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遠国奉行の管轄地を奉行知行所と呼ぶ。慶応4年/明治元年([[1868年]])に江戸幕府が倒れると、明治政府によって江戸を含む主な9つの場所には[[#明治初期の府の設置と変遷|府]]が置かれた。このうち江戸府は後に[[東京府]]に名前を変えた。明治4年([[1871年]])に行われた[[廃藩置県]]までの間に、東京府・大阪府・京都府以外の箱館府・神奈川府・越後府・新潟府・度会府・奈良府・長崎府の各府は[[#明治初期の府の設置と変遷|県]]となった。 |
遠国奉行の管轄地を奉行知行所と呼ぶ。慶応4年/明治元年([[1868年]])に江戸幕府が倒れると、明治政府によって江戸を含む主な9つの場所には[[#明治初期の府の設置と変遷|府]]が置かれた。このうち江戸府は後に[[東京府]]に名前を変えた。明治4年([[1871年]])に行われた[[廃藩置県]]までの間に、東京府・大阪府・京都府以外の箱館府・神奈川府・越後府・新潟府・度会府・奈良府・長崎府の各府は[[#明治初期の府の設置と変遷|県]]となった。 |
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== 遠国奉行の一覧 == |
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:''詳細は[[京都町奉行]]参照'' |
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! 備考 |
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| [[京都町奉行]] || || || [[京都裁判所]] || [[老中]]支配であるが、任地の関係で[[京都所司代]]の指揮下で職務を行った。[[京都]]町政の他畿内[[天領]]および'''寺社領'''の支配も行うため、[[寺社奉行]]・[[勘定奉行]]・[[町奉行]]の三奉行を兼ねたような職務であった。定員は2名で、東西2つの奉行所が設置されていた。役高は1500石で、役料として現米600石が支給された。配下には与力20騎と同心50人が付いた。 |
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| [[大坂町奉行]] || || || [[大坂裁判所]] || 定員2名で東西2つの奉行所が設置された。役高は1500石で、役料として現米600石が支給された。配下は与力30騎同心50人。 |
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| 駿府町奉行 || || || || 下記参照。 |
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| [[長崎奉行]] || || || [[長崎裁判所]] || [[長崎]]町政の他、[[オランダ]]との貿易も担当した。定員は変動が多く、最初1名で、寛永10年([[1633年]])より2名、貞享3年([[1686年]])より3名、元禄13年([[1700年]])より4名と増員されたが、宝永以降は2名で固定された。役高は1000石で、役料として440俵が支給された。配下は与力10騎同心15人。 |
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|rowspan=3| 下田奉行 || [[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]]) || [[享保]]5年([[1720年]]) || 浦賀奉行 || 下記参照。 |
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| [[天保]]13年([[1842年]]) || 天保15年([[1844年]]) || || 再置。 |
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| [[嘉永]]7年([[1854年]]) || [[万延]]元年([[1860年]]) || || 再置。 |
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| 浦賀奉行 || 享保5年(1720年) || || || 下記参照。 |
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| [[伏見奉行]] || || || || |
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| [[日光奉行]] || || || [[日光県]] || |
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| [[山田奉行]] || || || [[度会府]] || |
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| 奈良奉行 || [[慶長]]18年([[1613年]]) || || || |
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| [[堺奉行]] || || || || 定員1名。役高1000石で、役料現米600石を支給された。配下は与力10騎同心50人。 |
