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「チャールズ・バベッジ」の版間の差分

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{{Infobox Scientist
[[image:CharlesBabbage.jpg|thumb|200px|チャールズ・バベッジ]]
| name = チャールズ・バベッジ
'''チャールズ・バベッジ'''('''Charles Babbage'''、[[1791年]][[12月26日]] - [[1871年]][[10月18日]])は[[イギリス]]の[[数学者]]。分析哲学者、コンピュータ科学者でもあり、世界で初めて「プログラム可能」な計算機を考案した。完成しなかった機械は[[サイエンス・ミュージアム]]に展示されている。[[1991年]]、バベッジの本来の設計に基づいて[[階差機関]]が組み立てられ、完全に機能した。これは[[19世紀]]当時の技術の精度に合わせて作られており、バベッジのマシンが当時完成していれば動作していたことを証明した。
| image = Charles Babbage - 1860.jpg
| caption = チャールズ・バベッジ (1860)
| birth_date = {{生年月日と年齢|1791|12|26|no}}
| birth_place = {{ENG}} ロンドン
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1791|12|26|1871|10|18}}
| death_place = {{ENG}} ロンドン
| nationality = {{ENG}}
| field = 数学、[[分析哲学]]、計算機科学
| work_institutions = [[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)]]
| alma_mater = ピーターハウス([[ケンブリッジ大学]])
| known_for = 数学、計算機械
| signature = Charles Babbage Signature.svg
}}
'''チャールズ・バベッジ'''('''Charles Babbage'''、[[王立協会|FRS]]、[[1791年]][[12月26日]] - [[1871年]][[10月18日]]<ref>GRO Register of Deaths: December 1871 1a 383 MARYLEBONE: Charles Babbage, aged 79</ref>)は[[イギリス]]の[[数学者]]。分析哲学者、[[計算機科学]]者でもあり、世界で初めて「プログラム可能」な計算機を考案した<ref>{{Cite book| last = Tanenbaum | first = Andrew | authorlink = アンドリュー・タネンバウム | title = Modern Operating Systems | publisher=Prentice Hall | year = 2007 | page = 7 | isbn = 0136006639}}</ref>。「[[情報工学の発展に貢献した人物|コンピュータの父]]」と言われており<ref>{{Cite book| author=Halacy, Daniel Stephen | title = Charles Babbage, Father of the Computer | year = 1970 | publisher=Crowell-Collier Press | isbn = 0027413705 }}</ref>、初期の機械式計算機を発明し、さらに複雑な設計に到達した<ref>{{Cite book| author=Swade, Doron | title = The Difference Engine: Charles Babbage and the Quest to Build the First Computer | year = 2000 | publisher=Penguin | pages = 84–87 | isbn = 01420.01449 }}</ref>。その完成しなかった機械の一部は[[サイエンス・ミュージアム]]に展示されている。[[1991年]]、バベッジの本来の設計に基づいて[[階差機関]]が組み立てられ、完全に機能した。これは[[19世紀]]当時の技術の[[公差|精度]]に合わせて作られており、バベッジのマシンが当時完成していれば動作していたことを証明した。9年後、サイエンス・ミュージアムはバベッジが階差機関用に設計した[[プリンター]]も完成させた。


== 誕生 ==
[[ケンブリッジ大学]]在学中に解析数学学会を設立し、ライプニッツ流の[[微積分学]]をイギリスに定着させた。
[[ロンドン]]に生を受ける。正確な生誕地については議論があるが、ロンドンの 44 Crosby Row, [[:en:A215 road#Walworth Road|Walworth Road]] ではないかとされている。ラーコム・ストリートとウォルワース・ロードの交差点付近に生誕を記念した[[ブルー・プラーク]]がある<ref>{{Openplaque|1140}}</ref>。


生まれた日は[[タイムズ]]紙の死亡記事から1792年12月26日とされている。しかしその死亡記事が出た後、生まれたのは1791年だと甥が書いている。教会の記録によれば、バベッジが洗礼を受けたのは1792年1月6日となっており、生まれたのが1791年だったという説を裏付けている<ref>{{Harvnb|Hyman|1982|p=5}}</ref><ref>{{Cite book| last = Moseley | first = Maboth | title = Irascible Genius, The Life of Charles Babbage | publisher=Henry Regnery | location = Chicago | year = 1964 | page = 29 |url= http://books.google.com.au/books?id=ELAMAQAAIAAJ |ref=harv}}</ref><ref>{{Cite news| title = [[s:en:The Times/The Late Mr. Charles Babbage, F.R.S.|The Late Mr. Charles Babbage, F.R.S]] |work=The Times |location=UK }}</ref>。
==生涯==
[[ロンドン]]に生を受ける。父ベンジャミン・バベッジ(Benjamin Babbage)は裕福な銀行家であったが元は金細工師であった。母はベッツィー・バベッジ(Betsy Plumleigh Babbage)。[[1808年]]、一家は[[テインマス]]という町に移り、父は近くの St. Michael’s Church の教会委員となった。


父ベンジャミン・バベッジ (Benjamin Babbage) は裕福な銀行家であったが元は金細工師であった。母はベッツィー・バベッジ (Betsy Plumleigh Babbage)。[[1808年]]、一家は[[テインマス]]東部に移り、父は近くの St. Michael’s Church の教会委員となった。
父が裕福であったため、小学校時代に複数の家庭教師をつけるなど、熱心な教育を受けさせた。8歳ごろ生命を危うくするほどの発熱を経験し、療養をかねて田舎の学校に通うようになる。両親は学校に「あまり脳に負担をかけないようにしてください」と依頼し、本人は「こんなに暇では馬鹿になるかもしれない」と思ったと後に述べている。[[デヴォン州]][[トトニス]]の King Edward VI Grammar School に入れられ、ここですぐに体力を回復すると、再び家庭教師を付けてもらえるようになった。その後30人の生徒を持つアカデミーに参加する。このアカデミーには膨大な蔵書があり、それによって数学に興味を持つようになった。アカデミーを抜けてからさらに二人の家庭教師について学ぶ。一人は聖職者で、バベッジは後に「何も得る物が無かった」と述べている。もう一人はオックスフォードの家庭教師で、ケンブリッジに入学できるだけの古典について学ぶことができた。


== 教育 ==
[[1810年]]10月に[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学した。ここで[[ゴットフリート・ライプニッツ]]、[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]、[[トーマス・シンプソン]]らの著作を読みふけり、ケンブリッジの数学教育のレベルの低さに失望した。その結果として[[ジョン・ハーシェル]]や[[ジョージ・ピーコック]]らと共に「解析学会(Analytical Society)」を設立し、英国数学界の改革に乗り出した。
{{Wikisourcelang|en|The Times/The Late Mr. Charles Babbage, F.R.S.}}
[[ファイル:Charles Babbage 1860.jpg|thumb|right|''The Illustrated London News''(1871年11月4日)より<ref>{{Cite book| last = Hook | first = Diana H. | coauthors = Jeremy M. Norman, Michael R. Williams | title = Origins of cyberspace: a library on the history of computing, networking, and telecommunications | publisher=Norman Publishing | year = 2002 | pages = 161, 165 | url = http://books.google.com/?id=fsICrp9shVIC&pg=PA165 | isbn = 0930405854 }}</ref>]]
父が裕福であったため、小学校時代に複数の家庭教師をつけるなど、熱心な教育を受けさせた。8歳ごろ生命を危うくするほどの発熱を経験し、療養をかねて田舎([[エクセター]]近郊のアルフィントン)の学校に通うようになる。両親は学校に「あまり脳に負担をかけないようにしてください」と依頼し、本人は「こんなに暇では馬鹿になるかもしれない」と思ったと後に述べている。[[デヴォン州]]トットネスの King Edward VI Grammar School に入れられ、ここですぐに体力を回復すると、再び家庭教師を付けてもらえるようになった<ref>{{Harvnb|Moseley|1964|p=39}}</ref>。その後[[ミドルセックス州]]インフィールドにある30人の生徒を持つホルムウッド・アカデミーに参加し、スティーブン・フリーマン牧師に学ぶようになった。このアカデミーには膨大な蔵書があり、それによって数学に興味を持つようになる。アカデミーを離れてからさらに二人の家庭教師について学ぶ。一人は[[ケンブリッジ]]に住む聖職者で、バベッジは後に「何も得る物が無かった」と述べている。もう一人はオックスフォードの家庭教師で、ケンブリッジに入学できるだけの古典について学ぶことができた。


