気、左腕の発育不全を気に病んでいた。この不全は出生時に罹患した[[合併症]]によるもので、しばしば[[電気ショック]]療法などの苦痛を伴う治療を受けたが治癒しなかった。 |
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プロイセン王国皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(のちのドイツ皇帝[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]])と同国皇太子妃[[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア]](イギリス女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]の長女)との間の第一王子だった<ref name="LeMO"/><ref name="村島(1914)2">[[#村島(1914)|村島(1914)、p.2]]</ref>。 |
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彼は「[[骨盤位|逆子]]」であり、難産で生まれた<ref name="星乃(2006)29">[[#星乃(2006)|星乃(2006)、p.29]]</ref><ref name="学研(2008)上164">[[#学研(2008)上|『図説 第一次世界大戦 上』、p.164]]</ref>。後遺症で左半身に障害があり、平衡感覚に難があった<ref name="星乃(2006)29"/>。具体的には左腕や左足がうまく動かせず<ref name="村島(1914)2"/><ref name="星乃(2006)29"/>、走る事ができず、また直立不動の姿勢を取ることができなかった<ref name="星乃(2006)29"/>。[[ナイフ]]・[[フォーク]]の使用にも不自由があった<ref name="星乃(2006)29"/>。彼の人格形成をこの肉体的[[コンプレックス]]に求めようとする伝記作者もいるが、定かではない<ref name="星乃(2006)29"/><ref name="学研(2008)上164"/>。 |
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ヴィルヘルム2世は[[改革派教会|カルヴァン派]]のゲオルク・ヒンツペーター博士によって朝6時から夕方6時まで一日12時間におよぶカリキュラムの厳格な教育を受け、[[1874年]]から[[1877年]]まで[[カッセル=ヴィルヘルムスヘーエ]]の[[ギムナジウム]]に通ったのち[[ボン]]で政治と経済を学んだ。その頃、従妹にあたる[[ヘッセン大公国|ヘッセン]]大公女[[エリザヴェータ・フョードロヴナ|エリーザベト]]に恋心を抱き、[[プロポーズ]]までしているが、彼女がこれを受け入れることはなかった。[[1881年]]にはシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公女[[アウグステ・ヴィクトリア]]と結婚した。 |
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|ファイル:FriedIII.jpg|父の[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ]]皇太子 |
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|ファイル:Victoria, Princess Royal.jpg|母の[[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア]]皇太子妃 |
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=== 幼少期・少年期 === |
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幼い頃から負けん気が強かったといい、幼いヴィルヘルムを見た[[ロシア帝国]]外相[[アレクサンドル・ゴルチャコフ]]は「幼い[[ホーエンツォレルン]]は、プロイセンの歴代国王の中でも最も異彩を放つであろう。やがてはドイツの中心機関となって、世界にその威を示すに違いない。その時機が到来する時には必ず[[ヨーロッパ]]を驚かせることをするだろう。」と予言したという<ref name="村島(1914)2"/>。また幼い頃から海上に興味を示し、7歳のころには水兵たちから海の伝説について興味深そうに聞いていたという<ref name="村島(1914)3">[[#村島(1914)|村島(1914)、p.3]]</ref>。 |
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[[1888年]][[6月15日]]、父[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]の死にともなってヴィルヘルム2世はプロイセン国王およびドイツ皇帝となった。即位したヴィルヘルム2世は[[社会主義者鎮圧法]]の存廃をめぐって宰相[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]と対立し、ビスマルクは[[1890年]]に辞任する。ヴィルヘルム2世は「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった」と述べ、これによって[[社会主義者鎮圧法]]は廃止され、「世界政策」と呼ばれる[[帝国主義]]的膨張政策が展開されていくことになる([[3B政策]]・[[パン=ゲルマン主義]])。 |
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[[改革派教会|カルヴァン派]]の[[ゲオルク・ヒンツペーター]]博士([[:de:Georg Ernst Hinzpeter|de]])が教育係となり、厳格な教育を受けた<ref name="学研(2008)上165">[[#学研(2008)上|『図説 第一次世界大戦 上』、p.165]]</ref>。しかし[[インテリ]]であった母ヴィクトリアはヴィルヘルムに非常に多くのことを要求したため、母からの評価はいつも低かったという<ref name="学研(2008)上164"/><ref name="星乃(2006)30">[[#星乃(2006)|星乃(2006)、p.30]]</ref>。これが母への憎悪、ひいてはイギリスへの憎悪に繋がったといわれる<ref name="学研(2008)上164"/>。 |
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帝政ドイツでは議会に比べて皇帝に大きな権力があったため、国政にはヴィルヘルム2世の意志が大きく反映され、ドイツを「陽のあたる場所へ」という標語のもと、[[植民地]]獲得に力が注がれた。しかし列強の既得権とぶつかるこれらの政策は、軍事力を背景に露骨な示威行動を通して実行され、[[ロシア帝国]]や[[イギリス帝国]]との関係を悪化させることになる。 |
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[[1871年]][[1月18日]]に祖父である[[プロイセン国王]][[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]が[[ドイツ皇帝]](カイザー)に即位し、[[ドイツ帝国]]が成立した。この直後にヴィルヘルムが12歳になると父フリードリヒ皇太子は「余の跡継ぎとして公平無私ならん事を希望する」としてヴィルヘルムを普通の児童が通う小学校に入学させることを布告した<ref name="村島(1914)4">[[#村島(1914)|村島(1914)、p.4]]</ref>。ヴィルヘルムは小学校を卒業後、[[1874年]]に[[カッセル]]のヴィルヘルムスルーエ(Wilhelmshöhe)の離宮に移り、同じく普通の子供たちが通う同地の[[ギムナジウム]]に入学した<ref name="LeMO"/><ref name="村島(1914)5">[[#村島(1914)|村島(1914)、p.5]]</ref>。ヴィルヘルムが普通の児童の学校へ通うことになったのはヒンツペーター博士と母ヴィクトリアの相談の結果であるという<ref name="学研(2008)上165"/>。学校での教育の他、ヒンツペーター博士の教育も続けられた。[[フェンシング]]、[[乗馬]]、[[製図]]の訓練もあり、朝5時から夜10時まで続くという過密教育だった<ref name="学研(2008)上165"/>。 |
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[[1896年]]、イギリスの支援を受けた勢力が[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の[[トランスヴァール共和国]]に侵入した時、ヴィルヘルム2世はトランスヴァール首相クリューガーに激励の電報を送り、イギリスとの関係を悪化させた。また[[1898年]]、海軍大臣(在任、1897-1916年)[[アルフレート・フォン・ティルピッツ|ティルピッツ]]はヴィルヘルム2世の指示に基いて艦隊増強の指針を定めた「[[艦隊法]]」を制定したため、イギリスとドイツの建艦競争は激化した。さらに、東アジアにおけるイギリス勢力を牽制(けんせい)するため、従兄弟に当たるロシア皇帝[[ニコライ2世]]に「余は大西洋提督とならん。貴殿は太平洋提督となられよ」と甘言を弄し、ロシアに[[満州]]方面への勢力拡大を勧め、[[日露戦争]]の原因を作った。 |
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母ヴィクトリアは息子について「旅行しても博物館には興味を示さず、風景の美しさにも価値を見出さず、まともな本も読まなかった」「ヴィルヘルムには謙虚さ、善意、配慮が欠けており、彼は高慢で、[[利己主義|エゴイスト]]で、心がぞっとするほど冷たい」などと酷評したが<ref name="学研(2008)上165"/><ref name="星乃(2006)30"/>、学校の成績は悪くなく、[[1877年]]1月にギムナジウムを卒業した時には第10位の好成績であり、表彰も受けている<ref name="村島(1914)6">[[#村島(1914)|村島(1914)、p.6]]</ref>。 |
