「イコン」の版間の差分
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{{Otheruses|[[キリスト教]]における |
{{Otheruses|[[キリスト教]]における敬拝の対象としての聖像|[[英語]]からの片仮名で転写された語彙の概念・語義|アイコン|その他}} |
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[[ファイル:Vladimirskaya.jpg|thumb|right|180px|『[[ウラジーミルの生神女]]』]] |
{{右|[[ファイル:Vladimirskaya.jpg|thumb|right|180px|『[[ウラジーミルの生神女]]』[[使徒|聖使徒]][[ルカ]]によって画かれたと伝えられる。([[モスクワ]]、[[トレチャコフ美術館]]所蔵)]]}} |
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{{右|[[File:Chora Anastasis2.jpg|thumb|right|320px|[[フレスコ画]]イコン『主の[[復活 (キリスト教)|復活]]』(黄泉降り)。現在は[[カーリエ博物館]]となっている、ホーラ(コーラ)修道院の聖堂内、湾曲した天井に描かれている。[[イエス・キリスト|イエス・キリスト(イイスス・ハリストス)]]が[[アダム]]と[[イヴ|エヴァ]]の手を取り、地獄から引き上げる情景を描いたもの。主・神であるキリストにより、[[旧約聖書|旧約]]の時代の人々にまで遡って復活の生命が人類全てに与えられたという[[正教会]]の伝承に基づいている。]]}} |
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'''イコン'''({{lang-el|εικών}} |
'''イコン'''({{lang-el|εικών}}, {{lang-ru|Икона}}, {{lang-en|Icon}}, {{lang-de|Ikon}})とは、[[イエス・キリスト|イエス・キリスト(イイスス・ハリストス)]]、[[聖人]]、[[天使]]、[[聖書]]における重要出来事やたとえ話、教会史上の出来事を画いた画像(多くは平面)である<ref>[http://orthodoxinfo.com/general/icon_faq.aspx The Icon FAQ] (Orthodox Christian Information Center)より、冒頭文を翻訳引用</ref>。"{{lang|el|εικών}}"をイコンと読むのは中世から現代までのギリシャ語による({{lang|el|ει}}は中世・[[現代ギリシャ語]]では「イ」と読む)。古典[[ギリシャ語]][[再建|再建音]]では'''エイコーン'''。[[正教会]]では'''聖像'''とも呼ぶ<ref name="ocjicon">[http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/katachi01.html かたち-イコン:日本正教会 The Orthodox Church in Japan]</ref>。 |
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「イコン」と言えば[[正教会]]で用いられるものを指すことが多く<ref name="ocnart">[http://www.artgene.net/dictionary/cat11/post_571.html イコンIcon|現代美術用語辞典|OCNアート artgene.(アートジェーン)]</ref>、場合によってはイコンは正教会のものとして限定的に説明されることもある<ref name="ocjicon" /><ref>『[[キリスト教大事典]] 改訂新版』75頁、[[教文館]]、昭和52年 改訂新版第四版</ref>。[[カトリック教会]]ではイコンについて、広義には聖画像一般を指し、狭義には[[東方教会]]における聖画を指す、と整理されることがある<ref>『カトリック大辞典 I』(145頁、上智大学編纂、冨山房、昭和42年第七刷)</ref>。 |
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"{{lang|el|εικών}}"をイコンと読むのは中世から現代までのギリシャ語による({{lang|el|ει}}は中世・[[現代ギリシャ語]]では「イ」と読む)。古典[[ギリシャ語]][[再建|再建音]]では'''エイコーン'''。教会では'''聖像'''とも呼ぶ。英語の"icon"([[アイコン]])は、ギリシャのイコンに由来する。 |
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正教会でのイコンの多くは平面であり、正教会においては立像は用いられない訳ではないが、極めて稀である。その形状は板絵のみならず、[[フレスコ画]]、写本挿絵、[[モザイク画]]など多様である<ref name="ocnart" />。 |
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他方、イコンは正教会以外の他[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]でも用いられないわけではない。[[カトリック教会]]においても用いられる<ref>[http://www.sanpaolo.or.jp/column/cn33/list/pg273.html 御像について] (サンパウロホームページ)</ref>。ただしカトリック教会では同様の平面像については「'''御絵'''」(ごえ)と呼ぶことの方が一般的である。またカトリック教会では正教会と異なり、立像(3次元の像)を避けるということは特に行われておらず、立像については「'''御像'''」(ごぞう)と呼ぶ<ref>[http://home.a06.itscom.net/catholic/communio/pastor200705.html Communio - カトリック鷺沼教会公式サイト]</ref><ref name="matu11">[http://www7.plala.or.jp/cmc/chris-11.htm#goegozou 松原教会・クリスチャン神父のQ&A(11)]</ref>。 |
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== 形像拒否 == |
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[[旧約聖書]]では神を描写することが禁止された。これを形像拒否といい、このため[[ユダヤ教]]・[[キリスト教]]では神を絵に描いたり彫像に作ることを禁じた。[[イスラム教]]もまた同じ根拠で宗教美術に具体的形像を持ち込むことを避けた。 |
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[[正教会]]・[[カトリック教会]]の両教派が承認する[[第2ニカイア公会議|第七全地公会(第2ニカイア公会議)]]において確認された、イコンの使用を正統とする[[教理]]等については両教派に共通する部分もあるが、本項では正教会におけるイコンをまず中心に扱い、[[西方教会]]・[[西欧]]におけるイコン・宗教画については若干にとどめる。 |
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しかしユダヤ教・キリスト教における形像拒否はイスラム教ほどには強くない。[[正教会]]によれば、[[出エジプト記]]37章7節([[七十人訳聖書]]では38章6節)にある2体の「[[ケルビム]]」は[[偶像]]ではなく、イスラエルの崇敬の対象であり、これは[[天使]]のイコンであると解釈されている<ref>『The Orthodox Study Bible』Thomas Nelson Inc; annotated edition版 (2008/6/19)114頁 ISBN 978-0-7180-1908-2</ref>。バビロン捕囚以後成立した[[列王記]]前書には、[[ケルビム]]や12体の牛の像などが[[ソロモン|ソロモン王]]の建立した神殿に安置されたとする記述がある。 |
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== 正教会 == |
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=== 概要 === |
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初期キリスト教では[[イエス・キリスト]]や[[使徒]]たちの人物像を直接描くことは行われず、ユダヤ教美術や古代ローマ美術に共通する植物モティーフ、燭台などのユダヤ教由来のモティーフ、イエス・キリストと象徴的に結び付けられた羊・ぶどう・[[ラバルム|XPの組み合わせ文字]]などがもっぱら用いられた。しかしキリスト教信仰が解禁され、[[教会]]が公の施設として建てられるようになると、その内部装飾のための宗教美術は著しい発展を見せる。 |
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[[File:Saint Basil.jpg|thumb|right|140px|[[聖大ワシリイ]]のイコン。[[ギリシャ語]]が周りに書かれている。]] |
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[[File:IconJonArab.JPG|thumb|right|140px|[[ダマスコのイオアン]]のイコン。[[アラビア語]]が周りに書かれている。]] |
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[[正教会]]においてイコンとは、単なる聖堂の装飾や[[奉神礼]]の道具ではなく、[[正教徒]]が祈り、口付けする、聖なるものである<ref name="IA90">アルフェエフ・高松 p90, 2004</ref>。但し信仰の対象となるのはイコンそのものではなく、イコンに画かれた原像である。このことについて、正教会では「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」「彼女は、写真に恋をしているのではなく、写真に写っている彼を愛している」といった喩えで説明されることがある<ref name="osakatop2">[http://www.sutv.zaq.ne.jp/osaka-orthodox/icon/melodytop02.htm イコンとは] - [http://www.sutv.zaq.ne.jp/osaka-orthodox/ 大阪ハリストス正教会]内のページ</ref>。 |
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[[カイサリアのバシレイオス|聖大ワシリイ(大バシレイオス)]](330年頃 - 379年)は、「聖像への尊敬はその原像に帰す」とした。[[ダマスコのイオアン]](676年頃 - 749年)はこれを引用した上で、原像は聖像化されるものであるであるとともに結果を得る(尊敬を得る)元になるものでもあるとして、こうした聖像への敬拝を、東に向かって祈ることや[[十字架]]への尊敬とともに、書かれざる[[聖伝]](アグラフォシス・パラドシス)に数えた<ref name="CT107">カヴァルノス・高橋 p107, 1999</ref><ref name="CT110">カヴァルノス・高橋 p110, 1999</ref>。 |