[[1810年]]10月、[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学<ref name = Venn>{{Venn| id = BBG810C | name = Babbage, Charles }}</ref>。ここで[[ゴットフリート・ライプニッツ]]、[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]、[[トーマス・シンプソン]]らの著作を読みふけり、ケンブリッジの数学教育のレベルの低さに失望した。その結果として1812年、[[ジョン・ハーシェル]]や{{仮リンク|ジョージ・ピーコック|en|George Peacock}}らと共に{{仮リンク|解析協会|en|Analytical Society}}を設立。バベッジ、ハーシェル、ピーコックは後に裁判官となった{{仮リンク|エドワード・ライアン|en|Edward Ryan}}とも親しく、ライアンは後に科学の後援者となった。また、バベッジとライアンは後に姉妹とそれぞれ結婚し、義理の兄弟になっている<ref>{{cite journal | last = Wilkes| first = M. V. | title= Charles Babbage and his world | journal= Notes and Records of the Royal Society | year=2002 | volume=56 | issue=3 | pages=353&ndash;365 | doi= 10.1098/rsnr.2002.0188 }}</ref>。バベッジは学生として他の団体にも参加しており、超常現象を研究する Ghost Club、精神病院からメンバーを解放することを目的としている Extractors Club などがある<ref name = GEB>{{Cite book| last = Hofstadter | first = Douglas R. | authorlink = ダグラス・ホフスタッター | title = [[ゲーデル、エッシャー、バッハ|Gödel, Escher, Bach: an Eternal Golden Braid]] | publisher=Penguin Books | date = 1979, 2000 | page = 726 }}</ref><ref name = allsands>{{Cite web| title = Charles Babbage'S Computer Engines | url = http://www.allsands.com/history/objects/history/objects/babbagecomputer_yy_gn.htm | accessdate =2012-03-13 }}</ref>。
[[1812年]]、ケンブリッジ大学の[[ピーターハウス・カレッジ]]に移る。ここで数学者のトップとなったが、卒業することはできなかった。代わりに名誉学位を試験無しで1814年に与えられている。


[[1812年]]、ケンブリッジ大学の[[ピーターハウス・カレッジ]]に移る<ref name = Venn/>。ここで数学者のトップとなったが、卒業することはできなかった。代わりに名誉学位を試験無しで1814年に与えられている。
[[1814年]]6月25日、デヴォン州テインマスの St. Michael's Church のジョージアナ・ホイットモア(Georgiana Whitmore)と結婚。バベッジの父はこの結婚を許さなかったものの、妻とロンドンに移り住み幸せに暮らした。8人の子供をもうけたが、成人したのは3人だけだった。両親と一人の子供は[[1827年]]に亡くなっている。


== 結婚、家族、死 ==
==計算機の設計==
[[ファイル:Babbage Charles grave.jpg|thumb|バベッジの墓]]
[[数表]](三角関数や対数などの関数 ''f''(''x'') の ''x'' を等間隔で変化させて、''f''(''x'') の値を表にしたもの。関数電卓のない時代には技術者の必需品であった)の間違いが非常に多いことに気づく。当時、数表は大勢の人間が流れ作業的に単純な計算をすることで作られていた。いわば人間計算機であり、機械にやらせれば間違いがなくなると考えた。この際影響を与えたものとして3つの要因が考えられる。
[[1814年]]6月25日、デヴォン州テインマスの St. Michael's Church でジョージアナ・ホイットモア (Georgiana Whitmore) と結婚。[[シュロップシャー]]の{{仮リンク|ダッドマストン・ホール|en|Dudmaston Hall}}という[[カントリー・ハウス]]を新居としたが(ここで自らセントラルヒーティングシステムを設計)、その後ロンドンに引っ越した。


8人の子供をもうけたが<ref>{{Cite web| url = http://www.bavidge.co.uk/Babbage%20Family%20Tree%202005,%20InternetTree/wc03/wc03_074.htm | title = Babbage Family Tree 2005 | author=Valerie Bavidge-Richardson | accessdate = 2007-10-22 | archiveurl = http://web.archive.org/web/20071013194355/http://bavidge.co.uk/Babbage+Family+Tree+2005,+InternetTree/wc03/wc03_074.htm | archivedate = 2007-10-13 }}</ref>、成人したのは4人だけだった。妻は1827年9月1日、[[ウスター]]で死去。同年、父、次男、生まれたばかりの末っ子が相次いで亡くなった。その後1年をかけてヨーロッパ大陸を旅行したため、階差機関の構築が遅れることになった。
#だらしなさを嫌う性格
<!--Benjamin Herschel Babbage (1815-1878)
#対数表を自ら作成した経験
Charles Whitmore Babbage (1817-1827)
#[[ウィルヘルム・シッカード]]、[[ブレーズ・パスカル]]、[[ゴットフリート・ライプニッツ]]の先駆的な機械式計算機の存在
Georgiana Whitmore Babbage (1818-1834)
Edward Stewart Babbage (1819-1821)
Francis Moore Babbage (1821-??)
Dugald Bromhead (Bromheald?) Babbage (1823-1901)
(Maj-Gen) Henry Prevost Babbage (1824-1918)
Alexander Forbes Babbage (1827-1827)
Timothy Grant Babbage (1829-??) -->


1871年10月18日、79歳で死去。ロンドンの{{仮リンク|ケンサル・グリーン墓地|en|Kensal Green Cemetery}}に埋葬された。Horsleyによれば、「腎臓を患い、[[膀胱炎]]を併発して」亡くなったという<ref>{{Cite journal| author=Horsley, Victor | title = Description of the Brain of Mr. Charles Babbage, F.R.S | journal=Philosophical Transactions of the Royal Society of London. Series B, Containing Papers of a Biological Character | year = 1909 | volume = 200 | pages = 117–32 | url = http://journals.royalsociety.org/content/xl7210623532p738/?p=daaddfe06dca444eafad36aab95177ea&pi=1 | doi = 10.1098/rstb.1909.0003 | accessdate =2007-12-07 | issue=262–273 }} {{Subscription required}}</ref>。1983年、バベッジの検死報告書が発見され、後にバベッジの玄孫が公表した<ref>{{Cite journal| author=Babbage, Neville | title = Autopsy Report on the Body of Charles Babbage ( "the father of the computer ") | journal=Medical Journal of Australia | year = 1991 | volume = 154 | issue = 11 | pages = 758–9 | month = June | pmid = 2046574 }}</ref><ref>{{Cite journal| author=Williams, Michael R. | title = The "Last Word " on Charles Babbage | doi = 10.1109/85.728225 | journal=IEEE Annals of the History of Computing | year = 1998 | volume = 20 | pages = 10–4 | url = http://www2.computer.org/portal/web/csdl/doi/10.1109/85.728225 | issue=4}}{{Subscription required}}</ref>。また、複写が公開されている<ref>{{Cite web| url = http://www.scienceandsociety.co.uk/results.asp?X9=BABBAGE,%20CHARLES | title = Postmortem report by John Gregory Smith, F.R.C.S. (anatomist) | publisher=Science and society.co.UK | accessdate =2009-01-29 }}</ref>。バベッジの脳は、半分が[[イングランド王立外科医師会]]に保管され、もう半分が[[サイエンス・ミュージアム]]にて展示されている<ref>{{Cite web| url = http://www.sciencemuseum.org.uk/visitmuseum/galleries/computing.aspx | title = Visit the museum, Galleries, Computing, Overview | publisher=Science Museam | accessdate =2010-10-25 }}</ref>。
計算機関の構想について、[[1822年]]に[[ハンフリー・デービー]]に出した手紙の中で記述している。


一番年下の息子ヘンリー・プレヴォスト・バベッジ (1824–1918) は、父の設計に基づいて6台の階差機関を製作し<ref>{{Cite web| url = http://www.computerhistory.org/babbage/henrybabbage/ | title = Henry Prevost Babbage&nbsp;– The Babbage Engine | publisher=Computer History Museum | accessdate = 2009-01-29 }}</ref>、そのうちの1台が[[ハーバード大学]]に送られた。[[Harvard Mark I]] を開発した[[ハワード・エイケン]]が後にそれを発見している。ヘンリー・プレヴォストが1910年に製作した解析機関の演算器はダッドマストン・ホールに展示されていたが、今は[[サイエンス・ミュージアム]]にて展示されている<ref>{{Cite web| url = http://www.sciencemuseum.org.uk/objects/computing_and_data_processing/1896-58.aspx | title = Henry Babbage's Analytical Engine Mill, 1910 | publisher=Science Museum | date = 16 January 2007 | accessdate = 2009-01-29 }}</ref>。
===階差機関===
[[Image:BabbageDifferenceEngine.jpg|thumb|階差機関の一部。バベッジの死後、息子が残っていた部品で組み立てたもの]]
[[1822年]]に[[階差機関]](difference engine)と呼ぶ、数表を機械的につくる計算機の構想についての手紙を王立学会に送った。学会はこの構想を評価し、英国政府は[[1823年]]に1500ポンドを階差機関製作の資金として提供した。この機械の部品はほとんどがバベッジの設計したもので、全て熟練した技師が手作業で作った。バベッジは製造工程についてよく知るために工業の現状をつぶさに研究した。イタリア滞在時には、[[ルーカス教授職]]に任ぜられたことを知り、固辞しようとしたが、友人たちが受けさせたといわれている。なお、階差機関は試作機はできたものの、当初の設計レベルのものは完成しなかった。政府の資金提供も打ち切られ、バベッジは借金を抱えた。


