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'''チベット動乱'''('''チベットどうらん''')は、[[中華人民共和国]]政府の[[チベット統治 (1950–1951)|チベット統治]]、支配に対し、[[アムド]]地方、[[カム (チベット)|カム]]地方における「民主改革」「[[社会主義]]改造」の強要をきっかけとして[[1956年]]に勃発し、[[1959年]]に頂点に達したチベット人の抗中独立運動のことである。
'''チベット動乱'''('''チベットどうらん''')は、[[中華人民共和国]]政府の[[チベット統治 (1950–1951)|チベット統治]]、支配に対し、[[アムド]]地方、[[カム (チベット)|カム]]地方における「民主改革」「[[社会主義]]改造」の強要をきっかけとして[[1956年]]に勃発し、[[1959年]]に頂点に達したチベット人の抗中独立運動のことである。


==略歴==
==前史==
===チベット動乱===
{{Main|チベットの歴史}}
:1914年、中国政府、[[シムラ協定]]を批准せず。[[シムラ会議]]失敗。[[ガンデンポタン|ダライラマ政権]]が[[チベット高原|チベット]]の南半部([[西蔵]]部分)、中国が北部・東部([[アムド地方]]、[[カム地方]])を抑えて対峙する形勢が続く。
1914年、中国政府、[[シムラ協定]]を批准せず。[[シムラ会議]]はイギリスとチベットのみでの合意に終わる。[[ガンデンポタン|ダライラマ政権]]が[[チベット高原|チベット]]の南半部([[西蔵]]部分)、中国が北部・東部([[アムド地方]]、[[カム地方]])を抑えて対峙する形勢が続く。
:1949年:中華民国国民政府が[[アムド地方]]、[[カム地方]]の北部・東部に設置していた[[青海省]]、[[西康省]]等が[[中華人民共和国]]の支配下に入る。同地のチベット人、モンゴル人の抵抗が1950年代初頭まで続く。
:1950年:[[中国人民解放軍]]、「[[チベット侵攻 (1950-1951)|西蔵和平解放]]」と称してダライラマ政権が実行支配していたカム地方の西部に侵攻、[[チャムド]]を占領。ドカム総督(ド・チー)のラル・ケサンワンドゥ、ガプー・ガワンジグメらが捕虜となる(中国名「昌都戦役」)。
:1951年:[[中国人民解放軍]]、新疆方面、青海方面、チャムドの3方面から[[ラサ]]に向けて進軍、無血入城。その間、「チャムド地区からの中国軍の撤退を交渉する権限」を委ねられて[[北京]]に派遣されたチベット使節団が、「中国中央政府と西蔵地方政府が西蔵を平和的に解放する方法についての協約([[十七ヶ条協定]])」を締結。[[チベット]]の全域を自国に併合。
:1955年:[[十七ヶ条協定]]における「改革は強要しない」地域から除外されたチベット北半部(アムド地方、カム地方東部)における[[社会主義改造]]の開始
:1956年:チベット北半部における抗中蜂起。
::同年、[[人民解放軍]]による鎮圧。[[十七ヶ条協定]]協定の枠組みのもと、[[ガンデンポタン]]の統治下で平穏をたもっていたチベット南半部([[西蔵]])に、アムド地方、カム地方からの難民や、敗北した[[ゲリラ]]兵が流入。
::同年、[[チベット高原]]北半部出身者による統一抗中ゲリラ組織[[チュシ・ガンドゥク]]結成、チベット南半部で、ゲリラ活動を展開。
:1957年からは[[東西冷戦]]構造に組み込まれ、[[アメリカ合衆国]][[アメリカ中央情報局|CIA]]からの訓練や資金、武器の供給を受けるようになる。
:中華人民共和国政府、ガンデンポタンにチュシ・ガンドゥクの鎮圧を「命令」。
:1959年:中華人民共和国政府、ガンデンポタンに首相[[ルカンワ]]の解任要求。
:1959年:ラサ駐屯の中華人民共和国機関、[[ダライ・ラマ14世]]を「観劇に招待」。
:1959年:3月ダライ・ラマ14世が中華人民共和国に[[拉致]]されることをおそれた[[ラサ]]市民が[[ノルブリンカ宮]]を包囲([[1959年のチベット蜂起]])。ラサ駐屯の中国人民解放軍、市民に解散を要求、さもなくば砲撃すると通告。
:ダライ・ラマ14世、ガンデンポタン、チベットを脱出。
:[[中華人民共和国国務院]]、「[[西蔵地方政府]]の廃止」を通告。
:ダライ・ラマ14世、インドへの国境越えの直前、[[チベット臨時政府]]の樹立を宣言。


== 中国共産党軍によるチベット侵攻==
===その後===
[[File:Thamzing of Tibetan woman circa 1958.jpg|thumb|180px|中国人に自己批判させられるチベット女性]]
:1960年:中華人民共和国がチベット南半部における支配をほぼ確立。
{{Main|チベット侵攻 (1950-1951)}}
::チュシ・ガンドゥクが、[[ネパール]]の[[ムスタン]]地方を基地としたゲリラ活動を展開。
:1972年:米中の国交樹立により、アメリカ合衆国CIAによる[[チュシ・ガンドゥク]]支援中止。
:1974年:チュシ・ガンドゥク解体、ゲリラ活動の中止。
:2008年:[[チベット]]や[[四川省]]、[[青海省]]において、中華人民共和国に対する抗議運動をきっかけに騒乱が起き、同国政府の治安部隊による[[チベット人]]への催涙弾による鎮圧が行われた([[2008年のチベット動乱]])。