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| [[佐渡奉行]] || || || [[佐渡県]](第1次) || [[佐渡金山]]の支配を担当した。定員1名。役高1000石で、役料として1500俵100人扶持を支給された。配下は与力30騎同心70人。 |
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|rowspan=2| 箱館奉行 || [[享和]]2年([[1802年]]) || 文化4年([[1807年]]) || 松前奉行 || 下記参照。 |
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| [[安政]]3年([[1856年]]) || || [[箱館裁判所]] || 再置。 |
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| 松前奉行 || 文化4年(1807年) || 安政3年(1856年) || 箱館奉行 || 下記参照。 |
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| 新潟奉行 || 天保14年(1843年) || || [[越後府]](第1次) || 下記参照。 |
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| 羽田奉行 || 天保13年([[1842年]]) || || || 外国船の来航に備え江戸湾の防御を固めるための政策の一環として[[羽田 (大田区)|羽田]]に新設されたが、2年後に廃止。羽田(現在の東京都大田区)の港湾、船舶を掌った。1000石高で、役料は500俵。城中では芙蓉の間席で下田奉行の次席である。 |
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| 清水奉行 || 元和7年([[1621年]]) || [[元禄]]9年([[1696年]]) || 駿府町奉行 || [[駿河湾]]の警衛を役務とし、配下に水主50人が所属。職務は駿府町奉行が継承した。 |
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|rowspan=2| 兵庫奉行 || [[元治]]元年([[1864年]]) || [[慶応]]元年([[1865年]]) || || 下記参照。 |
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[[老中]]支配であるが、任地の関係で[[京都所司代]]の指揮下で職務を行った。[[京都]]町政の他畿内[[天領]]および'''寺社領'''の支配も行うため、[[寺社奉行]]・[[勘定奉行]]・[[町奉行]]の三奉行を兼ねたような職務であった。定員は2名で、東西2つの奉行所が設置されていた。役高は1500石で、役料として現米600石が支給された。配下には与力20騎と同心50人が付いた。 |
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| 慶応3年([[1867年]]) || || [[兵庫裁判所]] || 再置。 |
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|} |
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== 大坂町奉行 == |
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:''詳細は[[大坂町奉行]]参照'' |
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定員2名で東西2つの奉行所が設置された。役高は1500石で、役料として現米600石が支給された。配下は与力30騎同心50人。 |
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== 備考 == |
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=== 駿府町奉行 === |
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[[駿府]]の町政の他、[[駿河国]]内の[[天領]]の、主に[[公事方]]を扱った。駿府の在勤だが、[[駿府城代]]ではなく老中の支配に属した。駿府城代と協議して駿府を通行する諸大名諸士の密察、駿河や伊豆の裁判仕置、[[久能山東照宮]]の警衛を役務とした。 |
[[駿府]]の町政の他、[[駿河国]]内の[[天領]]の、主に[[公事方]]を扱った。駿府の在勤だが、[[駿府城代]]ではなく老中の支配に属した。駿府城代と協議して駿府を通行する諸大名諸士の密察、駿河や伊豆の裁判仕置、[[久能山東照宮]]の警衛を役務とした。 |
||
定員は2名で横内組町奉行と大手町奉行があった。慶長12年(1607年)に設けられて2人が任命されるが、元和2年(1616年)以後しばらく廃職となる。寛永9年(1632年)4月に再置されてから、元禄15年(1702年)9月まで2人体制を継続した。元禄15年(1702年)9月に1人役と改め、横内組を廃止する事となった。役高1,000石・役料は500俵。慶応3年(1867年)には役金1500両と決められた。城中では芙蓉の間席。配下は与力8騎・同心60人・水主50人。 |
定員は2名で横内組町奉行と大手町奉行があった。慶長12年(1607年)に設けられて2人が任命されるが、元和2年(1616年)以後しばらく廃職となる。寛永9年(1632年)4月に再置されてから、元禄15年(1702年)9月まで2人体制を継続した。元禄15年(1702年)9月に1人役と改め、横内組を廃止する事となった。役高1,000石・役料は500俵。慶応3年(1867年)には役金1500両と決められた。城中では芙蓉の間席。配下は与力8騎・同心60人・水主50人。 |