===解析関===
== 計算の設計 ==
[[File:BabbageDifferenceEngine.jpg|thumb|階差機関(1号機)の一部。バベッジの死後、息子が残っていた部品で組み立てたもの]]
1830年代、さらに汎用的な[[解析機関]]を構想し始めた。これはいかなる数学の関数も計算できる機能を持つものである。これが実現していれば、パンチカードでプログラムを供給する巨大な機械式計算機となっていただろう。その後の人生の大半を解析機関の設計に費やしたが、資金難と性格的な問題(技術的な障害はなかった)により、小さな試作機が完成するに留まった。
{{Cquote|1812年、彼は解析協会の自室で座って間違いだらけの対数表を見ていた。そして、機械に計算させればいいと思いついた。フランス政府はいくつかの数表を新しい手法で製作していた。数人の数学者が数表の計算方法を決定し、6人ほどでそれを単純な工程に分解して、個々の工程は加算か減算をすればよいだけにする。そして加減算だけを教え込まれた80人の[[計算手]]に計算させるのである。これが計算における大量生産的手法の最初の適用例であり、バベッジは熟練していない計算手を完全に機械に置き換えれば、より素早く間違わずに数表を作れるというアイデアにとりつかれた。<ref>{{Cite book|editor-first= B. V. |editor-last= Bowden |title= Faster than thought: A symposium on digital computing machines |year=1953 |place=London |publisher=Pitman |url= http://www.computinghistory.org.uk/det/10719/Faster-Than-Thought-A-Symposium-on-Digital-Computing-Machines-1953/}}</ref>}}


バベッジの機械は初期の機械式計算機の1つだが、実際には完成しなかった。その最大の原因は資金問題と自身の性格の問題である。いくつかの蒸気機関で駆動する機械の製作を指揮して若干の成功を収め、計算を機械化可能であることを示した。その機械は扱いにくかったが、現代のコンピュータと基本的アーキテクチャはよく似ている。データとプログラムは分離されており、命令に従って動作し、演算器は条件分岐が可能で、本体とは別に[[入出力]]装置を備えていた。政府から10年以上に渡って総額1万7000ポンドの資金援助を受けたが、最終的に信頼を失って資金提供は打ち切られた<ref>{{Cite book|author=Gleick, J. |title=The Information: A History, a Theory, a Flood |publisher=Fourth Estate |location=London |year=2011 |page=104 }}</ref>。
==その他の業績==
[[1824年]]、[[王立天文学会]]から「数表と天文暦の計算機関の発明に対して」金メダルを授与されている。


=== 階差機関 ===
ルーカス教授職は[[1828年]]から[[1839年]]まで務めた。この間にいくつかの科学系学会誌の刊行をしたり、いくつかの学会に援助をしたりしている。
[[ファイル:Babbage Difference Engine.jpg|thumb|[[サイエンス・ミュージアム]]に展示されている階差機関2号機。バベッジの設計に基づいて製作された。]]
{{Main|階差機関}}
当時、[[数表]]は[[計算手]]と呼ばれる大勢の人間が流れ作業的に単純な計算をすることで作られていた。ケンブリッジで彼はこの手法の誤り率が高いことを見ており、数表作成の機械化をライフワークにするようになった。


[[1822年]]、[[階差機関]] (difference engine) と名付けた多項式関数の値を計算する機械の設計を開始した。当時の[[機械式卓上計算機|同様の機械]]とは異なり、バベッジの階差機関は一連の数値を自動的に生成するものだった。[[差分法|有限差分法]]を使うことで、乗除算を使わずに関数の値を計算できる。
[[1835年]]、階差機関の際の工業に関する調査結果をまとめた報告書 ''On the Economy of Machinery and Manufactures''を刊行し、3000部を売り上げた。これによってバベッジを近代経済学の父と評価するものもいる。[[カール・マルクス|マルクス]]はこれに影響を受け、『[[資本論]]』の中で引用している。
<!-- 神学論争らしいが、訳すのが難しいので残しておく(訳者)
In [[1837]], responding to the official eight ''[[Francis Henry Egerton, 8th Earl of Bridgewater|Bridgewater Treatises]] "On the Power, Wisdom and Goodness of God, as manifested in the Creation"'', he published his ''Ninth Bridgewater Treatise'' putting forward the thesis that God had the omnipotence and foresight to create as a divine legislator, making laws (or programs) which then produced species at the appropriate times, rather than continually interfering with ''ad hoc'' miracles each time a new species was required. The book incorporated extracts from correspondence he had been having with [[John Herschel]] on the subject.-->


1820年代初め、バベッジは最初の階差機関の試作にとりかかった。そのとき製作した一部の部品は今もオックスフォード科学史博物館にある<ref>{{Cite journal| first = Denis | last = Roegel | title = Prototype Fragments from Babbage's First Difference Engine | journal=IEEE Annals of the History of Computing | volume = 31 | pages = 70–5 | date = April–June 2009 | issue = 2 | doi = 10.1109/MAHC.2009.31 }}</ref>。この試作機が「階差機関1号機」へと発展した。しかし完成はせず、出来上がった部分はロンドンのサイエンス・ミュージアムにある。この階差機関1号機は約2,5000個の部品で構成され、13,600kgの重量で、高さは2.4mとなる予定だった。資金提供も受けたが、完成することはなかった。後に改良を加えた「階差機関2号機」を設計したが、バベッジ自身は製作していない。
[[暗号解読]]に関しても業績を残し、[[ヴィジュネル暗号]]を解読した。この暗号は当時「解読不可能な暗号」と言われていた。その発見は[[イギリス陸軍|イギリス陸軍]]の作戦行動に活用され、数年間その発見は秘密にされた。そのため、暗号解読者の栄誉は数年後に解読に成功した[[フリードリッヒ・カシスキー]]に与えられている。


階差機関2号機が実際に製作されたのは1989年になってからのことで、ロンドンのサイエンス・ミュージアムでバベッジの設計に基づいて19世紀当時の技術精度にあわせて製作された。1991年に完成し、31桁の計算結果を出力した。また、技術者で大富豪の{{仮リンク|ネイサン・ミアボルド|en|Nathan Myhrvold}}もこれを製作し、2008年5月10日、[[マウンテンビュー]]の[[コンピュータ歴史博物館]]に寄贈した<ref>{{Cite web| url = http://www.computerhistory.org/babbage/ | title = Overview&nbsp;– The Babbage Engine | publisher=Computer History Museum | accessdate = 2009-01-29 }}</ref><ref>{{Cite news| last = Shiels | first = Maggie | title = Victorian 'supercomputer' is reborn | url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/7391593.stm | accessdate =2008-05-11 |work=BBC News | date = 10 May 2008 }}</ref>。それまで誰も製作していなかったため、これらはレプリカ(複製)ではない。
他に1838年に[[排障器]]と呼ばれるものを発明している。これは機関車などの前面に取り付ける金属フレームで、進路上の障害物を排除するものである。鉄道に関してもいくつか研究し、たとえば鉄道の軌道幅の[[標準軌]]への設定に関与している。そのほか、[[郵便]]の国内均一料金の設定に関与している。


=== 解析機関 ===
また、[[統計学]]にも興味を持ち、[[死亡表]]も作った。これについて、[[アルフレッド・テニスン]]に、彼の[[詞]]「罪の幻」の一部「Every moment dies a man, Every moment one is born. (ひとりの人間が死ぬとき、ひとりの子供が生まれている)」の部分を、「世界の人口は一定になってしまう」として「Every moment dies a man, Every moment 1 1/16 is born.(ひとりの人間が死ぬとき、1と16分の1人の子供が生まれている)」に改訂することを進言しているほどである。
{{Main|解析機関}}
階差機関の製作が破綻して間もなく、バベッジはさらに汎用的で複雑な[[解析機関]]を構想し始め、1871年に亡くなる直前までその設計を改良し続けた。2つの機関の主な違いは、解析機関では[[パンチカード]]でプログラムを組むことができるという点である。プログラムをカードで用意することで、最初にプログラムを組めば、それを機械に入れるだけで実行することができる。解析機関は[[ジャカード織機]]のパンチカードのループで計算機構を制御し、前の計算結果に基づいて次の計算を行うことができる。逐次制御、分岐、ループといった現代のコンピュータにも見られる特徴をいくつか備えており、完成していれば機械式装置としては初の[[チューリング完全]]な計算機となっていただろう。


