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「オジェ・ル・ダノワ」の版間の差分

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[[ファイル:Holger danske.jpg|thumb|デンマークのクロンボー城にあるH.P.ペデルセンダンによるオジェ・ル・ダノワの像]]
[[ファイル:Holger danske.jpg|thumb|デンマーク・[[ヘルシンゲル|ヘルシンガー]]市のクロンボー城に設置されていた{{仮リンク|ハンス・ペダー・ペダーセン=デン|da|H.P. Pedersen-Dan}}作ホガー・ダンスク(1907年)]]
'''オジエ・ル・ダノワ'''(または'''デーン人オジエ'''。[[フランス語]]:''Ogier le Danois'', ''Ogier de Danemarche'')は、中世[[フランス]]の[[シャルルマーニュ伝説]]の[[武勲詩]]に登場する[[伝説]]上の[[英雄]]。


「短い」という意味の名の、切っ先が欠けた名剣'''コルタン'''(Cortain; コルタナ、クルタナなどとも表記)を持つ。
'''オジェ・ル・ダノワ'''([[フランス語]]:''Ogier le Danois'', ''Ogier de Danemarche''、[[デンマーク語]]:''Holger Danske'')は、中世[[フランス]]の[[武勲詩]]『ドーン・ド・マイアンス([[:en:Doon de Mayence|Doon de Mayence]])』に登場する[[伝説]]上の[[英雄]]である。[[デンマーク]]では'''ホルガー・ダンスク'''の名で親しまれている。なお、フランス語の呼び名に含まれる「ル・ダノワ」や「ダーヌマルシュ」は、デンマークではなく[[アルデンヌ]]の所領に由来するとされる。


オジエの武勲詩は、'''[[ドーン・ド・マイヤンス]]'''の物語群(シークル)に分類され、シャルル王に歯向かう氏族の物語のひとつをなしている。家系図上は、ドーンの子のひとりがデンマーク公'''ゴーフロワ(ジョフロワ)'''(Gaufroi de Danemarche<ref>Langlois 人名事典の見出しでの綴り</ref> )で、その息子がオジエである。よってオジエは、大逆臣[[ガヌロン]]の従兄弟や魔法使い[[モージ (魔法使い)|モージ]](マラジジ)の従兄弟でもあるわけだが、これはあまり強調される側面ではない。
[[伝承]]によると、オジェ・ル・ダノワは、デンマーク王、[[ゴズフレズ (デンマーク王)|ジェフロワ]]の息子であった。『オジェ・ル・ダノワの騎士道』によれば、オジェ・ル・ダノワは[[カール大帝|シャルルマーニュ]]の息子シャルロに我が子を殺されたため、シャルロへの復讐を誓い、大帝の命をも奪おうとした。その後7年にわたってオジェ・ル・ダノワはシャルルマーニュに抵抗したが、『[[ローランの歌]]』にもあるように[[サラセン人]]との戦いでは王に味方し、サラセンの長で巨躯のブレフスを倒した。


とくに[[デンマーク]]では'''ホルガー・ダンスク'''([[デンマーク語]]:''Holger Danske'')の名で親しまれ、地元の英雄とされている。
[[アーサー王]]や[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|バルバロッサ]]がそうであるように、ヨーロッパには英雄的な主人公が山や洞穴に入り、復活の時まで眠り続けるという伝説があるが、オジェ・ル・ダノワの場合にも、[[ヘルシンオア]]の[[クロンボー城]]の地下に眠り、デンマークの危機には目を覚まして人々を救うという伝承がある。このことからクロンボー城地下には、長いあごひげの武人の姿で眠るオジェ・ル・ダノワの像がおかれている。オジェ・ル・ダノワの最期については、魔女[[モーガン・ル・フェイ]]が[[アヴァロン]]へ彼を連れて行ったという言い伝えも残っている。


'''各言語の表記'''アングロノルマン語 『ロランの歌』での表記は、 Oger 〔オジェ〕。古ノルド語のサガではオッドゲイル・ダンスキ(Oddgeir danski)。フランコ=イタリア語版ではウッジェーリ・イル・ダネーセ(Uggeri il Danese)として紹介され、近世のイタリア語諸作品ではオジエリ、オジエロ、ウッジェーリ(Ogieri, Ogiero, Uggieri)等の名で登場する。
1534年にペデルセン(Christian Pedersen)がデンマーク語でオジェ・ル・ダノワの伝説を本にまとめ、ホルガー・ダンスクの年代記として出版したことにより、この伝承がデンマークの人々に知られることとなった。デンマークでは[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]の童話や、クンツェン(F.L.Æ. Kunzen)のオペラに『デンマーク人ホルガー』があり、またインゲマン([[:en:Bernhard_Severin_Ingemann|Bernhard Severin Ingemann]])の詩にゲバウアー([[:da:Johan_Christian_Gebauer|Johan Christian Gebauer]])が曲をつけた歌もよく知られている。このほか、[[第二次世界大戦]]中、[[ナチス・ドイツ]]の占領に抵抗したデンマークの[[レジスタンス運動|レジスタンス]]には「ホルガー・ダンスク」の名の下に活動を行なったグループがあった。


==総覧==
この英雄がフランス系かデンマーク系かについては、いささか見解の対立がある。フランスでは19世紀の編者が、オジエの添え名である「ル・ダノワ」や「ダーヌマルシュ」はデンマークではなく'''[[アルデンヌ]]'''の所領に由来すると仮説した<ref>1842年に武勲詩オジエを編纂した Barrios (後述)が提唱した。{{Harvnb|Ward|1883}}, Vol.1, p.605, "Barrois (argued) that tradition began with giving Ogier lands in Ardennes,..,"</ref>。一方、16世紀のデンマーク訳本は、英雄の父親'''ゴーフロワ'''を、[[サクソ・グラマティクス]]著の史書にもある歴史上のデンマーク王'''グードリグ'''({{lang-da|Gøtrik}}; '''[[ゴズフレズ (デンマーク王)|ゴズフレズ]]'''、ガウトレク。)に比定し、英雄自身は、その王子'''オルフ'''(Oluf)であると断定している<ref>{{Harvnb|Brandt|1882}},p.271, Efter at have begyndt med den kategoriske Erklæring: »alle skulle mærke og vide i ret Sandhed, at Kong Olger Dansk var Kong Gøtriks Søn og fødtes her i Danmark«,.. og gjør ham identisk med Saxos Oluf, der hos Kejser Karl blev kaldet Olger.(ペデルセンは、)「皆様にまことの真実を見知り頂きたいのですが、オルガー・ダンスクは、グードリグ({{lang-da|Gøtrik}})王の若子様にして、デンマークのお生まれにございます」などと断言して書いており、このオジエを、サクソのデンマーク史に登場するグードリグの王子オルフ(Oluf)に比定した、云々。</ref>。</br>
(* フランスで発見の伝オジエの石像頭部については[[#モー市と聖ファロ僧院]]の節、デンマークの石膏像については [[#スカンジナビア]]の節を参照)。