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=== 下田奉行・浦賀奉行 === |
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:''詳細は[[長崎奉行]]参照'' |
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[[長崎]]町政の他、[[オランダ]]との貿易も担当した。定員は変動が多く、最初1名で、寛永10年([[1633年]])より2名、貞享3年([[1686年]])より3名、元禄13年([[1700年]])より4名と増員されたが、宝永以降は2名で固定された。役高は1000石で、役料として440俵が支給された。配下は与力10騎同心15人。 |
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== 下田奉行・浦賀奉行 == |
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下田奉行は、[[伊豆国|伊豆]][[下田市|下田]]の港の警備、船舶の監督、貨物検査、当地の民政が役務であった。1000石高の職で役料が1000俵支給された。定員は1~2名。 |
下田奉行は、[[伊豆国|伊豆]][[下田市|下田]]の港の警備、船舶の監督、貨物検査、当地の民政が役務であった。1000石高の職で役料が1000俵支給された。定員は1~2名。 |
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*文久2年~ - 1人 |
*文久2年~ - 1人 |
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=== 奈良奉行 === |
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{{main|伏見奉行}} |
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== 日光奉行 == |
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{{main|日光奉行}} |
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== 山田奉行 == |
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{{main|山田奉行}} |
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== 奈良奉行 == |
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[[興福寺]]・[[東大寺]]など[[奈良|南都]]の大寺院の監視とその門前町([[ならまち]]・[[奈良きたまち]])の支配のため設置。南都町奉行とも呼ばれる。老中支配だが、直接には[[京都所司代]]の指揮下にあり、その主要任務は[[春日大社]]の警衛と神事であった。 |
[[興福寺]]・[[東大寺]]など[[奈良|南都]]の大寺院の監視とその門前町([[ならまち]]・[[奈良きたまち]])の支配のため設置。南都町奉行とも呼ばれる。老中支配だが、直接には[[京都所司代]]の指揮下にあり、その主要任務は[[春日大社]]の警衛と神事であった。 |
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江戸幕府以前、豊臣政権時代の天正10年(1582年)にも同名の奉行職はあった。 |
江戸幕府以前、豊臣政権時代の天正10年(1582年)にも同名の奉行職はあった。 |
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=== 箱館奉行・松前奉行 === |
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:''詳細は[[堺奉行]]参照'' |
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定員1名。役高1000石で、役料現米600石を支給された。配下は与力10騎同心50人。 |
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== 佐渡奉行 == |
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:''詳細は[[佐渡奉行]]参照'' |
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[[佐渡金山]]の支配を担当した。定員1名。役高1000石で、役料として1500俵100人扶持を支給された。配下は与力30騎同心70人。 |
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== 箱館奉行(松前奉行) == |