[[エイダ・ラブレス]]はバベッジのアイデアを完全に理解していた数少ない人物の1人で、解析機関の能力を示すために実際にプログラムを作成した。[[ベルヌーイ数]]の数列を計算するプログラムなどである。今では世界初の[[プログラマ]]と言われている<ref>{{Cite journal| author=Fuegi J, Francis J | title = Lovelace & Babbage and the creation of the 1843 'notes' | journal=Annals of the History of Computing | volume = 25 | issue = 4 | pages = 16–26 | date = October–December 2003 | doi = 10.1109/MAHC.2003.1253887 }} See pages 19, 25</ref>。1979年には、彼女にちなんであるプログラミング言語が[[Ada]]と名付けられた。
== 関連項目 ==

* [[エイダ・ラブレス]] - 解析機関について著述(正確にはバベッジの講演を本にしたものに膨大な訳注を入れた)とコーディングを行った。
2011年、イギリスの研究者らが解析機関を製作するプロジェクト "Paln 28" を立ち上げた。バベッジは設計を改良し続け、完了させていなかったため、まず[[クラウドソーシング]]によってベースとなる設計を確定させるプロジェクトを開始した<ref>{{Cite news| url = http://www.nytimes.com/2011/11/08/science/computer-experts-building-1830s-babbage-analytical-engine.html?_r=1/ | title = It Started Digital Wheels Turning | publisher=New York Times | accessdate =2011-11-10 }}</ref>。675バイト相当のメモリを持ち、7Hzのクロック周波数相当で動作する予定である。バベッジの没後150周年となる2021年までに完成させることを目標としている<ref>{{Cite news| url= http://www.bbc.co.uk/news/technology-15001514 | title=Babbage Analytical Engine designs to be digitised | work=BBC News | author= | date=2011-09-21 | accessdate=2012-03-19 }}</ref>。

== 現代的応用 ==
そろばんや機械式計算機は[[集積回路]]を使った電子計算機に取って代わられたが、[[MEMS]]と[[ナノテクノロジー]]の最近の発展により、微細な機械に計算させるハイテク実験が行われるようになっている。電子式では動作できない高放射環境や高温環境でも動作可能な点が優れているという<ref>{{Cite web| url = http://findarticles.com/p/articles/mi_m0WVI/is_1999_Oct_11/ai_56912203/print | title = Electronics Times: Micro-machines are fit for space | publisher=Findarticles.com | date = 11 October 1999 | accessdate = 2009-01-29 }}</ref>。[[エコノミスト]]誌は20世紀末に "Babbage's Last Laugh" と題した記事を掲載し、微細な機械による計算について紹介した<ref>{{Cite news|author= |title=Babbage's Last Laugh |agency= |work= |newspaper=The Economist |pages= |page= |date=9 September 1999 |url= http://www.economist.com/node/324654?story_id=E1_PNQGVQ}}</ref>。

== その他の業績 ==
[[1824年]]、「数表と天文暦のための計算機関の発明に対して」[[王立天文学会ゴールドメダル]]を授与されている。バベッジは[[王立天文学会|同学会]]の創立メンバーであり、1871年に亡くなったときには最長老となっていた。

ケンブリッジの[[ルーカス教授職]]を[[1828年]]から[[1839年]]まで務めた。この間にいくつかの科学系学会誌の刊行をしている。1834年には統計学会創立に尽力した。

1832年、[[アメリカ芸術科学アカデミー]]の外国人名誉会員に選ばれた<ref name=AAAS>{{Cite web|title=Book of Members, 1780–2010: Chapter B|url= http://www.amacad.org/publications/BookofMembers/ChapterB.pdf|publisher=American Academy of Arts and Sciences|accessdate= 2011-04-28}}</ref>。1837年、{{仮リンク|ブリッジウォーター論集|en|Bridgewater Treatises}}全8巻に反応して、『第9ブリッジウォーター論集』(天地創造における神の力、叡智、善性について)を出版し、神は全知全能な神聖な立法者であり、法則を作り適切な時期に種を作ったのであって、時々気まぐれに奇跡を起こして必要に応じて新たな種を生み出したのではないという説を展開した。これは自然神学に関する著作であり、[[ジョン・ハーシェル]]と議論した結果が含まれている。

[[暗号解読]]に関しても業績を残し、ヴィジュネルの{{仮リンク|自己鍵暗号|en|autokey cipher}}やそれより弱い[[ヴィジュネル暗号]]を解読した。この暗号は当時「解読不可能な暗号」と言われていた。その発見は[[イギリス陸軍|イギリス陸軍]]の作戦行動に活用され、数年間その発見は秘密にされた。そのため、暗号解読者の栄誉は数年後に解読に成功したプロイセンの歩兵将校{{仮リンク|フリードリッヒ・カシスキー|en|Friedrich Kasiski}}に与えられている<ref>{{Cite book| author=Kahn, David L. | title = The Codebreakers: The Story of Secret Writing | year = 1996 | publisher=Scribner | location = New York | isbn = 978-0-684-83130-5 }}</ref>。

1838年には[[カウキャッチャー (鉄道)|カウキャッチャー]]を発明している<ref name=lee95>{{Cite book|last=Lee|first=John A. N.|title=International biographical dictionary of computer pioneers|year=1995|publisher=Taylor & Francis US|pages=60}}</ref>。これは機関車などの前面に取り付ける金属フレームで、進路上の障害物を排除するものである。{{仮リンク|車両性能試験車|en|dynamometer car}}も作り、1838年ごろ[[イザムバード・キングダム・ブルネル]]の[[グレート・ウェスタン鉄道]]で何度か調査を行った<ref name = "passages ">{{Harvnb|Babbage|1864|pp=317–8}}</ref>。長男の{{仮リンク|ベンジャミン・ハーシェル・バベッジ|en|Benjamin Herschel Babbage}}がブルネルの下で技師として働いていたという関係があったが、この長男は1850年代にオーストラリアに移住した<ref name = BBH>{{Cite web| url = http://www.asap.unimelb.edu.au/bsparcs/biogs/P000074b.htm | title = Babbage, Benjamin Herschel | work=Bright Sparcs Biographical entry | accessdate = 2008-05-15 }}</ref>。

[[眼底検査|検眼鏡]]もバベッジの発明だが、評価してもらおうと医師に渡してそのまま忘れてしまい、実際に使われるようになったのは後に[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ]]が独自に発明した方だった<ref>{{Cite web| url = http://www.discoveriesinmedicine.com/Ni-Ra/Ophthalmoscope.html | title = Medical Discoveries, Ophthalmoscope | publisher=Discoveriesinmedicine.com | accessdate = 2009-01-29 <!-- it's in the BBC article but looks fanciful: is also credited with the invention of [[Standard gauge|standard railroad gauge]], uniform [[penny post|postal rates]], [[occulting light]]s for lighthouses, the [[heliograph]],[http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/7391593.stm Victorian 'supercomputer' is reborn]--> }}</ref>。

バベッジは2回、国会議員に立候補している。1832年のときは5人中3位だったが、1834年のときは4人中最下位となった<ref>{{Cite book| author=Crowther, J. G. | title = Scientific Types | year = 1968 | publisher=Barrie & Rockliff | location = London | page = 266 | isbn = 0248997297 }}</ref><ref>{{Cite book| last=Hyman |first=Anthony | title = Charles Babbage, Pioneer of the Computer | year = 1982 | publisher=Princeton University Press | location = Princeton, New Jersey | pages = 82–7 | isbn = 0691083037 |ref=harv}}</ref><ref>{{Harvnb|Moseley|1964|pp=120–1}}- 日付に混乱が見られるので注意</ref>。

著書『機械化と工業化がもたらす経済効果』(On the Economy of Machinery and Manufactures) では、こんにち「バベッジの原理」と呼ばれるものを描いている。これは、仕事を分割することの効果を論じたものである。熟練した賃金の高い労働者は、常にスキルを最大限に発揮しているわけではない。その仕事を分割して複数の労働者を雇えば、スキルを要する仕事だけを熟練した労働者に割り当て、他の比較的簡単な仕事は別の熟練していない労働者に割り当てることができ、全体として労働コストの削減になるというものである。[[カール・マルクス]]はこれを批判し、労働者間の区別が生まれ、[[疎外]]につながると主張した。バベッジの原理は、[[フレデリック・テイラー]]の[[科学的管理法]]の前提となっている。