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[[1905年]]、ヴィルヘルム2世は[[モロッコ]]の[[タンジール]]を訪問、[[第一次モロッコ事件]]を引き起こした。この時は自ら諸外国に列国会議の開催を呼びかけ、翌[[1906年]]に[[アルヘシラス会議]]が開催されたが、フランスと[[三国協商]]を結んでいたイギリスとロシアはフランス・スペインを支持し、[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]を結んでいたイタリアは[[仏伊協商]]を結んだばかりでフランスとの関係を重視、唯一の支持国であった[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]も消極的な支持に留まり、結局アフリカのフランス領の一部で何も資源のない領域のドイツへの割譲だけで譲歩せざるを得なくなった。さらに1911年にも、モロッコの[[アガディール]]に艦隊を派遣してモロッコの領土保全と[[門戸開放]]を訴え、フランスの権益を侵そうとして対立を深めた([[第二次モロッコ事件]])。 |
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また1905年に[[日露戦争]]でロシアが敗れると、[[黄禍論]]を発表して白人優位の世界秩序構築と、そのために日本・中国をはじめとする黄色人種国家の打倒を訴えた。これはドイツ帝国主義の正当化と、海軍力増強を対英戦ではなく対日・対中戦のためと世界に認識させる意図であったが、効果は無かった。 |
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|ファイル:1874 als Schüler.jpg|1874年のヴィルヘルム |
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|ファイル:1877 Wilhelm als 18-Jähriger.JPG|1877年のヴィルヘルム |
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=== 青年期 === |
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[[1877年]]10月に[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]に入学した<ref name="村島(1914)7">[[#村島(1914)|村島(1914)、p.7]]</ref>。各分野の歴史、各種の法律、経済政策などを学んだ<ref name="村島(1914)7"/>。大学在学中の1878年9月に訪英し、祖母に当たるイギリス女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]の謁見を受けた<ref name="村島(1914)7"/>。 |
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この頃、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公女[[アウグステ・ヴィクトリア]]との結婚を希望するようになったが、ホルシュタイン家はドイツ帝国建設にあたって排斥を受けた家だったので、反対が根強かった<ref>[[#村島(1914)|村島(1914)、p.7-8]]</ref>。これに対してヴィルヘルムは「この結婚が成立すればホルシュタイン家のホーエンツォレルン家への悪感情も消えるであろう。ドイツ帝国のためこれほど喜ばしい婚姻はないではないか。」と反論し、婚姻を認めさせたという<ref name="村島(1914)9">[[#村島(1914)|村島(1914)、p.9]]</ref>。[[1880年]][[6月3日]]に婚姻は成立し、[[1881年]][[1月27日]]に挙式した<ref name="村島(1914)9"/>。彼女との間に[[1882年]][[5月6日]]に長男[[ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1882-1951)|ヴィルヘルム]](つまり皇曾孫)を儲けた。その後も次々と子をなし、計7人の子に恵まれた<ref name="LeMO"/>。 |
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1886年5月には[[東プロイセン]]の[[プローケルヴィッツ]]で[[フィリップ・ツー・オイレンブルク]]伯爵と出会い、以降21年間にわたって彼と[[同性愛]]の関係を結ぶようになった<ref>[[#星乃(2006)|星乃(2006)、p.33-34]]</ref>。帝国宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]侯爵の息子である[[ヘルベルト・フォン・ビスマルク]]公爵によると「陛下はこの地上の他の誰よりもオイレンブルクを深く愛された」という<ref name="星乃(2006)34">[[#星乃(2006)|星乃(2006)、p.34]]</ref>。オイレンブルクはヴィルヘルム2世の側近として活躍することになるが、ヴィルヘルム2世としては彼を積極的に政治の世界に引きずり込むことで彼に家庭を忘れさせ、彼を独占しようと図っていたのだという<ref name="星乃(2006)34"/>。 |
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|ファイル:Auguste victoria.jpg|妻となった[[アウグステ・ヴィクトリア]]公女 |
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|ファイル:Bundesarchiv Bild 102-00625A, Kaiser Wilhelm I. mit Sohn, Enkel und Urenkel.jpg|1882年、ヴィルヘルムの[[ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1882-1951)|息子ヴィルヘルム]]を抱くドイツ皇帝[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]](中央)、皇太子[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ]](左)、ヴィルヘルム(右)。 |
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|ファイル:Philipp-Fuerst-von-Eulenburg (1847-1921).jpg|同性愛相手の[[フィリップ・ツー・オイレンブルク]]伯爵(のち侯爵) |
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=== ドイツ皇帝・プロイセン王即位 === |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1993-098-12, Kaiser Wilhelm II..jpg|200px|thumb|right|1888年、即位まもないヴィルヘルム2世]] |
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[[1888年]][[3月9日]]に祖父であるドイツ皇帝・プロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]が91歳で崩御した。父フリードリヒ皇太子が[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]としてドイツ皇帝・プロイセン王に即位し、ヴィルヘルムはその皇太子となった。しかし病弱だったフリードリヒ3世は在位わずか99日にして6月15日に崩御する<ref name="LeMO"/><ref name="成瀬(1997)3">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.3]]</ref><ref>[[#星乃(2006)|星乃(2006)、p.35-36]]</ref><ref name="村島(1914)10">[[#村島(1914)|村島(1914)、p.10]]</ref>。皇太子ヴィルヘルムがただちに即位し、ヴィルヘルム2世として第3代ドイツ皇帝・第9代プロイセン王となった。当時若干29歳であった<ref name="成瀬(1997)3"/><ref name="星乃(2006)36">[[#星乃(2006)|星乃(2006)、p.36]]</ref>。 |
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帝政ドイツでは議会に比べて皇帝に大きな権力があったため、国政には皇帝の意志が大きく反映された。そのためドイツ皇帝位は「世界で最も力のある玉座」とも評されていた<ref name="星乃(2006)36"/><ref name="学研(2008)上166">[[#学研(2008)上|『図説 第一次世界大戦 上』、p.166]]</ref>。 |
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ヴィルヘルム2世は父の崩御を知るとただちに[[ポツダム]]の父の宮殿に軍隊を派遣して宮殿を包囲し、母ヴィクトリアを一時的に幽閉している<ref name="学研(2008)上165"/>。これは父フリードリヒ3世がヴィルヘルム2世の政策や性格を批判している日記をつけていたためという。それを知っていたヴィルヘルム2世は母ヴィクトリアがイギリスか市民にその日記を洩らすと疑っていたらしい<ref>[[#村島(1914)|村島(1914)、p.10-11]]</ref><ref>[[#学研(2008)上|『図説 第一次世界大戦 上』、p.165-166]]</ref>。 |
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=== 内政 === |
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==== 宰相ビスマルク辞職 ==== |
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1889年5月に[[ルール地方]]炭鉱の労働者が大規模な[[ストライキ]]を起こした。帝国宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]は紛争の解決は当事者に任せて国家が介入するのは避けようとしたが、ヴィルヘルム2世は労働者側にたって国家が介入するよう命じ、その後数カ月かけて労働者問題に通じた識者を助言者にして労働者保護勅令の準備を開始した<ref name="成瀬(1997)4">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.4]]</ref>。こうして1890年2月1日には日曜日労働の禁止、女性や少年の夜間労働・地下労働の禁止、労働者保護国際会議のベルリン開催の呼びかけなどの条項を含む労働者保護勅令の「二月勅令」が発せられた<ref name="成瀬(1997)5">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.5]]</ref>。保守的なビスマルクはこの勅令に反発して副署を拒否したが、この件はヴィルヘルム2世にビスマルク解任の決意を強めさせたという<ref name="成瀬(1997)5"/>。 |