[[1949年]]、[[国共内戦]]で中華民国に勝利した[[中国共産党]]が中国を掌握する。[[中華民国]]国民党政府が[[アムド地方]]、[[カム地方]]の北部・東部に設置していた[[青海省]]、[[西康省]]等が[[中華人民共和国]]の支配下に入る。チベット政府は中国政府とつながりのある全ての中国人を[[国外追放]]し、国民党と共産党の双方から非難される<ref name="shakya7-8">Shakya 1999, pp. 7-8</ref>が、同地のチベット人、モンゴル人の抵抗が1950年代初頭まで続く。
== 統計 ==

1949年6月11日に[[パンチェン・ラマ10世]]がパンチェン・ラマ9世の転生として中国国民党政府の承認を受け即位した。


中国共産党政府は翌1950年1月には新中国政府によるチベット駐留を要求した。1950年6月、英国政府は庶民院で「中国のチベットに対する宗主権を認める準備は出来ている、しかしチベットは自治権を尊重されていることだけは理解してほしい」表明したが<ref>[http://hansard.millbanksystems.com/commons/1950/jun/21/tibet-autonomy#S5CV0476P0_19500621_HOC_70 TIBET (AUTONOMY) HC Deb 21 June 1950 vol 476 c1267]</ref>、[[1950年]][[10月]]、[[中国人民解放軍]]は「[[チベット侵攻 (1950-1951)|西蔵和平解放]]」と称して、ダライラマ政権が実行支配していたチベットのカムド地方の西部に侵攻し、[[チャムド]]を占領。ドカム総督(ド・チー)のラル・ケサンワンドゥ、ガプー・ガワンジグメらが捕虜となる(中国名「昌都戦役」)。

このチベット侵攻によって120万人のチベット人が命を落とし多くの寺院が破壊された<ref name=sakai20080715>{{cite news
| url = http://sakainobuhiko.com/2008/07/post-3.html
| title = チベット問題は侵略という乱
| author = [[酒井信彦]]
| work = 季刊こころ第87号
| publisher = [[酒井信彦]]
| date = 2008年7月15日
| accessdate = 2011-11-04
}}</ref>。

1951年、[[中国人民解放軍]]が、新疆方面、青海方面、チャムドの3方面から[[ラサ]]に向けて進軍、無血入城し、チベット全土を制圧する。

===十七か条協定とチベット併合===
その間、「チャムド地区からの中国軍の撤退を交渉する権限」を委ねられて[[北京]]に派遣されたチベット使節団(代表は[[ンガプー・ンガワン・ジクメ]])がダライラマの許可を得て<ref>Goldstein 2007, p96</ref>、中国政府との北京での交渉に参加し、[[十七か条協定]](「中国中央政府と西蔵地方政府が西蔵を平和的に解放する方法についての協約」)が結ばれた。この締結により、チベットを覆う中国の主権が明言され、チベットは事実上併合された。この合意は数ヵ月後、ラサで批准された<ref> Goldstein 1989, pp. 812-813 </ref>。この後、チベット政府は自治の枠組みを保とうと努力を続けたが、人民解放軍がチベットに駐留したことでチベットは中華人民共和国の支配下に入ることになった。

中国共産党政府によるチベット併合後、チベット人による抵抗運動はことごとく弾圧され、多数の市民が[[大量虐殺]]の対象となった。1952年-1958年における「カンロ地区」(中国の区分で甘粛省甘南州)において10,000人が犠牲になった(カンロの虐殺)。

中国政府は、チベット併合後、一貫して、独立運動・亡命政府を「[[分離主義]]」として非難し、侵攻や併合および虐殺その他を正当化している。

中国共産党は、旧国民政府が[[西康省]]に帰属させながら実際には実効支配を確立できなかったカム西部([[昌都地区]])については、中国政府に忠誠を誓うチベット人によって組織された[[昌都解放委員会]]の下、引き続き「西藏地方」に帰属させ、カム地方東部のみを範囲として「[[西康省藏族自治区]]」を発足させた。この時、チベット人の比率が低い[[南昌]]地区は、[[雲南]]地方に移管された。この西康省藏族自治区は1955年に廃止され、カム地方東部は四川省に組み込まれる。

==チベット動乱==
1955年に、[[十七ヶ条協定]]において改革対象から除外されたはずのチベット北半部(アムド地方、カム地方東部)における[[社会主義改造]]が開始され、チベット人は反発する。

また、中国政府は[[唯物史観]]に則り、[[宗教]]を排撃し、遊牧地であった土地を取り上げ、[[漢族]]の大量入植を進めた。このため、チベット人との軋轢が高まり、 1956年、[[アムド]]、[[カム (チベット)|カム]]地方などチベット北半部において抗中蜂起が全面的に勃発し、[[チベット動乱]]が始まった。

===ギャンダ・ゾンによる蜂起===
1956年末、中国の区分で[[四川省]]に所属する[[涼山]]、[[美姑]]、[[西昌]]、[[康定]]、[[西蔵]]所属で当時[[チャムド解放委員会]]管轄下のギャンダ・ゾン([[江達]])、[[芒康]]らによる第1次蜂起が起きるが、[[人民解放軍]]によって鎮圧される。