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ここで問題となるのは、イエスが神の子であると同時に神そのものであるという教説である。4世紀にはイエスが神であるという教説が正統教義として確立する([[グノーシス主義]]ではこれを認めないため、異端とされた)が、神であるイエスを絵や像に描くことが教義上許されるかどうかという議論を呼び起こした。 |
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すなわち正教会において、イコンは信仰の対象ではなく、崇拝の対象でもないが(崇拝・礼拝は神にのみ帰される)、信仰の媒介として尊ばれる<ref name="ocjicon" />。 |
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== イコン崇敬の全地公会議による公認 == |
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[[730年]]には[[東ローマ帝国]]の[[皇帝]][[レオーン3世]]が[[イスラム教]]の影響を受けて、イコン崇敬を禁じる勅令を発した([[聖像破壊運動]])。しかし、[[787年]]に第七[[公会議|全地公会]]・[[第2回ニカイア公会議]]によって、イコン崇敬は教義上認められた。聖像破壊運動に反対した代表的な聖人として[[ダマスコのイオアン|ダマスコの克肖者聖イオアン]]が挙げられる。 |
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こうした教義は[[第2ニカイア公会議|第七全地公会議]]において確認されたが、この公会議では全き人としてこの世に存在した全き神である[[キリスト|ハリストス(キリスト)]]を画き出すことは、[[ロゴス|神言]]の[[受肉|藉身(受肉)]]に対する信仰を守ることであることも確認された<ref name="hikarito139">高橋 p139, 1991</ref>。 |
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[[全地公会議]]では、イコン({{lang|el|εικών}})の崇敬({{lang|el|προσκύνησις}})を、模像を通して原像を({{lang|el|διά των χαρακτήρων τά πρωτότυπα}} )礼拝する({{lang|el|λατρεία}})と定義している。 |
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正教徒がイコンの前で祈る時、描かれた[[キリスト|ハリストス(キリスト)]]、[[生神女]]、[[聖人]]に祈る。人はイコンを通じて霊の世界やそこに住む者に触れることが出来るようになる。[[パーヴェル・フロレンスキイ]]は「イコンとは別の世界への窓口」であるとした<ref name="IA92">アルフェエフ・高松 p92, 2004</ref>。イコンは神の国の存在を信徒に証するとともに、教会にある信徒が神の国にいることを証してもいる。正教の信仰において、イコンは「使用を認められた」というよりも、むしろ属神的(ぞくしんてき、霊的)必需品であるとされる<ref name="HO8">ホプコ・小野、p8, 2009</ref>。 |
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[[正教会]]では[[大斎 (東方正教会)|大斎]]第一[[主日]]をイコン崇敬の認知を記憶し、'''正教勝利の主日'''と呼ぶ。 |
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[[ギリシア語]]の「'''イコン'''」({{lang-el|εικών}}の中世 - [[現代ギリシア語]]読み、[[古典ギリシア語]][[再建]]音では'''エイコーン''')は、似姿、印象、かたどり、イメージという意味がある<ref name="CT107">カヴァルノス・高橋 p11, 1999</ref><ref name="JT46">高橋 p46, 1980</ref>。思いや考えを託す器としてのイメージ(イコン)は、託されたものを表現する働きも持つため、器(イメージ、すなわちイコン)の破壊は器に盛られているものの破壊に通じると考えられる。ここでいう「器」は、具体的には伝統的なイコンの技法、既定された色や構図であると整理される<ref name="JT46" />。 |
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== 聖像の神学的意義 == |
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[[ファイル:Mary of egypt2.jpg|thumb|240px|[[エジプトのマリア|エジプトの聖マリア]]のイコン。[[17世紀]]に[[ロシア]]で描かれたもの。中心に祈りを奉げるエジプトの聖マリアの姿が描かれ、周囲にその生涯についての伝承内容が左上から順に描かれている。]] |
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[[聖像破壊運動]]の焦点は聖像の使用がキリスト教教義と違背するかどうかにあった。論点は大きく2つに分けられる。まず聖像使用が「[[偶像崇拝]]」に当たるかどうかであり、第二に聖像使用において(仮に偶像崇拝に当たらないとしても)「[[神]]を描くこと」が可能かどうかである。 |
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=== イコン画家 === |
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旧約聖書での形像禁止は、精確には「偶像を崇拝すること」である。この批判を避けるために聖像擁護には「崇拝」と「崇敬」の違いが導入される。 |
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イコンを書く者は、[[聖伝]]の中に生き、[[正教会|正教]]の共同体の一員であり、いつも[[機密 (正教会)|機密]]的生活の内にいなければならない。真のイコン画家にとりイコンの制作は習練と祈りの道、修道の道そのものであり、この世と肉体の情念と欲からの解放がなされ、人の意志が神の意志に従えられていなければならない。真のイコン画家は自分のため、もしくは自分の光栄のためにではなく、神の光栄のために働く<ref name="CT135">カヴァルノス・高橋 p135, 1999</ref>。 |
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従って原則としてイコン画家はイコンに自分の名を記さない。例外的に記名する場合にも「~によって」「~の制作」「~の手によって」「~の手」といった言葉を付ける。これはイコンの制作課程の中に神聖なものが入り、神の恩寵がイコン画家の心を照らして、彼の手を導くと感じられることによる<ref name="CT135" />。 |
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すなわち聖像の使用は像そのものの崇拝ではなく、像が表すものの[[想起]]のためであり、像そのものは敬意をもって扱われるべきものではあっても、あくまでも崇拝の対象ではないと考えるのである。聖像擁護論にあっては聖像はしばしば「[[恋人]]の図像」に喩えられる。恋人の絵や写真は恋人そのものではないが、遠く離れた恋人をしのぶ者はその図像を大切にする。それと同じく聖像は、その造形を通して神や聖人の存在、またその事跡を想起させるのである、という主張である。 |
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=== 歴史 === |
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次に神を描くことの可能性であるが、これは[[カルケドン公会議]]で正統教義とされた「神性と人性は子(キリスト)において分かたれず一体である([[三位一体]])」という教説から擁護される。旧約の「像を刻むなかれ」という禁止は神そのものに認め、またその描出の不可能性を認めた上で、神の3つの位格の1つである子なる神においては、人としての姿を現したナザレのイエスに関する限りで、この描出不可能性がむしろ神の側から破られていると考えうるからである。 |
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[[東西教会の分裂]]がはっきりとするまでの歴史は[[正教会]]と[[西方教会]]とに共有される部分も大きいが、ここでは正教会に連なる歴史というかたちで詳述する。 |
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==== 初期(7世紀まで) ==== |
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== 聖像の様式 == |
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[[File:Avgar poluchaet Nerukotvorny obraz.jpg|thumb|right|140px|[[自印聖像]]の逸話が書かれたイコン([[10世紀]])]] |
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=== 古代 === |
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[[File:Christ Icon Sinai 6th century.jpg|thumb|140px|right|蝋画法による[[イエス・キリスト|イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)]]のイコン([[6世紀]]頃、[[シナイ半島]]、[[聖カタリナ修道院]]所蔵)]] |
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聖像破壊運動のため、古代の聖像はかなりが失われている。数少ない優秀な遺例としては、[[シナイ山]]の聖カタリナ修道院にある『[[全能者ハリストス]]』、ローマの[[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]](聖マリア大聖堂)にある『聖母子』が挙げられる。 |
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全ての[[イエス・キリスト|イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)]]の顔が画かれたイコンの原型となっているのは、『手にて描かれざるイコン』とも呼ばれる『[[自印聖像]]』である。これは、イイススが顔を洗い、自らの顔を布に押し当てると、イイススの顔が布に写るという奇蹟が起きたことによるものであると、教会の伝承は伝えている<ref name="BD243" />(ただし『[[自印聖像]]』のオリジナルは、[[1204年]]、[[第四回十字軍]]が[[コンスタンティノープル]]を蹂躙した際に失われた)<ref name="IA90" />。 |