ただ、上のごとき近代の国家主義観の問題は少しさしおいて、本項は、中世においてオジエの伝説がどう形成されていったかというのが本題であろう。

==作品==
日本語で手軽に読める資料に、市場訳'''[[トマス・ブルフィンチ]]'''再話'''『シャルルマーニュ伝説』'''「第23-25章:オジエ・ル・ダノワ」がある。</br>

オジエ誕生のときに六人の「名付け親の仙女 (fairy godmother)」的な女性たちが現れて吉凶こもごもの授け物する。そのうちの仙女のひとり'''[[モルガン・ル・フェイ]]'''(ブ氏再話では→モルガナ)が、やがてのち物語の終盤でオジエを'''[[アヴァロン]]'''に連れて行き、いわば夫婦同然に同棲させる。こうした「ケルト物語的」要素は、本来の武勲詩にはない部分で、[[中世後期]]に追加された。ともあれ、このことでオジエは'''[[アーサー王伝説]]'''の住人の仲間入りさせられた。

古武勲詩の「さわり」の部分の粗筋は、以下に記した。ブルフィンチ再話とは、大筋では合致するが、差異も多いので注意。

===武勲詩『オジエの騎士道』===
伝'''ランベール・ド・パリ'''(Raimbert de Paris)作『オジエの騎士道』(Chevalerie Ogier de Danemarche; 12世紀-1200年頃?)は、13,000 余行におよぶ武勲詩で、全12枝篇(branches)に分けられている。
====第1枝篇:オジエの出自====
第1枝篇(全3109行)は、オジエの青少年期の部ともいえるが、おおよそ次のような筋書きである:<ref>{{Harvnb|Barrois|1842}}</ref>:<ref>{{Harvnb|Ludlow|1865}}</ref>
: 若きオジエの身柄をシャルル王が預かっているが、オジエはのほほんと、監禁先の[[サントメール]]城主の娘と情事をおこない、息子'''ボードワネット†'''(→ボルドウィン(の[[指小形]]))をもうけるなどして暮らしている。('''†'''<small>語尾の「ット」はにあえて表記したが、古語式だと発音するが現代式だと無音。</small>)

:ところがオジエの父'''デンマーク公ゴーフロワ'''(→ジョフロワ)の立てつきかたが度を超してきて、立腹したシャルル王は、みせしめにオジエを縛り首にする腹積もりになる。ところがローマ教皇から、異教徒に襲撃されているという救援依頼状が来たため、シャルルは、処刑などにかまけていられなくなり、オジエもひきつれてイタリアに向かう。オジエの身元保証人は、とりあえず親戚のバイエルン公'''ネーム'''(→ナモ)である。このときオジエはまだ騎士叙任の元服を受けていないので、生身丸腰だった。観戦していると、軍旗を持って前衛を務めるはずのアロリー・ド・プイユ(Alori de Puille。「[[プッリャ州]]の」の意)が逃げてくるではないか。オジエたちは、敗走中のアロリー隊から甲冑をはいで身にまとい、その軍旗({{仮リンク|オリフラム|fr|oriflamme}})を奪い、奮迅した。苦戦だったフランス軍は巻き返し、オジエは感謝されて王から佩刀の叙勲を受けた。(<small>* オジエは旗手の座を実力で奪ったとも考えられる。『ロランの歌』ではオリフラムの騎士はアンジュー公ジェフロワだが、オジエには、前衛や先陣を務めるに最適任とされており<ref>有永弘人訳『ロランの歌』岩波文庫1965年初版,747行-</ref>、『サガ』によれば旗手の役目であった<ref>{{Harvnb|Hieatt=1975}}54章(最終章): "Oddgeir was his standar-bearer as long as they both lived". </ref>。</small>)</br>

:しかし新手の強敵'''カラウー'''(Caraheu, Karaeus, Karahues 等、変体綴り多数; →カラヒュー)<ref>邦文で「カラウー」のカナ表記の例がないが、参考として現代フランス語 [[:en:wiktionary:heureux|heureux]] {{IPA|/œ.ʁø/|lang=fr}} が「ウールー」と一般表記されることによる</ref>が攻めてくる、との報が入る。カラウーは、敵の総大将である都督〔アミラル〕コルスブルの娘グロリアンドとは許嫁の仲だったが、異教徒ながら、たいへん義を重んずる人物であった。またカラウーは、名剣'''コルタン'''(Cortain; →コルタナ)の持主であった。カラウーは、思慕する貴婦人の御前でオジエと決闘したいと執拗に挑戦する。シャルルの息子'''シャルロット†'''(Charlot (指小形)。→シャルロ)が自分の出番だと駄々をこねるので、もうひとりサドワヌ(Sadoine。→サドン)という対戦相手をつけて、二組で決闘をおこなった。ところが戦いが佳境に入った頃、水をさすように、都督の息子ダヌモンが勢をひきいて乱入し、オジエを捕獲してしまった。説き伏せても釈放しないので、律儀なカラウーは、フランス陣営に投降し、もし、オジエが処刑されようものなら、自分も同じ目に合わせてもらってかまわない、と言った。

:ここで異教徒側にまた強者の救援が到着した。マイオルグル(?)(Maiolgre;≒マヨルカ)国のブリュナモン(Brunamont)という猛者である。都督は娘のグロリアンドとカラウーの婚約は破談にし、このブリュナモンと娶わせるという。グロリアンドは反対だが、阻止するとなると、勇士を立ててブリュナモンと戦わねばならない。グロリアンドはその勇士の役を、なんと俘虜のオジエにゆだねたのである。話を聞きつけ、カラウーは名剣'''コルタン'''をオジエに与えてまかせることにした。オジエはみごとブリュナモンを斬り捨て、額に白点のある黒馬'''ブロワフォール'''(Broiefort; →ベフロール)を手に入れた。

====第2枝篇:息子の死と出奔====
比べて400行弱ときわめて短いが、重要な展開の部分。シャルロ[ット]†王子が、オジエの息子ボードワネ[ット]と[[チェス]]将棋を指して遊んでいたが、「王手詰み〔[[チェックメイト]]〕」を宣告されてかっとなり将棋盤で相手の頭をたたき割ってしまう。息子の変わり果てた姿に憤慨したオジエは、棒切れをふりまわして王子を追いまわす。王は金銭で解決しようとするが、オジエは王子の命で償ってもらうとゆずらない。オジエは追放の身となり、[[パヴィア]]国の'''デジエ'''(Desier; ≒[[デシデリウス]])に身を寄せる。