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折しもビスマルクは1890年9月30日で期限が切れる[[社会主義者鎮圧法]]に代わる新法案を[[帝国議会 (ドイツ帝国)|帝国議会]]に提出していたが、この法案は社会主義鎮圧法の内容に加えて警察は社会主義者を居住地から自由に追放できるとする追加条項を含んでいたため、各党の反対が根強く、1890年1月25日に法案が否決されていた<ref name="成瀬(1997)4"/>。1890年2月20日の帝国議会選挙もビスマルクにとって好ましい結果にはならず、ビスマルクは議会に対する一種のクーデタを計画した<ref name="成瀬(1997)5"/>。 |
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しかしヴィルヘルム2世はビスマルクの強硬手段に同意せず、ビスマルクは1890年3月18日に辞表を提出することとなった。ヴィルヘルム2世は3月20日にこれを受理した<ref name="成瀬(1997)5"/>。ここに1862年以来のプロイセン宰相、1871年以来のドイツ帝国宰相であるビスマルクは退任することとなった<ref name="成瀬(1997)5"/>。 |
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即位前のヴィルヘルム2世はドイツ帝国の建設者であるビスマルクを尊敬していたが、即位後には親政に邪魔な存在となっていた<ref name="学研(2008)上165"/>。ヴィルヘルム2世は「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった」と述べ、これによって社会主義者鎮圧法は延長されないことが最終的に確定されると同時に「世界政策」と呼ばれる[[帝国主義]]的膨張政策が展開されていくことになる([[3B政策]]・[[パン=ゲルマン主義]])<ref>[[#ハフナー(1989)|ハフナー(1989)、p.77・80]]</ref>。しかし列強の既得権とぶつかるこれらの政策は、軍事力を背景に露骨な示威行動を通して実行され、[[ロシア帝国]]や[[イギリス帝国]]との関係を悪化させることになる。 |
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|File:Franz von Lenbach 003.jpg|1889年の宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]を描いた肖像画 |
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|File:1890 Bismarcks Ruecktritt.jpg|英国誌『[[パンチ (雑誌)|パンチ]]』のビスマルク辞職を描いた挿絵「水先案内人の下船([[:en:Dropping the Pilot|en]])」 |
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==== 宰相カプリヴィ時代 ==== |
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ビスマルクの後任のドイツ帝国・プロイセン王国宰相にはビスマルクの推薦を受けた[[レオ・フォン・カプリヴィ]]を任じた。ヴィルヘルム2世とカプリヴィは、ビスマルク時代と方針を転換して、労働者保護政策を推進した。この方針転換は後世に「新航路」と呼ばれた。1890年には労働争議を調停する裁判所を設置。つづいて1891年には新工場法を制定した。これにより日曜労働、女性の夜勤、13歳以下の少年の労働などが禁止された。また16歳以下の男女の労働時間の上限をそれぞれ10時間、11時間に制限した。現物賃金支払いも禁止した<ref name="成瀬(1997)6">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.6]]</ref>。 |
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しかしカプリヴィは帝国議会第一党の[[カトリック]]政党[[中央党 (ドイツ)|中央党]]に迎合しようとしてビスマルク時代に徹底的に分離された教育と教会の関係を再び結びつけようとして、カトリック教会の教育への介入を大幅に認める法案を議会に提出した。これは議会内の自由主義勢力の激しい反発を招き、廃案に追い込まれ、カプリヴィはプロイセン宰相職を辞してドイツ帝国宰相職のみに留まることとなった。後任のプロイセン宰相にはヴィルヘルム2世の同性愛相手のフィリップ・ツー・オイレンブルクの兄である[[ボート・ツー・オイレンブルク]]伯爵が任じられた。ドイツ帝国宰相とプロイセン王国宰相職がはじめて分離したことはカプリヴィの権力を弱めることとなった<ref name="成瀬(1997)10">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.10]]</ref>。 |
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カプリヴィは1893年に「小通商条約」を可決させ、1894年にはロシアとの間に通商条約を結ぶなど自由貿易政策を推進したが、農業関税引き下げに激怒した国内農業勢力の激しい反発にあった。ヴィルヘルム2世とプロイセン宰相オイレンブルクは「転覆法案」という政治的違法行為の処罰を強化するための刑法改正法案の導入を目指したが、議会の反発を買うことを恐れたカプリヴィが反対し、結局ヴィルヘルム2世はカプリヴィもオイレンブルクもそろって宰相職から罷免した<ref name="成瀬(1997)13">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.13]]</ref>。しかし同年末に議会に提出された「転覆法案」は1895年5月1日に帝国議会で否決された<ref name="成瀬(1997)14">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.14]]</ref>。 |
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==== 宰相ビューロー時代 ==== |
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カプリヴィの後任のドイツ・プロイセン宰相[[クロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト]]侯爵も議会を組み伏せることはできず、1900年10月に辞職した。ついで[[ベルンハルト・フォン・ビューロー]]がドイツ・プロイセン宰相に就任した。1904年にドイツ帝国植民地である[[ドイツ領南西アフリカ]]でホッテントット族やヘレロ族が反乱を起こした。ヴィルヘルム2世とビューローはただちに援軍を派遣して反乱を鎮圧したが、その軍の駐留費として帝国議会に提出された予算案は[[ドイツ社会民主党|社民党(SPD)]]と中央党によって否決されたため、政府は議会を解散して総選挙に打って出た(「ホッテントット選挙」と呼ばれた)。この選挙の結果、社民党の議席が減退し、自由主義勢力が少なくとも対外的問題や植民地政策については政府の方針を支持するようになり、議会内に「ビューロー=ブロック」と称された一応安定した与党連合が形成されるようになった<ref name="成瀬(1997)25">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.25]]</ref>。とはいえ自由主義勢力は対外問題や植民地問題で政府を支持しただけであり、内政問題では依然大きな隔たりがあった<ref name="成瀬(1997)26">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.26]]</ref>。 |
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[[1908年]][[10月28日]]にイギリス陸軍大佐エドワード・ジェームス・スチュアート・ワートリーとヴィルヘルム2世のドイツの内政と外交について語った対談がイギリスの新聞「[[デイリー・テレグラフ]]」に掲載された。この対談でのヴィルヘルム2世の「軽口」が国内外で問題視された([[デイリー・テレグラフ事件]])。帝国議会から皇帝の権力を憲法で制限すべきだという論議が盛んになり、ヴィルヘルム2世はこれを沈めるため宰相のビューローに対して「今後は憲法にのっとって政治を行う」と約束する羽目となり、帝国議会の威信が強まった<ref name="成瀬(1997)26"/>。 |
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イギリスとの建艦競争によって巨額になりはじめた財政赤字が深刻化するとビューローは[[相続税]]の対象拡大、[[消費税]]の値上げ、[[新聞広告税]]の導入などによって賄おうとしたが、議会のあらゆる勢力から批判され、「ビューロー=ブロック」は崩壊した。窮地に陥ったビューローだが、デイリー・テレグラフ事件で自分を擁護しなかったビューローに反感を持っていたヴィルヘルム2世は彼を救おうとはしなかった。ヴィルヘルム2世は1909年7月14日にビューローの辞表を受理した<ref name="成瀬(1997)28">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.28]]</ref>。後任のドイツ帝国・プロイセン王国宰相には[[テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク]]が任じられた<ref name="成瀬(1997)28"/>。 |
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=== 外交政策 === |
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==== 親英反露 ==== |
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[[File:Kohner - Kaiser Wilhelm II.jpg|200px|thumb|right|1890年のヴィルヘルム2世の肖像画([[:de:Max Koner|マックス・コーナー]]画)]] |