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伝承によれば、[[ルカ|聖使徒ルカ]]によって[[生神女マリヤ]]の存命中に彼女が画かれたイコンが最初のイコンだとされている。『[[ウラジーミルの生神女]]』は、聖使徒ルカによるものとして正教会では伝えられている<ref name="BD243">"The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p243, ISBN 9780631232032</ref>。[[ダマスコのイオアン]]が[[金口イオアン]]の生涯について書いた著作の中では、金口イオアンが[[パウロ|聖使徒パウロ]]のイコンを自分の前に置いて[[パウロ書簡]]を読んでいたと記されている。[[ニュッサのグレゴリオス|ニッサの聖グリゴリイ(ニュッサのグレゴリオス)]]はイサクの燔祭のイコンを見て、深く感動したことを語った<ref name="CT12">カヴァルノス・高橋 p12 - p13, 1999</ref>。 |
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=== 東方教会 === |
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[[正教会]]はイコン(=聖像)の形式に教会の教義により厳格かつ細密な規範を与えた。その規範は正教信徒が先達の図像をその通りに踏襲して「書く」ものであり、立体とすることは禁じられている。新しい図像はそのたびに教会会議などの審査を受けることになる。 |
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[[4世紀]]の著作家[[エウセビオス]]は、ハリストス(キリスト)に癒しを受けた[[血友病]]の女(マタイによる福音書 9:20 - 23)の家に建てられたハリストスの立像のことを書き残している。また彼は、生前に書かれたハリストス、[[ペトロ]]、[[パウロ]]の肖像画が同時代に保存されていたことを記録している<ref>鐸木 p23, 1993</ref>。 |
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==== 正教会における、イコン画家とイコンの要件 ==== |
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他方、初期にはイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)と象徴的に結び付けられた魚・子羊・牧者・鳩・葡萄の枝などが広く用いられたが、[[4世紀]]にキリスト教が公認されて以降、人の姿が画かれたイコンが広まっていった<ref>『正教要理』167頁 - 168頁、[[日本ハリストス正教会]]教団 1980年</ref>。[[6世紀]]以降は、[[ヘレニズム]]や[[オリエント]]文化(特に[[シリア]])の教会の信仰の影響のもとに、イコンの数や各種表現が増えて、整えられて成熟していった<ref name="CT13">カヴァルノス・高橋 p113 </ref>。 |
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初期からイコンは存在していた一方で、イコンを否定する議論も初期から存在していた。 |
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最初から議論になったのはイコンが偶像崇拝に当たるのではないかという疑いである。[[キリスト教]]では([[ユダヤ教]]や[[イスラーム]]も同様であるが)偶像崇拝を禁じている。その根拠となるのは旧約聖書に記された十戒の第二戒([[出エジプト記]] 20:4 - 6<ref name="MMA">[http://www.metmuseum.org/toah/hd/icon/hd_icon.htm Icons and Iconoclasm in Byzantium | Thematic Essay | Heilbrunn Timeline of Art History | The Metropolitan Museum of Art]</ref>、[[申命記]] 5:8 - 10)である<ref>鐸木 p19, 1993</ref>。 |
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[[エウセビオス]]は先述の通り、ハリストス(キリスト)や使徒達の肖像画・立像が当時存在していたことを記録した著作家であるが、一方でそうした画像自体に対しては否定的であった。エウセビオスは皇帝の異母妹コンスタンティアからハリストスの肖像画を所望されたことへの返信の中で、「ハリストス(キリスト)の栄光」を「死んだ色と生命の無い絵で描く事」の不可能性に言及してこれを断っている<ref>鐸木 p22, 1993</ref>。 |
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==== 聖像破壊運動(イコノクラスム、8世紀から9世紀前半) ==== |
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{{Main|イコノクラスム}} |
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[[7世紀]]に[[イスラム]]が興り、[[東ローマ帝国]]と戦火を交えるようになると、一切の宗教画を用いないイスラムに影響されて、イコン(聖像)を否定する考えが教会内に広がった<ref name="hikarito134">高橋 p134, 1991</ref>。 |
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[[726年]]から、東ローマ帝国[[皇帝]][[レオーン3世|レオン3世]]は、本格的に聖像廃止に取り掛かった(同年、[[サントリーニ]]火山が噴火しており、皇帝はこれを神からのイコンへの怒りと解釈した)。[[727年]]には、宮殿の門にかかっていたハリストス(キリスト)のイコンを破壊しようとしていた兵士たちが、イコン廃止に反対する婦人たちによって梯子から引きずり落とされ死傷者が出た事件をきっかけに、イコン賛成者たちは海軍とともに反乱を起こした。反乱は皇帝によってすぐに鎮圧されたが、これが帝国中におけるイコンの是非を巡る論争の始まりであった。[[730年]]にはレオン3世は自身への同調者を集めて[[公会議]]を開き、イコンを禁止する命令を発布した<ref name="hikarito137">高橋 p137, 1991</ref>。 |
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[[高橋保行]]によれば、レオン3世がイコン廃止を打ち出した時期には、イコン反対論者が多く存在していた[[アルメニア]]、シリア北部出身の兵士が帝国の防衛にとって重要となっており、彼らへの配慮がイコン禁止令の背景にあったとされる<ref name="hikarito136">高橋 p136, 1991</ref>。ただしイコノクラスム(聖像破壊運動)の原因については、イコノクラスムを行った(イコンを破壊した)当事者の側の史料が殆ど残っていないため、研究すること自体が極めて困難である<ref>[http://isthmia.osu.edu/teg/50501/20.htm LEO III AND THE BEGINNINGS OF ICONOCLASM] (Timothy E. Gregory)</ref>。 |
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レオン3世は[[741年]]に永眠したが、[[コンスタンティノス5世]]はイコン禁止の姿勢を父帝から継承。[[総主教]]の出席を欠き要件を満たさない「公会議」を開催し(総主教が出席しなかったことから「頭なしの会議」とも呼ばれる、[[754年]])、イコン賛成論者を異端と決議し、762年から本格的に迫害を開始した。[[修道院]]は、イコンを制作していたことと、兵役に適齢である若者を[[修道士]]として受け入れていたことから、特に弾圧の対象となった。ただし[[ブルガール人]]が帝国の北境を脅かしたため皇帝は防衛に忙殺され、イコン論争に最終的な決着を付けることなく永眠した<ref name="hikarito138">高橋 p138 - p139, 1991</ref>。 |
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こうしたイコノクラスムを行った皇帝達には、「神事に仕えるものとして定められた」教権と、「この世の事に良き秩序を与えるものとして定められた」帝権とが区別された([[ユスティニアヌス1世]]による『新勅法』6、535年)東ローマ帝国において、教権と帝権の両権の掌握を強硬に主張したという特徴がある。レオン3世は「余は皇帝にして司祭長なり」と述べたと伝えられる<ref name="cle21">クレマン・冷牟田・白石 p21, 1977</ref>。 |
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こうして[[8世紀]]から[[9世紀]]前半にかけて(726年 – 787年、815年 – 843年)、イコン破壊が断続的に東ローマ帝国全土で行われた。破壊運動が徹底的に行われた結果、それ以前の東ローマ帝国におけるイコンは、[[シナイ半島]]にある[[聖カタリナ修道院]]が所蔵する僅かなものや[[テッサロニキ]]に遺された僅かなモザイク画イコンの他は残されておらず<ref name="MMA" /><ref name="CT16">カヴァルノス・高橋 p16, 1999</ref>、他には西欧においてモザイク画イコンが僅かに残されているのみである<ref name="CT16" />。また1世紀以上にわたりイコンの発展は妨げられ、教会の精神性と神秘性が低迷したと正教会からは評される<ref name="CT14">カヴァルノス・高橋 p14 - p15, 1999</ref>。 |
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教会は帝権に対し、暴力ではなく[[致命者|致命(殉教)]]によって積極的に抵抗した。[[ダマスコのイオアン]]はこうした皇帝の主張に対して、「帝よ、我らこの世の政や人頭税や通行税などにおいては爾に忠実なるも、教会の仕組みにては我らに言葉を述べ、教会規程を定めし牧者を別に戴きおるなり。」と反駁した<ref name="IA92" />。また修道士達は、信仰の事柄に関する決定は帝国のあずかり知らぬことであるとしてイコン擁護にまわった<ref name="cle21" />(例:[[克肖者表信者ヴァシリオス]])。 |
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==== イコノクラスム終結(787年の第七全地公会~9世紀半ば) ==== |
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[[レオーン4世|レオン4世]]および[[コンスタンティノス6世]]の摂政となり、後に女帝となった[[エイレーネー|イリナ(エイレーネー)]]は、イコン賛成論者だった。[[787年]]の[[第七全地公会]]は彼女の働きによって召集された。この全地公会議において、[[754年]]の「頭なしの会議」の決議は一切無効とされ、イコンの神学的位置づけが真剣に討議され、以下のように定理(教義)を確認、決議した<ref name="hikarito139" />。 |