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北辺警護のため[[松前藩]]の領地であった[[蝦夷地|東蝦夷地]]を[[上知]]した[[享和]]2年([[1802年]])2月箱館に蝦夷奉行が設置された。同年5月箱館奉行に改称。[[文化 (元号)|文化]]([[1804年]])元年、[[道南十二館|宇須岸館]](別名・河野館または箱館)跡に奉行所を置き、これに伴い蝦夷地[[総社]]・[[函館八幡宮]]を会所町(現八幡坂の上)に[[遷座]]した。文化4年([[1807年]])[[和人地]]及び西蝦夷地も上知、箱館奉行を松前奉行と改め松前に置いた。[[文政]]4年([[1821年]])和人地及び全蝦夷地を[[松前氏]]に還付し一旦松前奉行を廃した。 |
北辺警護のため[[松前藩]]の領地であった[[蝦夷地|東蝦夷地]]を[[上知]]した[[享和]]2年([[1802年]])2月箱館に蝦夷奉行が設置された。同年5月箱館奉行に改称。[[文化 (元号)|文化]]([[1804年]])元年、[[道南十二館|宇須岸館]](別名・河野館または箱館)跡に奉行所を置き、これに伴い蝦夷地[[総社]]・[[函館八幡宮]]を会所町(現八幡坂の上)に[[遷座]]した。文化4年([[1807年]])[[和人地]]及び西蝦夷地も上知、箱館奉行を松前奉行と改め松前に置いた。[[文政]]4年([[1821年]])和人地及び全蝦夷地を[[松前氏]]に還付し一旦松前奉行を廃した。 |
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その役務は、蝦夷地の行政や防衛であった。 |
その役務は、蝦夷地の行政や防衛であった。 |
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== 新潟奉行 == |
=== 新潟奉行 === |
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[[天保]]14年(1843年)に天領となった[[新潟市|新潟]]周辺の地域を支配するため新設。設置の理由は日本海交通の要衝である[[新潟港]]の管理であった。その後、開国に当たり新潟が開港地となったため、その重要性が増した。 |
[[天保]]14年(1843年)に天領となった[[新潟市|新潟]]周辺の地域を支配するため新設。設置の理由は日本海交通の要衝である[[新潟港]]の管理であった。その後、開国に当たり新潟が開港地となったため、その重要性が増した。 |
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新潟に駐在し、その民政や、出入船舶の監視、密貿易の取り締まり、海岸警備、海防強化が役務であった。老中支配で、1000石高、役料1000俵、慶応3年(1867年)には石高にかかわらず役金2000両となった。定員1名。 |
新潟に駐在し、その民政や、出入船舶の監視、密貿易の取り締まり、海岸警備、海防強化が役務であった。老中支配で、1000石高、役料1000俵、慶応3年(1867年)には石高にかかわらず役金2000両となった。定員1名。 |
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=== 兵庫奉行 === |
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天保13年([[1842年]])に、外国船の来航に備え江戸湾の防御を固めるための政策の一環として[[羽田 (大田区)|羽田]]に新設されたが、2年後に廃止。 |
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羽田(現在の東京都大田区)の港湾、船舶を掌った。1000石高で、役料は500俵。城中では芙蓉の間席で下田奉行の次席である。 |
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== 清水奉行 == |
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清水奉行は[[元和 (日本)|元和]]7年([[1621年]])に設置。[[駿河湾]]の警衛を役務とし、配下に水主50人が所属。 |
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元禄9年(1696年)に廃職となり、清水奉行の職務は駿府町奉行が継承した。 |
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== 兵庫奉行 == |
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元治元年(1864年)に小笠原摂津守が任じられたのが最初である。翌慶応元年(1865年)に兵庫港が廃止され、兵庫奉行の池野山城守好謙は堺奉行へ転役。慶応3(1867年)年に、兵庫開港となった際に再び設置された。 |
元治元年(1864年)に小笠原摂津守が任じられたのが最初である。翌慶応元年(1865年)に兵庫港が廃止され、兵庫奉行の池野山城守好謙は堺奉行へ転役。慶応3(1867年)年に、兵庫開港となった際に再び設置された。 |
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老中の支配下で、芙蓉の間席。1000石高、役料現米600石。慶応3年9月には役金3000両と定められた。明治元年の『武鑑』では、2000石高、役料1500石と記され、[[柴田剛中|柴田日向守剛中]]の名が記載されている。配下に支配組頭が付属。 |
老中の支配下で、芙蓉の間席。1000石高、役料現米600石。慶応3年9月には役金3000両と定められた。明治元年の『武鑑』では、2000石高、役料1500石と記され、[[柴田剛中|柴田日向守剛中]]の名が記載されている。配下に支配組頭が付属。 |