== 考え方 ==
[[ファイル:Babbages Brain.jpg|thumb|upright|[[サイエンス・ミュージアム]]には、チャールズ・バベッジの脳が展示されている。]]
バベッジはある工場の壊れた窓ガラスを全部数え、1857年に『窓ガラス破損原因の相対度数表』(Table of the Relative Frequency of the Causes of Breakage of Plate Glass Windows) を出版した。464枚の壊れた窓ガラスのうち、14枚が「酔っ払い、女性、または少年」が原因とされている<ref>{{Cite journal| title = Table of the Relative Frequency of Occurrence of the Causes of Breaking of Plate Glass Windows | author=Babbage, Charles | journal=Mechanics Magazine | year = 1857 | volume = 66 | page = 82 }}</ref><ref>{{Cite book| author=Babbage, Charles | title = The Works of Charles Babbage | volume = V | year = 1989 | publisher=William Pickering | location = London | page = 137 | editor = Martin Campbell-Kelly | isbn = 1851960058 }}</ref><ref>{{Cite book|url= http://books.google.com/?id=cScKAAAAIAAJ&pg=PA417&lpg=PA417&dq=Table+of+the+Relative+Frequency+of+the+Causes+of+Breakage+of+Plate+Glass+Windows |title=The insurance cyclopeadia: being a ... – Google Books |publisher=Google Books |accessdate= 2011-02-22|year=1878}}</ref>。

バベッジは人混みが嫌いで、1864年には『通りの迷惑の観察』(Observations of Street Nuisances) を出版し、80日間に165回の「迷惑」を数えたこともある。特に[[ストリートパフォーマンス]]が嫌いで、[[手回しオルガン]]の音を聞きつけると、そこに行ってののしったという。例えば次のような引用がバベッジの音楽嫌いを表している。

{{Quote|手回しオルガン奏者や似たような迷惑によって与えられた数千人の精神的苦痛と知的労働者の時間を奪ったことによる金銭的損害は計り知れない。<ref>{{Cite book| author=Campbell-Kelly, Martin; Babbage, Charles | title = Passages from the Life of a Philosopher | publisher=Pickering & Chatto Publishers | year = 1994 | chapter = Ch 26 | page = 342 | isbn = 1-85196-040-6 }}</ref>}}

1860年代には{{仮リンク|フープローリング|en|Hoop rolling#British Empire}}反対運動を起こした。特に鉄製[[フープ]]を転がして馬の脚の間をすり抜ける遊びを非難した。実際、馬が驚いて乗っていた人が振り落とされたり、馬が脚をくじいたりすることがあった<ref>{{Harvnb|Babbage|1864|p=360}}</ref>。1864年には[[庶民院]]で、この「子どもの一般的遊びを改革しようとする」バベッジの運動が批判され、バベッジは評判を落とすことになった<ref>Hansard's parliamentary debates. THIRD SERIES COMMENCING WITH THE ACCESSION OF WILLIAM IV. 27° & 28° VICTORIA, 1864. VOL. CLXXVI. COMPRISING THE PERIOD FROM THE TWENTY-FIRST DAY OF JUNE 1864, TO THE TWENTY-NINTH DAY OF JULY 1864. Parliament, Thomas Curson Hansard "Street Music (Metropolis) Bill "; V4, p471</ref>。

当時の[[首相]][[ロバート・ピール]]はバベッジに准男爵の地位提供を申し出たが、貴族の世襲制に批判的だったバベッジはこれを断わった。バベッジは[[一代貴族]]の方を望んだがこちらは逆に断わられ、結果としてどちらも得られなかった<ref>{{Cite book| url= http://books.google.co.uk/books?id=0bwb5bevubwC&pg=PA50&lpg=PA50&dq=babbage+baronetcy&source=bl&ots=zAAIltkphu&sig=aL7tGth2t35frCKD88AgmgNQ2j0&hl=en&sa=X&ei=iSYxT6X9BMek0QXCzvCoBw&ved=0CC0Q6AEwAQ#v=onepage&q=babbage%20baronetcy&f=false | title=Remarkable Engineers: From Riquet to Shannon | author=Ioan James | year=2010 | publisher=Cambridge University Press | page=50}}</ref>。

== インド思想からの影響 ==
バベッジの数々の業績は、インド思想、特に{{仮リンク|インド論理学|en|Indian logic}}に影響を受けている<ref name="Ganeri">{{Cite book|author=Ganeri, Jonardon |title=Indian logic: a reader |publisher=Routledge |year=2001 |isbn=0700713069 |page=vii }}</ref>。バベッジほどではないが[[ウィリアム・ハーシェル|ハーシェル]]、[[オーガスタス・ド・モルガン|ド・モルガン]]、[[ジョージ・ブール]]にも言えることである。{{仮リンク|メアリー・エベレスト・ブール|en|Mary Everest Boole}}は、1920年代に彼女の叔父[[ジョージ・エベレスト]]がバベッジとハーシェルにインド思想を紹介したと主張している。

<blockquote>
1825年ごろ(エベレストが)イングランドで2、3年過ごしたことがあり、当時ずっと若かったハーシェルやバベッジとすぐに生涯の親友になった。私は公正な心を持つ数学者なら誰でも、バベッジの『第9ブリッジウォーター論集』を読んで彼の同時代人の作品と比べてみることを勧める。そして、バベッジの曲線上の特異点に関する考え方(8章)の根底にある奇跡の性質についての奇妙な概念がどこから来たのか自問してみるとよい。それはヨーロッパ神学からだろうか? それともヒンズー教形而上学からだろうか? おお、当時のイギリスの牧師たちはどんなにバベッジの本を嫌悪したことだろう!<ref name="MaryBoole">{{Cite book|author=Boole, Mary Everest |chapter=Indian Thought and Western Science in the Nineteenth Century |editor=Cobham, E.M.; Dummer, E.S. |title=Boole, Mary Everest "Collected Works" |publisher=Daniel |location=London |year=1931 |pages=947–967 |url= http://books.google.com.au/books?id=-5wyxULAKpsC}}</ref>
</blockquote>

メアリー・ブールはまた、次のように記している。

<blockquote>
バベッジ、ド・モルガン、ジョージ・ブールという3人の男が1830年から1865年当時の数学的雰囲気の中で強烈にヒンズー化した理由は何だったのか考えてみなさい。自然科学における探究がなされているベクトル解析と数学を生み出すことに、それがどんな部分を占めていただろうか?<ref name="MaryBoole"/>
</blockquote>

== 記念 ==
バベッジは様々な形で記念されている。例えば、[[月]]には{{仮リンク|バベッジ (クレーター)|en|Babbage (crater)|label=バベッジ}}と名付けられたクレーターが存在する。[[ミネソタ大学ツインシティー校|ミネソタ大学]]には情報技術についての文献収集と研究のためのセンターである{{仮リンク|チャールズ・バベッジ研究所|en|Charles Babbage Institute}}がある。ケンブリッジ大学にはバベッジの名を冠した階段講堂があり、学部の科学系講義に使われている。

* [[イギリス国鉄]]は1990年代に著名な科学者の名前を機関車の名称とするプログラムを開始し、その一環でバベッジの名を冠した[[:en:British Rail Class 60|機関車]]が存在する。
* {{仮リンク|プリマス大学|en|University of Plymouth}}の計算機科学科の建物はバベッジの名を冠している。
* イギリス製[[ミニコンピュータ]] [[:en:GEC 4000 series|GEC 4000 シリーズ]]上では、[[:en:Babbage (programming language)|Babbage]]と名付けられた[[プログラミング言語]]が動作していた。
* バベッジは様々な[[スチームパンク]]作品に登場しており、[[階差機関]]を完成させて[[ヴィクトリア朝]]時代に[[計算機科学]]が大きく発展するという設定が多い。
* ロンドンのバベッジが40年間住んでいた住宅があった場所には[[ブルー・プラーク|グリーン・プラーク]]が掲げられている<ref>{{Openplaque|3061}}</ref>。