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1890年6月17日に切れる[[独露再保障条約]]の更新をロシア帝国は求めていたが(この要請はビスマルク退任前に行われていた)、ヴィルヘルム2世はこれを拒否した。これは彼がロシアとの関係より[[オーストリア]]や[[ルーマニア]]との関係を重視したためである<ref name="成瀬(1997)6">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.6]]</ref>。またロシアと対立するイギリスを取り込む意図もあった<ref name="成瀬(1997)7">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.7]]</ref>。これによりロシアとフランスが接近をはじめ、1894年にはドイツを敵視した[[露仏同盟]]が締結されてしまった<ref name="成瀬(1997)7"/>。 |
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1890年7月1日にはドイツはイギリスとの間に[[ヘルゴランド=ザンジバル条約]]を締結した。これを機にイギリスを[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]側に引き込もうという意図もあったが、それはイギリス側に拒否された<ref name="成瀬(1997)7"/>。とはいえ親英反露はこの後しばらくドイツの外交政策の基本方針となる。英露の対立関係の中でどちらか一方にだけ与さないというビスマルク時代の外交方針はここに破棄されたのである<ref name="成瀬(1997)7"/>。 |
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イギリスとの関係は基本的には1897年頃までは悪くなかった<ref name="ハフナー(1989)92">[[#ハフナー(1989)|ハフナー(1989)、p.92]]</ref>。 |
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==== 帝国主義とイギリスとの対立 ==== |
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ドイツはビスマルク時代にアフリカや太平洋地域に植民地を得ていたが([[ドイツ植民地帝国]])、イギリス([[イギリス帝国]])やフランス([[フランス植民地帝国]])に比べれば圧倒的に植民地が少なかった。そのためヴィルヘルム2世はドイツももっとヨーロッパ外の植民地を獲得してドイツを「陽のあたる場所」に導くことを目指した<ref name="成瀬(1997)16">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.16]]</ref>。 |
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1897年11月には[[清]]の[[山東省]]においてドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実に清に遠征を行い、1898年には清から[[山東半島]]南部の[[膠州湾租借地]]を獲得した<ref name="成瀬(1997)16">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.16]]</ref><ref name="ハフナー(1989)89">[[#ハフナー(1989)|ハフナー(1989)、p.89]]</ref><ref name="学研(2008)上165">[[#学研(2008)上|『図説 第一次世界大戦 上』、p.165]]</ref>。更にこの直後に南太平洋の[[カロリン諸島]]や[[マリアナ諸島]]も獲得した<ref>[[#ハフナー(1989)|ハフナー(1989)、p.89・313]]</ref>。 |
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とはいえ、それ以外の植民地拡大はなかなか捗らなかった。植民地拡大にはなんといっても巨大な海軍力が不可欠であった。元来ドイツは陸軍大国であり、海軍は陸軍の付属的な存在と看做されて軽視されてきた。ヴィルヘルム2世はアメリカの海軍理論家[[アルフレッド・セイヤー・マハン]]の著作に強い影響を受けていたため、世界を制するには海を制する必要があり、それには巨砲を搭載した巨大戦艦が必要であると確信した<ref name="成瀬(1997)17">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.17]]</ref>。 |
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ドイツ東洋艦隊司令官[[アルフレート・フォン・ティルピッツ]]が1897年6月に帝国海軍長官に任じられ<ref name="成瀬(1997)17"/>、彼の下で大規模な建艦計画が始動し、艦隊増強の指針を定めた「[[艦隊法]]」が制定された。これを恐れたイギリスも自国艦隊の増強を開始した。当時のイギリスの海軍力は世界最強であり、ドイツがイギリスに対抗し得る海軍力の到達点は果てしなく、英独両国の[[建艦競争]]は泥沼化することとなった<ref name="成瀬(1997)17"/>。 |
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{{Gallery |
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|File:China imperialism cartoon.jpg|列強諸国の清の植民地化を描いた挿絵。英女王ヴィクトリアと睨みあう独皇帝ヴィルヘルム2世。 |
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}} |
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==== ドイツ包囲網 ==== |
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イギリスはフランスと接近を開始し、[[英仏協商]]を締結した。フランスが[[エジプト]]におけるイギリスの権益を認める代わりにイギリスはフランスが[[モロッコ]]を植民地化することを認めるというものだった<ref name="成瀬(1997)48">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.48]]</ref><ref name="ハフナー(1989)93">[[#ハフナー(1989)|ハフナー(1989)、p.93]]</ref>。これに対抗してヴィルヘルム2世は1905年3月31日に突然モロッコの[[タンジール]]を訪問し、フランスに反感を持つ[[スルタン]]にモロッコ独立を支援することを約束した([[第一次モロッコ事件]])。更にフランスに対してモロッコ問題の国際会議を求めた。こうして[[1906年]]1月から4月にかけて[[アルヘシラス会議]]が開催されたが<ref name="成瀬(1997)48"/>、[[アメリカ]]や[[イタリア]]は英仏を支持し、同盟国オーストリアさえも消極的にドイツを支持するに留まり、結局ドイツはアフリカのフランス領の一部で何も資源のない領域のドイツへの割譲だけで譲歩せざるを得なくなった。ドイツの孤立が深まっただけの結果となった<ref name="成瀬(1997)48"/>。 |
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ヴィルヘルム2世はイギリスの東アジア植民地化政策を牽制するため、従兄弟に当たるロシア皇帝[[ニコライ2世]]に「余は大西洋提督とならん。貴殿は太平洋提督となられよ」と甘言を弄し、ロシアに[[満州]]方面への勢力拡大を勧め、[[日露戦争]]の原因を作った。一方イギリスはロシアを抑えるため、[[日本]]を支援した。結局ロシアは日本に敗れて弱体化。イギリスはもはや東アジアの権益問題においてロシアは脅威とはならないと判断し、ロシアと接近を図り、1907年に[[英露協商]]が成立した<ref name="成瀬(1997)48"/><ref name="ハフナー(1989)94">[[#ハフナー(1989)|ハフナー(1989)、p.94]]</ref>。 |
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こうしてドイツはすっかり国際的に孤立してしまった。日露戦争後、ヴィルヘルム2世は[[黄禍論]]を主張して白人優位の世界秩序構築と、そのために日本や清をはじめとする黄色人種国家の打倒を訴え、英仏露のドイツへの敵意を和らげようと努力したが、効果は薄かった。 |
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前述したが、1908年10月28日にイギリスの新聞「[[デイリー・テレグラフ]]」にイギリス軍大佐とヴィルヘルム2世の対談が掲載された([[デイリー・テレグラフ事件]])<ref name="成瀬(1997)26">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.26]]</ref>。その対談でヴィルヘルム2世は自分は親英論者であること、そのために自分はドイツ国内で孤立していること、また[[ボーア戦争]]の際に露仏両国から対英大陸同盟の働きかけがあったが、自分はそれに乗らなかったこと、ボーア戦争においてイギリスが勝利できたのは自分の案のおかげであること、ドイツ艦隊の増強はイギリスをターゲットにしたものではないことなどを主張した。ヴィルヘルム2世としては英国の反独感情を和らげようとして行った対談だったのだが、「ドイツ皇帝の不遜な態度」にかえってイギリス世論が反発し、露仏も激しく反発してドイツはますます孤立してしまった<ref name="成瀬(1997)26"/>。 |
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モロッコで起こった反フランス暴動を鎮圧すべく出動したフランス軍に対抗して、1911年7月1日に[[アガディール]]に艦隊を派遣し、モロッコの領土保全と[[門戸開放]]を訴え、フランスのモロッコ権益を侵そうとして対立を深めた([[第二次モロッコ事件]])。ドイツはモロッコ問題から手を引く条件としてフランス領[[コンゴ]]のドイツへの譲渡を要求し、中央アフリカへの進出を狙ったが、イギリスがフランス断固支持を表明したため、結局ドイツが新たに獲得した植民地はたいして価値のない[[カメルーン]]だけだった<ref name="成瀬(1997)56">[[#成瀬(1997)|成瀬・山田・木村(1997)、p.56]]</ref>。 |
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[[1908年]]、イギリス陸軍大佐エドワード・ジェームス・スチュアート・ワートリーとドイツの内政と外交について語った対談がイギリスの新聞「[[デイリー・テレグラフ]]」に掲載された。その侵略政策的内容によって内外から激しく批判され、皇帝の権力を憲法で制限すべきだという論議が盛んになった([[デイリー・テレグラフ事件]])。 |