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== 明治初期の府の設置と変遷 == |
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:日付は[[旧暦]] |
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|align="right"|慶応4年4月11日 |
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|([[江戸城]]開城) |
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|colspan="2"|([[グレゴリオ暦]]1868年5月3日) |
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|align="right"|閏4月24日||[[箱館府]]設置 |
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|align="right"|閏4月25日||[[京都府]]設置 |
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|align="right"|5月2日||[[大阪府]]設置 |
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|align="right"|5月4日||長崎府設置 |
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|align="right"|5月12日||江戸府設置 |
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|align="right"|5月15日||([[上野戦争]]) |
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|align="right"|5月29日||越後府(第1次)設置 |
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|align="right"|6月17日||神奈川府設置 |
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|align="right"|7月6日||[[度会府]]設置 |
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|align="right"|7月17日||([[東京奠都ノ詔]]) |
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|align="right"|7月17日||江戸府を[[東京府]]に改称 |
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|align="right"|7月29日||([[北越戦争]]終結([[長岡城]]再占領)) |
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|align="right"|7月29日||奈良府設置 |
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|align="right"|8月19日||([[榎本武揚]]江戸脱出) |
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|align="right"|9月8日||(明治に改元。同年1月1日に遡って明治元年とされる。) |
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|align="right"|9月21日||越後府(第1次)を新潟府に改称 |
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|align="right"|9月21日||神奈川府を[[神奈川県]]に改称 |
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|align="right"|9月22日||([[会津戦争]]終結) |
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|align="right"|10月28日||甲斐府設置 |
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|align="right"|明治2年2月8日||新潟府から越後府(第2次)を分置 |
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|align="right"|5月18日||([[箱館戦争]]終結) |
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|align="right"|6月20日||長崎府を長崎県に改称 |
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|align="right"|7月1日||([[版籍奉還]]・[[府藩県三治制]]確立) |
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|align="right"|7月17日||(京都・東京・大坂以外の諸府改称の太政官布告) |