== 著作 ==
{{Wikisourcelang|en|Author:Charles Babbage}}
{{Commonscat|Charles Babbage}}
{{Wikisource1911Enc|Babbage, Charles}}
* {{Cite book| last = Babbage | first = Charles | title = A Comparative View of the Various Institutions for the Assurance of Lives | publisher=J. Mawman | year = 1826 | location = London | url = http://books.google.com/?id=teGjS4XfpbMC&printsec=frontcover&dq=charles+babbage }}
* {{Cite book| last = Babbage | first = Charles | title = Reflections on the Decline of Science in England, and on Some of Its Causes | publisher=B. Fellowes | year = 1830 | location = London | url = http://books.google.com/?id=3bgPAAAAMAAJ&printsec=frontcover&dq=charles+babbage }}
* {{Cite book| last = Babbage | first = Charles | title = On the Economy of Machinery and Manufactures | publisher=Charles Knight | year = 1835 | edition = 4 | location = London | url = http://books.google.ca/books?id=wUQeMa0MFnkC&printsec=frontcover&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false }}
* {{Cite book| last = Babbage | first = Charles | title = The Ninth Bridgewater Treatise, a Fragment | publisher=John Murray | year = 1837 | location = London | url = http://books.google.com/?id=RlgEAAAAQAAJ&printsec=frontcover&dq=charles+babbage}} ([[ケンブリッジ大学出版局]]が2009年に再版、 ISBN 978-1-108-00000-0)
* {{Cite book| last = Babbage | first = Charles | title = Table of the Logarithms of the Natural Numbers from 1 to 108000 | publisher=William Clowes and Sons | year = 1841 | location = London | url = http://books.google.com/?id=teMGAAAAYAAJ&printsec=frontcover&dq=charles+babbage }} ([http://locomat.loria.fr LOCOMAT] というサイトにこの数表を再現したものがある)
* {{Cite book| last = Babbage | first = Charles | title = The Exposition of 1851 | publisher=John Murray | year = 1851 | location = London | url = http://books.google.co.jp/books?id=bX9IAAAAMAAJ&printsec=frontcover&dq=charles+babbage }}
* {{Cite book| last = Babbage | first = Charles | title = Passages from the Life of a Philosopher | publisher=Longman | year = 1864 | location = London | url = http://books.google.com/?id=2T0AAAAAQAAJ&printsec=frontcover&dq=charles+babbage | ref= harv}}
*{{Cite book|first=Charles |last=Babbage |editor-first=Anthony |editor-last=Hyman |title=Science and Reform: Selected Works of Charles Babbage |url= http://books.google.co.jp/books?id=0gZ7Bo2NnzAC&printsec=frontcover&dq=charles+babbage |date=1989 |publisher=Cambridge University Press |isbn=978-0-521-34311-4}}

== 脚注 ==
{{Reflist|colwidth = 30em}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
54行目: 151行目:
* 『バベッジのコンピュータ』[[新戸雅章]](著)、筑摩書房(1996年)、ISBN 4480041982
* 『バベッジのコンピュータ』[[新戸雅章]](著)、筑摩書房(1996年)、ISBN 4480041982


== 外部リンク ==
== 関連項目 ==
* [[エイダ・ラブレス]] - 解析機関について著述(正確にはバベッジの講演を本にしたものに膨大な訳注を入れた)とコーディングを行った。

==外部リンク==
* [http://www.wizforest.com/OldGood/engine/ 階差機関&解析機関]
* [http://www.wizforest.com/OldGood/engine/ 階差機関&解析機関]
* [http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/history/babbage.html History バベジ]
* [http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/history/babbage.html History バベジ]
* [http://www.sciencemuseum.org.uk/onlinestuff/stories/babbage.aspx ''Babbage''] [[サイエンス・ミュージアム]](ロンドン)。
* [http://www-groups.dcs.st-and.ac.uk/~history/Mathematicians/Babbage.html Charles Babbage] [[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]数学科
* [http://www.projects.ex.ac.uk/babbage/ The Babbage Pages] [[エクセター大学]]
* {{Gutenberg author|id=Charles_Babbage_(1792–1871)}}
* [http://www.satyam.com.ar/Babbage/en/index.html The Babbage Difference Engine] 動作原理の解説など
* [http://historical.library.cornell.edu/kmoddl/toc_babbage1.html "On a Method of Expressing by Signs the Action of Machinery"], 1826年の初版をデジタイズしたもの
* {{NRA|P1076}}
* [http://www.cbi.umn.edu/about/babbage.html "Who Was Charles Babbage?"] Charles Babbage Institute [[ミネソタ大学]]理工学部
* [http://www.ballet.co.uk/old/history_js_babbages_ballet.htm ''Babbage's Ballet''] by Ivor Guest, Ballet Magazine, 1997 - バベッジとバレエの関係についての興味深い記事

{{Normdaten|PND=118505459|LCCN=n/50/31102|VIAF=4963723}}


{{Persondata
<!--http://www.wizforest.com/OldGood/engine/-->
| NAME = Babbage, Charles
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| SHORT DESCRIPTION = English mathematician
| DATE OF BIRTH = 26 December 1791
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[[Category:イングランドの数学者]]

2012年4月12日 (木) 02:29時点における版

チャールズ・バベッジ
チャールズ・バベッジ (1860)
生誕 (1791-12-26) 1791年12月26日
イングランドの旗 イングランド ロンドン
死没 (1871-10-18) 1871年10月18日(79歳没)
イングランドの旗 イングランド ロンドン
国籍 イングランドの旗 イングランド
研究分野 数学、分析哲学、計算機科学
研究機関 トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)
出身校 ピーターハウス(ケンブリッジ大学
主な業績 数学、計算機械
署名
プロジェクト:人物伝
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チャールズ・バベッジCharles BabbageFRS1791年12月26日 - 1871年10月18日[1])はイギリス数学者。分析哲学者、計算機科学者でもあり、世界で初めて「プログラム可能」な計算機を考案した[2]。「コンピュータの父」と言われており[3]、初期の機械式計算機を発明し、さらに複雑な設計に到達した[4]。その完成しなかった機械の一部はサイエンス・ミュージアムに展示されている。1991年、バベッジの本来の設計に基づいて階差機関が組み立てられ、完全に機能した。これは19世紀当時の技術の精度に合わせて作られており、バベッジのマシンが当時完成していれば動作していたことを証明した。9年後、サイエンス・ミュージアムはバベッジが階差機関用に設計したプリンターも完成させた。

誕生

ロンドンに生を受ける。正確な生誕地については議論があるが、ロンドンの 44 Crosby Row, Walworth Road ではないかとされている。ラーコム・ストリートとウォルワース・ロードの交差点付近に生誕を記念したブルー・プラークがある[5]

生まれた日はタイムズ紙の死亡記事から1792年12月26日とされている。しかしその死亡記事が出た後、生まれたのは1791年だと甥が書いている。教会の記録によれば、バベッジが洗礼を受けたのは1792年1月6日となっており、生まれたのが1791年だったという説を裏付けている[6][7][8]

父ベンジャミン・バベッジ (Benjamin Babbage) は裕福な銀行家であったが元は金細工師であった。母はベッツィー・バベッジ (Betsy Plumleigh Babbage)。1808年、一家はテインマス東部に移り、父は近くの St. Michael’s Church の教会委員となった。

教育

The Illustrated London News(1871年11月4日)より[9]

父が裕福であったため、小学校時代に複数の家庭教師をつけるなど、熱心な教育を受けさせた。8歳ごろ生命を危うくするほどの発熱を経験し、療養をかねて田舎(エクセター近郊のアルフィントン)の学校に通うようになる。両親は学校に「あまり脳に負担をかけないようにしてください」と依頼し、本人は「こんなに暇では馬鹿になるかもしれない」と思ったと後に述べている。デヴォン州トットネスの King Edward VI Grammar School に入れられ、ここですぐに体力を回復すると、再び家庭教師を付けてもらえるようになった[10]。その後ミドルセックス州インフィールドにある30人の生徒を持つホルムウッド・アカデミーに参加し、スティーブン・フリーマン牧師に学ぶようになった。このアカデミーには膨大な蔵書があり、それによって数学に興味を持つようになる。アカデミーを離れてからさらに二人の家庭教師について学ぶ。一人はケンブリッジに住む聖職者で、バベッジは後に「何も得る物が無かった」と述べている。もう一人はオックスフォードの家庭教師で、ケンブリッジに入学できるだけの古典について学ぶことができた。

1810年10月、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学[11]。ここでゴットフリート・ライプニッツジョゼフ=ルイ・ラグランジュトーマス・シンプソンらの著作を読みふけり、ケンブリッジの数学教育のレベルの低さに失望した。その結果として1812年、ジョン・ハーシェルジョージ・ピーコック英語版らと共に解析協会英語版を設立。バベッジ、ハーシェル、ピーコックは後に裁判官となったエドワード・ライアン英語版とも親しく、ライアンは後に科学の後援者となった。また、バベッジとライアンは後に姉妹とそれぞれ結婚し、義理の兄弟になっている[12]。バベッジは学生として他の団体にも参加しており、超常現象を研究する Ghost Club、精神病院からメンバーを解放することを目的としている Extractors Club などがある[13][14]

1812年、ケンブリッジ大学のピーターハウス・カレッジに移る[11]。ここで数学者のトップとなったが、卒業することはできなかった。代わりに名誉学位を試験無しで1814年に与えられている。

結婚、家族、死

バベッジの墓

1814年6月25日、デヴォン州テインマスの St. Michael's Church でジョージアナ・ホイットモア (Georgiana Whitmore) と結婚。シュロップシャーダッドマストン・ホール英語版というカントリー・ハウスを新居としたが(ここで自らセントラルヒーティングシステムを設計)、その後ロンドンに引っ越した。