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=== 第一次世界大戦 === |
=== 第一次世界大戦 === |
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[[画像:Kaiser generals.jpg|250px|thumb|right|ヴィルヘルム2世と将軍達]] |
[[画像:Kaiser generals.jpg|250px|thumb|right|ヴィルヘルム2世と将軍達]] |
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[[画像:Hindenburg, Kaiser, Ludendorff HD-SN-99-02150.JPG|250px|thumb|right|(左から)[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]と皇帝と[[ルーデンドルフ]]]] |
[[画像:Hindenburg, Kaiser, Ludendorff HD-SN-99-02150.JPG|250px|thumb|right|(左から)[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]と皇帝と[[ルーデンドルフ]]]] |
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列強との対立はついにドイツを[[第一次世界大戦]]に巻き込む。ヴィルヘルム2世はオーストリアとの同盟を重視すべきだと主張して世論を参戦に導いたが、軍事的に指導権を制限され、大戦末期には[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]と[[エーリヒ・ルーデンドルフ|ルーデンドルフ]]によって政治的にも実権を失った。 |
列強との対立は強まり、ついにドイツを[[第一次世界大戦]]に巻き込む。ヴィルヘルム2世はオーストリアとの同盟を重視すべきだと主張して世論を参戦に導いたが、軍事的に指導権を制限され、大戦末期には[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]と[[エーリヒ・ルーデンドルフ|ルーデンドルフ]]によって政治的にも実権を失った。 |
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長期戦の結果ドイツは疲弊し、[[1918年]]には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に和平を乞うようになった。しかしアメリカの[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は休戦の条件として[[十四か条の平和原則]]を発表すると共に、暗にヴィルヘルム2世の退位を迫った<ref>ヴィルヘルム2世個人への要求であり、帝政廃止を迫ったわけではない点に注意。</ref>。そのため、ヴィルヘルム2世は休戦を決断できずにいた。[[11月9日]]、宰相[[マクシミリアン・フォン・バーデン]]は一方的に皇帝の退位を発表、ヴィルヘルム2世は司令部のあった[[スパ]](ベルギ-)から[[オランダ]]に[[亡命]]した。[[11月28日]]、皇帝は退位宣言に署名し、[[ホーエンツォレルン家]]によるドイツ支配は終焉を迎えた。バーデンの後任の首相となった[[フリードリヒ・エーベルト|エーベルト]](のち初代[[ドイツの大統領 (ヴァイマル共和政)|ドイツ大統領]])は[[立憲君主制]]論者で、帝政廃止の意図はなかったが、元皇帝一家はホーエンツォレルン家の財産を何両もの貨車に満載してドイツを去ったため、なし崩し的にドイツは[[共和制]]に移行することになった。 |
長期戦の結果ドイツは疲弊し、[[1918年]]には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に和平を乞うようになった。しかしアメリカの[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は休戦の条件として[[十四か条の平和原則]]を発表すると共に、暗にヴィルヘルム2世の退位を迫った<ref>ヴィルヘルム2世個人への要求であり、帝政廃止を迫ったわけではない点に注意。</ref>。そのため、ヴィルヘルム2世は休戦を決断できずにいた。[[11月9日]]、宰相[[マクシミリアン・フォン・バーデン]]は一方的に皇帝の退位を発表、ヴィルヘルム2世は司令部のあった[[スパ]](ベルギ-)から[[オランダ]]に[[亡命]]した。[[11月28日]]、皇帝は退位宣言に署名し、[[ホーエンツォレルン家]]によるドイツ支配は終焉を迎えた。バーデンの後任の首相となった[[フリードリヒ・エーベルト|エーベルト]](のち初代[[ドイツの大統領 (ヴァイマル共和政)|ドイツ大統領]])は[[立憲君主制]]論者で、帝政廃止の意図はなかったが、元皇帝一家はホーエンツォレルン家の財産を何両もの貨車に満載してドイツを去ったため、なし崩し的にドイツは[[共和制]]に移行することになった。 |
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ヴィルヘルム2世の独特な口髭は「カイゼル髭」として有名である。 |
ヴィルヘルム2世の独特な口髭は「カイゼル髭」として有名である。 |
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[[黄禍論]]者 |
[[黄禍論]]者であり、中国人は徹底して軽蔑した。[[義和団の乱]]鎮圧戦の際にも激しい中国人蔑視の演説を行った<ref name="星乃(2006)31">[[#星乃(2006)|星乃(2006)、p.31]]</ref>。日本に対しても[[三国干渉]]の際に黄禍論を展開するなどしていたが、一方で日本人については好感も持っていた。陸軍大演習の際、日本軍人に「日露戦争の日本軍の戦法を採用した。」と説明したり、ベルリンを散歩の際、居合わせた日本人留学生に声をかけて激励したこともある<ref>[[斎藤茂吉]]『ウィルヘルム2世』斎藤茂吉全集第18巻 岩波書店</ref>。 |
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一方、英国については「ドイツはキリスト教国であるが、イギリスは反キリスト教的な[[自由主義]]の国」と酷評している。また、イギリスが[[フリーメーソン]]と[[ユダヤ人]]に経済的に支配されていると信じており、2度の世界大戦も彼らが引き起したと主張していた。 |
一方、英国については「ドイツはキリスト教国であるが、イギリスは反キリスト教的な[[自由主義]]の国」と酷評している。また、イギリスが[[フリーメーソン]]と[[ユダヤ人]]に経済的に支配されていると信じており、2度の世界大戦も彼らが引き起したと主張していた。 |
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* [[ヴィクトリア・ルイーゼ・フォン・プロイセン|'''ヴィクトリア・ルイーゼ'''・アーデルハイト・マティルデ・シャルロッテ]](1892年 - 1980年、[[ブラウンシュヴァイク公国|ブラウンシュヴァイク]]公[[エルンスト・アウグスト (ブラウンシュヴァイク公)|エルンスト・アウグスト]]妃) |
* [[ヴィクトリア・ルイーゼ・フォン・プロイセン|'''ヴィクトリア・ルイーゼ'''・アーデルハイト・マティルデ・シャルロッテ]](1892年 - 1980年、[[ブラウンシュヴァイク公国|ブラウンシュヴァイク]]公[[エルンスト・アウグスト (ブラウンシュヴァイク公)|エルンスト・アウグスト]]妃) |
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== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|author=[[エーリッヒ・アイク]]([[:de:Erich Eyck|de]])|translator=[[救仁郷繁]]|year=[[1983年]]|title=ワイマル共和国史 I 1917-1922|publisher=[[ぺりかん社]]|isbn=978-4831503299|ref=アイク(1983)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ヴァルター・ゲルリッツ]]|translator=[[守屋純]]|year=[[1998年]]|title=ドイツ参謀本部興亡史|publisher=[[学研]]|isbn=978-4054009813|ref=ゲルリッツ}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[セバスティアン・ハフナー]]([[:de:Sebastian Haffner|de]])|translator=[[山田義顕]]|year=[[1989年]]|title=ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582447026|ref=ハフナー(1989)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[成瀬治]]、[[山田欣吾]]、[[木村靖二]]|year=[[1997年]]|title=ドイツ史3 1890年-現在|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版]]|isbn=978-4634461406|ref=成瀬(1997)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[星乃治彦]]|year=[[2006年]]|title=男たちの帝国 ヴィルヘルム2世からナチスへ|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000223881|ref=星乃(2006)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[村島靖雄]]|year =[[1914年]]|title=カイゼル ウィルヘルム二世|series=偉人叢書|url=http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000130221|publisher=[[鍾美堂]]|ref=村島(1914)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ハンス・モムゼン]]([[:de:Hans Mommsen|de]])|translator=[[関口宏道]]|year=[[2001年]]|title=ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭|publisher=[[水声社]]|isbn=978-4891764494|ref=モムゼン(2001)}} |