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{{Quotation|書に依り又は書を以てせずして我等の爲に制定されたる[[聖伝|敎會の傳]]を我等悉く新説を附會せずして遵守せん、書く所の聖像は福音傳ふる所の記事に符号し且我等をして[[ロゴス|神言]]の[[藉身]]の眞實にして想像的に非ざるを信ぜしめ彼と同様の利益るあものなるを以て其の傳の一つなり。蓋し彼れの此れに指示する所彼れ必ず此れに説明すればなり。されば我等は王の途を歩む者の如く我等の諸聖父の神出の敎と公敎會の傳とに循ひ(蓋し此敎は敎會に在ます[[聖霊|聖神]]の敎たるを知るなり)極めて確實に且つ最も精密の調査を遂げて議定すること左の如し神の聖堂に聖なる器物及び祭服に壁に板に家に途に尊貴にして生命を施す[[十字架]]の象と等しく顔料(えのぐ)を以て書かれ美石及び其他適宜の物を以て製造せらるる尊貴にして且つ聖なるの像即ち我等の主、神、救主[[イエス・キリスト|イイスス・ハリストス]]及び無玷の女宰、我等の[[生神女]]並に尊貴なる使徒及び諸聖人[[克肖者]]の像を置くべし。蓋し屡次(しばしば)聖像の象(かたどり)を見るに由りて之に注目する者は其原像を想起して之を愛し接吻と敬拝を以て之を尊敬するの念を起すべし但し此叩拝は我等の信ずる所に依るに當(まさ)に唯一の神性に帰すべき眞の拜神に非ず乃ち尊貴にして生命(いのち)を施す十字架の象と聖[[福音書|福音經]]及び其他の聖物に對し薰香及び點燭を以て敬意を表するの例に傚ひ尊敬することにして即ち古時の敬虔なる慣例に行われたる如し。蓋し像に施す所の尊敬は其原像に移るものにして聖像に叩拜する者は之に書かれたる者に叩拜するなり。是れ蓋し我が諸聖父の敎の確(たし)かむる所にして地の極(はて)より極に至るまで福音を受けたる公敎會の傳なり。|第七全地公会三百六十七人の諸聖父の定理|上田将訳『[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/824697/1 聖規則書]』正教会編輯局 明31.7 1898}} |
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[[ファイル:Seventh ecumenical council (Icon).jpg|thumb|right|150px|第七全地公会(第2ニカイア公会議)のイコン。]] |
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上記の確認された定理は、以下のようにまとめられる。 |
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* 全き人としてこの世に存在した全き神である[[キリスト|ハリストス(キリスト)]]を画き出すことは、[[ロゴス|神言]]の[[藉身]]に対する信仰を守ることである<ref name="IA92" />。 - 歴史的に存在した神ハリストスを画き出すことは、見えない神を想像し画き出す偶像とは異なる<ref name="JT96">高橋 p96 - p97, 1980</ref>。見えない神が人となって、この世で見える姿をとったから(藉身)、その姿を画いても決して偶像にはならない<ref name="hikarito139" />。 |
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* イコンへの敬拝・尊敬は、画かれた原像に帰す<ref name="IA92" />。 - イコンそのものを崇拝するのではない<ref name="JT96" />。神への崇拝とイコンへの敬拝は違うのであり、神のみが崇拝の対象である<ref name="hikarito139" />。 |
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{{See also|ラトレイア}} |
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この第七全地公会の後も論争はくすぶり続けたが、[[843年]]に皇后[[テオドラ (テオフィロスの皇后)|テオドラ]]によって召集された公会議によってイコンの正統性が再確認された<ref name="hikarito140">高橋 p140, 1991</ref>。[[大斎 (東方正教会)|大斎]]の第一主日は「正教勝利の主日」と呼ばれ、イコン論争におけるイコン擁護論の勝利を記憶している<ref name="JT97">高橋 p97, 1980</ref>。 |
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[[オリヴィエ・クレマン]]によれば、イコン論争の終結までの顛末について、帝国と教会の対立が教会の勝利に終わったことで、[[皇帝教皇主義]]は[[東ローマ帝国]]において消滅し、以後、教会と国家の協調([[ビザンティン・ハーモニー]])という考え方が開花していったとしている<ref name="cle22">クレマン・冷牟田・白石 p22, 1977</ref>。 |
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{{See also|ビザンティン・ハーモニー}} |
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==== 発展(9世紀半ば~16世紀) ==== |
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===== 概略 ===== |
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[[File:Jesus-Christ-from-Hagia-Sophia.jpg|thumb|180px|right|『[[全能者ハリストス|全能者ハリストス(キリスト)]]』([[12世紀]]、[[アヤソフィア|アギア・ソフィア大聖堂]]、[[モザイク]]イコン)]] |
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[[ファイル:Angelsatmamre-trinity-rublev-1410.jpg|thumb|150px|[[アンドレイ・ルブリョフ]]によるイコン『[[至聖三者 (ルブリョフによるイコン)|至聖三者]]』]] |
[[ファイル:Angelsatmamre-trinity-rublev-1410.jpg|thumb|150px|[[アンドレイ・ルブリョフ]]によるイコン『[[至聖三者 (ルブリョフによるイコン)|至聖三者]]』]] |
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9世紀半ばに[[イコノクラスム]]が終結して以降、イコン表現は再び活発になった。10世紀頃から聖堂の中にはイコンが決まった順序で体系的に配置されるようになり、時代によって多少の違いはあるものの、この様式が現代に至るまで正教会におけるイコンの標準になっている<ref name="CT15">カヴァルノス・高橋 p15, 1999</ref>。 |
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聖堂壁面におけるイコン表現で最も重要視されたのは[[モザイク]]であった。それまでギリシア人、ローマ人によって道路舗装などに使われていたモザイク技術・美術がイコンに導入された<ref name="CT1516">カヴァルノス・高橋 p15 - p16, 1999</ref>。モザイクイコンは[[4世紀]]から[[14世紀]]にかけて東ローマ帝国において広範囲に制作されていたが、西からの十字軍遠征([[第四回十字軍]])と[[オスマン帝国]]から受けた攻撃によって帝国の経済が低迷し、14世紀から後には高価なモザイクイコンの制作は全く不可能になり、主要な形態を[[フレスコ]]イコンなどにとって代わられた(20世紀になって漸く、ギリシャやアメリカでモザイクイコンが僅かに復活している)<ref name="CT17">カヴァルノス・高橋 p17, 1999</ref>。 |
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正教会では、教会や家庭などで用いるイコン、及びイコンを描く画家については厳格な規定がある。イコンを描くことは神に近付く道の1つであり、[[祈祷]]の形の1つであるばかりでなく、イコンを見る他の信者を神に導く道だからである。 |
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モザイクイコンはフレスコイコンと相性が良く、同じ聖堂に両様式が混在しているケースも多い<ref name="CT18">カヴァルノス・高橋 p18, 1999</ref>。またモザイクイコンは壁面にのみ限定されるものではなく、小さな板の上に用いられることもある<ref name="CT17" />。 |
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*画家は[[教役者]]の一種であるとされ、[[正教徒]]以外の者が聖像を描くことは認められていない。また聖像を描く際には、斎(食事規定)などの規定がある。 |
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特に[[ギリシア]]、[[セルビア]]、[[マケドニア]]、[[ブルガリア]]、[[ルーマニア]]などの国々には、数多くの質の高い壁画イコンがある<ref name="CT1819">カヴァルノス・高橋 p18 - p19, 1999</ref>。 |
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*正教会におけるイコンは、正教会信徒(多くの場合、修道士か修道女)が教会の祝福の下で描き(作成し)、それを[[司祭]]が[[成聖]]したもののみを指す。ある作品が図像的に一致するからといってそれを聖像と呼ぶ訳ではない。絵葉書でも[[リトグラフ]]でも、成聖されたものは聖像であり、技巧を駆使して作られた優れた手描きの複製品でも作品でも、成聖されていなければそれはイコンではない。 |
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{{See also|モルダヴィア北部の壁画教会群}} |
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*正教会の聖堂では、至聖所と内陣は[[イコノスタシス]](聖障)と呼ばれる壁で区切られる。イコノスタシスへのイコンの配置には厳格な規定がある。単にイコンの集合体というのみならず、「天使を象る存在」とされる[[神品 (正教会の聖職)|神品]]を初めとした聖堂での奉神礼従事者の通り道である南北門には天使のイコンを配置するなど、実際の[[奉神礼]]と結び付いた要素があり、奉神礼に精通した者が作らなければ優れたものとはならない諸要素が含まれている。厳格な規定には伝統に裏打ちされた根拠がある。詳しくは[[イコノスタシス]]の項目を参照。 |
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ロシアにも著名な壁画イコンがあるが、理由は不明であるが、ロシアにおいてはフレスコイコンなどの壁画イコンよりも板イコンの制作の方が盛んであった。[[14世紀]]から[[15世紀]]にロシアで活躍した著名なイコン画家として、[[フェオファン・グレク]]、[[アンドレイ・ルブリョフ]]が居る<ref name="CT20">カヴァルノス・高橋 p20, 1999</ref>。 |