====オジエの反乱・投獄・復帰====
この後、オジエが追跡するフランス王軍をさんざん翻弄する。オジエは、[[ローヌ川]]沿いの'''シャ[ス]テルフォール'''(Chastel-fort; 現代風ならChâteau-fort)に牙城を得、[[マンゴネル]]などの大型兵器で攻撃されても、従者'''ベノワ'''(Beneoit)が[[ギリシア火薬]]で対抗するなど、痛快に立ち回る劇が語られる<ref>{{Harvnb|Ludlow|1865}},p.282-3 "But around Castle-Fort on one side is a.. marsh.. on the other runs the Rhône."; "Charles has mangonels and engines.." "Bennet has taken Greek fire in the town.. sets fire to the engine".</ref>。

しかしそんなオジエも、やがて捕えられる。五人分の食欲があるこの囚人に対し、毎日パンを四分の一と水で薄めた古ワイン一杯しか与えませんから、と言って[[テュルパン]]司教が、その監視役を買って出るが、そのじつ特大パンを焼かせ、巨大な銀杯を調達させて文字通りその四分の一だけを与えて存分に養った。七年が経ち、オジエのひげも白くなったが、二の腕や首筋はまだまだ太かった<ref>{{Harvnb|Ludlow|1865}},p.290</ref>。

この展開で、第九枝篇(第9796~11040行)が始まる:
:フランスは、アフリカの王ブルイエ(またはブレユス; Brehier, Brehus; ブ氏再話→ブリュイエ)率いる軍の侵攻を受けて、大被害を蒙り、「こんなときオジエがおれば」の声がだんだん高まってくる。王はしぶしぶオジエの復帰を承諾。巨躯のオジエに持ちこたえる馬を探すため、王の馬ブランシャールを含む数等の馬を試乗してぺしゃんこにする滑稽な場面が盛り込まれる<ref>原典では、別の箇所ではシャルルが Blancart つまり白馬に乗るが、ここでは都督バランから奪った早馬とされている{{Harvnb|Barrois|1842}}, 10435-7行, "le bon ceval corant que je conqis à l'amiraus Balant"</ref>。しかしオジエの愛馬ブロワフォール(→ベフロール)が、'''[[モー (フランス)|モー]]市の聖ファロ大修道院'''(→サンファロン大修道院)に預けられていることがわかる。見違えるほど痩せこけた馬は、前の主人とめぐり合うと、鼻息を鳴らしていななき、体を平伏してオジエを迎え、涙をさそう。戦う用意がそろったオジエだが、自分の息子を殺した王子を差し出さねば、てこでも働かないと言う。王は何とかできないものかというが、ネームは、フランスの国運がかかっていることでり、自分も息子ベルトランをオジエに斬られてしまったが、私情ははさまない、と諭した。しかしオジエが名剣コルタンをとりだして、いざ王子の首をはねようとしていたその時、天使ミカエルが降臨してその手をとどめた。<ref>散文オジエの古い出版本にもこの場面はある:{{Harvnb|Benoit Rigaud|1579}}(古い出版本), p.233 の見出し"Comment.. Charlemaigne fut contrainct de liurer son filz Charlot à Ogier.. &comment l'Ange ainsi qu'il vouloit coupper la teste de Charlot luy retint le bras.."</ref>(天使の場面のイラストは、{{Harvnb|Gautier|1895|p=608}}(第3版)や、{{Harvnb|Molbech|1878|p=139}}にある)

第九枝篇はここで終結するが、編者バロワによれば詩人ランベールが書き綴った真正の部分はここまでで、残りはより後年に書き足されたものだという。<ref>{{Harvnb|Ludlow|1865}}, p.296 "V. We have now come to the end of the ninth branch, the last of those which M. Barrois considers to have been worked up by Raibmet of Paris from earlier versions.</ref>。だが、第十詩編では、オジエは実際にブルイエ(→ブリュイエ)と戦う。相手は途中で休戦を請い、亡きキリストを[[聖墳墓教会|聖墳墓]]に納棺する前、その遺骸に塗りこめたという塗り薬を使って回復した。決闘が再開し、オジエの馬ブロワフォールは悲しくも殺されてしまう。だがオジエは応酬し、相手を討ち取って、新たに'''ボーサン'''(Bauchan; →'''マルシュヴァレー''')という馬を得る。

この後、オジエは、さる英国王の王女を救助するが、<ref>{{Harvnb|Ludlow|1865}}, p.300</ref>この王女と結婚し、シャルル帝から[[エノー州]]と[[ブラバント州]]の領地を与えられた。英国王女と夫婦になったという作り話は、そののちオジエが{{仮リンク|ハンプトンのビーヴェス卿|en|Bevis of Hampton|label=ハンプトンのビーヴェス卿(ビーヴィス卿)}}の父親になったという言い伝えへの布石のようである<ref>{{Harvnb|Ludlow|1865}}, p.300, "composet to serve as a transition.. to the story of Bevis of Hanstone, or Hampton"; p.303 "He is known in our own legendary lore as the father of Sir Bevis of Hampton."</ref>。死後、オジエの遺体は従者ベノワと供に、前述モー市の僧院に安置されたという<ref>{{Harvnb|Ludlow|1865}}, p.301, "He was buried at Meaux, Bennet by him"</ref>([[#モー市と聖ファロ僧院]])。

===改作や翻案===
後年、古い武勲詩の第1枝篇の部分を拡張して、{{仮リンク|アドネ・ル・ロワ|en|Adenes Le Roi}}(1300没)が、『オジエの青少年期』(?)(''Enfances Ogier'')を詩作した。北欧でも、『オジエの騎士道』の第一枝篇に近似するテクストが十三世紀に[[古ノルド語]]の散文に翻案されて、『{{仮リンク|カルルマグヌース・サガ|en|Karlamagnús saga}}』集の第3枝編『オッドゲイル・ダンスキ』(Oddgeir Danski)のサガとして収録された。内容は古武勲詩にほぼ近いが、エンディングが独自の顛末になっている<ref>{{Harvnb|Hieatt|1975}}参照</ref>。また、オジエの青年期は、フランコ=イタリア語にも翻訳された。

===中世後期===
{{仮リンク|ジャン・ドゥートルムーズ|en|Jean d'Outremeuse}}(1338-1400)は、われわれ後世に伝わらないバージョンのオジエ伝を使っていたらしく、その著書『歴史の鑑』には、オジエがケルトか[[アーサー王伝説]]の妖猫[[キャスパリーグ]]と戦ったという伝承を記録する。オジエの伝説に上述したようなアーサー王伝説がからめられるようになったのは、この頃で、まずは武勲詩を中核に、オジエのアヴァロン行きなどの物語を書き加えた、[[アレクサンドラン]]韻律(十二音綴)で20,000行におよぶフランス語の詩文ロマンスが登場したが、これは l'Arsenal 2985 (ant. 190-191)写本(14世紀)や極彩色の挿絵で有名な「タルボット・シュルーズベリーのロマンス書」([[大英図書館]]所蔵 Royal 15 E VI写本。1445年頃)<ref>{{Harvnb|Ward|1883}}, Vol.1, p.605- "MS Royal 15 E VI"</ref><ref>[http://www.bl.uk/catalogues/manuscripts/HITS0001.ASP?VPath=html/39295.htm&Search=15+E+vi.&Highlight=F British Museum/Library オンライン写本カタログ]</ref>に収められている。