===チュシ・ガンドゥクとカム反乱===
[[十七ヶ条協定]]協定の枠組みのもと、[[ガンデンポタン]]の統治下で平穏をたもっていたチベット南半部([[西蔵]])に、アムド地方、カム地方からの難民や、敗北した[[ゲリラ]]兵が流入し、1957年、[[チベット高原]]北半部出身者による統一抗中ゲリラ組織[[チュシ・ガンドゥク]]が結成、チベット南半部で、ゲリラ活動を展開をはじめる(指導者[[ゴンボ・タシ]])。

チュシ・ガンドゥクは、[[東西冷戦]]構造に組み込まれ、[[アメリカ合衆国]][[アメリカ中央情報局|CIA]]からの訓練や資金、武器の供給を受けるようになる。
{{Main|カム反乱|チュシ・ガンドゥク}}

中華人民共和国政府、ガンデンポタンにチュシ・ガンドゥクの鎮圧を命令する。

中国軍は1957末に平定に成功。さらに反乱勢力10万人に人民解放軍6万を動員して鎮圧する。中国共産党発表によれば、20,000人を殲滅し、20,000人を逮捕した<ref>鄧礼峰『新中国軍事活動紀実:一九四九−一九五九』(中共党史資料出版社, 1989), pp.429-431</ref><ref>[[毛里和子]]『周縁からの中国:民族問題と国家』(東京大学出版会, 1998(ISBN 4-13-030115-2)所収の第八章「一九五九年チベット反乱再考:エスノ・ナショナリズムの諸相(三)」pp.251-292)</ref>

===第2次蜂起===
1957年から58年にかけて、バタン([[巴塘]])、[[維西]]、[[徳欽]]、[[中甸]]らによる第2次蜂起に対して中国軍は1958末に「平定」に成功。5,500人を「殲滅」した<ref>鄧礼峰『新中国軍事活動紀実:一九四九−一九五九』(中共党史資料出版社, 1989), pp.506</ref>。

===青海省における虐殺===
1958年3月から8月にかけて、甘粛から青海にかけての42万平方キロにかけてチベット人130,000人が「反乱」を行った。中国軍は、うち110,000人を殲滅して[[平定]]した。<ref>鄧礼峰『新中国軍事活動紀実:一九四九−一九五九』(中共党史資料出版社, 1989), pp.501-502</ref>。また、青海省におけるチベット人・モンゴル人の遊牧民50,000人を逮捕した。この数字は青海省チベット・モンゴル人遊牧民総人口の10%にあたる。逮捕者の84%にあたる45,000人が誤認逮捕であった。拘留中に23,260人が死亡、誤って殺害されたものが173人。宗教・民族分子259人、民族幹部480人が死亡<ref>叢進『曲折発展的歳月;1949-1989的中国』河南人民出版社,1989。pp.450-452</ref>。

==1959年のチベット蜂起とダライラマ亡命==
{{See|1959年のチベット蜂起}}
[[1959年]]、中国政府、ガンデンポタンに首相[[ルカンワ]]の解任を要求する。

[[1950年代]]後半、ラサでは[[チベット]]における中国のプレゼンスへの反発が高まっていた<ref name="giehist">チベット亡命政権 情報・国際関係省著「チベット入門」</ref>。[[1956年]]には、[[カム (チベット)|カム]]や[[アムド]]地方でチベット人による武装反乱が始まり、その結果チベット東部には[[人民解放軍]]が増派された。人民解放軍はチベットの村や僧院に対して制裁攻撃を加えた<ref name="giehist"/>。人民解放軍の司令官は、反乱するゲリラ部隊を屈服させるため、「[[ポタラ宮]]や[[ダライ・ラマ14世]]を爆撃する」との脅しも繰り返し行った<ref name="giehist"/>。

1959年には、動乱が[[ガンデンポタン]]の管轄領域([[西蔵]])にも波及する。同年3月、ラサ駐屯の中華人民共和国機関が、[[ダライ・ラマ14世]]を観劇に招待するが、ダライ・ラマ14世が中国に[[拉致]]されることをおそれた[[ラサ]]市民が[[ノルブリンカ宮]]を包囲する([[1959年のチベット蜂起]])。
===経緯===
[[3月1日]]、ダライ・ラマ14世のもとに、ラサ郊外にある人民解放軍司令部で観劇をしないかという珍しい誘いが届いた<ref name="giehist"/>。[[3月9日]]、ダライ・ラマ14世のところに、人民解放軍陸軍の将校たちがやってきて、、伝統からは外れるがダライ・ラマ14世が観劇の際に従来の武装警備隊を同行させないこと、宮殿から駐屯地に移動する際にも公式な儀式を行わないことを要求した<ref name="giehist"/>。この招待についてチベットはダライ・ラマ14世の拉致を中国が計画しているという疑念を生んだ。

[[3月10日]]、約30万人のチベット人が、ダライ・ラマ14世が宮殿から連れ出されることを防ぐため、宮殿を取り囲んだ<ref name="giehist"/>。ラサ駐屯の中国人民解放軍、市民に解散を要求、さもなくば砲撃すると通告する。人民解放軍と市外のゲリラとの間では前年の12月にも小ぜり合いがあったものの、この日の事件が[[ラサ蜂起]]の始まりとされている<ref name="giehist"/>。この[[ラサ蜂起]]では三日間で10,000人-15,000人のラサ市民が死亡。