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[[13世紀]]までは板イコンには人物ひとりが画かれるのが普通であったが、13世紀以降は聖なる出来事を画く板イコンの数が飛躍的に増加し、これらも東ローマ帝国から[[スラヴ]]圏に広まっていった<ref name="CT20" />。 |
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===== マケドニア派とクレタ派 ===== |
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[[File:Presentation of Mary of Protat.jpg|thumb|210px|right|『[[生神女進殿]]』(マケドニア派の[[マヌイル・パンセリノス]]による壁画イコン、1290年 - 1310年頃、[[アトス山]])]] |
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[[1204年]]に[[第四回十字軍]]が[[東ローマ帝国]]に攻め込んで以降、帝国の経済力・軍事力は落ち込んだが、美術の水準まで落ち込んだわけではない。[[14世紀]]にはマケドニア派とクレタ派というイコンにおける二つの潮流が成立していた。ただし「マケドニア派」「クレタ派」の名称のいずれも便宜的なものであって、いずれもマケドニア、クレタから始まったものでもなければ、両地域に限定されるものでもない<ref name="CT21">カヴァルノス・高橋 p21, 1999</ref>。 |
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マケドニア派は[[13世紀]]頃に始まり、[[コンスタンティノープル]]で育ち、[[テッサロニキ]]で発展。ギリシアのイコン画家を通してギリシア、[[バルカン半島]]全域に広がり、14世紀初頭には[[ミストラ]]に至った。13世紀から14世紀にかけて最盛期を迎えたが、14世紀末から民芸化が始まって衰退し、16世紀の終わりまでにはマケドニア派は消滅した<ref name="CT2122">カヴァルノス・高橋 p21 - p22, 1999</ref>。 |
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マケドニア派の特徴として、古典ギリシア由来の観念的要素の強調が挙げられる。大きい形、淡い色、弱い明暗の対比、比較的単純な衣の襞、精神的に捉えることに徹した人体の表現などがその特徴である。マケドニア派は大きくものを捉える性格から、小さな板イコンよりも広い面積のイコン(壁画など)に頻繁に使われた<ref name="CT2122" />。 |
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[[File:Jesus in Golgotha by Theophanes the Cretan.jpg|thumb|210px|right|『鞭打ちと[[十字架]]の道行き』(クレタ派の[[クレタのセオファニス|セオファニス]]による、[[16世紀]]半ば、[[アトス山]][[スラヴロニキタ修道院]])]] |
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クレタ派はその名称にも関わらず、[[クレタ島]]が発祥の地ではない。どこに始まったかについては定説が無い。[[14世紀]]初頭におそらくコンスタンティノープルから始まり、伝えられた先の[[ミストラ]]が早くから中心地となって、14世紀後半にはミストラからクレタ島に伝えられたと考えられている。クレタ島からメテオラ、アトス山などギリシア各地に広まり、バルカン半島の各地に分布していった<ref name="CT2324">カヴァルノス・高橋 p23 - p24, 1999</ref>。 |
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クレタ派は東ローマ帝国末期にマケドニア派と競い合い、[[1453年]]に[[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノープルが陥落]]して以降は、[[正教会]]のイコンにおいて主流となり、[[16世紀]]に壁画イコン、板イコンいずれにおいても最盛期を迎えた。[[アトス山]]にある[[大ラヴラ修道院]]の食堂と本堂のフレスコイコンを制作した[[クレタのセオファニス]]は、クレタ派の最も代表的なイコン画家に数えられる。<ref name="CT2324" />。 |
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クレタ派の特徴として、13世紀までのイコン表現に倣う制作、背が高く細い姿、幾重にもなる衣の襞、濃い色、強調された明暗の違いが挙げられる<ref name="CT2324" />。 |
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==== 西欧化(17世紀~19世紀) ==== |
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==== 再生(20世紀~) ==== |
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== 形像拒否 == |
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[[正教会]]によれば、[[出エジプト記]]37章7節([[七十人訳聖書]]では38章6節)にある2体の「[[ケルビム]]」は[[偶像]]ではなく、イスラエルの敬拝の対象であり、これは[[天使]]のイコンであると解釈されている<ref>"The Orthodox Study Bible" Thomas Nelson Inc; annotated edition版 (2008/6/19)114頁 ISBN 978-0-7180-1908-2</ref>。 |
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[[全地公会議]]では、イコン({{lang|el|εικών}})の敬拝({{lang|el|προσκύνησις}})を、模像を通して原像を({{lang|el|διά των χαρακτήρων τά πρωτότυπα}} )礼拝する({{lang|el|λατρεία}})と定義している。 |
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[[ファイル:Mary of egypt2.jpg|thumb|240px|[[エジプトのマリア|エジプトの聖マリア]]のイコン。[[17世紀]]に[[ロシア]]で描かれたもの。中心に祈りを奉げるエジプトの聖マリアの姿が描かれ、周囲にその生涯についての伝承内容が左上から順に描かれている。]] |
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==== 現代の正教会のイコン ==== |
==== 現代の正教会のイコン ==== |
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古くからイコンは貴重品であったが、修道士の減少も相俟ってその希少性がさらに高くなっている近現代における入手の困難さから、教会の公祈祷([[奉神礼]])の際にも紙でできたイコンやあるいは図版からコピーしたものを使うことは行われている。頒布のため、既存のイコンを紙に印刷することも近現代では多く行われる。信仰の上では、紙に印刷したイコンも[[板絵]]のイコンも、その価値には変わりがないとされる。あくまでも、イコン敬拝は、物質としての絵を尊ぶものではなく、その「窓」の向こうにいます聖なるものを記憶するためのなのである。但し、出来る限り手描きの方が聖堂に置かれるには望ましいとはされる。 |
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[[File:Avgar poluchaet Nerukotvorny obraz.jpg|thumb|right|150px|[[自印聖像]]の逸話を現したイコン([[10世紀]])]] |
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古くからイコンは貴重品であったが、修道士の減少も相俟ってその希少性がさらに高くなっている近現代における入手の困難さから、教会の公祈祷([[奉神礼]])の際にも紙でできたイコンやあるいは図版からコピーしたものを使うことは行われている。頒布のため、既存のイコンを紙に印刷することも近現代では多く行われる。信仰の上では、紙に印刷したイコンも[[板絵]]のイコンも、その価値には変わりがないとされる。あくまでも、イコン崇敬は、物質としての絵を尊ぶものではなく、その「窓」の向こうにいます聖なるものを記憶するためのなのである。但し、出来る限り手描きの方が聖堂に置かれるには望ましいとはされる。 |
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美術研究の上では、多く板絵に金地を貼りテンペラ技法で書いたものがイコンと呼ばれ、実際に教会で使われる聖像も多くこの種類のものであるが、他にもフレスコやモザイク、ステンドグラスなどが使われることもある。近代以降は[[リトグラフ]]を初めとした印刷によるものが信徒の利用する食堂や信徒の家庭などで普及していった。 |
美術研究の上では、多く板絵に金地を貼りテンペラ技法で書いたものがイコンと呼ばれ、実際に教会で使われる聖像も多くこの種類のものであるが、他にもフレスコやモザイク、ステンドグラスなどが使われることもある。近代以降は[[リトグラフ]]を初めとした印刷によるものが信徒の利用する食堂や信徒の家庭などで普及していった。 |
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幾つかの聖像は[[奇跡]]と結び付けられ、殊に |
幾つかの聖像は[[奇跡]]と結び付けられ、殊に敬拝される。特定の聖像のための祭日も存在する。 |
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== 西方教会 == |
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[[ファイル:Czestochowska.jpg|thumb|right|205px|[[ポーランド]]最大の巡礼地である[[チェンストホーヴァ]]([[:pl:Częstchowa|Częstchowa]])の[[ヤスナ・グラ修道院]]([[:en:Jasna Góra Monastery|Jasna Góra]])に祀られている[[ヤスナ・グラの聖母|黒い聖母]]のイコン]] |
[[ファイル:Czestochowska.jpg|thumb|right|205px|[[ポーランド]]最大の巡礼地である[[チェンストホーヴァ]]([[:pl:Częstchowa|Częstchowa]])の[[ヤスナ・グラ修道院]]([[:en:Jasna Góra Monastery|Jasna Góra]])に祀られている[[ヤスナ・グラの聖母|黒い聖母]]のイコン]] |
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[[西方教会]]のうち、一部の例外を除き、[[プロテスタント]]はイコンを使用しない。[[宗教改革]]期にはプロテスタントによって[[聖像破壊運動]](担い手からは偶像破壊運動と位置付けられる)が行われた<ref name="matu11" />。 |