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|align="right"|7月17日||度会府を[[度会県]]に改称 |
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|align="right"|7月17日||奈良府を[[奈良県]]に改称 |
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|align="right"|7月17日||箱館府を[[箱館県]]に改称 |
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|align="right"|7月20日||甲斐府を[[甲府県]]に改称 |
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|align="right"|7月24日||箱館県から[[開拓使]](設置は7月8日)へ移行 |
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|align="right"|7月27日||越後府(第2次)を水原県に改称 |
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|align="right"|明治3年3月7日||新潟府と水原県を[[新潟県]]に統合 |
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[[category:江戸幕府の職制]] |
[[category:江戸幕府の職制]] |
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[[en:Shimoda bugyō]] |
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[[zh:遠國奉行]] |
[[zh:遠國奉行]] |
2011年7月31日 (日) 23:58時点における版
遠国奉行(おんごくぶぎょう)は、江戸幕府の役職の一つ。江戸以外の幕府直轄領(天領)のうち重要な場所に置かれ、その土地の政務をとりあつかった奉行、役方に分類される。
概要
遠国奉行は、京都町奉行・大坂町奉行・駿府町奉行の各町奉行と伏見奉行・佐渡奉行・長崎奉行・堺奉行・山田奉行・奈良奉行・日光奉行・浦賀奉行・下田奉行・新潟奉行・箱館奉行・神奈川奉行・兵庫奉行の各奉行の総称である。伏見奉行は大名から、他は旗本から任ぜられた。
老中の支配下で、芙蓉間詰諸大夫役。役高は1000石から2000石と任地により異なり、役料が支給されることもあった。
遠国奉行の管轄地を奉行知行所と呼ぶ。慶応4年/明治元年(1868年)に江戸幕府が倒れると、明治政府によって江戸を含む主な9つの場所には府が置かれた。このうち江戸府は後に東京府に名前を変えた。明治4年(1871年)に行われた廃藩置県までの間に、東京府・大阪府・京都府以外の箱館府・神奈川府・越後府・新潟府・度会府・奈良府・長崎府の各府は県となった。
遠国奉行の一覧
裁判所名 | 設置日 | 廃止日 | 後身 | 備考 |
---|---|---|---|---|
京都町奉行 | 京都裁判所 | 老中支配であるが、任地の関係で京都所司代の指揮下で職務を行った。京都町政の他畿内天領および寺社領の支配も行うため、寺社奉行・勘定奉行・町奉行の三奉行を兼ねたような職務であった。定員は2名で、東西2つの奉行所が設置されていた。役高は1500石で、役料として現米600石が支給された。配下には与力20騎と同心50人が付いた。 | ||
大坂町奉行 | 大坂裁判所 | 定員2名で東西2つの奉行所が設置された。役高は1500石で、役料として現米600石が支給された。配下は与力30騎同心50人。 | ||
駿府町奉行 | 下記参照。 | |||
長崎奉行 | 長崎裁判所 | 長崎町政の他、オランダとの貿易も担当した。定員は変動が多く、最初1名で、寛永10年(1633年)より2名、貞享3年(1686年)より3名、元禄13年(1700年)より4名と増員されたが、宝永以降は2名で固定された。役高は1000石で、役料として440俵が支給された。配下は与力10騎同心15人。 | ||
下田奉行 | 元和2年(1616年) | 享保5年(1720年) | 浦賀奉行 | 下記参照。 |
天保13年(1842年) | 天保15年(1844年) | 再置。 | ||
嘉永7年(1854年) | 万延元年(1860年) | 再置。 | ||
浦賀奉行 | 享保5年(1720年) | 下記参照。 | ||
伏見奉行 | ||||
日光奉行 | 日光県 | |||
山田奉行 | 度会府 | |||
奈良奉行 | 慶長18年(1613年) | |||
堺奉行 | 定員1名。役高1000石で、役料現米600石を支給された。配下は与力10騎同心50人。 | |||
佐渡奉行 | 佐渡県(第1次) | 佐渡金山の支配を担当した。定員1名。役高1000石で、役料として1500俵100人扶持を支給された。配下は与力30騎同心70人。 | ||
箱館奉行 | 享和2年(1802年) | 文化4年(1807年) | 松前奉行 | 下記参照。 |
安政3年(1856年) | 箱館裁判所 | 再置。 | ||
松前奉行 | 文化4年(1807年) | 安政3年(1856年) | 箱館奉行 | 下記参照。 |
新潟奉行 | 天保14年(1843年) | 越後府(第1次) | 下記参照。 | |