[[3月12日]]、ラサの街頭に集まった抗議者たちがチベットの独立を宣言した<ref name="giehist"/>。ラサの通りにはバリケードが築かれ、人民解放軍およびチベット軍は衝突に備えてラサ内外の拠点を要塞化し始めた<ref name="giehist"/>。市外の武装反乱軍に対する支持の嘆願も始められ、インドの領事に対しても支援の訴えが行われた<ref name="giehist"/>。人民解放軍の大砲はダライ・ラマ14世の夏期用の離宮[[ノルブリンカ]]を射程に収めていた。

[[3月15日]]、ダライ・ラマ14世のラサ市からの避難準備が始まり、ラサ市からの避難経路を確保するためにチベット軍が派遣された<ref name="giehist"/>。[[3月17日]]には、ダライ・ラマ14世の宮殿の近くに2発の砲弾が着弾した<ref name="giehist"/>、生命の危機を感じた[[ダライ・ラマ14世]]はインドへ亡命、インドへの国境越えの直前、[[チベット臨時政府]]の樹立を宣言する<ref >[http://www.tibethouse.jp/history/index.html]</ref >。

衝突は[[3月19日]]の夜に始まった。チベット軍は著しく数に劣り武装も貧弱だったため、この戦闘は2日で終了した<ref name="giehist"/>。

法王を慕ってチベットの民衆80000人もインドへ亡命した<ref >[http://www.tibethouse.jp/history/index.html]</ref >。

周恩来首相および[[中華人民共和国国務院]]はチベット独立軍を鎮圧後、「西蔵地方政府」を廃止し、[[西蔵]]の統治を「西蔵自治区籌備委員会」に委ねる。

同年4月、ダライ・ラマ14世はインド北東のアッサム州テズプールに到着し、「17ヶ条協定」は「武力威嚇によってチベットに押しつけられたもの」と発言<ref >[http://www.tibethouse.jp/history/index.html]</ref >。さらに、法王は、北インドの山岳部ムスーリでチベット亡命政権を再樹立し、「私の政府とともに私がどこにいようと、チベットの民衆はわれわれをチベット政府と認める」と宣言した<ref >[http://www.tibethouse.jp/history/index.html]</ref >。


==中央チベットの虐殺==
鄧礼峰による中国共産党政府の記録の調査によれば、中共軍は、1959年3月から62年3月までに[[中央チベット]]において、死亡・負傷・捕虜を含めて93,000人のチベット人を殲滅、武器35,500丁、砲70問を鹵獲した<ref>鄧礼峰『新中国軍事活動紀実:一九四九−一九五九』(中共党史資料出版社, 1989), pp.543。1959年3月から1960年10月までの計算で中央チベットだけで87000人のチベット人が殺害された。</ref>([[中央チベットの大虐殺]])。

アムド地方ゴロク地区(中国の区分で青海省果洛州)では1956年に130,000人あった人口が1963年におよそ60,000人にまで減ったとされる。

==動乱以後==
1960年には、中華人民共和国がチベット南半部における支配をほぼ確立するが、他方、[[チュシ・ガンドゥク]]が、[[ネパール]]の[[ムスタン]]地方を基地としたゲリラ活動を展開。

1966年、西藏自治区([[チベット自治区]])が発足。同1966年、[[文化大革命]]が波及し、[[紅衛兵]]ラサ進駐を開始し、年長世代による宗教や信仰が糾弾された。

1972年、米中の国交樹立により、アメリカ合衆国CIAによる[[チュシ・ガンドゥク]]支援が中止される。
{{See|米中関係|ニクソン大統領の中国訪問}}

1974年には、チュシ・ガンドゥク解体、ゲリラ活動の中止。


''※1970年代以降については、[[チベットの歴史]]、[[チベット]]、[[チベット問題]]を参照。''

2008年、[[チベット]]や[[四川省]]、[[青海省]]において、中華人民共和国に対する抗議運動をきっかけに騒乱が起き、同国政府の治安部隊による[[チベット人]]への催涙弾による鎮圧が行われた([[2008年のチベット動乱]])。