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[[ファイル:Chapkanov-Saint-Nicholas.jpg|thumb|ブルガリアの芸術家ゲオルギー・チャプカエフによる銅板のイコン。聖ニコラウスを描いている]] |
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聖像の形式に教会の教義で規範を与えた正教会に対して、西方すなわちローマ教会は比較的自由な立場をとった。殊に聖像破壊論争において、教皇[[グレゴリウス2世]]を初め[[ローマ教皇]]は、東ローマ皇帝が出した聖像破壊令に激しく反対した。ただし、[[トリエント公会議]]では、聖画像崇敬において教義上誤った表現や展示がされないように、また崇敬の信仰上の意義を教育するよう、司教らの管理義務を促した。 |
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他方、[[カトリック教会]]は[[東西教会の分裂]]以前から、御絵(ごえ)・御像(ごぞう)を伝統的に使用してきた。[[第2ニカイア公会議]]によって否定された8世紀の[[聖像破壊運動]]も西方では殆ど行われなかった。 |
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聖像の形式に教会の教義で規範を与えた正教会に対して、西方すなわちローマ教会は比較的自由な立場をとった。殊に聖像破壊論争において、教皇[[グレゴリウス2世]]を初め[[ローマ教皇]]は、[[東ローマ帝国]]皇帝が出した聖像破壊令に激しく反対した。ただし、[[トリエント公会議]]は聖画像崇敬について、行き過ぎた偶像崇拝に陥らないよう注意を促し<ref name="matu11" />、聖画像崇敬において教義上誤った表現や展示がされないように、また崇敬の信仰上の意義を教育するよう、司教らの管理義務を促した。 |
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描写の形式で特に教会法上の規範がないことによって、西ヨーロッパの[[自然主義]]的な描写は、[[ルネサンス]]期のイリュージョニスティックな手法の流行、とりわけ[[遠近法|一点透視図法]]がもたらした絵画空間の写実性により、具象性また再現性の追求において頂点を極めた。このことは逆に[[対抗宗教改革]]期における[[神秘主義]]の隆盛と相和し、再現的技術の極点としての非写実的描写をもたらした。[[バロック]]期の[[ベルニーニ]]の彫刻『[[聖テレジアの法悦|聖テレサの法悦]]』やバロック<!---および[[ロココ]]--->様式の教会の<!---天井--->装飾などにそれが窺える。 |
描写の形式で特に教会法上の規範がないことによって、西ヨーロッパの[[自然主義]]的な描写は、[[ルネサンス]]期のイリュージョニスティックな手法の流行、とりわけ[[遠近法|一点透視図法]]がもたらした絵画空間の写実性により、具象性また再現性の追求において頂点を極めた。このことは逆に[[対抗宗教改革]]期における[[神秘主義]]の隆盛と相和し、再現的技術の極点としての非写実的描写をもたらした。[[バロック]]期の[[ベルニーニ]]の彫刻『[[聖テレジアの法悦|聖テレサの法悦]]』やバロック<!---および[[ロココ]]--->様式の教会の<!---天井--->装飾などにそれが窺える。 |
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様式的自由はまたプロテスタントにも共通する。ルター派地域におけるバロック美術の受容はそのことをよく説明するであろう。しかしその自由な造形的展開は一方で[[新古典主義]]の厳格さへと収斂していき、他方で非伝統的な[[ロマン主義]]絵画、例えば[[カスパー・ダーヴィド・フリードリヒ]]の聖性の表現としての風景画といった絵画語法を生み出すのである。 |
様式的自由はまたプロテスタントにも共通する。ルター派地域におけるバロック美術の受容はそのことをよく説明するであろう。しかしその自由な造形的展開は一方で[[新古典主義]]の厳格さへと収斂していき、他方で非伝統的な[[ロマン主義]]絵画、例えば[[カスパー・ダーヴィド・フリードリヒ]]の聖性の表現としての風景画といった絵画語法を生み出すのである。 |
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== 注 |
== 脚注 == |
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<references /> |
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== 主要な聖像画家 == |
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*[[アンドレイ・ルブリョフ]] |
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*[[山下りん|イリナ山下りん]] |
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*[[佐々木巌 (イコン画家)|ペトル佐々木巌]] |
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*[[鞠安日出子]] - (正教会は正教信徒でない鞠安氏をイコン画家とは認めていない) |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* [[コンスタンティン・カヴァルノス|C. カヴァルノス]] (著)、[[高橋保行]] (訳) 『正教のイコン』[[教文館]] 1999年 ISBN 9784764263543 |
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*Leonid Ouspensky and Vladimir Lossky, ''The Meaning of Icons'', tr. by G. E. H. Palmer and E. Kadloubovsky, St. Vladmir's Seminary Press, 1982, 1999, (orig. ''Der Sinn der Ikonen'', URS Graf, 1952, 1982). |
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* [[イラリオン・アルフェエフ]] (著)、ニコライ高松光一 (訳) 『信仰の機密』[[ニコライ堂|東京復活大聖堂教会(ニコライ堂)]] 2004年 |
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* [[高橋保行]]『ギリシャ正教』講談社学術文庫 1980年 ISBN 9784061585003 |
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* 高橋保行『東方の光と影』春秋社 (1991年05月30日出版) ISBN 9784393261033 (4393261038) |
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* [[トマス・ホプコ]] (著)、イオアン小野貞治 (訳) 『正教入門シリーズ2 奉神礼』西日本主教区([[日本正教会]]) |
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* Leonid Ouspensky and Vladimir Lossky, ''The Meaning of Icons'', tr. by G. E. H. Palmer and E. Kadloubovsky, St. Vladmir's Seminary Press, 1982, 1999, (orig. ''Der Sinn der Ikonen'', URS Graf, 1952, 1982). |
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* 鐸木道剛 (著), 定村忠士 (著) 『イコン―ビザンティン世界からロシア、日本へ』毎日新聞 (1993/03)、ISBN 9784620602905 |
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* [[オリヴィエ・クレマン]] (著)、冷牟田修二・白石治朗 (訳) 『東方正教会』(クセジュ文庫)白水社、1977年 ISBN 978-4-560-05607-3 (4-560-05607-2) |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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*[[神の像と肖]] |
*[[神の像と肖]] |
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*[[ビザンティン美術]] |
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*[[聖像破壊運動]] |
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*[[自印聖像]] |
*[[自印聖像]] |
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=== 聖像画家 === |
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*[[フェオファン・グレク]] |
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*[[アンドレイ・ルブリョフ]] |
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*[[山下りん|イリナ山下りん]] |
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*[[佐々木巌 (イコン画家)|ペトル佐々木巌]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2012年1月25日 (水) 14:05時点における版
イコン(ギリシア語: εικών, ロシア語: Икона, 英語: Icon, ドイツ語: Ikon)とは、イエス・キリスト(イイスス・ハリストス)、聖人、天使、聖書における重要出来事やたとえ話、教会史上の出来事を画いた画像(多くは平面)である[1]。"εικών"をイコンと読むのは中世から現代までのギリシャ語による(ειは中世・現代ギリシャ語では「イ」と読む)。古典ギリシャ語再建音ではエイコーン。正教会では聖像とも呼ぶ[2]。
「イコン」と言えば正教会で用いられるものを指すことが多く[3]、場合によってはイコンは正教会のものとして限定的に説明されることもある[2][4]。カトリック教会ではイコンについて、広義には聖画像一般を指し、狭義には東方教会における聖画を指す、と整理されることがある[5]。
正教会でのイコンの多くは平面であり、正教会においては立像は用いられない訳ではないが、極めて稀である。その形状は板絵のみならず、フレスコ画、写本挿絵、モザイク画など多様である[3]。
他方、イコンは正教会以外の他教派でも用いられないわけではない。カトリック教会においても用いられる[6]。ただしカトリック教会では同様の平面像については「御絵」(ごえ)と呼ぶことの方が一般的である。またカトリック教会では正教会と異なり、立像(3次元の像)を避けるということは特に行われておらず、立像については「御像」(ごぞう)と呼ぶ[7][8]。