===近世===
[[印刷機]の発明後、アレクサンドラン韻律詩と同様な内容のフランス散文訳『オジエ物語』が、1498年にパリで出版された<ref>{{Harvnb|Knud Togeby|1967}}</ref>。以後、何度も再版されて広まった。

オジエは、アヴァロンの仙女モルガンと、ムールヴァン(Meurvin)と言う名の子をもうけたとされていて、あまり知られてないが『Roman de Meurvin, fils d'oger le Danois』(1531年)も出版されており、ここではムールヴァンの子オリアン(Oriant)が、[[白鳥の騎士]]の祖先とされている<ref>Encyclopedia Britannica (1880-1899の各版), vol.20, "Romance" の項</ref><ref>{{Harvnb|Dixon-Kennedy|1995}}</ref>。

イタリア語では、たとえば{{仮リンク|ルイジ・プルチ|en|Luigi Pulci}}(1432-1484)作の『[[モルガンテ]]』第1詩章17詩節で、[[ローラン (シャルルマーニュ伝説)|オルランドー]]が、デーン人ウッジェーリ(Uggieri il Danese =オジエ)の妻エルメリーナから名剣コルタナと名馬'''ロンデル'''(ロンデロ; Rondel, Rondello)をかっぱらって言ってしまう。(この詩の冒頭部分は、[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン卿]]が『モーガンテ・マッジョーレ』の題で英訳している<ref>バイロン英訳の原文{{citation|last=Gordon|first=George, Lord Byron|title=Complete works|year=1841|place=Place|publisher=A. and W. Galignani|url=http://books.google.co.jp/books?id=nEoJAAAAQAAJ&pg=PA328|format=google}}</ref>)。(<small>*このロンデロという馬号は、{{仮リンク|ブオーヴォ・ダントーナ|it|Buovo d'Antona}}の馬と同名であることが興味深い(上述ビーヴェス卿の馬アランデルに相当し「燕子〔つばくろ〕」を意味する</small>)。

==モー市と聖ファロ僧院==
モー市の聖ファロ僧院には、霊廟があり、聖オトゲルと聖ベネディクトが横に並んだ仰臥像を蓋に配した石棺に、両聖人の遺体が納められていた。武勲詩でもオジエとその従者ベノワがこの僧院に永眠することになっており、彼らと二聖人を同一視する伝承があったようだ。この霊廟の銅版画(?)は、古書『アクタ・サンクトルム第IV部』({{Harvnb|Luc d'Achery|Mabillon|1677}})の扉に掲載されている(外部サイト:[http://www.hmml.org/exhibits10/Maurists/Acta.htm HMML美術館]展示物)
僧院は1751に取り壊しにあったが、1874年に霊廟のものと思われる'''伝・オジエの頭部'''が発見された<ref>外部サイト:{{cite web|title=Tête d’Ogier le Danois, Meaux|work=Topic Topos|url=http://fr.topic-topos.com/tete-dogier-le-danois-meaux|accessdate=2012-03-03}}</ref>。

==スカンジナビア==
北欧では、「オッドゲイル」のサガが写本に残された時代を経て、近世になると'''{{仮リンク|クリスティエルン・ペデルセン|en|Christiern Pedersen}}'''が、パリ大学に在学中に、フランス語散文オジエ物語の出版本('Ogier le Dannoys')を求め、帰国後デンマーク訳本を1534年に『ホルガー・ダンスク年代記(Kong Holger Danskes Krønike)』として出版した。このことにより、オジエ伝説がデンマーク民間により広く伝播した。デンマークでは[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]の童話や、クンツェン(F.L.Æ. Kunzen)のオペラに『デンマーク人ホルガー』があり、またインゲマン([[:en:Bernhard_Severin_Ingemann|Bernhard Severin Ingemann]])の詩にゲバウアー([[:da:Johan_Christian_Gebauer|Johan Christian Gebauer]])が曲をつけた歌もよく知られている。

ヨーロッパには([[アーサー王]]や[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|バルバロッサ]])など、洞穴の眠れる巨人や英雄が、国の有事に復活するという伝説があるが、デンマークでもそういうした眠れるホルガー・ダンスク伝説が出現し、とりわけ、ペデルセンの郷土ヘルシンガー([[ヘルシンオア]])市にまつわりつくようになったといわれる。この都市の某ホテルがホルガーの銅像(1907年)を制作依頼し、その石膏型を[[クロンボー城]]の砲郭に置いたところ、そちらの方が一躍有名になった。しかし石膏像は湿気で劣化をおこし、1985年以来コンクリート像に置き換えらている<ref>{{cite web|url=http://www.kronborgcastle.com/en/HolgerDanske.aspx|title=Kronborg Castle site (Holger the Dane)|accessdate=2012-03-02}}</ref>。

[[第二次世界大戦]]中は、[[ナチス・ドイツ]]の占領に対するデンマークの[[抵抗分子]]が、「ホルガー・ダンスク」の名で[[レジスタンス運動]]を行なった。

==大衆文化のオジェ==
オジェ・ル・ダノワは、[[トランプ]]のスペードのジャックの人物とされる。アメリカの作家、[[ポール・アンダースン]]の『魔界の紋章』もオジェ・ル・ダノワの伝承を下敷にしている。
オジェ・ル・ダノワは、[[トランプ]]のスペードのジャックの人物とされる。アメリカの作家、[[ポール・アンダースン]]の『魔界の紋章』もオジェ・ル・ダノワの伝承を下敷にしている。

==関連項目==
* 武勲詩[[ユオン・ド・ボルドー]]の続編では、妖精郷を統治するアーサーが王位をユオンに禅譲させられまいかと不安になる。
* オジエが妖猫[[キャスパリーグ]]と戦ったとする伝記がある。