== 犠牲者数 ==
チベット動乱によるチベット人の犠牲者数については、以下のように諸説ある。
=== チベットおよび西側政府 ===
=== チベットおよび西側政府 ===
[[ガンデンポタン|チベット亡命政府]]や西側政府の調査によれば、チベット全域(中央チベット<ref>当時[[ガンデンポタン]]が掌握していた[[西蔵]]を中心とする地方。</ref>に加え、アムド<ref>中国の行政区分では[[青海]]地方および[[甘粛省]]南部、[[四川省]]西北部に3分割されていた。</ref>、[[カム]]<ref>[[チャムド]]を中心とする西部を[[ガンデンポタン]]が掌握し、中国統治下の東部地方は、中国の行政区画では[[四川]]省および[[雲南省]]の間で2分割されていた。</ref>も含む範囲)最高で120万人のチベット人が虐殺され、また行方不明となり、侵略された後、中国政府の[[恐怖政治]]を告発したが、中国は、この主張を強く否定している。
[[ガンデンポタン|チベット亡命政府]]や西側政府の調査によれば、チベット全域(中央チベット<ref>当時[[ガンデンポタン]]が掌握していた[[西蔵]]を中心とする地方。</ref>に加え、アムド<ref>中国の行政区分では[[青海]]地方および[[甘粛省]]南部、[[四川省]]西北部に3分割されていた。</ref>、[[カム]]<ref>[[チャムド]]を中心とする西部を[[ガンデンポタン]]が掌握し、中国統治下の東部地方は、中国の行政区画では[[四川]]省および[[雲南省]]の間で2分割されていた。</ref>も含む範囲)最高で120万人のチベット人が虐殺され、また行方不明となり、侵略された後、中国政府の[[恐怖政治]]を告発したが、中国は、この主張を強く否定している。
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#''中央チベットにおける「殲滅」の規模'' 1959年3月から62年3月までに死亡・負傷・捕虜を含めて93,000人を殲滅、武器35,500丁、砲70問を鹵獲<ref>鄧礼峰『新中国軍事活動紀実:一九四九−一九五九』(中共党史資料出版社, 1989), pp.543</ref>。
#''中央チベットにおける「殲滅」の規模'' 1959年3月から62年3月までに死亡・負傷・捕虜を含めて93,000人を殲滅、武器35,500丁、砲70問を鹵獲<ref>鄧礼峰『新中国軍事活動紀実:一九四九−一九五九』(中共党史資料出版社, 1989), pp.543</ref>。


== チベット動乱を描いた作品 ==
== チベット動乱を描いた映画==
*『[[セブン・イヤーズ・イン・チベット]]』([[1997年]]) - [[中華民国]]時代のチベットに迷い込んだ[[オーストリア]]人登山家[[ハインリッヒ・ハラー]]が主人公の映画。本編中の中国による[[チベット侵攻]]などの描写について中国政府が不快感を示し、中国では撮影および上映禁止となった。
*[[セブン・イヤーズ・イン・チベット]]
*『[[クンドゥン]]』([[マーティン・スコセッシ]]監督、[[1997年]]) - [[ダライ・ラマ14世]]の半生を描く。


==注釈、出典==
==注釈、出典==
{{Reflist|3}}
<references/>


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2012年2月8日 (水) 04:00時点における版

チベット動乱チベットどうらん)は、中華人民共和国政府のチベット統治、支配に対し、アムド地方、カム地方における「民主改革」「社会主義改造」の強要をきっかけとして1956年に勃発し、1959年に頂点に達したチベット人の抗中独立運動のことである。

前史

1914年、中国政府、シムラ協定を批准せず。シムラ会議はイギリスとチベットのみでの合意に終わる。ダライラマ政権チベットの南半部(西蔵部分)、中国が北部・東部(アムド地方カム地方)を抑えて対峙する形勢が続く。

中国共産党軍によるチベット侵攻

中国人に自己批判させられるチベット女性

1949年国共内戦で中華民国に勝利した中国共産党が中国を掌握する。中華民国国民党政府がアムド地方カム地方の北部・東部に設置していた青海省西康省等が中華人民共和国の支配下に入る。チベット政府は中国政府とつながりのある全ての中国人を国外追放し、国民党と共産党の双方から非難される[1]が、同地のチベット人、モンゴル人の抵抗が1950年代初頭まで続く。

1949年6月11日にパンチェン・ラマ10世がパンチェン・ラマ9世の転生として中国国民党政府の承認を受け即位した。


中国共産党政府は翌1950年1月には新中国政府によるチベット駐留を要求した。1950年6月、英国政府は庶民院で「中国のチベットに対する宗主権を認める準備は出来ている、しかしチベットは自治権を尊重されていることだけは理解してほしい」表明したが[2]1950年10月中国人民解放軍は「西蔵和平解放」と称して、ダライラマ政権が実行支配していたチベットのカムド地方の西部に侵攻し、チャムドを占領。ドカム総督(ド・チー)のラル・ケサンワンドゥ、ガプー・ガワンジグメらが捕虜となる(中国名「昌都戦役」)。

このチベット侵攻によって120万人のチベット人が命を落とし多くの寺院が破壊された[3]

1951年、中国人民解放軍が、新疆方面、青海方面、チャムドの3方面からラサに向けて進軍、無血入城し、チベット全土を制圧する。

十七か条協定とチベット併合

その間、「チャムド地区からの中国軍の撤退を交渉する権限」を委ねられて北京に派遣されたチベット使節団(代表はンガプー・ンガワン・ジクメ)がダライラマの許可を得て[4]、中国政府との北京での交渉に参加し、十七か条協定(「中国中央政府と西蔵地方政府が西蔵を平和的に解放する方法についての協約」)が結ばれた。この締結により、チベットを覆う中国の主権が明言され、チベットは事実上併合された。この合意は数ヵ月後、ラサで批准された[5]。この後、チベット政府は自治の枠組みを保とうと努力を続けたが、人民解放軍がチベットに駐留したことでチベットは中華人民共和国の支配下に入ることになった。

中国共産党政府によるチベット併合後、チベット人による抵抗運動はことごとく弾圧され、多数の市民が大量虐殺の対象となった。1952年-1958年における「カンロ地区」(中国の区分で甘粛省甘南州)において10,000人が犠牲になった(カンロの虐殺)。