正教会・カトリック教会の両教派が承認する第七全地公会(第2ニカイア公会議)において確認された、イコンの使用を正統とする教理等については両教派に共通する部分もあるが、本項では正教会におけるイコンをまず中心に扱い、西方教会・西欧におけるイコン・宗教画については若干にとどめる。
正教会
概要
正教会においてイコンとは、単なる聖堂の装飾や奉神礼の道具ではなく、正教徒が祈り、口付けする、聖なるものである[9]。但し信仰の対象となるのはイコンそのものではなく、イコンに画かれた原像である。このことについて、正教会では「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」「彼女は、写真に恋をしているのではなく、写真に写っている彼を愛している」といった喩えで説明されることがある[10]。
聖大ワシリイ(大バシレイオス)(330年頃 - 379年)は、「聖像への尊敬はその原像に帰す」とした。ダマスコのイオアン(676年頃 - 749年)はこれを引用した上で、原像は聖像化されるものであるであるとともに結果を得る(尊敬を得る)元になるものでもあるとして、こうした聖像への敬拝を、東に向かって祈ることや十字架への尊敬とともに、書かれざる聖伝(アグラフォシス・パラドシス)に数えた[11][12]。
すなわち正教会において、イコンは信仰の対象ではなく、崇拝の対象でもないが(崇拝・礼拝は神にのみ帰される)、信仰の媒介として尊ばれる[2]。
こうした教義は第七全地公会議において確認されたが、この公会議では全き人としてこの世に存在した全き神であるハリストス(キリスト)を画き出すことは、神言の藉身(受肉)に対する信仰を守ることであることも確認された[13]。
正教徒がイコンの前で祈る時、描かれたハリストス(キリスト)、生神女、聖人に祈る。人はイコンを通じて霊の世界やそこに住む者に触れることが出来るようになる。パーヴェル・フロレンスキイは「イコンとは別の世界への窓口」であるとした[14]。イコンは神の国の存在を信徒に証するとともに、教会にある信徒が神の国にいることを証してもいる。正教の信仰において、イコンは「使用を認められた」というよりも、むしろ属神的(ぞくしんてき、霊的)必需品であるとされる[15]。
ギリシア語の「イコン」(ギリシア語: εικώνの中世 - 現代ギリシア語読み、古典ギリシア語再建音ではエイコーン)は、似姿、印象、かたどり、イメージという意味がある[11][16]。思いや考えを託す器としてのイメージ(イコン)は、託されたものを表現する働きも持つため、器(イメージ、すなわちイコン)の破壊は器に盛られているものの破壊に通じると考えられる。ここでいう「器」は、具体的には伝統的なイコンの技法、既定された色や構図であると整理される[16]。
イコン画家
イコンを書く者は、聖伝の中に生き、正教の共同体の一員であり、いつも機密的生活の内にいなければならない。真のイコン画家にとりイコンの制作は習練と祈りの道、修道の道そのものであり、この世と肉体の情念と欲からの解放がなされ、人の意志が神の意志に従えられていなければならない。真のイコン画家は自分のため、もしくは自分の光栄のためにではなく、神の光栄のために働く[17]。
従って原則としてイコン画家はイコンに自分の名を記さない。例外的に記名する場合にも「~によって」「~の制作」「~の手によって」「~の手」といった言葉を付ける。これはイコンの制作課程の中に神聖なものが入り、神の恩寵がイコン画家の心を照らして、彼の手を導くと感じられることによる[17]。
歴史
東西教会の分裂がはっきりとするまでの歴史は正教会と西方教会とに共有される部分も大きいが、ここでは正教会に連なる歴史というかたちで詳述する。
初期(7世紀まで)
全てのイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の顔が画かれたイコンの原型となっているのは、『手にて描かれざるイコン』とも呼ばれる『自印聖像』である。これは、イイススが顔を洗い、自らの顔を布に押し当てると、イイススの顔が布に写るという奇蹟が起きたことによるものであると、教会の伝承は伝えている[18](ただし『自印聖像』のオリジナルは、1204年、第四回十字軍がコンスタンティノープルを蹂躙した際に失われた)[9]。
伝承によれば、聖使徒ルカによって生神女マリヤの存命中に彼女が画かれたイコンが最初のイコンだとされている。『ウラジーミルの生神女』は、聖使徒ルカによるものとして正教会では伝えられている[18]。ダマスコのイオアンが金口イオアンの生涯について書いた著作の中では、金口イオアンが聖使徒パウロのイコンを自分の前に置いてパウロ書簡を読んでいたと記されている。ニッサの聖グリゴリイ(ニュッサのグレゴリオス)はイサクの燔祭のイコンを見て、深く感動したことを語った[19]。
4世紀の著作家エウセビオスは、ハリストス(キリスト)に癒しを受けた血友病の女(マタイによる福音書 9:20 - 23)の家に建てられたハリストスの立像のことを書き残している。また彼は、生前に書かれたハリストス、ペトロ、パウロの肖像画が同時代に保存されていたことを記録している[20]。
他方、初期にはイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)と象徴的に結び付けられた魚・子羊・牧者・鳩・葡萄の枝などが広く用いられたが、4世紀にキリスト教が公認されて以降、人の姿が画かれたイコンが広まっていった[21]。6世紀以降は、ヘレニズムやオリエント文化(特にシリア)の教会の信仰の影響のもとに、イコンの数や各種表現が増えて、整えられて成熟していった[22]。
初期からイコンは存在していた一方で、イコンを否定する議論も初期から存在していた。
最初から議論になったのはイコンが偶像崇拝に当たるのではないかという疑いである。キリスト教では(ユダヤ教やイスラームも同様であるが)偶像崇拝を禁じている。その根拠となるのは旧約聖書に記された十戒の第二戒(出エジプト記 20:4 - 6[23]、申命記 5:8 - 10)である[24]。
エウセビオスは先述の通り、ハリストス(キリスト)や使徒達の肖像画・立像が当時存在していたことを記録した著作家であるが、一方でそうした画像自体に対しては否定的であった。エウセビオスは皇帝の異母妹コンスタンティアからハリストスの肖像画を所望されたことへの返信の中で、「ハリストス(キリスト)の栄光」を「死んだ色と生命の無い絵で描く事」の不可能性に言及してこれを断っている[25]。
聖像破壊運動(イコノクラスム、8世紀から9世紀前半)
7世紀にイスラムが興り、東ローマ帝国と戦火を交えるようになると、一切の宗教画を用いないイスラムに影響されて、イコン(聖像)を否定する考えが教会内に広がった[26]。
726年から、東ローマ帝国皇帝レオン3世は、本格的に聖像廃止に取り掛かった(同年、サントリーニ火山が噴火しており、皇帝はこれを神からのイコンへの怒りと解釈した)。727年には、宮殿の門にかかっていたハリストス(キリスト)のイコンを破壊しようとしていた兵士たちが、イコン廃止に反対する婦人たちによって梯子から引きずり落とされ死傷者が出た事件をきっかけに、イコン賛成者たちは海軍とともに反乱を起こした。反乱は皇帝によってすぐに鎮圧されたが、これが帝国中におけるイコンの是非を巡る論争の始まりであった。730年にはレオン3世は自身への同調者を集めて公会議を開き、イコンを禁止する命令を発布した[27]。
高橋保行によれば、レオン3世がイコン廃止を打ち出した時期には、イコン反対論者が多く存在していたアルメニア、シリア北部出身の兵士が帝国の防衛にとって重要となっており、彼らへの配慮がイコン禁止令の背景にあったとされる[28]。ただしイコノクラスム(聖像破壊運動)の原因については、イコノクラスムを行った(イコンを破壊した)当事者の側の史料が殆ど残っていないため、研究すること自体が極めて困難である[29]。
レオン3世は741年に永眠したが、コンスタンティノス5世はイコン禁止の姿勢を父帝から継承。総主教の出席を欠き要件を満たさない「公会議」を開催し(総主教が出席しなかったことから「頭なしの会議」とも呼ばれる、754年)、イコン賛成論者を異端と決議し、762年から本格的に迫害を開始した。修道院は、イコンを制作していたことと、兵役に適齢である若者を修道士として受け入れていたことから、特に弾圧の対象となった。ただしブルガール人が帝国の北境を脅かしたため皇帝は防衛に忙殺され、イコン論争に最終的な決着を付けることなく永眠した[30]。
こうしたイコノクラスムを行った皇帝達には、「神事に仕えるものとして定められた」教権と、「この世の事に良き秩序を与えるものとして定められた」帝権とが区別された(ユスティニアヌス1世による『新勅法』6、535年)東ローマ帝国において、教権と帝権の両権の掌握を強硬に主張したという特徴がある。レオン3世は「余は皇帝にして司祭長なり」と述べたと伝えられる[31]。
こうして8世紀から9世紀前半にかけて(726年 – 787年、815年 – 843年)、イコン破壊が断続的に東ローマ帝国全土で行われた。破壊運動が徹底的に行われた結果、それ以前の東ローマ帝国におけるイコンは、シナイ半島にある聖カタリナ修道院が所蔵する僅かなものやテッサロニキに遺された僅かなモザイク画イコンの他は残されておらず[23][32]、他には西欧においてモザイク画イコンが僅かに残されているのみである[32]。また1世紀以上にわたりイコンの発展は妨げられ、教会の精神性と神秘性が低迷したと正教会からは評される[33]。
教会は帝権に対し、暴力ではなく致命(殉教)によって積極的に抵抗した。ダマスコのイオアンはこうした皇帝の主張に対して、「帝よ、我らこの世の政や人頭税や通行税などにおいては爾に忠実なるも、教会の仕組みにては我らに言葉を述べ、教会規程を定めし牧者を別に戴きおるなり。」と反駁した[14]。また修道士達は、信仰の事柄に関する決定は帝国のあずかり知らぬことであるとしてイコン擁護にまわった[31](例:克肖者表信者ヴァシリオス)。
イコノクラスム終結(787年の第七全地公会~9世紀半ば)
レオン4世およびコンスタンティノス6世の摂政となり、後に女帝となったイリナ(エイレーネー)は、イコン賛成論者だった。787年の第七全地公会は彼女の働きによって召集された。この全地公会議において、754年の「頭なしの会議」の決議は一切無効とされ、イコンの神学的位置づけが真剣に討議され、以下のように定理(教義)を確認、決議した[13]。
書に依り又は書を以てせずして我等の爲に制定されたる敎會の傳を我等悉く新説を附會せずして遵守せん、書く所の聖像は福音傳ふる所の記事に符号し且我等をして神言の藉身の眞實にして想像的に非ざるを信ぜしめ彼と同様の利益るあものなるを以て其の傳の一つなり。蓋し彼れの此れに指示する所彼れ必ず此れに説明すればなり。されば我等は王の途を歩む者の如く我等の諸聖父の神出の敎と公敎會の傳とに循ひ(蓋し此敎は敎會に在ます聖神の敎たるを知るなり)極めて確實に且つ最も精密の調査を遂げて議定すること左の如し神の聖堂に聖なる器物及び祭服に壁に板に家に途に尊貴にして生命を施す十字架の象と等しく顔料(えのぐ)を以て書かれ美石及び其他適宜の物を以て製造せらるる尊貴にして且つ聖なるの像即ち我等の主、神、救主イイスス・ハリストス及び無玷の女宰、我等の生神女並に尊貴なる使徒及び諸聖人克肖者の像を置くべし。蓋し屡次(しばしば)聖像の象(かたどり)を見るに由りて之に注目する者は其原像を想起して之を愛し接吻と敬拝を以て之を尊敬するの念を起すべし但し此叩拝は我等の信ずる所に依るに當(まさ)に唯一の神性に帰すべき眞の拜神に非ず乃ち尊貴にして生命(いのち)を施す十字架の象と聖福音經及び其他の聖物に對し薰香及び點燭を以て敬意を表するの例に傚ひ尊敬することにして即ち古時の敬虔なる慣例に行われたる如し。蓋し像に施す所の尊敬は其原像に移るものにして聖像に叩拜する者は之に書かれたる者に叩拜するなり。是れ蓋し我が諸聖父の敎の確(たし)かむる所にして地の極(はて)より極に至るまで福音を受けたる公敎會の傳なり。 — 第七全地公会三百六十七人の諸聖父の定理、上田将訳『聖規則書』正教会編輯局 明31.7 1898