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*{{Cite book|和書|year=[[2008年]]|title=戦略・戦術・兵器詳解 図説 第一次世界大戦 <上>|series=[[歴史群像シリーズ]]|publisher=[[学研]]|isbn=978-4056050233|ref=学研(2008)上}} |
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*{{Cite book|和書|year=2008年|title=戦略・戦術・兵器詳解 図説 第一次世界大戦 <下>|series=歴史群像シリーズ|publisher=学研|isbn=978-4056050516|ref=学研(2008)下}} |
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=== 脚注 === |
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2011年1月10日 (月) 08:45時点における版
ヴィルヘルム2世 Wilhelm II | |
---|---|
ドイツ皇帝・プロイセン王 | |
| |
在位 | 1888年6月15日 - 1918年11月9日 |
全名 | フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン |
出生 |
1859年1月27日 プロイセン王国、ベルリン |
死去 |
1941年6月4日(82歳没) オランダ、ドールン、ドールン城 |
埋葬 |
オランダ、ドールン、ドールン城 |
皇太子 | ヴィルヘルム |
配偶者 |
アウグステ・ヴィクトリア・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク ヘルミーネ・ロイス・ツー・グライツ |
子女 |
ヴィルヘルム アイテル・フリードリヒ アーダルベルト アウグスト・ヴィルヘルム オスカー ヨアヒム ヴィクトリア・ルイーゼ |
家名 | ホーエンツォレルン家 |
王室歌 | 皇帝陛下万歳(非公式) |
父親 | フリードリヒ3世 |
母親 | ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ |
サイン |
ヴィルヘルム2世(Wilhelm II., 1859年1月27日 - 1941年6月4日)は、第9代プロイセン王国国王・第3代ドイツ帝国皇帝(在位:1888年6月15日 - 1918年11月28日)。全名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン(Friedrich Wilhelm Victor Albert von Preußen)。フリードリヒ3世の長男。
帝国主義的な膨張政策を展開したが、拙劣な外交で列強との対立を招き、ドイツを第一次世界大戦へと導いた。
生涯
生誕
1859年1月27日にプロイセン王国首都ベルリンのウンター・デン・リンデンの皇太子宮殿(de)に生まれる[1][2]。
プロイセン王国皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(のちのドイツ皇帝フリードリヒ3世)と同国皇太子妃ヴィクトリア(イギリス女王ヴィクトリアの長女)との間の第一王子だった[2][3]。
彼は「逆子」であり、難産で生まれた[4][5]。後遺症で左半身に障害があり、平衡感覚に難があった[4]。具体的には左腕や左足がうまく動かせず[3][4]、走る事ができず、また直立不動の姿勢を取ることができなかった[4]。ナイフ・フォークの使用にも不自由があった[4]。彼の人格形成をこの肉体的コンプレックスに求めようとする伝記作者もいるが、定かではない[4][5]。
幼少期・少年期
幼い頃から負けん気が強かったといい、幼いヴィルヘルムを見たロシア帝国外相アレクサンドル・ゴルチャコフは「幼いホーエンツォレルンは、プロイセンの歴代国王の中でも最も異彩を放つであろう。やがてはドイツの中心機関となって、世界にその威を示すに違いない。その時機が到来する時には必ずヨーロッパを驚かせることをするだろう。」と予言したという[3]。また幼い頃から海上に興味を示し、7歳のころには水兵たちから海の伝説について興味深そうに聞いていたという[6]。
カルヴァン派のゲオルク・ヒンツペーター博士(de)が教育係となり、厳格な教育を受けた[7]。しかしインテリであった母ヴィクトリアはヴィルヘルムに非常に多くのことを要求したため、母からの評価はいつも低かったという[5][8]。これが母への憎悪、ひいてはイギリスへの憎悪に繋がったといわれる[5]。
1871年1月18日に祖父であるプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝(カイザー)に即位し、ドイツ帝国が成立した。この直後にヴィルヘルムが12歳になると父フリードリヒ皇太子は「余の跡継ぎとして公平無私ならん事を希望する」としてヴィルヘルムを普通の児童が通う小学校に入学させることを布告した[9]。ヴィルヘルムは小学校を卒業後、1874年にカッセルのヴィルヘルムスルーエ(Wilhelmshöhe)の離宮に移り、同じく普通の子供たちが通う同地のギムナジウムに入学した[2][10]。ヴィルヘルムが普通の児童の学校へ通うことになったのはヒンツペーター博士と母ヴィクトリアの相談の結果であるという[7]。学校での教育の他、ヒンツペーター博士の教育も続けられた。フェンシング、乗馬、製図の訓練もあり、朝5時から夜10時まで続くという過密教育だった[7]。
母ヴィクトリアは息子について「旅行しても博物館には興味を示さず、風景の美しさにも価値を見出さず、まともな本も読まなかった」「ヴィルヘルムには謙虚さ、善意、配慮が欠けており、彼は高慢で、エゴイストで、心がぞっとするほど冷たい」などと酷評したが[7][8]、学校の成績は悪くなく、1877年1月にギムナジウムを卒業した時には第10位の好成績であり、表彰も受けている[11]。
青年期
1877年10月にボン大学に入学した[12]。各分野の歴史、各種の法律、経済政策などを学んだ[12]。大学在学中の1878年9月に訪英し、祖母に当たるイギリス女王ヴィクトリアの謁見を受けた[12]。
この頃、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公女アウグステ・ヴィクトリアとの結婚を希望するようになったが、ホルシュタイン家はドイツ帝国建設にあたって排斥を受けた家だったので、反対が根強かった[13]。これに対してヴィルヘルムは「この結婚が成立すればホルシュタイン家のホーエンツォレルン家への悪感情も消えるであろう。ドイツ帝国のためこれほど喜ばしい婚姻はないではないか。」と反論し、婚姻を認めさせたという[14]。1880年6月3日に婚姻は成立し、1881年1月27日に挙式した[14]。彼女との間に1882年5月6日に長男ヴィルヘルム(つまり皇曾孫)を儲けた。その後も次々と子をなし、計7人の子に恵まれた[2]。
1886年5月には東プロイセンのプローケルヴィッツでフィリップ・ツー・オイレンブルク伯爵と出会い、以降21年間にわたって彼と同性愛の関係を結ぶようになった[15]。帝国宰相オットー・フォン・ビスマルク侯爵の息子であるヘルベルト・フォン・ビスマルク公爵によると「陛下はこの地上の他の誰よりもオイレンブルクを深く愛された」という[16]。オイレンブルクはヴィルヘルム2世の側近として活躍することになるが、ヴィルヘルム2世としては彼を積極的に政治の世界に引きずり込むことで彼に家庭を忘れさせ、彼を独占しようと図っていたのだという[16]。
-
妻となったアウグステ・ヴィクトリア公女
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同性愛相手のフィリップ・ツー・オイレンブルク伯爵(のち侯爵)
ドイツ皇帝・プロイセン王即位
1888年3月9日に祖父であるドイツ皇帝・プロイセン王ヴィルヘルム1世が91歳で崩御した。父フリードリヒ皇太子がフリードリヒ3世としてドイツ皇帝・プロイセン王に即位し、ヴィルヘルムはその皇太子となった。しかし病弱だったフリードリヒ3世は在位わずか99日にして6月15日に崩御する[2][17][18][19]。皇太子ヴィルヘルムがただちに即位し、ヴィルヘルム2世として第3代ドイツ皇帝・第9代プロイセン王となった。当時若干29歳であった[17][20]。
帝政ドイツでは議会に比べて皇帝に大きな権力があったため、国政には皇帝の意志が大きく反映された。そのためドイツ皇帝位は「世界で最も力のある玉座」とも評されていた[20][21]。
ヴィルヘルム2世は父の崩御を知るとただちにポツダムの父の宮殿に軍隊を派遣して宮殿を包囲し、母ヴィクトリアを一時的に幽閉している[7]。これは父フリードリヒ3世がヴィルヘルム2世の政策や性格を批判している日記をつけていたためという。それを知っていたヴィルヘルム2世は母ヴィクトリアがイギリスか市民にその日記を洩らすと疑っていたらしい[22][23]。
内政
宰相ビスマルク辞職
1889年5月にルール地方炭鉱の労働者が大規模なストライキを起こした。帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクは紛争の解決は当事者に任せて国家が介入するのは避けようとしたが、ヴィルヘルム2世は労働者側にたって国家が介入するよう命じ、その後数カ月かけて労働者問題に通じた識者を助言者にして労働者保護勅令の準備を開始した[24]。こうして1890年2月1日には日曜日労働の禁止、女性や少年の夜間労働・地下労働の禁止、労働者保護国際会議のベルリン開催の呼びかけなどの条項を含む労働者保護勅令の「二月勅令」が発せられた[25]。保守的なビスマルクはこの勅令に反発して副署を拒否したが、この件はヴィルヘルム2世にビスマルク解任の決意を強めさせたという[25]。
折しもビスマルクは1890年9月30日で期限が切れる社会主義者鎮圧法に代わる新法案を帝国議会に提出していたが、この法案は社会主義鎮圧法の内容に加えて警察は社会主義者を居住地から自由に追放できるとする追加条項を含んでいたため、各党の反対が根強く、1890年1月25日に法案が否決されていた[24]。1890年2月20日の帝国議会選挙もビスマルクにとって好ましい結果にはならず、ビスマルクは議会に対する一種のクーデタを計画した[25]。
しかしヴィルヘルム2世はビスマルクの強硬手段に同意せず、ビスマルクは1890年3月18日に辞表を提出することとなった。ヴィルヘルム2世は3月20日にこれを受理した[25]。ここに1862年以来のプロイセン宰相、1871年以来のドイツ帝国宰相であるビスマルクは退任することとなった[25]。