中国政府は、チベット併合後、一貫して、独立運動・亡命政府を「分離主義」として非難し、侵攻や併合および虐殺その他を正当化している。

中国共産党は、旧国民政府が西康省に帰属させながら実際には実効支配を確立できなかったカム西部(昌都地区)については、中国政府に忠誠を誓うチベット人によって組織された昌都解放委員会の下、引き続き「西藏地方」に帰属させ、カム地方東部のみを範囲として「西康省藏族自治区」を発足させた。この時、チベット人の比率が低い南昌地区は、雲南地方に移管された。この西康省藏族自治区は1955年に廃止され、カム地方東部は四川省に組み込まれる。

チベット動乱

1955年に、十七ヶ条協定において改革対象から除外されたはずのチベット北半部(アムド地方、カム地方東部)における社会主義改造が開始され、チベット人は反発する。

また、中国政府は唯物史観に則り、宗教を排撃し、遊牧地であった土地を取り上げ、漢族の大量入植を進めた。このため、チベット人との軋轢が高まり、 1956年、アムドカム地方などチベット北半部において抗中蜂起が全面的に勃発し、チベット動乱が始まった。

ギャンダ・ゾンによる蜂起

1956年末、中国の区分で四川省に所属する涼山美姑西昌康定西蔵所属で当時チャムド解放委員会管轄下のギャンダ・ゾン(江達)、芒康らによる第1次蜂起が起きるが、人民解放軍によって鎮圧される。

チュシ・ガンドゥクとカム反乱

十七ヶ条協定協定の枠組みのもと、ガンデンポタンの統治下で平穏をたもっていたチベット南半部(西蔵)に、アムド地方、カム地方からの難民や、敗北したゲリラ兵が流入し、1957年、チベット高原北半部出身者による統一抗中ゲリラ組織チュシ・ガンドゥクが結成、チベット南半部で、ゲリラ活動を展開をはじめる(指導者ゴンボ・タシ)。

チュシ・ガンドゥクは、東西冷戦構造に組み込まれ、アメリカ合衆国CIAからの訓練や資金、武器の供給を受けるようになる。

中華人民共和国政府、ガンデンポタンにチュシ・ガンドゥクの鎮圧を命令する。

中国軍は1957末に平定に成功。さらに反乱勢力10万人に人民解放軍6万を動員して鎮圧する。中国共産党発表によれば、20,000人を殲滅し、20,000人を逮捕した[6][7]

第2次蜂起

1957年から58年にかけて、バタン(巴塘)、維西徳欽中甸らによる第2次蜂起に対して中国軍は1958末に「平定」に成功。5,500人を「殲滅」した[8]

青海省における虐殺

1958年3月から8月にかけて、甘粛から青海にかけての42万平方キロにかけてチベット人130,000人が「反乱」を行った。中国軍は、うち110,000人を殲滅して平定した。[9]。また、青海省におけるチベット人・モンゴル人の遊牧民50,000人を逮捕した。この数字は青海省チベット・モンゴル人遊牧民総人口の10%にあたる。逮捕者の84%にあたる45,000人が誤認逮捕であった。拘留中に23,260人が死亡、誤って殺害されたものが173人。宗教・民族分子259人、民族幹部480人が死亡[10]

1959年のチベット蜂起とダライラマ亡命

1959年、中国政府、ガンデンポタンに首相ルカンワの解任を要求する。

1950年代後半、ラサではチベットにおける中国のプレゼンスへの反発が高まっていた[11]1956年には、カムアムド地方でチベット人による武装反乱が始まり、その結果チベット東部には人民解放軍が増派された。人民解放軍はチベットの村や僧院に対して制裁攻撃を加えた[11]。人民解放軍の司令官は、反乱するゲリラ部隊を屈服させるため、「ポタラ宮ダライ・ラマ14世を爆撃する」との脅しも繰り返し行った[11]

1959年には、動乱がガンデンポタンの管轄領域(西蔵)にも波及する。同年3月、ラサ駐屯の中華人民共和国機関が、ダライ・ラマ14世を観劇に招待するが、ダライ・ラマ14世が中国に拉致されることをおそれたラサ市民がノルブリンカ宮を包囲する(1959年のチベット蜂起)。

経緯

3月1日、ダライ・ラマ14世のもとに、ラサ郊外にある人民解放軍司令部で観劇をしないかという珍しい誘いが届いた[11]3月9日、ダライ・ラマ14世のところに、人民解放軍陸軍の将校たちがやってきて、、伝統からは外れるがダライ・ラマ14世が観劇の際に従来の武装警備隊を同行させないこと、宮殿から駐屯地に移動する際にも公式な儀式を行わないことを要求した[11]。この招待についてチベットはダライ・ラマ14世の拉致を中国が計画しているという疑念を生んだ。

3月10日、約30万人のチベット人が、ダライ・ラマ14世が宮殿から連れ出されることを防ぐため、宮殿を取り囲んだ[11]。ラサ駐屯の中国人民解放軍、市民に解散を要求、さもなくば砲撃すると通告する。人民解放軍と市外のゲリラとの間では前年の12月にも小ぜり合いがあったものの、この日の事件がラサ蜂起の始まりとされている[11]。このラサ蜂起では三日間で10,000人-15,000人のラサ市民が死亡。