上記の確認された定理は、以下のようにまとめられる。
- 全き人としてこの世に存在した全き神であるハリストス(キリスト)を画き出すことは、神言の藉身に対する信仰を守ることである[14]。 - 歴史的に存在した神ハリストスを画き出すことは、見えない神を想像し画き出す偶像とは異なる[34]。見えない神が人となって、この世で見える姿をとったから(藉身)、その姿を画いても決して偶像にはならない[13]。
- イコンへの敬拝・尊敬は、画かれた原像に帰す[14]。 - イコンそのものを崇拝するのではない[34]。神への崇拝とイコンへの敬拝は違うのであり、神のみが崇拝の対象である[13]。
この第七全地公会の後も論争はくすぶり続けたが、843年に皇后テオドラによって召集された公会議によってイコンの正統性が再確認された[35]。大斎の第一主日は「正教勝利の主日」と呼ばれ、イコン論争におけるイコン擁護論の勝利を記憶している[36]。
オリヴィエ・クレマンによれば、イコン論争の終結までの顛末について、帝国と教会の対立が教会の勝利に終わったことで、皇帝教皇主義は東ローマ帝国において消滅し、以後、教会と国家の協調(ビザンティン・ハーモニー)という考え方が開花していったとしている[37]。
発展(9世紀半ば~16世紀)
概略
9世紀半ばにイコノクラスムが終結して以降、イコン表現は再び活発になった。10世紀頃から聖堂の中にはイコンが決まった順序で体系的に配置されるようになり、時代によって多少の違いはあるものの、この様式が現代に至るまで正教会におけるイコンの標準になっている[38]。
聖堂壁面におけるイコン表現で最も重要視されたのはモザイクであった。それまでギリシア人、ローマ人によって道路舗装などに使われていたモザイク技術・美術がイコンに導入された[39]。モザイクイコンは4世紀から14世紀にかけて東ローマ帝国において広範囲に制作されていたが、西からの十字軍遠征(第四回十字軍)とオスマン帝国から受けた攻撃によって帝国の経済が低迷し、14世紀から後には高価なモザイクイコンの制作は全く不可能になり、主要な形態をフレスコイコンなどにとって代わられた(20世紀になって漸く、ギリシャやアメリカでモザイクイコンが僅かに復活している)[40]。
モザイクイコンはフレスコイコンと相性が良く、同じ聖堂に両様式が混在しているケースも多い[41]。またモザイクイコンは壁面にのみ限定されるものではなく、小さな板の上に用いられることもある[40]。
特にギリシア、セルビア、マケドニア、ブルガリア、ルーマニアなどの国々には、数多くの質の高い壁画イコンがある[42]。
ロシアにも著名な壁画イコンがあるが、理由は不明であるが、ロシアにおいてはフレスコイコンなどの壁画イコンよりも板イコンの制作の方が盛んであった。14世紀から15世紀にロシアで活躍した著名なイコン画家として、フェオファン・グレク、アンドレイ・ルブリョフが居る[43]。
13世紀までは板イコンには人物ひとりが画かれるのが普通であったが、13世紀以降は聖なる出来事を画く板イコンの数が飛躍的に増加し、これらも東ローマ帝国からスラヴ圏に広まっていった[43]。
マケドニア派とクレタ派
1204年に第四回十字軍が東ローマ帝国に攻め込んで以降、帝国の経済力・軍事力は落ち込んだが、美術の水準まで落ち込んだわけではない。14世紀にはマケドニア派とクレタ派というイコンにおける二つの潮流が成立していた。ただし「マケドニア派」「クレタ派」の名称のいずれも便宜的なものであって、いずれもマケドニア、クレタから始まったものでもなければ、両地域に限定されるものでもない[44]。
マケドニア派は13世紀頃に始まり、コンスタンティノープルで育ち、テッサロニキで発展。ギリシアのイコン画家を通してギリシア、バルカン半島全域に広がり、14世紀初頭にはミストラに至った。13世紀から14世紀にかけて最盛期を迎えたが、14世紀末から民芸化が始まって衰退し、16世紀の終わりまでにはマケドニア派は消滅した[45]。
マケドニア派の特徴として、古典ギリシア由来の観念的要素の強調が挙げられる。大きい形、淡い色、弱い明暗の対比、比較的単純な衣の襞、精神的に捉えることに徹した人体の表現などがその特徴である。マケドニア派は大きくものを捉える性格から、小さな板イコンよりも広い面積のイコン(壁画など)に頻繁に使われた[45]。
クレタ派はその名称にも関わらず、クレタ島が発祥の地ではない。どこに始まったかについては定説が無い。14世紀初頭におそらくコンスタンティノープルから始まり、伝えられた先のミストラが早くから中心地となって、14世紀後半にはミストラからクレタ島に伝えられたと考えられている。クレタ島からメテオラ、アトス山などギリシア各地に広まり、バルカン半島の各地に分布していった[46]。
クレタ派は東ローマ帝国末期にマケドニア派と競い合い、1453年にコンスタンティノープルが陥落して以降は、正教会のイコンにおいて主流となり、16世紀に壁画イコン、板イコンいずれにおいても最盛期を迎えた。アトス山にある大ラヴラ修道院の食堂と本堂のフレスコイコンを制作したクレタのセオファニスは、クレタ派の最も代表的なイコン画家に数えられる。[46]。
クレタ派の特徴として、13世紀までのイコン表現に倣う制作、背が高く細い姿、幾重にもなる衣の襞、濃い色、強調された明暗の違いが挙げられる[46]。
西方教会
西方教会のうち、一部の例外を除き、プロテスタントはイコンを使用しない。宗教改革期にはプロテスタントによって聖像破壊運動(担い手からは偶像破壊運動と位置付けられる)が行われた[8]。
他方、カトリック教会は東西教会の分裂以前から、御絵(ごえ)・御像(ごぞう)を伝統的に使用してきた。第2ニカイア公会議によって否定された8世紀の聖像破壊運動も西方では殆ど行われなかった。
聖像の形式に教会の教義で規範を与えた正教会に対して、西方すなわちローマ教会は比較的自由な立場をとった。殊に聖像破壊論争において、教皇グレゴリウス2世を初めローマ教皇は、東ローマ帝国皇帝が出した聖像破壊令に激しく反対した。ただし、トリエント公会議は聖画像崇敬について、行き過ぎた偶像崇拝に陥らないよう注意を促し[8]、聖画像崇敬において教義上誤った表現や展示がされないように、また崇敬の信仰上の意義を教育するよう、司教らの管理義務を促した。
描写の形式で特に教会法上の規範がないことによって、西ヨーロッパの自然主義的な描写は、ルネサンス期のイリュージョニスティックな手法の流行、とりわけ一点透視図法がもたらした絵画空間の写実性により、具象性また再現性の追求において頂点を極めた。このことは逆に対抗宗教改革期における神秘主義の隆盛と相和し、再現的技術の極点としての非写実的描写をもたらした。バロック期のベルニーニの彫刻『聖テレサの法悦』やバロック様式の教会の装飾などにそれが窺える。
様式的自由はまたプロテスタントにも共通する。ルター派地域におけるバロック美術の受容はそのことをよく説明するであろう。しかしその自由な造形的展開は一方で新古典主義の厳格さへと収斂していき、他方で非伝統的なロマン主義絵画、例えばカスパー・ダーヴィド・フリードリヒの聖性の表現としての風景画といった絵画語法を生み出すのである。
脚注
- ^ The Icon FAQ (Orthodox Christian Information Center)より、冒頭文を翻訳引用
- ^ a b c かたち-イコン:日本正教会 The Orthodox Church in Japan
- ^ a b イコンIcon|現代美術用語辞典|OCNアート artgene.(アートジェーン)
- ^ 『キリスト教大事典 改訂新版』75頁、教文館、昭和52年 改訂新版第四版
- ^ 『カトリック大辞典 I』(145頁、上智大学編纂、冨山房、昭和42年第七刷)
- ^ 御像について (サンパウロホームページ)
- ^ Communio - カトリック鷺沼教会公式サイト
- ^ a b c 松原教会・クリスチャン神父のQ&A(11)
- ^ a b アルフェエフ・高松 p90, 2004
- ^ イコンとは - 大阪ハリストス正教会内のページ
- ^ a b カヴァルノス・高橋 p107, 1999 引用エラー: 無効な
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- ^ a b c d 高橋 p139, 1991
- ^ a b c d アルフェエフ・高松 p92, 2004
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- ^ a b "The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p243, ISBN 9780631232032
- ^ カヴァルノス・高橋 p12 - p13, 1999
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- ^ a b Icons and Iconoclasm in Byzantium | Thematic Essay | Heilbrunn Timeline of Art History | The Metropolitan Museum of Art
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- ^ LEO III AND THE BEGINNINGS OF ICONOCLASM (Timothy E. Gregory)
- ^ 高橋 p138 - p139, 1991
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- ^ a b カヴァルノス・高橋 p21 - p22, 1999
- ^ a b c カヴァルノス・高橋 p23 - p24, 1999
参考文献
- C. カヴァルノス (著)、高橋保行 (訳) 『正教のイコン』教文館 1999年 ISBN 9784764263543
- イラリオン・アルフェエフ (著)、ニコライ高松光一 (訳) 『信仰の機密』東京復活大聖堂教会(ニコライ堂) 2004年
- 高橋保行『ギリシャ正教』講談社学術文庫 1980年 ISBN 9784061585003
- 高橋保行『東方の光と影』春秋社 (1991年05月30日出版) ISBN 9784393261033 (4393261038)
- トマス・ホプコ (著)、イオアン小野貞治 (訳) 『正教入門シリーズ2 奉神礼』西日本主教区(日本正教会)
- Leonid Ouspensky and Vladimir Lossky, The Meaning of Icons, tr. by G. E. H. Palmer and E. Kadloubovsky, St. Vladmir's Seminary Press, 1982, 1999, (orig. Der Sinn der Ikonen, URS Graf, 1952, 1982).
- 鐸木道剛 (著), 定村忠士 (著) 『イコン―ビザンティン世界からロシア、日本へ』毎日新聞 (1993/03)、ISBN 9784620602905
- オリヴィエ・クレマン (著)、冷牟田修二・白石治朗 (訳) 『東方正教会』(クセジュ文庫)白水社、1977年 ISBN 978-4-560-05607-3 (4-560-05607-2)
関連項目
聖像画家
外部リンク
- イコンとは - 大阪ハリストス正教会内のページ
- 今月の神父様のお話 - 日本正教会の司祭による講話。現代の日本人正教徒イコン画家による自印聖像も掲載。
- イコン - 日本正教会公式ページ
- OCNアート アートジェーン 現代美術用語
- 正教会訳旧約聖書と第七回全地公会のイコンの定理