==脚注==
{{reflist}}
==参考文献==
;(邦書)
*{{citation|和書|author=トマス・ブルフィンチ|others=市場泰男 訳|title=『シャルルマーニュ伝説』|year=2007|series=講談社学術文庫|volume=1806|publisher=講談社|isbn=978-4-06-159806-5}},p.325-360, 第23-25章(オジエ・ル・ダノワ(一)~(三))
;(事典・一般書)
{{citation|editor-last=Kibler|editor-first=William|title=Medieval France: an encyclopedia|publisher=Psychology Press|year=1995|isbn=9780824044442|url=http://books.google.co.jp/books?id=4qFY1jpF2JAC&pg=PA215|format=google}},p.215-
*{{citation|last=Gautier|first=Léon|title=La chevalerie|year=1895|place=Paris|publisher= H. Welter|url=http://www.archive.org/details/lachevalerie00gautuoft|format=Internet Archive}} (3ème éd.)
**{{citation|last=Gautier|first=Léon|othesr=Hernry Frith, tr.|title=Chivalry |year=1891|place=London|publisher=George Routledge and sons|url=http://books.google.co.jp/books?id=XttCAAAAIAAJ&pg=PA429|format=google}}(英訳)
* {{Citation|last=Dixon-Kennedy|first=Mike|year=1995|title=Arthurian Myth & Legend, an A-Z of People and Places|publisher=Blandford|isbn=978-0713725612}}; Brockhampton Press (Reprint) 1998 [url=http://books.google.co.jp/books?id=a622vq_g6nkC snippet]
;(一次資料)
*{{Citation|author=Raimbert de Paris|editor-last=Barrois|editor-first=Joseph|year=1842|title=La chevalerie Ogier de Danemarche|place=Paris|publisher=Techener|url=|format=}}
[http://books.google.com/books?id=3ewWAAAAYAAJ Vol. 1], [http://books.google.com/books?id=Ql5JAAAAMAAJ Vol. 2].
*{{Citation|editor-last=Unger|editor-first=C. R. (Carl Rikard), 1817-1897|title=Karlamagnus saga ok kappa hans|place=Christiania|publisher= H.J. Jensen|year=1859|url=http://books.google.co.jp/books?id=iOQTAAAAQAAJ|format=Google)}}
**{{Citation|last=Hieatt|first=Constance B.|year=1975|work=Karlamagn&uacute;s saga: The Saga of Charlemagne and his heroes|volume=1|place=Toronto|publisher=Pontifical Institute of Mediaeval Studies|isbn0-88844-262-9=}} (英訳 Kms branches I ~ III) <br>
;(古出版書)
** {{Citation|author=Knud Togeby|Ogier le Dannoys:Roman en prose du XVe siecle|publisher=Benoist Rigaud|year=1967|place=K&oslash;benhavn|publisher=Munksgaard|}} (facsimile)[Fotografisk Optryk af Antoine V&eacute;erards udg., Paris 1498]
* {{Citation|author=Benoit Rigaud|L'Histoire d'Ogier le Dannoys Duc de Dannemarche, Qui fut l'un des douze Pers de France|publisher=Benoist Rigaud|year=1579|url=http://books.google.co.jp/books?id=0_E7bj4m5bsC|format=google}}
* ''Conversio Othgerii militis'': {{citation|author=Lucas d' Achery|author2=Jean Mabillon|title=Acta sanctorum ordinis S. Benedicti, in saeculorum classes distributa saeculum IV quod est ab anno Christi DCCC ad DCCCC, pars prima|place=Paris|publisher=Louis Biliaine|year=1677|isbn=9780824044442|url=http://books.google.co.jp/books?id=wA46TtYbc8gC&pg=PA662|format=google}}, p.662
* {{citation|editor-last=Molbech|editor-first=C|title=Olger Danskes Krønike: efter de ældste Udgaver bearbedet af Nis Hausen, med en Fortale..place=Krøbenhavn|publisher=J. G. Schubothes Boghandling|year=1878}} (現時点ではまだ books.google 閲覧不能)
;(二次資料)
*{{Citation|last=Ward|first=Harry Leigh Douglas|year=1883|title=Catalogue of romances in the Department of manuscripts in the British Museum|place=London|publisher=William Clowes|url=http://books.google.co.jp/books?id=AegtAAAAIAAJ&pg=PA604|format=google}}, p.604-
*{{Citation|last=Brandt|first=Carl Joakim|year=1882|title=Om Lunde-kanikken Christiern Pedersen og hans skrifter|place=Kjøbenhavn|publisher=G. E. C. Gad, |url=http://books.google.com/books?id=WBRBAAAAYAAJ&pg=PA271|format=google}}, p.271-
*{{citation|last=Ludlow|first=John Malcolm Forbes|title=Popular epics of the middle ages of the Norse-German and Carlovingian Cycles|volume=2|place=London|publisher=Macmillan|year=1865|isbn=9780824044442|url=http://books.google.co.jp/books?id=0FgmAAAAMAAJ&pg=PA247|format=google}},p.247-
;(モー市の伝オジエの頭部と聖オトゲル霊廟)
*{{citation|last=Gassies|first=G|title=Note sur une tête de statue touvée à Meaux |journal=Bulletin archéologique du Comité des travaux historiques et scientifiques |year=1905|volume=1|url=http://books.google.co.jp/books?id=YT4ZQOHmG_sC&pg=PA40|format=google}},p.40-42
*上記の古書{{Harvnb|Luc d'Achery|Jean Mabillon|1677}}の見開きの図「聖オトゲルと聖ベネディクトの霊廟」 :{{cite web||title=Acta scantorum (sic.) Ordinis s. Benedicti, d'Achery et Mabillon |work=Hill Museum & Manuscript Library|url=http://www.hmml.org/exhibits10/Maurists/Acta.htm|accessdate=2012-03-03}}, 見出し:"Templus Otgerii ac[?] Benedicti illustrium sub Carlo M. heroum postea monarchorum.."
** 同図(見出し抜き)を掲載:Mâle, Emile, L'Art religieux du XIIe siècle en France: (Paris, Librairie Armand Colin, 1922) [http://books.google.co.jp/books?id=uQIrAAAAYAAJ&pg=PA309 p.309]

==外部サイト==
* クロンボー城のオジエ像案内{{cite web|url=http://www.kronborgcastle.com/en/HolgerDanske.aspx|title=Kronborg Castle site (Holger the Dane)|accessdate=2012-03-02}}
*モー市のオジエの石像頭部の案内:{{cite web|title=Tête d’Ogier le Danois, Meaux
|work=Topic Topos|url=http://fr.topic-topos.com/tete-dogier-le-danois-meaux|accessdate=2012-03-03}},


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2012年3月5日 (月) 13:39時点における版

デンマーク・ヘルシンガー市のクロンボー城に設置されていたハンス・ペダー・ペダーセン=デンデンマーク語版作ホルガー・ダンスク像(1907年)

オジエ・ル・ダノワ(またはデーン人オジエフランス語Ogier le Danois, Ogier de Danemarche)は、中世フランスシャルルマーニュ伝説武勲詩に登場する伝説上の英雄