3月12日、ラサの街頭に集まった抗議者たちがチベットの独立を宣言した[11]。ラサの通りにはバリケードが築かれ、人民解放軍およびチベット軍は衝突に備えてラサ内外の拠点を要塞化し始めた[11]。市外の武装反乱軍に対する支持の嘆願も始められ、インドの領事に対しても支援の訴えが行われた[11]。人民解放軍の大砲はダライ・ラマ14世の夏期用の離宮ノルブリンカを射程に収めていた。

3月15日、ダライ・ラマ14世のラサ市からの避難準備が始まり、ラサ市からの避難経路を確保するためにチベット軍が派遣された[11]3月17日には、ダライ・ラマ14世の宮殿の近くに2発の砲弾が着弾した[11]、生命の危機を感じたダライ・ラマ14世はインドへ亡命、インドへの国境越えの直前、チベット臨時政府の樹立を宣言する[12]

衝突は3月19日の夜に始まった。チベット軍は著しく数に劣り武装も貧弱だったため、この戦闘は2日で終了した[11]

法王を慕ってチベットの民衆80000人もインドへ亡命した[13]

周恩来首相および中華人民共和国国務院はチベット独立軍を鎮圧後、「西蔵地方政府」を廃止し、西蔵の統治を「西蔵自治区籌備委員会」に委ねる。

同年4月、ダライ・ラマ14世はインド北東のアッサム州テズプールに到着し、「17ヶ条協定」は「武力威嚇によってチベットに押しつけられたもの」と発言[14]。さらに、法王は、北インドの山岳部ムスーリでチベット亡命政権を再樹立し、「私の政府とともに私がどこにいようと、チベットの民衆はわれわれをチベット政府と認める」と宣言した[15]


中央チベットの虐殺

鄧礼峰による中国共産党政府の記録の調査によれば、中共軍は、1959年3月から62年3月までに中央チベットにおいて、死亡・負傷・捕虜を含めて93,000人のチベット人を殲滅、武器35,500丁、砲70問を鹵獲した[16](中央チベットの大虐殺)。

アムド地方ゴロク地区(中国の区分で青海省果洛州)では1956年に130,000人あった人口が1963年におよそ60,000人にまで減ったとされる。

動乱以後

1960年には、中華人民共和国がチベット南半部における支配をほぼ確立するが、他方、チュシ・ガンドゥクが、ネパールムスタン地方を基地としたゲリラ活動を展開。

1966年、西藏自治区(チベット自治区)が発足。同1966年、文化大革命が波及し、紅衛兵ラサ進駐を開始し、年長世代による宗教や信仰が糾弾された。

1972年、米中の国交樹立により、アメリカ合衆国CIAによるチュシ・ガンドゥク支援が中止される。

1974年には、チュシ・ガンドゥク解体、ゲリラ活動の中止。


※1970年代以降については、チベットの歴史チベットチベット問題を参照。

2008年、チベット四川省青海省において、中華人民共和国に対する抗議運動をきっかけに騒乱が起き、同国政府の治安部隊によるチベット人への催涙弾による鎮圧が行われた(2008年のチベット動乱)。

犠牲者数

チベット動乱によるチベット人の犠牲者数については、以下のように諸説ある。

チベットおよび西側政府

チベット亡命政府や西側政府の調査によれば、チベット全域(中央チベット[17]に加え、アムド[18]カム[19]も含む範囲)最高で120万人のチベット人が虐殺され、また行方不明となり、侵略された後、中国政府の恐怖政治を告発したが、中国は、この主張を強く否定している。

1953年におけるチベット公式の国勢調査では中央チベットの人口は127万人と記録されており、中国政府の主張にしたがう学者はこれを根拠として虐殺被害者「120万」という数字の信憑性を疑問視する[20]。 しかし、上記の通り、チベット亡命政府の採る犠牲者120万人という数は、ガンデンポタンが統治していた中央チベットだけではなく、アムド、カムをも含んだチベット全域の数字である。

サムドン・リンポチェおよびダライ・ラマ14世

サムドン・リンポチェ(現チベット亡命政府首相)およびダライ・ラマ14世によれば、1962年には、チベット自治区内の2,500の僧院から、僧侶の93%が追い出され、残された僧院は70だけだという。

1950~1976年の間の侵略および占領の直接的な結果としての死者数は、次のように推定されている[21]

  • 173,221人のチベット人が、刑務所もしくは強制収容所で死亡。
  • 156,758人が処刑死。
  • 342,970人が餓死。
  • 432,705人が戦闘もしくは暴動中に死亡。
  • 92,731人が拷問死。
  • 9,002人が自殺。

2006年には、この大量虐殺人道に反する罪国家テロ拷問の嫌疑は、スペインの法廷によって取り調べられた[22]

中国の文献に登場する数値

中華人民共和国刊行の文献には、チベット動乱における地方ごとの個別事例として、兵士や一般民衆に対して相当規模の殺害が生じていたことを述べる記録が多数出版・公刊されている[23]