即位前のヴィルヘルム2世はドイツ帝国の建設者であるビスマルクを尊敬していたが、即位後には親政に邪魔な存在となっていた[7]。ヴィルヘルム2世は「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった」と述べ、これによって社会主義者鎮圧法は延長されないことが最終的に確定されると同時に「世界政策」と呼ばれる帝国主義的膨張政策が展開されていくことになる(3B政策・パン=ゲルマン主義)[26]。しかし列強の既得権とぶつかるこれらの政策は、軍事力を背景に露骨な示威行動を通して実行され、ロシア帝国やイギリス帝国との関係を悪化させることになる。
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1889年の宰相オットー・フォン・ビスマルクを描いた肖像画
宰相カプリヴィ時代
ビスマルクの後任のドイツ帝国・プロイセン王国宰相にはビスマルクの推薦を受けたレオ・フォン・カプリヴィを任じた。ヴィルヘルム2世とカプリヴィは、ビスマルク時代と方針を転換して、労働者保護政策を推進した。この方針転換は後世に「新航路」と呼ばれた。1890年には労働争議を調停する裁判所を設置。つづいて1891年には新工場法を制定した。これにより日曜労働、女性の夜勤、13歳以下の少年の労働などが禁止された。また16歳以下の男女の労働時間の上限をそれぞれ10時間、11時間に制限した。現物賃金支払いも禁止した[27]。
しかしカプリヴィは帝国議会第一党のカトリック政党中央党に迎合しようとしてビスマルク時代に徹底的に分離された教育と教会の関係を再び結びつけようとして、カトリック教会の教育への介入を大幅に認める法案を議会に提出した。これは議会内の自由主義勢力の激しい反発を招き、廃案に追い込まれ、カプリヴィはプロイセン宰相職を辞してドイツ帝国宰相職のみに留まることとなった。後任のプロイセン宰相にはヴィルヘルム2世の同性愛相手のフィリップ・ツー・オイレンブルクの兄であるボート・ツー・オイレンブルク伯爵が任じられた。ドイツ帝国宰相とプロイセン王国宰相職がはじめて分離したことはカプリヴィの権力を弱めることとなった[28]。
カプリヴィは1893年に「小通商条約」を可決させ、1894年にはロシアとの間に通商条約を結ぶなど自由貿易政策を推進したが、農業関税引き下げに激怒した国内農業勢力の激しい反発にあった。ヴィルヘルム2世とプロイセン宰相オイレンブルクは「転覆法案」という政治的違法行為の処罰を強化するための刑法改正法案の導入を目指したが、議会の反発を買うことを恐れたカプリヴィが反対し、結局ヴィルヘルム2世はカプリヴィもオイレンブルクもそろって宰相職から罷免した[29]。しかし同年末に議会に提出された「転覆法案」は1895年5月1日に帝国議会で否決された[30]。
宰相ビューロー時代
カプリヴィの後任のドイツ・プロイセン宰相クロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト侯爵も議会を組み伏せることはできず、1900年10月に辞職した。ついでベルンハルト・フォン・ビューローがドイツ・プロイセン宰相に就任した。1904年にドイツ帝国植民地であるドイツ領南西アフリカでホッテントット族やヘレロ族が反乱を起こした。ヴィルヘルム2世とビューローはただちに援軍を派遣して反乱を鎮圧したが、その軍の駐留費として帝国議会に提出された予算案は社民党(SPD)と中央党によって否決されたため、政府は議会を解散して総選挙に打って出た(「ホッテントット選挙」と呼ばれた)。この選挙の結果、社民党の議席が減退し、自由主義勢力が少なくとも対外的問題や植民地政策については政府の方針を支持するようになり、議会内に「ビューロー=ブロック」と称された一応安定した与党連合が形成されるようになった[31]。とはいえ自由主義勢力は対外問題や植民地問題で政府を支持しただけであり、内政問題では依然大きな隔たりがあった[32]。
1908年10月28日にイギリス陸軍大佐エドワード・ジェームス・スチュアート・ワートリーとヴィルヘルム2世のドイツの内政と外交について語った対談がイギリスの新聞「デイリー・テレグラフ」に掲載された。この対談でのヴィルヘルム2世の「軽口」が国内外で問題視された(デイリー・テレグラフ事件)。帝国議会から皇帝の権力を憲法で制限すべきだという論議が盛んになり、ヴィルヘルム2世はこれを沈めるため宰相のビューローに対して「今後は憲法にのっとって政治を行う」と約束する羽目となり、帝国議会の威信が強まった[32]。
イギリスとの建艦競争によって巨額になりはじめた財政赤字が深刻化するとビューローは相続税の対象拡大、消費税の値上げ、新聞広告税の導入などによって賄おうとしたが、議会のあらゆる勢力から批判され、「ビューロー=ブロック」は崩壊した。窮地に陥ったビューローだが、デイリー・テレグラフ事件で自分を擁護しなかったビューローに反感を持っていたヴィルヘルム2世は彼を救おうとはしなかった。ヴィルヘルム2世は1909年7月14日にビューローの辞表を受理した[33]。後任のドイツ帝国・プロイセン王国宰相にはテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークが任じられた[33]。
外交政策
親英反露
1890年6月17日に切れる独露再保障条約の更新をロシア帝国は求めていたが(この要請はビスマルク退任前に行われていた)、ヴィルヘルム2世はこれを拒否した。これは彼がロシアとの関係よりオーストリアやルーマニアとの関係を重視したためである[27]。またロシアと対立するイギリスを取り込む意図もあった[34]。これによりロシアとフランスが接近をはじめ、1894年にはドイツを敵視した露仏同盟が締結されてしまった[34]。
1890年7月1日にはドイツはイギリスとの間にヘルゴランド=ザンジバル条約を締結した。これを機にイギリスを三国同盟側に引き込もうという意図もあったが、それはイギリス側に拒否された[34]。とはいえ親英反露はこの後しばらくドイツの外交政策の基本方針となる。英露の対立関係の中でどちらか一方にだけ与さないというビスマルク時代の外交方針はここに破棄されたのである[34]。
イギリスとの関係は基本的には1897年頃までは悪くなかった[35]。
帝国主義とイギリスとの対立
ドイツはビスマルク時代にアフリカや太平洋地域に植民地を得ていたが(ドイツ植民地帝国)、イギリス(イギリス帝国)やフランス(フランス植民地帝国)に比べれば圧倒的に植民地が少なかった。そのためヴィルヘルム2世はドイツももっとヨーロッパ外の植民地を獲得してドイツを「陽のあたる場所」に導くことを目指した[36]。
1897年11月には清の山東省においてドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実に清に遠征を行い、1898年には清から山東半島南部の膠州湾租借地を獲得した[36][37][7]。更にこの直後に南太平洋のカロリン諸島やマリアナ諸島も獲得した[38]。
とはいえ、それ以外の植民地拡大はなかなか捗らなかった。植民地拡大にはなんといっても巨大な海軍力が不可欠であった。元来ドイツは陸軍大国であり、海軍は陸軍の付属的な存在と看做されて軽視されてきた。ヴィルヘルム2世はアメリカの海軍理論家アルフレッド・セイヤー・マハンの著作に強い影響を受けていたため、世界を制するには海を制する必要があり、それには巨砲を搭載した巨大戦艦が必要であると確信した[39]。
ドイツ東洋艦隊司令官アルフレート・フォン・ティルピッツが1897年6月に帝国海軍長官に任じられ[39]、彼の下で大規模な建艦計画が始動し、艦隊増強の指針を定めた「艦隊法」が制定された。これを恐れたイギリスも自国艦隊の増強を開始した。当時のイギリスの海軍力は世界最強であり、ドイツがイギリスに対抗し得る海軍力の到達点は果てしなく、英独両国の建艦競争は泥沼化することとなった[39]。
ドイツ包囲網
イギリスはフランスと接近を開始し、英仏協商を締結した。フランスがエジプトにおけるイギリスの権益を認める代わりにイギリスはフランスがモロッコを植民地化することを認めるというものだった[40][41]。これに対抗してヴィルヘルム2世は1905年3月31日に突然モロッコのタンジールを訪問し、フランスに反感を持つスルタンにモロッコ独立を支援することを約束した(第一次モロッコ事件)。更にフランスに対してモロッコ問題の国際会議を求めた。こうして1906年1月から4月にかけてアルヘシラス会議が開催されたが[40]、アメリカやイタリアは英仏を支持し、同盟国オーストリアさえも消極的にドイツを支持するに留まり、結局ドイツはアフリカのフランス領の一部で何も資源のない領域のドイツへの割譲だけで譲歩せざるを得なくなった。ドイツの孤立が深まっただけの結果となった[40]。
ヴィルヘルム2世はイギリスの東アジア植民地化政策を牽制するため、従兄弟に当たるロシア皇帝ニコライ2世に「余は大西洋提督とならん。貴殿は太平洋提督となられよ」と甘言を弄し、ロシアに満州方面への勢力拡大を勧め、日露戦争の原因を作った。一方イギリスはロシアを抑えるため、日本を支援した。結局ロシアは日本に敗れて弱体化。イギリスはもはや東アジアの権益問題においてロシアは脅威とはならないと判断し、ロシアと接近を図り、1907年に英露協商が成立した[40][42]。
こうしてドイツはすっかり国際的に孤立してしまった。日露戦争後、ヴィルヘルム2世は黄禍論を主張して白人優位の世界秩序構築と、そのために日本や清をはじめとする黄色人種国家の打倒を訴え、英仏露のドイツへの敵意を和らげようと努力したが、効果は薄かった。
前述したが、1908年10月28日にイギリスの新聞「デイリー・テレグラフ」にイギリス軍大佐とヴィルヘルム2世の対談が掲載された(デイリー・テレグラフ事件)[32]。その対談でヴィルヘルム2世は自分は親英論者であること、そのために自分はドイツ国内で孤立していること、またボーア戦争の際に露仏両国から対英大陸同盟の働きかけがあったが、自分はそれに乗らなかったこと、ボーア戦争においてイギリスが勝利できたのは自分の案のおかげであること、ドイツ艦隊の増強はイギリスをターゲットにしたものではないことなどを主張した。ヴィルヘルム2世としては英国の反独感情を和らげようとして行った対談だったのだが、「ドイツ皇帝の不遜な態度」にかえってイギリス世論が反発し、露仏も激しく反発してドイツはますます孤立してしまった[32]。
モロッコで起こった反フランス暴動を鎮圧すべく出動したフランス軍に対抗して、1911年7月1日にアガディールに艦隊を派遣し、モロッコの領土保全と門戸開放を訴え、フランスのモロッコ権益を侵そうとして対立を深めた(第二次モロッコ事件)。ドイツはモロッコ問題から手を引く条件としてフランス領コンゴのドイツへの譲渡を要求し、中央アフリカへの進出を狙ったが、イギリスがフランス断固支持を表明したため、結局ドイツが新たに獲得した植民地はたいして価値のないカメルーンだけだった[43]。
第一次世界大戦
列強との対立は強まり、ついにドイツを第一次世界大戦に巻き込む。ヴィルヘルム2世はオーストリアとの同盟を重視すべきだと主張して世論を参戦に導いたが、軍事的に指導権を制限され、大戦末期にはヒンデンブルクとルーデンドルフによって政治的にも実権を失った。