「短い」という意味の名の、切っ先が欠けた名剣コルタン(Cortain; コルタナ、クルタナなどとも表記)を持つ。

オジエの武勲詩は、ドーン・ド・マイヤンスの物語群(シークル)に分類され、シャルル王に歯向かう氏族の物語のひとつをなしている。家系図上は、ドーンの子のひとりがデンマーク公ゴーフロワ(ジョフロワ)(Gaufroi de Danemarche[1] )で、その息子がオジエである。よってオジエは、大逆臣ガヌロンの従兄弟や魔法使いモージ(マラジジ)の従兄弟でもあるわけだが、これはあまり強調される側面ではない。

とくにデンマークではホルガー・ダンスク(デンマーク語Holger Danske)の名で親しまれ、地元の英雄とされている。

各言語の表記アングロノルマン語 『ロランの歌』での表記は、 Oger 〔オジェ〕。古ノルド語のサガではオッドゲイル・ダンスキ(Oddgeir danski)。フランコ=イタリア語版ではウッジェーリ・イル・ダネーセ(Uggeri il Danese)として紹介され、近世のイタリア語諸作品ではオジエリ、オジエロ、ウッジェーリ(Ogieri, Ogiero, Uggieri)等の名で登場する。

総覧

この英雄がフランス系かデンマーク系かについては、いささか見解の対立がある。フランスでは19世紀の編者が、オジエの添え名である「ル・ダノワ」や「ダーヌマルシュ」はデンマークではなくアルデンヌの所領に由来すると仮説した[2]。一方、16世紀のデンマーク訳本は、英雄の父親ゴーフロワを、サクソ・グラマティクス著の史書にもある歴史上のデンマーク王グードリグ(デンマーク語: Gøtrik; ゴズフレズ、ガウトレク。)に比定し、英雄自身は、その王子オルフ(Oluf)であると断定している[3]
(* フランスで発見の伝オジエの石像頭部については#モー市と聖ファロ僧院の節、デンマークの石膏像については #スカンジナビアの節を参照)。

ただ、上のごとき近代の国家主義観の問題は少しさしおいて、本項は、中世においてオジエの伝説がどう形成されていったかというのが本題であろう。

作品

日本語で手軽に読める資料に、市場訳トマス・ブルフィンチ再話『シャルルマーニュ伝説』「第23-25章:オジエ・ル・ダノワ」がある。

オジエ誕生のときに六人の「名付け親の仙女 (fairy godmother)」的な女性たちが現れて吉凶こもごもの授け物する。そのうちの仙女のひとりモルガン・ル・フェイ(ブ氏再話では→モルガナ)が、やがてのち物語の終盤でオジエをアヴァロンに連れて行き、いわば夫婦同然に同棲させる。こうした「ケルト物語的」要素は、本来の武勲詩にはない部分で、中世後期に追加された。ともあれ、このことでオジエはアーサー王伝説の住人の仲間入りさせられた。

古武勲詩の「さわり」の部分の粗筋は、以下に記した。ブルフィンチ再話とは、大筋では合致するが、差異も多いので注意。

武勲詩『オジエの騎士道』

ランベール・ド・パリ(Raimbert de Paris)作『オジエの騎士道』(Chevalerie Ogier de Danemarche; 12世紀-1200年頃?)は、13,000 余行におよぶ武勲詩で、全12枝篇(branches)に分けられている。

第1枝篇:オジエの出自

第1枝篇(全3109行)は、オジエの青少年期の部ともいえるが、おおよそ次のような筋書きである:[4][5]

若きオジエの身柄をシャルル王が預かっているが、オジエはのほほんと、監禁先のサントメール城主の娘と情事をおこない、息子ボードワネット†(→ボルドウィン(の指小形))をもうけるなどして暮らしている。(語尾の「ット」はにあえて表記したが、古語式だと発音するが現代式だと無音。)
ところがオジエの父デンマーク公ゴーフロワ(→ジョフロワ)の立てつきかたが度を超してきて、立腹したシャルル王は、みせしめにオジエを縛り首にする腹積もりになる。ところがローマ教皇から、異教徒に襲撃されているという救援依頼状が来たため、シャルルは、処刑などにかまけていられなくなり、オジエもひきつれてイタリアに向かう。オジエの身元保証人は、とりあえず親戚のバイエルン公ネーム(→ナモ)である。このときオジエはまだ騎士叙任の元服を受けていないので、生身丸腰だった。観戦していると、軍旗を持って前衛を務めるはずのアロリー・ド・プイユ(Alori de Puille。「プッリャ州の」の意)が逃げてくるではないか。オジエたちは、敗走中のアロリー隊から甲冑をはいで身にまとい、その軍旗(オリフラム)を奪い、奮迅した。苦戦だったフランス軍は巻き返し、オジエは感謝されて王から佩刀の叙勲を受けた。(* オジエは旗手の座を実力で奪ったとも考えられる。『ロランの歌』ではオリフラムの騎士はアンジュー公ジェフロワだが、オジエには、前衛や先陣を務めるに最適任とされており[6]、『サガ』によれば旗手の役目であった[7])
しかし新手の強敵カラウー(Caraheu, Karaeus, Karahues 等、変体綴り多数; →カラヒュー)[8]が攻めてくる、との報が入る。カラウーは、敵の総大将である都督〔アミラル〕コルスブルの娘グロリアンドとは許嫁の仲だったが、異教徒ながら、たいへん義を重んずる人物であった。またカラウーは、名剣コルタン(Cortain; →コルタナ)の持主であった。カラウーは、思慕する貴婦人の御前でオジエと決闘したいと執拗に挑戦する。シャルルの息子シャルロット†(Charlot (指小形)。→シャルロ)が自分の出番だと駄々をこねるので、もうひとりサドワヌ(Sadoine。→サドン)という対戦相手をつけて、二組で決闘をおこなった。ところが戦いが佳境に入った頃、水をさすように、都督の息子ダヌモンが勢をひきいて乱入し、オジエを捕獲してしまった。説き伏せても釈放しないので、律儀なカラウーは、フランス陣営に投降し、もし、オジエが処刑されようものなら、自分も同じ目に合わせてもらってかまわない、と言った。
ここで異教徒側にまた強者の救援が到着した。マイオルグル(?)(Maiolgre;≒マヨルカ)国のブリュナモン(Brunamont)という猛者である。都督は娘のグロリアンドとカラウーの婚約は破談にし、このブリュナモンと娶わせるという。グロリアンドは反対だが、阻止するとなると、勇士を立ててブリュナモンと戦わねばならない。グロリアンドはその勇士の役を、なんと俘虜のオジエにゆだねたのである。話を聞きつけ、カラウーは名剣コルタンをオジエに与えてまかせることにした。オジエはみごとブリュナモンを斬り捨て、額に白点のある黒馬ブロワフォール(Broiefort; →ベフロール)を手に入れた。