  1. カム地方における「反乱」と「鎮圧」 1956年末に第1次蜂起(中国の区分で四川省に所属する涼山美姑西昌康定西蔵所属で当時チャムド解放委員会管轄下のギャンダ・ゾン(江達)、芒康)。1957末に「平定」に成功。反乱勢力10万人に人民解放軍6万を動員して「鎮圧」。20,000人殲滅、20,000人逮捕[24]
  2. カム地方における「反乱」と「鎮圧」 1957年-58年。第2次蜂起(バタン(巴塘)、維西徳欽中甸)。1958末に「平定」に成功。5,500人を「殲滅」[25]
  3. 「青海省」における「反乱」と「鎮圧」 1958年3月-8月、甘粛から青海にかけての42万平方キロにかけて130,000人が参加する「反乱」、うち110,000人を「殲滅」して平定[26]
  4. 「青海省」におけるチベット人・モンゴル人の遊牧民50,000人(総人口の10%)を逮捕 逮捕者の84%、45,000人が誤認逮捕。拘留中に23,260人が死亡、誤って殺害されたものが173人。宗教・民族分子259人、民族幹部480人が死亡[27]
  5. 中央チベットにおける「殲滅」の規模 1959年3月から62年3月までに死亡・負傷・捕虜を含めて93,000人を殲滅、武器35,500丁、砲70問を鹵獲[28]

チベット動乱を描いた映画

注釈、出典

  1. ^ Shakya 1999, pp. 7-8
  2. ^ TIBET (AUTONOMY) HC Deb 21 June 1950 vol 476 c1267
  3. ^ 酒井信彦 (2008年7月15日). “チベット問題は侵略という乱”. 季刊こころ第87号 (酒井信彦). http://sakainobuhiko.com/2008/07/post-3.html 2011年11月4日閲覧。 
  4. ^ Goldstein 2007, p96
  5. ^ Goldstein 1989, pp. 812-813
  6. ^ 鄧礼峰『新中国軍事活動紀実:一九四九−一九五九』(中共党史資料出版社, 1989), pp.429-431
  7. ^ 毛里和子『周縁からの中国:民族問題と国家』(東京大学出版会, 1998(ISBN 4-13-030115-2)所収の第八章「一九五九年チベット反乱再考:エスノ・ナショナリズムの諸相(三)」pp.251-292)
  8. ^ 鄧礼峰『新中国軍事活動紀実:一九四九−一九五九』(中共党史資料出版社, 1989), pp.506
  9. ^ 鄧礼峰『新中国軍事活動紀実:一九四九−一九五九』(中共党史資料出版社, 1989), pp.501-502
  10. ^ 叢進『曲折発展的歳月;1949-1989的中国』河南人民出版社,1989。pp.450-452
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m チベット亡命政権 情報・国際関係省著「チベット入門」
  12. ^ [1]
  13. ^ [2]
  14. ^ [3]
  15. ^ [4]
  16. ^ 鄧礼峰『新中国軍事活動紀実:一九四九−一九五九』(中共党史資料出版社, 1989), pp.543。1959年3月から1960年10月までの計算で中央チベットだけで87000人のチベット人が殺害された。
  17. ^ 当時ガンデンポタンが掌握していた西蔵を中心とする地方。
  18. ^ 中国の行政区分では青海地方および甘粛省南部、四川省西北部に3分割されていた。
  19. ^ チャムドを中心とする西部をガンデンポタンが掌握し、中国統治下の東部地方は、中国の行政区画では四川省および雲南省の間で2分割されていた。
  20. ^ Michael Parenti in " Friendly Feudalism: The Tibet Myth" writes: Both the Dalai Lama and his advisor and youngest brother, Tendzin Choegyal, claimed that “more than 1.2 million Tibetans are dead as a result of the Chinese occupation.” The official 1953 census--six years before the Chinese crackdown--recorded the entire population residing in Tibet at 1,274,000.37 Other census counts put the population within Tibet at about two million. If the Chinese killed 1.2 million in the early 1960s then almost all of Tibet, would have been depopulated, transformed into a killing field dotted with death camps and mass graves--of which we have no evidence. The thinly distributed Chinese force in Tibet could not have rounded up, hunted down, and exterminated that many people even if it had spent all its time doing nothing else. See also "A Note on Tibet's Population" Leo A. Orleans, The China Quarterly, No. 27 (Jul. - Sep., 1966), pp. 120-122
  21. ^ en:Samdhong Rinpoche. Roebert, Donovan. The en:14th Dalai Lama. [2006] (2006). Samdhong Rinpoche: Uncompromising Truth for a Compromised World : Tibetan Buddhism and Today's World. World Wisdom, Inc. ISBN 1933316209. pg 116-117
  22. ^ The Independent on-line
  23. ^ 以下すべて毛里和子『周縁からの中国:民族問題と国家』東京大学出版会, 1998(ISBN 4-13-030115-2)所収の第八章「一九五九年チベット反乱再考:エスノ・ナショナリズムの諸相(三)」(pp.251-292)で紹介されている事例。
  24. ^ 鄧礼峰『新中国軍事活動紀実:一九四九−一九五九』(中共党史資料出版社, 1989), pp.429-431
  25. ^ 鄧礼峰『新中国軍事活動紀実:一九四九−一九五九』(中共党史資料出版社, 1989), pp.506
  26. ^ 鄧礼峰『新中国軍事活動紀実:一九四九−一九五九』(中共党史資料出版社, 1989), pp.501-502
  27. ^ 叢進『曲折発展的歳月;1949-1989的中国』河南人民出版社,1989。pp.450-452
  28. ^ 鄧礼峰『新中国軍事活動紀実:一九四九−一九五九』(中共党史資料出版社, 1989), pp.543

関連項目