羽田奉行 | 天保13年(1842年) | 外国船の来航に備え江戸湾の防御を固めるための政策の一環として羽田に新設されたが、2年後に廃止。羽田(現在の東京都大田区)の港湾、船舶を掌った。1000石高で、役料は500俵。城中では芙蓉の間席で下田奉行の次席である。 | ||
清水奉行 | 元和7年(1621年) | 元禄9年(1696年) | 駿府町奉行 | 駿河湾の警衛を役務とし、配下に水主50人が所属。職務は駿府町奉行が継承した。 |
兵庫奉行 | 元治元年(1864年) | 慶応元年(1865年) | 下記参照。 | |
慶応3年(1867年) | 兵庫裁判所 | 再置。 |
備考
駿府町奉行
駿府の町政の他、駿河国内の天領の、主に公事方を扱った。駿府の在勤だが、駿府城代ではなく老中の支配に属した。駿府城代と協議して駿府を通行する諸大名諸士の密察、駿河や伊豆の裁判仕置、久能山東照宮の警衛を役務とした。
定員は2名で横内組町奉行と大手町奉行があった。慶長12年(1607年)に設けられて2人が任命されるが、元和2年(1616年)以後しばらく廃職となる。寛永9年(1632年)4月に再置されてから、元禄15年(1702年)9月まで2人体制を継続した。元禄15年(1702年)9月に1人役と改め、横内組を廃止する事となった。役高1,000石・役料は500俵。慶応3年(1867年)には役金1500両と決められた。城中では芙蓉の間席。配下は与力8騎・同心60人・水主50人。
下田奉行・浦賀奉行
下田奉行は、伊豆下田の港の警備、船舶の監督、貨物検査、当地の民政が役務であった。1000石高の職で役料が1000俵支給された。定員は1~2名。
当初元和2年(1616年)に伊豆下田に置かれていたが、享保5年(1720年)には江戸湾内の経済活動の活発化に伴って相模浦賀に移転し、当時の下田奉行・堀隠岐守利寿が初代浦賀奉行となる。この時は佐渡奉行の次席、役料は500俵だった。浦賀奉行の定員は時代によって変わった。
浦賀奉行の役務は、江戸湾に入る船舶の監視・積荷の検査・相模や浦賀の民政裁判等を担当した。配下は組頭と与力10騎、同心50人、ただし人数は時代によって変化した。他に、足軽20人、水主頭取11人、足留水主190人がいた。
文化年間になると、日本へ外国船が来航するようになり、浦賀奉行の職務に江戸湾の警備が加わることになった。相模側の警備は、浦賀奉行を中心として、川越藩(非常時には小田原藩も)が援護することとなった。
役高は1000石で、役料500俵を支給された。嘉永6年(1853年)の黒船来航以後は、重要性が増し、2000石高となる。慶応3年(1867年)には、従来の足高、役知、役料、役扶持を中止して、役金として1500両が支給された。
幕末期には外国との交渉の窓口となった。天保13年(1842年)-天保15年(1844年)及び嘉永7年(1854年)-万延元年(1860年)にかけては外国船の来航に備えて下田奉行も再置され、この期間には浦賀・下田の両奉行所が並存していた。主として会津藩士が赴任した。
浦賀奉行定員数
- 享保5年(1720年)~文政2年(1819年) - 1人
- 文政2年~天保13年(1842年) - 2人
- 天保13年~弘化元年(1844年) - 1人
- 弘化元年~文久2年(1862年) - 2人
- 文久2年~ - 1人
奈良奉行
興福寺・東大寺など南都の大寺院の監視とその門前町(ならまち・奈良きたまち)の支配のため設置。南都町奉行とも呼ばれる。老中支配だが、直接には京都所司代の指揮下にあり、その主要任務は春日大社の警衛と神事であった。
慶長18年(1613年)に設置。定員1~2名。役高1000石で、役料700俵を支給された。奈良に駐在し、配下は与力7騎と同心30人に牢番1人。奉行所は現・奈良女子大学の敷地内に置かれていた。
江戸幕府以前、豊臣政権時代の天正10年(1582年)にも同名の奉行職はあった。
箱館奉行・松前奉行
北辺警護のため松前藩の領地であった東蝦夷地を上知した享和2年(1802年)2月箱館に蝦夷奉行が設置された。同年5月箱館奉行に改称。文化(1804年)元年、宇須岸館(別名・河野館または箱館)跡に奉行所を置き、これに伴い蝦夷地総社・函館八幡宮を会所町(現八幡坂の上)に遷座した。文化4年(1807年)和人地及び西蝦夷地も上知、箱館奉行を松前奉行と改め松前に置いた。文政4年(1821年)和人地及び全蝦夷地を松前氏に還付し一旦松前奉行を廃した。
幕末には乙部村以北と木古内村以東の和人地と全蝦夷地が再度上知され安政3年(1856年)再び箱館に箱館奉行が置かれる。開港地箱館における外国人の応対も担当した。定員は2~4名で、内1名は江戸詰となる。役高は2000石で、役料1500俵、在勤中の手当金700両が支給された。奉行所は、最初は現在の元町公園(函館市元町)に置かれたが、元治元年(1864年)奉行所を五稜郭へ移転した。 その役務は、蝦夷地の行政や防衛であった。
新潟奉行
天保14年(1843年)に天領となった新潟周辺の地域を支配するため新設。設置の理由は日本海交通の要衝である新潟港の管理であった。その後、開国に当たり新潟が開港地となったため、その重要性が増した。
新潟に駐在し、その民政や、出入船舶の監視、密貿易の取り締まり、海岸警備、海防強化が役務であった。老中支配で、1000石高、役料1000俵、慶応3年(1867年)には石高にかかわらず役金2000両となった。定員1名。
兵庫奉行
元治元年(1864年)に小笠原摂津守が任じられたのが最初である。翌慶応元年(1865年)に兵庫港が廃止され、兵庫奉行の池野山城守好謙は堺奉行へ転役。慶応3(1867年)年に、兵庫開港となった際に再び設置された。
老中の支配下で、芙蓉の間席。1000石高、役料現米600石。慶応3年9月には役金3000両と定められた。明治元年の『武鑑』では、2000石高、役料1500石と記され、柴田日向守剛中の名が記載されている。配下に支配組頭が付属。