8人の子供をもうけたが[15]、成人したのは4人だけだった。妻は1827年9月1日、ウスターで死去。同年、父、次男、生まれたばかりの末っ子が相次いで亡くなった。その後1年をかけてヨーロッパ大陸を旅行したため、階差機関の構築が遅れることになった。

1871年10月18日、79歳で死去。ロンドンのケンサル・グリーン墓地英語版に埋葬された。Horsleyによれば、「腎臓を患い、膀胱炎を併発して」亡くなったという[16]。1983年、バベッジの検死報告書が発見され、後にバベッジの玄孫が公表した[17][18]。また、複写が公開されている[19]。バベッジの脳は、半分がイングランド王立外科医師会に保管され、もう半分がサイエンス・ミュージアムにて展示されている[20]

一番年下の息子ヘンリー・プレヴォスト・バベッジ (1824–1918) は、父の設計に基づいて6台の階差機関を製作し[21]、そのうちの1台がハーバード大学に送られた。Harvard Mark I を開発したハワード・エイケンが後にそれを発見している。ヘンリー・プレヴォストが1910年に製作した解析機関の演算器はダッドマストン・ホールに展示されていたが、今はサイエンス・ミュージアムにて展示されている[22]

計算機の設計

階差機関(1号機)の一部。バベッジの死後、息子が残っていた部品で組み立てたもの
1812年、彼は解析協会の自室で座って間違いだらけの対数表を見ていた。そして、機械に計算させればいいと思いついた。フランス政府はいくつかの数表を新しい手法で製作していた。数人の数学者が数表の計算方法を決定し、6人ほどでそれを単純な工程に分解して、個々の工程は加算か減算をすればよいだけにする。そして加減算だけを教え込まれた80人の計算手に計算させるのである。これが計算における大量生産的手法の最初の適用例であり、バベッジは熟練していない計算手を完全に機械に置き換えれば、より素早く間違わずに数表を作れるというアイデアにとりつかれた。[23]

バベッジの機械は初期の機械式計算機の1つだが、実際には完成しなかった。その最大の原因は資金問題と自身の性格の問題である。いくつかの蒸気機関で駆動する機械の製作を指揮して若干の成功を収め、計算を機械化可能であることを示した。その機械は扱いにくかったが、現代のコンピュータと基本的アーキテクチャはよく似ている。データとプログラムは分離されており、命令に従って動作し、演算器は条件分岐が可能で、本体とは別に入出力装置を備えていた。政府から10年以上に渡って総額1万7000ポンドの資金援助を受けたが、最終的に信頼を失って資金提供は打ち切られた[24]

階差機関

サイエンス・ミュージアムに展示されている階差機関2号機。バベッジの設計に基づいて製作された。

当時、数表計算手と呼ばれる大勢の人間が流れ作業的に単純な計算をすることで作られていた。ケンブリッジで彼はこの手法の誤り率が高いことを見ており、数表作成の機械化をライフワークにするようになった。

1822年階差機関 (difference engine) と名付けた多項式関数の値を計算する機械の設計を開始した。当時の同様の機械とは異なり、バベッジの階差機関は一連の数値を自動的に生成するものだった。有限差分法を使うことで、乗除算を使わずに関数の値を計算できる。

1820年代初め、バベッジは最初の階差機関の試作にとりかかった。そのとき製作した一部の部品は今もオックスフォード科学史博物館にある[25]。この試作機が「階差機関1号機」へと発展した。しかし完成はせず、出来上がった部分はロンドンのサイエンス・ミュージアムにある。この階差機関1号機は約2,5000個の部品で構成され、13,600kgの重量で、高さは2.4mとなる予定だった。資金提供も受けたが、完成することはなかった。後に改良を加えた「階差機関2号機」を設計したが、バベッジ自身は製作していない。

階差機関2号機が実際に製作されたのは1989年になってからのことで、ロンドンのサイエンス・ミュージアムでバベッジの設計に基づいて19世紀当時の技術精度にあわせて製作された。1991年に完成し、31桁の計算結果を出力した。また、技術者で大富豪のネイサン・ミアボルド英語版もこれを製作し、2008年5月10日、マウンテンビューコンピュータ歴史博物館に寄贈した[26][27]。それまで誰も製作していなかったため、これらはレプリカ(複製)ではない。

解析機関

階差機関の製作が破綻して間もなく、バベッジはさらに汎用的で複雑な解析機関を構想し始め、1871年に亡くなる直前までその設計を改良し続けた。2つの機関の主な違いは、解析機関ではパンチカードでプログラムを組むことができるという点である。プログラムをカードで用意することで、最初にプログラムを組めば、それを機械に入れるだけで実行することができる。解析機関はジャカード織機のパンチカードのループで計算機構を制御し、前の計算結果に基づいて次の計算を行うことができる。逐次制御、分岐、ループといった現代のコンピュータにも見られる特徴をいくつか備えており、完成していれば機械式装置としては初のチューリング完全な計算機となっていただろう。

エイダ・ラブレスはバベッジのアイデアを完全に理解していた数少ない人物の1人で、解析機関の能力を示すために実際にプログラムを作成した。ベルヌーイ数の数列を計算するプログラムなどである。今では世界初のプログラマと言われている[28]。1979年には、彼女にちなんであるプログラミング言語がAdaと名付けられた。

2011年、イギリスの研究者らが解析機関を製作するプロジェクト "Paln 28" を立ち上げた。バベッジは設計を改良し続け、完了させていなかったため、まずクラウドソーシングによってベースとなる設計を確定させるプロジェクトを開始した[29]。675バイト相当のメモリを持ち、7Hzのクロック周波数相当で動作する予定である。バベッジの没後150周年となる2021年までに完成させることを目標としている[30]

現代的応用

そろばんや機械式計算機は集積回路を使った電子計算機に取って代わられたが、MEMSナノテクノロジーの最近の発展により、微細な機械に計算させるハイテク実験が行われるようになっている。電子式では動作できない高放射環境や高温環境でも動作可能な点が優れているという[31]エコノミスト誌は20世紀末に "Babbage's Last Laugh" と題した記事を掲載し、微細な機械による計算について紹介した[32]

その他の業績

1824年、「数表と天文暦のための計算機関の発明に対して」王立天文学会ゴールドメダルを授与されている。バベッジは同学会の創立メンバーであり、1871年に亡くなったときには最長老となっていた。

ケンブリッジのルーカス教授職1828年から1839年まで務めた。この間にいくつかの科学系学会誌の刊行をしている。1834年には統計学会創立に尽力した。

1832年、アメリカ芸術科学アカデミーの外国人名誉会員に選ばれた[33]。1837年、ブリッジウォーター論集英語版全8巻に反応して、『第9ブリッジウォーター論集』(天地創造における神の力、叡智、善性について)を出版し、神は全知全能な神聖な立法者であり、法則を作り適切な時期に種を作ったのであって、時々気まぐれに奇跡を起こして必要に応じて新たな種を生み出したのではないという説を展開した。これは自然神学に関する著作であり、ジョン・ハーシェルと議論した結果が含まれている。

暗号解読に関しても業績を残し、ヴィジュネルの自己鍵暗号英語版やそれより弱いヴィジュネル暗号を解読した。この暗号は当時「解読不可能な暗号」と言われていた。その発見はイギリス陸軍の作戦行動に活用され、数年間その発見は秘密にされた。そのため、暗号解読者の栄誉は数年後に解読に成功したプロイセンの歩兵将校フリードリッヒ・カシスキー英語版に与えられている[34]

1838年にはカウキャッチャーを発明している[35]。これは機関車などの前面に取り付ける金属フレームで、進路上の障害物を排除するものである。車両性能試験車英語版も作り、1838年ごろイザムバード・キングダム・ブルネルグレート・ウェスタン鉄道で何度か調査を行った[36]。長男のベンジャミン・ハーシェル・バベッジ英語版がブルネルの下で技師として働いていたという関係があったが、この長男は1850年代にオーストラリアに移住した[37]

検眼鏡もバベッジの発明だが、評価してもらおうと医師に渡してそのまま忘れてしまい、実際に使われるようになったのは後にヘルマン・フォン・ヘルムホルツが独自に発明した方だった[38]

バベッジは2回、国会議員に立候補している。1832年のときは5人中3位だったが、1834年のときは4人中最下位となった[39][40][41]

著書『機械化と工業化がもたらす経済効果』(On the Economy of Machinery and Manufactures) では、こんにち「バベッジの原理」と呼ばれるものを描いている。これは、仕事を分割することの効果を論じたものである。熟練した賃金の高い労働者は、常にスキルを最大限に発揮しているわけではない。その仕事を分割して複数の労働者を雇えば、スキルを要する仕事だけを熟練した労働者に割り当て、他の比較的簡単な仕事は別の熟練していない労働者に割り当てることができ、全体として労働コストの削減になるというものである。カール・マルクスはこれを批判し、労働者間の区別が生まれ、疎外につながると主張した。バベッジの原理は、フレデリック・テイラー科学的管理法の前提となっている。