長期戦の結果ドイツは疲弊し、1918年にはアメリカに和平を乞うようになった。しかしアメリカのウィルソン大統領は休戦の条件として十四か条の平和原則を発表すると共に、暗にヴィルヘルム2世の退位を迫った[44]。そのため、ヴィルヘルム2世は休戦を決断できずにいた。11月9日、宰相マクシミリアン・フォン・バーデンは一方的に皇帝の退位を発表、ヴィルヘルム2世は司令部のあったスパ(ベルギ-)からオランダに亡命した。11月28日、皇帝は退位宣言に署名し、ホーエンツォレルン家によるドイツ支配は終焉を迎えた。バーデンの後任の首相となったエーベルト(のち初代ドイツ大統領)は立憲君主制論者で、帝政廃止の意図はなかったが、元皇帝一家はホーエンツォレルン家の財産を何両もの貨車に満載してドイツを去ったため、なし崩し的にドイツは共和制に移行することになった。
似たような境遇に遭ったヨーロッパの王侯達の中でヴィルヘルムのように多額の財産を確保して国外退去した者は稀であった[45]。オランダ政府は政治活動の停止を条件に受け入れを承諾して、元皇帝のドイツへの引き渡しを拒み、ヴィルヘルム2世はユトレヒト州ドールンで、かつての臣下を罵りながら趣味として木を伐る余生を過ごすことになる。彼は小さな城館で少数の旧臣を従えながら、貴族として安楽な生活を送りながら歴史に埋没して行ったかに見えた。
退位後
1921年4月11日にアウグステ・ヴィクトリア皇后が死去し、同年11月5日ヴィルヘルム2世は兄系ロイス侯女ヘルミーネと再婚した。
ヴィルヘルム2世はオランダ亡命中も常に復位の希望を抱いており、戦後もドイツの保守派や右翼に対して一定の政治的影響力を保っていた。1925年、ドイツ大統領となったヒンデンブルクは帝政論者で、ヴィルヘルム2世の復位を主張していた。一方、ブリューニング首相は本人ではなく、孫を帰国させて帝政復古する案を持っていたが、ヒンデンブルク大統領はヴィルヘルム2世への忠誠にこだわった。1934年死去したヒンデンブルクは遺言で、ヴィルヘルム2世の孫であるルイ・フェルディナントを迎えた帝政復古を言い渡したが、首相となっていたヒトラーは握り潰したという。
NSDAP(ナチス)にも好意を寄せており、ドイツ本国に留まっていた第四皇子アウグストをナチ党に入党させ、また1931年にはヘルマン・ゲーリングがオランダを訪れてヴィルヘルム2世に面会している。しかしヒトラーが反君主主義者だと知ると、ナチス支援も消極的になっていった。一方で1940年5月、オランダがナチス・ドイツ軍に占領されそうになった際には、イギリスのチャーチルからヴィルヘルム2世に対してイギリスへの亡命の勧めがあったにもかかわらず、これを拒絶してオランダに残り、ドイツ軍の保護を受けている。さらに同年、かつてドイツ皇帝だった自分が成し遂げることができなかったパリ陥落をヒトラーのドイツ軍が達成したのを見ると、ヒトラーに対して祝電を打った。またナチスを出迎えようとしたが、冷たく無視されたと言われる。
1941年6月4日、ヴィルヘルム2世はドールンで死去した。ドイツ国内における葬儀は禁止され、ナチ党は皇族や以前から近しかった将校にのみドールンでの埋葬に参列することを許した。一方で、鍵十字などのナチのシンボルを掲げるのを禁止した。ヴィルヘルム2世はまずドールン市門の近くにある礼拝堂に葬られ、その後遺言に従って、死後ドールンの館の庭園に建設された霊廟に改葬された。自身の案になる墓碑にはこう刻まれている。
「 | 我を賞賛することなかれ。賞賛を要せぬゆえ。我に栄誉を与うるなかれ。栄誉を求めぬゆえ。我を裁くことなかれ。我裁かれたるがゆえ。 | 」 |
人物
ヴィルヘルム2世の時代は進取の気性と保守性とが混在した過渡期だったが、それには皇帝個人の嗜好も大きく影響している。芸術的には保守的で、ゲアハルト・ハウプトマンの作品のような自然主義文学を「排水溝文学」と呼んで否定しているが、技術的な進歩には非常な興味を示し、学術団体カイザー=ヴィルヘルム協会を設立して科学者を援助した。しかし自らは自動車や船に乗ることを恐れていたといわれている。
道徳的にも保守主義が支配した時代であり、それは1907年のオイレンブルク事件によって象徴されている。ヴィルヘルム2世の個人的相談役フィリップ・オイレンブルク侯爵はマクシミリアン・ハルデンの告発によって同性愛者とされ、それによって皇帝が侯爵との絶交を余儀なくされた。
ヴィルヘルム2世の独特な口髭は「カイゼル髭」として有名である。
黄禍論者であり、中国人は徹底して軽蔑した。義和団の乱鎮圧戦の際にも激しい中国人蔑視の演説を行った[46]。日本に対しても三国干渉の際に黄禍論を展開するなどしていたが、一方で日本人については好感も持っていた。陸軍大演習の際、日本軍人に「日露戦争の日本軍の戦法を採用した。」と説明したり、ベルリンを散歩の際、居合わせた日本人留学生に声をかけて激励したこともある[47]。
一方、英国については「ドイツはキリスト教国であるが、イギリスは反キリスト教的な自由主義の国」と酷評している。また、イギリスがフリーメーソンとユダヤ人に経済的に支配されていると信じており、2度の世界大戦も彼らが引き起したと主張していた。
このように、反ユダヤ主義的な考えを持ってはいたが、1938年に起きた水晶の夜事件については、自身が「ドイツ人であることを躊躇う」との表現で、ナチスによるユダヤ人迫害を憂慮する手紙を娘のヴィクトリア・ルイーゼに宛てている。
子女
皇后アウグステ・ヴィクトリアとの間には、以下の六男一女をもうけた。後妻のヘルミーネとの間には子供はいない。
- フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アウグスト・エルンスト(1882年 - 1951年、皇太子)
- ヴィルヘルム・アイテル・フリードリヒ・クリスティアン・カール(1883年 - 1942年)
- アーダルベルト・フェルディナント・ベレンガル・ヴィクトル(1884年 - 1948年)
- アウグスト・ヴィルヘルム・ハインリヒ・ギュンター・ヴィクトル(1887年 - 1949年)
- オスカー・カール・グスタフ・アドルフ(1888年 – 1958年)
- ヨアヒム・フランツ・フンベルト(1890年 - 1920年)
- ヴィクトリア・ルイーゼ・アーデルハイト・マティルデ・シャルロッテ(1892年 - 1980年、ブラウンシュヴァイク公エルンスト・アウグスト妃)
参考文献
- エーリッヒ・アイク(de) 著、救仁郷繁 訳『ワイマル共和国史 I 1917-1922』ぺりかん社、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4831503299。
- ヴァルター・ゲルリッツ 著、守屋純 訳『ドイツ参謀本部興亡史』学研、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4054009813。
- セバスティアン・ハフナー(de) 著、山田義顕 訳『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』平凡社、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4582447026。
- 成瀬治、山田欣吾、木村靖二『ドイツ史3 1890年-現在』山川出版〈世界歴史大系〉、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4634461406。
- 星乃治彦『男たちの帝国 ヴィルヘルム2世からナチスへ』岩波書店、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4000223881。
- 村島靖雄『カイゼル ウィルヘルム二世』鍾美堂〈偉人叢書〉、 エラー: この日付はリンクしないでください。 。
- ハンス・モムゼン(de) 著、関口宏道 訳『ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭』水声社、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4891764494。
- 『戦略・戦術・兵器詳解 図説 第一次世界大戦 <上>』学研〈歴史群像シリーズ〉、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4056050233。
- 『戦略・戦術・兵器詳解 図説 第一次世界大戦 <下>』学研〈歴史群像シリーズ〉、2008。ISBN 978-4056050516。
脚注
- ^ 村島(1914)、p.1
- ^ a b c d e LeMO
- ^ a b c 村島(1914)、p.2
- ^ a b c d e f 星乃(2006)、p.29
- ^ a b c d 『図説 第一次世界大戦 上』、p.164
- ^ 村島(1914)、p.3
- ^ a b c d e f g 『図説 第一次世界大戦 上』、p.165
- ^ a b 星乃(2006)、p.30
- ^ 村島(1914)、p.4
- ^ 村島(1914)、p.5
- ^ 村島(1914)、p.6
- ^ a b c 村島(1914)、p.7
- ^ 村島(1914)、p.7-8
- ^ a b 村島(1914)、p.9
- ^ 星乃(2006)、p.33-34
- ^ a b 星乃(2006)、p.34
- ^ a b 成瀬・山田・木村(1997)、p.3
- ^ 星乃(2006)、p.35-36
- ^ 村島(1914)、p.10
- ^ a b 星乃(2006)、p.36
- ^ 『図説 第一次世界大戦 上』、p.166
- ^ 村島(1914)、p.10-11
- ^ 『図説 第一次世界大戦 上』、p.165-166
- ^ a b 成瀬・山田・木村(1997)、p.4
- ^ a b c d e 成瀬・山田・木村(1997)、p.5
- ^ ハフナー(1989)、p.77・80
- ^ a b 成瀬・山田・木村(1997)、p.6
- ^ 成瀬・山田・木村(1997)、p.10
- ^ 成瀬・山田・木村(1997)、p.13
- ^ 成瀬・山田・木村(1997)、p.14
- ^ 成瀬・山田・木村(1997)、p.25
- ^ a b c d 成瀬・山田・木村(1997)、p.26
- ^ a b 成瀬・山田・木村(1997)、p.28
- ^ a b c d 成瀬・山田・木村(1997)、p.7
- ^ ハフナー(1989)、p.92
- ^ a b 成瀬・山田・木村(1997)、p.16
- ^ ハフナー(1989)、p.89
- ^ ハフナー(1989)、p.89・313
- ^ a b c 成瀬・山田・木村(1997)、p.17
- ^ a b c d 成瀬・山田・木村(1997)、p.48
- ^ ハフナー(1989)、p.93
- ^ ハフナー(1989)、p.94
- ^ 成瀬・山田・木村(1997)、p.56
- ^ ヴィルヘルム2世個人への要求であり、帝政廃止を迫ったわけではない点に注意。
- ^ ロシア帝国のニコライ2世は家族ともどもボリシェヴィキに捕えられ、後に処刑。オーストリア=ハンガリー帝国のカール1世は大西洋上のマデイラ島へ亡命。オスマン帝国のメフメト6世はマルタに亡命。
- ^ 星乃(2006)、p.31
- ^ 斎藤茂吉『ウィルヘルム2世』斎藤茂吉全集第18巻 岩波書店
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