第2枝篇:息子の死と出奔

比べて400行弱ときわめて短いが、重要な展開の部分。シャルロ[ット]†王子が、オジエの息子ボードワネ[ット]とチェス将棋を指して遊んでいたが、「王手詰み〔チェックメイト〕」を宣告されてかっとなり将棋盤で相手の頭をたたき割ってしまう。息子の変わり果てた姿に憤慨したオジエは、棒切れをふりまわして王子を追いまわす。王は金銭で解決しようとするが、オジエは王子の命で償ってもらうとゆずらない。オジエは追放の身となり、パヴィア国のデジエ(Desier; ≒デシデリウス)に身を寄せる。

オジエの反乱・投獄・復帰

この後、オジエが追跡するフランス王軍をさんざん翻弄する。オジエは、ローヌ川沿いのシャ[ス]テルフォール(Chastel-fort; 現代風ならChâteau-fort)に牙城を得、マンゴネルなどの大型兵器で攻撃されても、従者ベノワ(Beneoit)がギリシア火薬で対抗するなど、痛快に立ち回る劇が語られる[9]

しかしそんなオジエも、やがて捕えられる。五人分の食欲があるこの囚人に対し、毎日パンを四分の一と水で薄めた古ワイン一杯しか与えませんから、と言ってテュルパン司教が、その監視役を買って出るが、そのじつ特大パンを焼かせ、巨大な銀杯を調達させて文字通りその四分の一だけを与えて存分に養った。七年が経ち、オジエのひげも白くなったが、二の腕や首筋はまだまだ太かった[10]

この展開で、第九枝篇(第9796~11040行)が始まる:

フランスは、アフリカの王ブルイエ(またはブレユス; Brehier, Brehus; ブ氏再話→ブリュイエ)率いる軍の侵攻を受けて、大被害を蒙り、「こんなときオジエがおれば」の声がだんだん高まってくる。王はしぶしぶオジエの復帰を承諾。巨躯のオジエに持ちこたえる馬を探すため、王の馬ブランシャールを含む数等の馬を試乗してぺしゃんこにする滑稽な場面が盛り込まれる[11]。しかしオジエの愛馬ブロワフォール(→ベフロール)が、モー市の聖ファロ大修道院(→サンファロン大修道院)に預けられていることがわかる。見違えるほど痩せこけた馬は、前の主人とめぐり合うと、鼻息を鳴らしていななき、体を平伏してオジエを迎え、涙をさそう。戦う用意がそろったオジエだが、自分の息子を殺した王子を差し出さねば、てこでも働かないと言う。王は何とかできないものかというが、ネームは、フランスの国運がかかっていることでり、自分も息子ベルトランをオジエに斬られてしまったが、私情ははさまない、と諭した。しかしオジエが名剣コルタンをとりだして、いざ王子の首をはねようとしていたその時、天使ミカエルが降臨してその手をとどめた。[12](天使の場面のイラストは、Gautier 1895, p. 608(第3版)や、Molbech 1878, p. 139にある)

第九枝篇はここで終結するが、編者バロワによれば詩人ランベールが書き綴った真正の部分はここまでで、残りはより後年に書き足されたものだという。[13]。だが、第十詩編では、オジエは実際にブルイエ(→ブリュイエ)と戦う。相手は途中で休戦を請い、亡きキリストを聖墳墓に納棺する前、その遺骸に塗りこめたという塗り薬を使って回復した。決闘が再開し、オジエの馬ブロワフォールは悲しくも殺されてしまう。だがオジエは応酬し、相手を討ち取って、新たにボーサン(Bauchan; →マルシュヴァレー)という馬を得る。

この後、オジエは、さる英国王の王女を救助するが、[14]この王女と結婚し、シャルル帝からエノー州ブラバント州の領地を与えられた。英国王女と夫婦になったという作り話は、そののちオジエがハンプトンのビーヴェス卿(ビーヴィス卿)英語版の父親になったという言い伝えへの布石のようである[15]。死後、オジエの遺体は従者ベノワと供に、前述モー市の僧院に安置されたという[16](#モー市と聖ファロ僧院)。

改作や翻案

後年、古い武勲詩の第1枝篇の部分を拡張して、アドネ・ル・ロワ英語版(1300没)が、『オジエの青少年期』(?)(Enfances Ogier)を詩作した。北欧でも、『オジエの騎士道』の第一枝篇に近似するテクストが十三世紀に古ノルド語の散文に翻案されて、『カルルマグヌース・サガ英語版』集の第3枝編『オッドゲイル・ダンスキ』(Oddgeir Danski)のサガとして収録された。内容は古武勲詩にほぼ近いが、エンディングが独自の顛末になっている[17]。また、オジエの青年期は、フランコ=イタリア語にも翻訳された。

中世後期

ジャン・ドゥートルムーズ英語版(1338-1400)は、われわれ後世に伝わらないバージョンのオジエ伝を使っていたらしく、その著書『歴史の鑑』には、オジエがケルトかアーサー王伝説の妖猫キャスパリーグと戦ったという伝承を記録する。オジエの伝説に上述したようなアーサー王伝説がからめられるようになったのは、この頃で、まずは武勲詩を中核に、オジエのアヴァロン行きなどの物語を書き加えた、アレクサンドラン韻律(十二音綴)で20,000行におよぶフランス語の詩文ロマンスが登場したが、これは l'Arsenal 2985 (ant. 190-191)写本(14世紀)や極彩色の挿絵で有名な「タルボット・シュルーズベリーのロマンス書」(大英図書館所蔵 Royal 15 E VI写本。1445年頃)[18][19]に収められている。

近世

[[印刷機]の発明後、アレクサンドラン韻律詩と同様な内容のフランス散文訳『オジエ物語』が、1498年にパリで出版された[20]。以後、何度も再版されて広まった。

オジエは、アヴァロンの仙女モルガンと、ムールヴァン(Meurvin)と言う名の子をもうけたとされていて、あまり知られてないが『Roman de Meurvin, fils d'oger le Danois』(1531年)も出版されており、ここではムールヴァンの子オリアン(Oriant)が、白鳥の騎士の祖先とされている[21][22]

イタリア語では、たとえばルイジ・プルチ英語版(1432-1484)作の『モルガンテ』第1詩章17詩節で、オルランドーが、デーン人ウッジェーリ(Uggieri il Danese =オジエ)の妻エルメリーナから名剣コルタナと名馬ロンデル(ロンデロ; Rondel, Rondello)をかっぱらって言ってしまう。(この詩の冒頭部分は、バイロン卿が『モーガンテ・マッジョーレ』の題で英訳している[23])。(*このロンデロという馬号は、ブオーヴォ・ダントーナイタリア語版の馬と同名であることが興味深い(上述ビーヴェス卿の馬アランデルに相当し「燕子〔つばくろ〕」を意味する)。