考え方

サイエンス・ミュージアムには、チャールズ・バベッジの脳が展示されている。

バベッジはある工場の壊れた窓ガラスを全部数え、1857年に『窓ガラス破損原因の相対度数表』(Table of the Relative Frequency of the Causes of Breakage of Plate Glass Windows) を出版した。464枚の壊れた窓ガラスのうち、14枚が「酔っ払い、女性、または少年」が原因とされている[42][43][44]

バベッジは人混みが嫌いで、1864年には『通りの迷惑の観察』(Observations of Street Nuisances) を出版し、80日間に165回の「迷惑」を数えたこともある。特にストリートパフォーマンスが嫌いで、手回しオルガンの音を聞きつけると、そこに行ってののしったという。例えば次のような引用がバベッジの音楽嫌いを表している。

手回しオルガン奏者や似たような迷惑によって与えられた数千人の精神的苦痛と知的労働者の時間を奪ったことによる金銭的損害は計り知れない。[45]

1860年代にはフープローリング英語版反対運動を起こした。特に鉄製フープを転がして馬の脚の間をすり抜ける遊びを非難した。実際、馬が驚いて乗っていた人が振り落とされたり、馬が脚をくじいたりすることがあった[46]。1864年には庶民院で、この「子どもの一般的遊びを改革しようとする」バベッジの運動が批判され、バベッジは評判を落とすことになった[47]

当時の首相ロバート・ピールはバベッジに准男爵の地位提供を申し出たが、貴族の世襲制に批判的だったバベッジはこれを断わった。バベッジは一代貴族の方を望んだがこちらは逆に断わられ、結果としてどちらも得られなかった[48]

インド思想からの影響

バベッジの数々の業績は、インド思想、特にインド論理学に影響を受けている[49]。バベッジほどではないがハーシェルド・モルガンジョージ・ブールにも言えることである。メアリー・エベレスト・ブール英語版は、1920年代に彼女の叔父ジョージ・エベレストがバベッジとハーシェルにインド思想を紹介したと主張している。

1825年ごろ(エベレストが)イングランドで2、3年過ごしたことがあり、当時ずっと若かったハーシェルやバベッジとすぐに生涯の親友になった。私は公正な心を持つ数学者なら誰でも、バベッジの『第9ブリッジウォーター論集』を読んで彼の同時代人の作品と比べてみることを勧める。そして、バベッジの曲線上の特異点に関する考え方(8章)の根底にある奇跡の性質についての奇妙な概念がどこから来たのか自問してみるとよい。それはヨーロッパ神学からだろうか? それともヒンズー教形而上学からだろうか? おお、当時のイギリスの牧師たちはどんなにバベッジの本を嫌悪したことだろう![50]

メアリー・ブールはまた、次のように記している。

バベッジ、ド・モルガン、ジョージ・ブールという3人の男が1830年から1865年当時の数学的雰囲気の中で強烈にヒンズー化した理由は何だったのか考えてみなさい。自然科学における探究がなされているベクトル解析と数学を生み出すことに、それがどんな部分を占めていただろうか?[50]

記念

バベッジは様々な形で記念されている。例えば、にはバベッジ英語版と名付けられたクレーターが存在する。ミネソタ大学には情報技術についての文献収集と研究のためのセンターであるチャールズ・バベッジ研究所がある。ケンブリッジ大学にはバベッジの名を冠した階段講堂があり、学部の科学系講義に使われている。

著作

脚注

  1. ^ GRO Register of Deaths: December 1871 1a 383 MARYLEBONE: Charles Babbage, aged 79
  2. ^ Tanenbaum, Andrew (2007). Modern Operating Systems. Prentice Hall. p. 7. ISBN 0136006639 
  3. ^ Halacy, Daniel Stephen (1970). Charles Babbage, Father of the Computer. Crowell-Collier Press. ISBN 0027413705 
  4. ^ Swade, Doron (2000). The Difference Engine: Charles Babbage and the Quest to Build the First Computer. Penguin. pp. 84–87. ISBN 01420.01449{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  5. ^ Plaque #1140 on Open Plaques.
  6. ^ Hyman 1982, p. 5
  7. ^ Moseley, Maboth (1964). Irascible Genius, The Life of Charles Babbage. Chicago: Henry Regnery. p. 29. http://books.google.com.au/books?id=ELAMAQAAIAAJ 
  8. ^ The Late Mr. Charles Babbage, F.R.S”. The Times (UK) 
  9. ^ Hook, Diana H.; Jeremy M. Norman, Michael R. Williams (2002). Origins of cyberspace: a library on the history of computing, networking, and telecommunications. Norman Publishing. pp. 161, 165. ISBN 0930405854. http://books.google.com/?id=fsICrp9shVIC&pg=PA165 
  10. ^ Moseley 1964, p. 39
  11. ^ a b "Babbage, Charles (BBG810C)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  12. ^ Wilkes, M. V. (2002). “Charles Babbage and his world”. Notes and Records of the Royal Society 56 (3): 353–365. doi:10.1098/rsnr.2002.0188. 
  13. ^ Hofstadter, Douglas R. (1979, 2000). Gödel, Escher, Bach: an Eternal Golden Braid. Penguin Books. p. 726 
  14. ^ Charles Babbage'S Computer Engines”. 2012年3月13日閲覧。
  15. ^ Valerie Bavidge-Richardson. “Babbage Family Tree 2005”. 2007年10月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年10月22日閲覧。
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  41. ^ Moseley 1964, pp. 120–1- 日付に混乱が見られるので注意
  42. ^ Babbage, Charles (1857). “Table of the Relative Frequency of Occurrence of the Causes of Breaking of Plate Glass Windows”. Mechanics Magazine 66: 82. 
  43. ^ Babbage, Charles (1989). Martin Campbell-Kelly. ed. The Works of Charles Babbage. V. London: William Pickering. p. 137. ISBN 1851960058 
  44. ^ The insurance cyclopeadia: being a ... – Google Books. Google Books. (1878). http://books.google.com/?id=cScKAAAAIAAJ&pg=PA417&lpg=PA417&dq=Table+of+the+Relative+Frequency+of+the+Causes+of+Breakage+of+Plate+Glass+Windows 2011年2月22日閲覧。 
  45. ^ Campbell-Kelly, Martin; Babbage, Charles (1994). “Ch 26”. Passages from the Life of a Philosopher. Pickering & Chatto Publishers. p. 342. ISBN 1-85196-040-6 
  46. ^ Babbage 1864, p. 360
  47. ^ Hansard's parliamentary debates. THIRD SERIES COMMENCING WITH THE ACCESSION OF WILLIAM IV. 27° & 28° VICTORIA, 1864. VOL. CLXXVI. COMPRISING THE PERIOD FROM THE TWENTY-FIRST DAY OF JUNE 1864, TO THE TWENTY-NINTH DAY OF JULY 1864. Parliament, Thomas Curson Hansard "Street Music (Metropolis) Bill "; V4, p471
  48. ^ Ioan James (2010). Remarkable Engineers: From Riquet to Shannon. Cambridge University Press. p. 50. http://books.google.co.uk/books?id=0bwb5bevubwC&pg=PA50&lpg=PA50&dq=babbage+baronetcy&source=bl&ots=zAAIltkphu&sig=aL7tGth2t35frCKD88AgmgNQ2j0&hl=en&sa=X&ei=iSYxT6X9BMek0QXCzvCoBw&ved=0CC0Q6AEwAQ#v=onepage&q=babbage%20baronetcy&f=false 
  49. ^ Ganeri, Jonardon (2001). Indian logic: a reader. Routledge. p. vii. ISBN 0700713069 
  50. ^ a b Boole, Mary Everest (1931). “Indian Thought and Western Science in the Nineteenth Century”. In Cobham, E.M.; Dummer, E.S.. Boole, Mary Everest "Collected Works". London: Daniel. pp. 947–967. http://books.google.com.au/books?id=-5wyxULAKpsC 
  51. ^ Plaque #3061 on Open Plaques.

参考文献

  • 『誰がどうやってコンピュータを創ったのか』星野力(著)、共立出版(1995年)、ISBN 4320027426
  • 『コンピュータ200年史 -情報マシーン開発物語-』M.キャンベル・ケリー他(著)、山本菊男(訳)、海文堂(1999年)、ISBN 4303714305
  • 『バベッジのコンピュータ』新戸雅章(著)、筑摩書房(1996年)、ISBN 4480041982

関連項目

  • エイダ・ラブレス - 解析機関について著述(正確にはバベッジの講演を本にしたものに膨大な訳注を入れた)とコーディングを行った。

外部リンク