モー市と聖ファロ僧院

モー市の聖ファロ僧院には、霊廟があり、聖オトゲルと聖ベネディクトが横に並んだ仰臥像を蓋に配した石棺に、両聖人の遺体が納められていた。武勲詩でもオジエとその従者ベノワがこの僧院に永眠することになっており、彼らと二聖人を同一視する伝承があったようだ。この霊廟の銅版画(?)は、古書『アクタ・サンクトルム第IV部』(Luc d'Achery & Mabillon 1677)の扉に掲載されている(外部サイト:HMML美術館展示物) 僧院は1751に取り壊しにあったが、1874年に霊廟のものと思われる伝・オジエの頭部が発見された[24]

スカンジナビア

北欧では、「オッドゲイル」のサガが写本に残された時代を経て、近世になるとクリスティエルン・ペデルセン英語版が、パリ大学に在学中に、フランス語散文オジエ物語の出版本('Ogier le Dannoys')を求め、帰国後デンマーク訳本を1534年に『ホルガー・ダンスク年代記(Kong Holger Danskes Krønike)』として出版した。このことにより、オジエ伝説がデンマーク民間により広く伝播した。デンマークではアンデルセンの童話や、クンツェン(F.L.Æ. Kunzen)のオペラに『デンマーク人ホルガー』があり、またインゲマン(Bernhard Severin Ingemann)の詩にゲバウアー(Johan Christian Gebauer)が曲をつけた歌もよく知られている。

ヨーロッパには(アーサー王バルバロッサ)など、洞穴の眠れる巨人や英雄が、国の有事に復活するという伝説があるが、デンマークでもそういうした眠れるホルガー・ダンスク伝説が出現し、とりわけ、ペデルセンの郷土ヘルシンガー(ヘルシンオア)市にまつわりつくようになったといわれる。この都市の某ホテルがホルガーの銅像(1907年)を制作依頼し、その石膏型をクロンボー城の砲郭に置いたところ、そちらの方が一躍有名になった。しかし石膏像は湿気で劣化をおこし、1985年以来コンクリート像に置き換えらている[25]

第二次世界大戦中は、ナチス・ドイツの占領に対するデンマークの抵抗分子が、「ホルガー・ダンスク」の名でレジスタンス運動を行なった。

大衆文化のオジェ

オジェ・ル・ダノワは、トランプのスペードのジャックの人物とされる。アメリカの作家、ポール・アンダースンの『魔界の紋章』もオジェ・ル・ダノワの伝承を下敷にしている。

関連項目

脚注

  1. ^ Langlois 人名事典の見出しでの綴り
  2. ^ 1842年に武勲詩オジエを編纂した Barrios (後述)が提唱した。Ward 1883, Vol.1, p.605, "Barrois (argued) that tradition began with giving Ogier lands in Ardennes,..,"
  3. ^ Brandt 1882,p.271, Efter at have begyndt med den kategoriske Erklæring: »alle skulle mærke og vide i ret Sandhed, at Kong Olger Dansk var Kong Gøtriks Søn og fødtes her i Danmark«,.. og gjør ham identisk med Saxos Oluf, der hos Kejser Karl blev kaldet Olger.(ペデルセンは、)「皆様にまことの真実を見知り頂きたいのですが、オルガー・ダンスクは、グードリグ(デンマーク語: Gøtrik)王の若子様にして、デンマークのお生まれにございます」などと断言して書いており、このオジエを、サクソのデンマーク史に登場するグードリグの王子オルフ(Oluf)に比定した、云々。
  4. ^ Barrois 1842
  5. ^ Ludlow 1865
  6. ^ 有永弘人訳『ロランの歌』岩波文庫1965年初版,747行-
  7. ^ [[#CITEREF|]]54章(最終章): "Oddgeir was his standar-bearer as long as they both lived".
  8. ^ 邦文で「カラウー」のカナ表記の例がないが、参考として現代フランス語 heureux /œ.ʁø/ が「ウールー」と一般表記されることによる
  9. ^ Ludlow 1865,p.282-3 "But around Castle-Fort on one side is a.. marsh.. on the other runs the Rhône."; "Charles has mangonels and engines.." "Bennet has taken Greek fire in the town.. sets fire to the engine".
  10. ^ Ludlow 1865,p.290
  11. ^ 原典では、別の箇所ではシャルルが Blancart つまり白馬に乗るが、ここでは都督バランから奪った早馬とされているBarrois 1842, 10435-7行, "le bon ceval corant que je conqis à l'amiraus Balant"
  12. ^ 散文オジエの古い出版本にもこの場面はある:Benoit Rigaud 1579(古い出版本), p.233 の見出し"Comment.. Charlemaigne fut contrainct de liurer son filz Charlot à Ogier.. &comment l'Ange ainsi qu'il vouloit coupper la teste de Charlot luy retint le bras.."
  13. ^ Ludlow 1865, p.296 "V. We have now come to the end of the ninth branch, the last of those which M. Barrois considers to have been worked up by Raibmet of Paris from earlier versions.
  14. ^ Ludlow 1865, p.300
  15. ^ Ludlow 1865, p.300, "composet to serve as a transition.. to the story of Bevis of Hanstone, or Hampton"; p.303 "He is known in our own legendary lore as the father of Sir Bevis of Hampton."
  16. ^ Ludlow 1865, p.301, "He was buried at Meaux, Bennet by him"
  17. ^ Hieatt 1975参照
  18. ^ Ward 1883, Vol.1, p.605- "MS Royal 15 E VI"
  19. ^ British Museum/Library オンライン写本カタログ
  20. ^ Knud Togeby 1967
  21. ^ Encyclopedia Britannica (1880-1899の各版), vol.20, "Romance" の項
  22. ^ Dixon-Kennedy 1995
  23. ^ バイロン英訳の原文Gordon, George, Lord Byron (1841) (google), Complete works, Place: A. and W. Galignani, http://books.google.co.jp/books?id=nEoJAAAAQAAJ&pg=PA328 
  24. ^ 外部サイト:Tête d’Ogier le Danois, Meaux”. Topic Topos. 2012年3月3日閲覧。
  25. ^ Kronborg Castle site (Holger the Dane)”. 2012年3月2日閲覧。

参考文献

(邦書)
  • トマス・ブルフィンチ『『シャルルマーニュ伝説』』 1806巻、市場泰男 訳、講談社〈講談社学術文庫〉、2007年。ISBN 978-4-06-159806-5 ,p.325-360, 第23-25章(オジエ・ル・ダノワ(一)~(三))
(事典・一般書)

Kibler, William, ed. (1995) (google), Medieval France: an encyclopedia, Psychology Press, ISBN 9780824044442, http://books.google.co.jp/books?id=4qFY1jpF2JAC&pg=PA215 ,p.215-

(一次資料)
  • Raimbert de Paris (1842), Barrois, Joseph, ed., La chevalerie Ogier de Danemarche, Paris: Techener 

Vol. 1, Vol. 2.

(古出版書)
(二次資料)
(モー市の伝オジエの頭部と聖オトゲル霊廟)

外部サイト

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